2025年8月ディボーション

8月1日(金)

望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。

ヨブ11:18

 

クリスチャンは望みがあると保証されています。何かトラブルがあったり、悩み事が起こった時でも、望みがあるのです。この世では、望みを失うようなことがあります。しかし、クリスチャンには望みがあるのです。ですから、あなたは慌てることはありません。また、イタズラに悩んで夜も眠れないとなる必要はありません。信仰を使う時が来たのです。宝の持ち腐れにしてはいけません。悪いことを考えたり、最悪の妄想をしても、良いことは何もありません。現実だけを見て、たとえ最悪なことが起こっても、それは案外大したことではないのです。それに、私たちにはイエス様がついていてくださいます。それだけでも心強いのですが、聖霊も一緒に働いてくださいます。必要ならば万軍の天使も降りてきます。あなたは、信仰によって安らぎ、あなたは守られていると実感できます。さらに、心が不安や恐れに支配されていたのを悔い改め、主を信じているのに、恐れたことを謝ります。そして、主を賛美します。あなたの好きな讃美歌を声を出して歌うのです。そして、主の故に望みがあると祈ります。心に平安が来るまで祈りましょう。あなたが主にゆだねれば、主が問題解決のために働いてくださいます。あなたは、相手を恨まず、相手が悪くても赦しましょう。心が軽くなるまで、頑張って赦してください。あとは、主が働かれます。私たちには助け主がいるのですから、勇気を出しましょう。

 

8月2日(土)

もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

詩篇119:92、93

 

聖書を読む人は、決してクリスチャンだけではありません。日本でもいろいろな人たちが聖書を読んでいます。中には、原語で読もうとヘブライ語やギリシャ語を学んでいる人たちもいます。ヘブライ語はことのほか難しく、入門レベルで終わってしまう人がほとんどです。独学で学ぶとなれば、趣味を超えてオタクと言いたくなるレベルの方々が頑張っています。そこまでしなくても、聖書は日本語で読めますので、信仰者の場合は御言葉を味わうということができるはずです。また、今日の詩篇詩人のように神のみおしえとして聖書を読んでいる人たちもいるわけです。どちらかといえばクリスチャンはこちらに入ると思います。神のみおしえとして読んでいると効能があります。それは、みおしえが自分の喜びとなることです。悩んでいる人は、出口が自分で探せていません。一人の小さな考えの中だけで堂々巡りをしているのです。小さな悩みが勝手にどんどん大きくなります。これでは破滅してしまいます。しかし、御言葉には力があります。ただの言葉が自分を正し励まし、神からの御教えとして自分の心の中に入ってくると悩みが小さくなりだし、しまいにはどうでもよくなり、それ以上の天来の喜びが溢れてきます。悩みにしがみついているのか、それとも神のみおしえに従うのか、従えればそれはあなたの戒めとなるのです。戒めなので、また悩みに戻ることもありません。自分勝手な人間はこうして神に服従するのです。悩まなくても、神の御言葉を読んで自分の心に蓄えていけるように心がけましょう。

 

8月3日(日)

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。

ヨハネ14:1

 

あなたには先生がいますか。弟子達にはイエスという先生がいました。弟子達は先生から色々学ぼうとしました。それは、先生と3年半ほど続きました。生活を共にし、巡回伝道に従い、説教を聴き、病人を癒すのを見たり、律法学者やファリサイ派の人たちとの対話も聞きました。弟子達だけに教えてくださったこともありました。この先生は、神の子だったのです。だから、聞いていても分からなかったこともあったのです。それでも、先生がただの人ではないと思うようになり、生活を共にしていたほど親しくしていたのに、ペトロは「神の子」と先生を認めました。もっとも正しくイエスを理解するには、復活の後まで待たなければなりませんでした。そのイエス先生がお語りになった御言葉が今日の聖句です。これは、現代の弟子であるみなさんにとっては、ご自分にイエスが語られた御言葉として受け取る必要があります。これほど、素晴らしい御言葉はありません。なぜなら、この世の中で生きていれば、「心を騒が」せるような事はいくらでもあります。その度に慌てて、神に助けを求めているのかもしれませんが、実は、もっと重要なことがあります。それは、あなたがイエスの弟子であるのなら、この御言葉の通りにすればイイのです。大切なことは、何事かが起こった時に、慌てずに、すぐに冷静になって、神を信じ、イエスを信じていることを確認するのです。この信仰だけで私たちは生きているのです。この信仰が裏切られるような事は一切ありません。だから、あなたの信仰があなたを救うことになります。決して、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」。

 

8月4日(月)

どのようなときにも、友を愛すれば

苦難のときの兄弟が生まれる。

箴言17:17

 

友達が大切であることは誰もが認めるでしょう。しかし、大人になると子供の時のような友達はなかなか得られないものです。クリスチャンの方からも友達がいないことを相談されることがあります。男性女性を問わず、心の友と呼べるような大切な友達が欲しいのです。教会に同じ年ゴロの人がいれば、友達になれる可能性があります。しかし、相性と呼べるようなものがあって、誰でもイイというわけにはいきません。結婚相手となると、クリスチャン同士が理想ですが、これはなかなか高いハードルです。日本の教会は小さな規模のものが多く、ほとんどが五十人以下の教会です。その内の70%が女性で男性はとても少ないのです。そして、ほとんどが高齢者なのですから、若い人が結婚相手を見つけることは普通に考えれば難しいのです。ですから、祈りが必要になります。このように、親しい友を見つけることはそう簡単ではありませんが、聖書には信頼できる友達を作る方法が書いてありました。それが、今日の聖句です。秘訣は、「どのようなときにも、友を愛すれば」とあります。ポイントは二つ、一つ目が「どのようなときにも」です。ここが難しいところです。喧嘩をするかもしれません。誤解が生じるかもしれません。誰かが、「あの人とは付き合わない方が良い」とささやくかもしれません。病気になるかもしれません。そして、遠方に引っ越すことになるかもしれないのです。友がみんなから批判されて孤立してしまった時、友の傍に居続けることができるでしょうか。最悪なことに、共に裏切られるかもしれません。それでも赦せるでしょうか。聖書を読んでいて不思議になるのは、「イエスは、『友よ、しようとすることをするがよい』と言われた」(マタイ26:50)と書いてある箇所です。イエス様は、弟子に「友よ」と呼びかけるのです。あなたも弟子ですから、イエス様はあなたにも「友よ」と呼んでくださるでしょう。ただ、この聖句の言葉を語られた相手はイスカリオテのユダでした。今にもイエス様を裏切り、捕えさせようとした時のことです。それでも、イエス様はユダを愛してくださったのです。これが「どのようなときも」なのです。ユダは、イエス様の愛に耐えきれず、裏切ったことを後悔しました。友を愛することを聖書は教えていますが、クリスチャンには覚悟が入ります。十字架で主が死なれた時に、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を取り下ろしたいとピラトに願いでます。これは、苦難のときの兄弟が生まれたことを証明しています。さらに、「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:26、27)とあります。これも「苦難のときの兄弟が生まれる」と記された例です。あなたにも友がいるでしょう。大切にしたいですね。

 

8月5日(火)

人間は心構えをする。

主が舌に応えるべきことを与えてくださる。

箴言16:1

 

何か問題が生じた時に、私たちはどうすればいいのか考えます。まさに熟慮することになります。そして、ついにその応えを決める時、口から出る答えは主が与えてくださったものだというのです。信仰者には分かることだと思います。信仰のあることが人間に神の正しい導きを与えるのです。あなたにも心当たりがあると思います。どうすれば良いのか悩む時です。もちろん、間違った結論にならないように、よく考えるのです。時には人に相談するかもしれません。それでも、決められなくて、主の御心を求めて祈るのです。このようにして、最後に口から出てくる言葉がなんと主が与えられた応えであるとすれば、クリスチャンは何と守られているのでしょうか。この世の人なら、占いに頼るかもしれません。自分では決められないからです。人に頼ってもそれですんなり答えが出てくるわけでもありません。心がそれでは納得しないのです。しかし、一刻も早くこのような悩みからは解放されたいので、誰かに言われればもうそれで良いと思うかもしれません。また、もっともな理由を教えてくれる人もいますが、それで自分を納得させようとしても、心の奥の方で、本当にそれでいいのか、と言われているように感じるのです。失敗したくありません。ですから、神のせいにして、これが御心だと自分に言い聞かせようとします。しかし、最後に分かることですが、答えは神が与えてくださるのです。それが神を信じる人の特権なのです。よく祈って自分の気持ちを全て主に伝えてみましょう。そして、正しい答えを見出すことができるように祈り、信じるのです。あなたのことを主は全てご存知で、しかもあなたを愛されていますから、あなたにとって一番良い答えを与えて下さいます。

 

8月6日(水)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

真の神を知らない人たちがどのように生きているか、クリスチャンは知っています。それは、まさに過去の自分のことだからです。聖書の中にこの聖句があるので、私たちは救われました。このようなメチャクチャに見える教えは、他の宗教に見ることはできません。普通はこの逆だからです。「良い行いのある者が、敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その良い行いが義とみなされるのです」となります。これなら、誰でも理解できます。まさに常識です。ですから、キリスト教の教えは間違っているのでしょうか。決して間違っているとは言えません。そのことを知っている人がクリスチャンです。同じローマ書が告げているように、「正しい者はいない、一人もいない」のです。ですから、私たちも罪人のまま救われたのです。それも不思議なことですね。それが可能になるには、方法は一つです。誰かが身代わりに罪の罰を受けるということです。神がいるなら、罰は必ずあります。そうしないと正義が成り立たないからです。そこで、キリスト教は、神自らがその罪の罰を一身に受けることで、正義を貫く宗教なのです。それでは、罪人は何をしたらいいのでしょうか。その犠牲となった神、イエス・キリストを信じることで救われます。つまり、キリストの十字架は神の愛を表していて、罪人はこの愛によって心が変わり救われるのです。そして、救われた人はキリストのように愛に生きるので、キリスト者、クリスチャンと呼ばれています。それだから愛の宗教というわけです。

 

 8月7日(木)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16:33

 

この聖句を読んで、あなたは何を一番大切であると思ったでしょうか。社会に出ていけば、自分と全く同じように考える人ばかりではありません。相性の良い人もいれば、悪い人もいます。そのような世界で、トラブルが起こっても不思議ではありません。そのような様々な困難の中でも宗教的な迫害が一番怖いはずです。しかし、幸いにも今は迫害は起こっていません。個人的には、家族に反対されるとか親しい人に宗教はやめるように反対されることもあるかもしれません。また一生懸命にしたことでも、誹謗中傷する人がいます。そういう人は何かしら理由があるのでしょうが、幸福な生き方とは言い難いです。このように、人間にとって「世にあっては患難があります」と聖書に書かれた通りなのです。しかし、キリストは「勇敢でありなさい」と言います。もちろん、ただ突っぱねて頑張れと言っているわけではありません。「わたしはすでに世に勝ったので」心配せずに「勇敢でありなさい」と励ましているのです。しかし、それだけではなく、「あなたがわたしにあって平安を持つため」という言葉を認めると、クリスチャンはこの世で何が起ころうが、キリストにあって平安を持つことができるのです。このように、聖書に励まされて、今日も出掛けましょう。今日するべきことを元気にやり遂げましょう。人の顔色で自分の気分を左右されないように、キリストを仰ぎ、今日の聖句を思い出しましょう。「勇敢でありなさい」ときっとみ声が聞こえてくるはずです。

 

 8月8日(金)

あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。

申命記14:1

 

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神のこどもです。

ガラテヤ3:26

 

旧約聖書も新約聖書も、主を信じているあなたを神の子どもです、と教えています。すごいことですよね。人に自慢できるほどの立派な人間であるとは思えないかもしれませんが、そうやって考えているのは信仰とは無縁の古い私です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。ここでもわかるように、「望んでいる事柄」つまり、自分が「神の子ども」であることを望んでいることが大切なのです。それを確信することが信仰なのです。そして、神の子であると実感してそれから自分は神の子です、となるのではなくて、神様がおっしゃっているのですから、神様が自分を神の子にしてくださることを確認するのです。それは、私たちがキリストのようになる事が目標ですと言っているからです。事実、初代教会の信仰者から今に至るまでそのように言われてきたのです。人間の力では到底できない事ですが、神様にできないことはありません。ですから、聖書に書いてあればできるのです。そして、私たちがすることと言えば、それは信じることだけです。救われた時に信じたのと同じです。ですから難しいことではありません。あなたも、神の子どもとして毎日生きていいのです。人生を楽しみ、幸福になることは神の子に相応しいと思います。主を信じているのですから、明るい未来を信じることができます。人間は頑張れば大抵のことはできます。しかし、神の子になるのは、神様の御言葉によるのです。だから、こそ信んじて良いのです。残りの人生を神の子どもとして生きていきましょう。

 

 8月9日(土)

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。

使徒24:16

 

良心は良い心と書いてあっても、必ずしも当てになりません。自分に都合よく良心が動いてしまえば、何にもなりません。ですから、クリスチャンは良心を甘やかせないのです。それは、良心がブレないように、「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように」と基準を設けているのです。人は罪の問題を抱えているので、当てにならないと言えばそうなのですが、建前と思われても良いので正論で正しい事を心がければ良いのです。この方法は、かなり根性がないと批判や反論に晒されて辛い思いをするかもしれません。もしそれが嫌な人は、周りの人たちに小さな親切を心がければ良いのです。大変なことはできなくても、小さな親切は笑顔になれます。親切を受けた人も笑顔になりますから、敵がいなくなってきます。それでも、疑り深い人もいますから、何か魂胆があって親切にしているのでは、と考える人もいます。ですから、小さな親切は長く続けることになります。クリスチャンとしては正当なことなのですけど、鍛えられますね。さらに、クリスチャンが本物になってくる時にも、良心の問題は必ず出てきます。その時に、人間ではなく神を見ることです。神の前に責められない良心とは何かを考えてください。これはそれほど難しくありません。神はわかりやすく示されるので、難しく考えてはいけません。例えば十戒を考えてみればわかりやすですね。大切な戒めはたったの10でした。確かに、それぞれの戒めが意味の深いものですが、それでも10なのです。ですから、わかりやすいと言っているのです。ただ、聖書にもある通り、「最善を尽くしてい」る事が必要なのです。気を抜けば、良心は横道に逸れていくかもしれませんから。クリスチャンは、このようにして神第一に生きているのです。

 

8月10日(日)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

ヨハネ16:13

 

真理の御霊が来ると・・・。クリスチャンにとってこの御言葉をどのように受け取り、理解しているかでそのさきが大きく異なってきます。現代の教会は、あまりこのことに触れないようにしている感があります。あるいは、文字通りというよりは、現代人が受け入れやすいように解釈して説明する傾向が見受けられます。こうしたことは、理性の範疇を超えて、特殊な体験と結び合わせる時に、教会内にトラブルが発生することを予見してのことであり、また、霊的で特殊な体験が強調されることに危機感を感じるからです。しかし、よく考えれば宗教には昔から霊的で特殊な体験はありました。それを求めて指導を仰ぐこともあったのです。宗教なので、霊的な体験は求めこそすれ、否定することはなかったのです。それが、現代では危険視され、霊的体験も否定されて、タブー扱いになっていたりするのです。では、霊的なことを失って、何を持って補っているのでしょう。それは、心理学や自己啓発に近いことであったりします。それすらなければ、宗教の一番大切な部分を自ら捨て去ったのですから、聖書物語を語ったところで、現代人は教会に来る魅力を見いだせなくなり、教会に来なくなります。なぜなら、例えば、牧師の元へ離婚問題を持ち込めば、弁護士のところへ行ってくださいと言われ、病気で悩んでいる人が来ても病院へ行けと言い、心の悩みはカウンセラーに行けと言うのです、と言う人がいます。確かに、これでは教会の意味がわからず、必要ないものとなってしまいます。これは、世界共通の問題です。こうしたことは、聖書に書かれたことをそのまま信じることができなくなって、信じられないことは無視したり、古代人は科学を知らなかったから、と切り捨ててしまうことに問題があるのです。私たちは、このようなことにならないように、気をつけて、聖書を真理と信じているのですから、合理化して読むようなことにならないように気をつけたいですね。そして、真理の御霊を求めて、聖書の通りだと証したいですね。

 

8月11日(月)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

 

私たちは、天国レースに参加している選手のようなものです。レースである以上、なんとしてもゴールして勝利したいものです。しかし、よく考えてみれば、このレースは勝つことが約束されているレースなのです。神は私たちを愛していると堂々と公言しています。それは、驚くほどの愛です。あんまり大きな愛なので、気がついていないのかもしれません。神は全知全能ですから、将来も見通しています。それなので、私たちは神を信頼していれば良いだけで信仰が大切になります。つまり、神に逆らわなければ勝利できるレースなのです。レースに勝利するために、神が特製の勝利の秘訣をまとめた書が聖書です。つまり、聖書こそが必勝のコツを教える本なのです。そして、人生という長い時間のレースなので、アクシデントや思いがけないことも起こりますから、それも神は見越して、ちゃんと手を打っているのです。もちろん、走るのはあなたです。走るのまで取り上げて仕舞えば、さすがに意味がなくなります。ですから、あなたはいろいろなことが起こる中で勝利を信じて走り抜かなければなりません。それで、神は起こり得るすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるように、働いてくださるのです。これ以上何を望むのでしょうか。神が作られる特製ドリンクのボトルを給水場で待ち受け、手渡ししてくださるのも神なのです。辛い坂では、箱根駅伝のように、後ろから神が監督になって、檄を飛ばし、ペースを教え、励ますのです。時には、ほめてくださいます。こうやって、一人で走っているようで、実は神と二人三脚で走っているのがあなたなのです。日々、圧勝して、確実に天国のゴールを目指しましょう。勝てるレースなのですから、余計なことを考えずに、ひたすら走って行きましょう。それでは、ゴールで会いましょう。

 

 8月12日(火)

わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。

そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。

箴言3:1、2

 

クリスチャンは天の父のおしえを知ることのできる者です。もちろん、聖書を読んでいるからですし、約束の真理の御霊が送られてくるので真理を知ることができます。ですから、天の父の命令を理解しその意味がわかるのです。そこで終わっていいのではなくて、それを心に留めるように命じられています。そうすれば、「あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる」と聖書に恵みの約束が記されているのです。そうであれば、聖書を読み、調べ、瞑想し(御言葉のことを考えるという意味です。決して何も考えずに無になろうという意味ではありません。それは心が自然と開き悪霊が入ることすら可能になるので危険です)、聖書研究会なども利用すれば長く続けることができます。日本人は「読書百遍意自ずから通ず」と言ってきましたから、繰り返し読んで行くことの効用を知っていたのです。生涯で何回聖書を読めるのか、自分への挑戦になりますね。今日の聖句は、平和に良い日々を暮し、長生きできるのは、聖書を読んで、天の父の教えと命令を忘れずに心に留めていることによると、大切なことを教えていました。

 

8月14日(木)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

使徒言行録を読むと、初代のクリスチャンが信心深かったことがうかがいしれます。それがどんなものであるのか、聖書の御言葉から探ってみれば、今日の聖句が出てきます。同じ人間なので、御言葉の力は同じように働くはずです。ここで、大切なことは、「望みの神」と書かれていることです。私たちにとってこれはありがたいことです。厳しく採点する減点主義の神であれば、私たちはすぐに希望を無くしてしまいます。ところが、聖書の神は、望みの神、希望の神なのです。ですから、あなたも神に期待してください。あなたに与えられている信仰によるすべての喜びと平和を持って満たされる、と信じてください。いつでも、心が明るくなります。何か嫌なことが起こっても、気にならなくなります。今までとは違って、心に嵐を起こすようなことにならないのです。信仰していて何の得があるかと思ったことがあるのなら、今日の聖句こそ最高の望みなのです。クリスチャンは信仰をもっているので「喜びと平和」に満たされた状態になれるのです。ネガティブなことが起こっても、喜びが心を支配しているので、大丈夫です。平和は争いがないことだけではありません。神との関係が良好であることを意味します。そこから来る穏やかでゆとりのある心の状態です。この世は、あまり良いとは言えませんが、それでもクリスチャンがいる所には希望があります。聖霊が働かれるので、その力で望みにあふれさせてくださるのです。これはポジティブの最高の形です。ですから、全てが好転し、何をやってもうまくいくのです。主の御心にかなうことを願うようになるのです。ですから、すべて実現して行きます。人生が楽しくてしかたないと思うでしょう。これが、クリスチャンであるあなたのために祈られているということです。

 

8月15日(金)

地の果てまで

すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り

国々の民が御前にひれ伏しますように。

王権は主にあり、主は国々を治められます。

命に溢れてこの地に住む者はことごとく

主にひれ伏し

塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

わたしの魂は必ず命を得

子孫は神に仕え

主のことを来るべき代に語り伝え

成し遂げてくださった恵みの御業を

民の末に告げ知らせるでしょう。

詩篇22:28~32

 

あなたは朝一番に何を祈りたいですか。神様に目覚めさせていただき、今日も生かしていただいたことを感謝したいですか。それとも、神様を讃美しますか。きっと、あなたの願い事があるでしょう。それは何でしょう。私が願うことが聖書に書いてありました。それが今日の聖句です。この世界の全ての人が神様に膝をかがめてひれ伏しますように、と祈りたいのです。それと、子孫が神様に仕えることも願いです。私たちは、自分に神様が何をしてくださったのか、語ることができます。同胞のために福音を告げつることと言えば、難しいと感じる人がいますが、私たちはまず家族にそれも子孫に、それほど神様によくしていただいたか、困った時に助けてくださったか、心が暗く沈んだ時に魂に光を照らしてくださったことを教えたいのです。祈りは聞かれること、主を第一に大切にすること、主にお仕えすれば生活も支えていただけること、主を求めて近づけば主も近づいてくださること、主の恵みを味わうことが許されていること、主に愛されていることを伝えなければならないのです。自分の話を聞こうとする人が与えられるので、恐れずに主のことを語るのです。これは、聖書の時代の信仰者から現代まで変わることがありません。主は私たちの誇りなのです。主を大いにほめたたえましょう。ハレルヤ!

 

8月16日(土)

彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。

列王記下2:11、12

 

エリヤは子供達にも人気があります。もちろん、クリスチャンにとってもヒーローなのです。イスラエルには預言者はたくさんいましたが、他に比べるべき者がいませんでした。圧倒的な神の人でした。この時代、サマリアの王が悪かったのです。まるで自分たちに神がいないかのように、異教の神々に頼っていました。それは最も悪いことだったのです。現代でも、浮気をして他の神々を慕ってはいけません。そのような者に神は恐ろしい神となります。逆に、エリアのようにたとえ権力者である王に憎まれても、神が守ってくださいます。それも、神が生きているとわかるように大きな御業をなさいます。1章には、アハズヤ王がエリヤを軍隊を送って捕えようとする場面が描かれているのですが、天から火が降って来て、その兵隊たちを焼いてしまいました。神を恐れ、人を恐れない信仰は必ず神によって勝利へと導かれるのです。軍隊を持ってしても神の人を王の思い通りにはできないのです。そのエリヤもこの世の活動を終える日が来ました。それは劇的ですが、嵐の中、火の馬車が現れてエリヤを連れていかれました。エリヤの後継者はエリシャでした。彼はエリヤから離れようとしなかったのですが、神に引き離されました。エリヤは嵐の中を天に上って行きました。エリシャがこの情景を見て、叫んだ言葉が聖書に書かれています。「イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と。そして、キリスト教でも讃美歌として歌われたり、神のことをこのように呼んで祈り、讃美したのです。皆さんの信仰がこれからも力の神によって守られ、どのような敵が現れても、決して恐れることなく勇敢に信仰を守り通すことができるでしょう。主の到来まで、忍耐して主を待望していましょう。

 

8月17日(日)

そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐに起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。

使徒言行録9:33~35

 

クリスチャンの中には、自分も癒しの賜物が欲しいと願う人がいます。今日のように奇跡が無くなっている時代には、なおさらそのような働きをする人が教会には必要だと思いますが、実際には驚くほど御霊の賜物が見えなくなっています。もちろん、一部には現れているとしても、自分がクリスチャンになってからでもこれほどひどいことはなかったです。この記録の中で、注目に値するのは奇跡で癒されたアイネアを見た人たちが皆、主に立ち帰ったことです。やはり、癒しの賜物は伝道に役立つと言うことです。だから、牧師でも癒しの賜物が欲しいと公言する人たちがいます。それが伝道に役立つことを理解しているからです。昔、沖縄で癒しの賜物を授かった牧師がいました。その先生が祈ればどんな病気も癒やされるのです。そこで、教区が問題にして、その牧師を呼びつけ、その癒しの賜物はどこからきたのか、と問いただしたのです。そこで、この牧師は萎縮してしまい、しばらく癒しをやめたのです。そして、もう一度癒しをしようと思った時には、その賜物は消えていたのです。何度ももう一度癒しの賜物をくださいと願ったそうですが、残念なことに二度とその牧師に癒しができるようにはなりませんでした。このように、癒しの賜物をいただいた時に、周りから批判や圧力がかかることがあります。聖書のようなリバイバルに繋がらないで、真逆の疑いと批判が起こることがあるのです。では、どうしてそのように反対の現象が起こるのでしょう。この聖句の前の聖句には、「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」(32節)とあります。「聖なる者たち」のところだったので、癒しは起こり、そのことがリババルにつながったのです。現代の世俗化した社会で伝道するときに、癒しの賜物を持って伝道しようとすれば、疑い、批判、中傷、反対が起こることは避けられません。それでも、構わないと恐れずに進めば、主に立ち返る人たちが出てくるのです。信仰が試されますね。

 

8月18日(月)

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

ガラテヤ5:6

「キリスト・イエスに結ばれていれば」とは、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(トーマ6:3)とあるように、洗礼を受けたクリスチャンのことです。つまり、クリスチャンである人で信仰を持ち続けている人ならば、この聖句に該当するわけです。「割礼の有無は問題ではなく」とは、ユダヤ人でも異邦人でも違いは無く、と理解できます。もちろん、初期のキリスト教でユダヤ人・キリスト者と異邦人・クリスチャンは割礼の有無があるために、ユダヤ人・キリスト者たちの中には割礼を受けるべきだとこだわりを持つ人もいたのです。ですから、ここでのパウロの発言はとても大きな意味を持っていたのです。そして、今日のクリスチャンが割礼を受けなくて良いのもこうした正しい福音理解があったからなのです。さて、本物のクリスチャンは「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」ということになります。ただ、信仰があるというだけでは足りないのです。「愛の実践」がクリスチャンであるというためには、必要だということです。そこで、私たちは「愛の実践」について考えなければなりません。何をすればいいのか、意識的に考えなければならないし、それを実践しなかればならないのです。割礼のようなものは無くても大丈夫ですが、そもそも律法は愛なので、愛の実践は律法を満たすことに他ならないのです。自分の義のために何かを行い誇るようなことは、愛とは関係ありません。ですから、自分にして欲しいことを人にしなさいと教えられているのです。クリスチャンの生き方は自己中心の罪人の生き方とは正反対なのです。ですから、意識していなければ、愛の実践はすぐにはできないのです。無理なく愛の実践を心がけて行きましょう。

 

8月19日(火)

昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

ローマは15:4

 

日本人の教養も江戸時代の武士たちの読んでいた中国から入ってきた古い時代に書かれたものでした。よく古典を読むという言い方もあると思いますが、名著と言われるものは皆昔書かれたものなのです。人間の仕組みを考えてみれば、同じようなことをするので、経験を積むことの大切さを理解しています。そうであれば、昔の賢人が同じような経験の中でどうすればいいのか知恵を出して書かれたものは役に立つのです。そうであれば、間違わなくなり、大きな失敗をすることもなく、成功法則まで身につけることができるのです。しかし、情報化社会では、いったい何を読めばいいのかと多すぎて困るでしょう。しかし、博士論文を書いた人はわかるのですが、ほとんどが先人たちの到達した知識で理論を積み立てて、自分のオリジナルな発見はほんの少しなのです。でも、そうした昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれた、と一番理解しているはずです。では、今日の聖句は私たちにとってどのような意味になるでしょうか。聖書こそが本物の真理が描かれているのです。クリスチャンが生きていく上で、必要なことはすべて書かれています。AIとの違いは、このように知識が溢れて人間の能力では全てを検索できなくなっている時に、情報を集めるのには向いているのですが、聖書はこれだけと旧約新約聖書66巻でおしまいとなっているので、情報量はたった一冊なのですが、信仰を持っている人には何でも答えてくれる唯一のものなのです。そして、自分の成長に合わせて、同じ聖書からさらに深く答えてくれます。この聖書の目的は私たちをキリストのように造り上げることです。聖霊も一緒に働かれます。まるで天国への迷路を間違いなく最短コースで歩める地図のようです。昔書かれた聖書ですが、私たちの娯楽になり、楽しみすらなるのです。聖書は、幸いなことに日本語でも読めます。ですから、誰でも真理を自由に知ることができます。そして、聖書から確かに忍耐と励ましを与えられます。それはすべての人に必要なことなのです。なぜなら、希望を持たせるからです。どんなにこの世界が暗くなっても、たとえ暗闇に飲み込まれそうになっても、聖書の光が希望となるのです。我が足の灯火となるのです。そうでなければ、誰も天国への道を歩み通すことができないのです。でも、あなたは聖書を知っています。今は終末で暗い道を歩んでいるのですが、あなたの手にはランプの光があります。それが聖書なのです。主に感謝いたします。

 

 8月20日(水)

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

第二コリント12:9

 

クリスチャンになって知ったことは、自分に対しての評価が変わることです。私たちは、あらゆる点で問題を見つけることができます。否定しようと思えば、何でも否定できるし、誰かに言われた言葉で傷つくこともできるし、先生にダメだと言われたら自分はダメなんだと思うこともできます。仕事で失敗すれば、才能が無いとか、人格否定されることだってあるかもしれませんが、それを受け入れることもできます。でも、このようにして幸せに生きられるかと言えば難しいですね。自分が自分を何者と認めるかでその後の人生が決定してしまう可能性があります。ですから、自分の欠点も含めて肯定しないと上手く生きていけません。人間誰でも個性があるのです。ですから、その個性を良いものとして評価することが大切です。そして、私は人間が生まれ変わることがあるのを見てきました。より良く変わるのを見たのです。同じ人間なのに、環境が変わっただけで自信を持つことができる実例を見てきました。幸い、転職ができる時代になってきたので、職場を変えることも可能です。もちろん、どこにいても自由に自信を持って仕事を楽しみ生きていきたいですね。ただ、本人にとって何が良いのかは人によります。人間関係が苦手な人に人間関係を強いられる職場は向いていないのです。一人でコツコツと仕事をしたいと思っている人もいます。反対に大勢の中で賑やかに仕事をしたいと思っている人もいるのです。ですから、人を見ないで、自分を理解し、その中で肯定的に考えていけばいいのです。それでも、自分にハンディキャップがあると考えている人は、そこですべての点で自分がどうすればいいのか悩むものです。しかし、幸いにクリスチャンになっている人は、今日の聖句を読んで考えていただきたいのです。何か自分に弱さがあると自信を持てなくなるものです。そして、強ければ良かったと無いものを考えて落ち込むのですが、それはクリスチャンの撮る態度では無いのです。そもそも、自分に神様が恵みを十分に与えていると言われて、そうだと気がついているでしょうか。弱さにうちに神様の力が完全に現れるというのですから、弱さは悪いことでは無いということです。この世の人は、強さを誇るでしょうが、私たちは弱さを誇ります。そして、主の御力を知るのです。それができるのは逆転の発想で、「喜んで私の弱さを誇りましょう」。

 

8月21日(木)

主に喜ばれる道を歩む人を

主は敵と和解させてくださる。

箴言16:7

 

クリスチャンは、自覚があれば正しい生き方を選ぶものです。それは、主に喜ばれることに通じています。ですから、クリスチャンはこの世の影響を受けても信仰の道を歩んでいることを忘れてはいけません。正しく生きることはそれほど難しい要求ではありません。クリスチャンとして愛の生き方をすれば、キリストに近づくことになります。いつでも、キリストに従うことがクリスチャンの生き方です。そのために自分を捨て、自分の十字架を背負っているのです。つまり、この世の人たちが自分のために生きている時に、主の御心にかなう生き方をを求めて生きているのがクリスチャンです。そのようにこの世に迎合していないために、誤解されたり、酷い扱いを受けるかもしれませんが、たとえ敵となって悩ます人がいても、「主は敵と和解させてくださる」と聖書に書いてありますから、恐れることはありません。ただ、普通にクリスチャンとして生きるだけです。「主に喜ばれる道」を意識して、それをいつでも選べるように生きていけば、敵すらいなくなってしまうのです。元気を出しましょう。

 

8月22日(金)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

ヘブル12:2、3

 

クリスチャンになって長い時間が経ちましたが、無駄な時間ではなかったと思います。私たちは修行者のように信仰の創始者であるイエスの弟子なのです。イエスは信仰を完成させられた模範となる偉大な大先生です。しかも、神なのです。ですから私たちの祈りをちゃんと聞いてくださいます。賢明なので最善の助けを与えられますが、さらに私たちが信仰に成長するために、厳しい道を辿ることも許されるのです。それで、クリスチャンといえども苦労することも落ち込むこともあるわけです。しかし、私たちはこの世でご利益を得たいと思っているわけではありません。来る神の国で永遠の命を持って生きたいのです。ですから、イエスから学んで、私たちも天国へ入ることを喜びと考え、それゆえに、この世の苦難すら耐えることができると信じているのです。キリストは十字架に掛からなければなりませんでしたが、私たちの十字架は人それぞれでしょう。ただ、容易くないかもしれません。それでも、心配することはありません。イエスが切り開かれた天国への道があるからです。私たちは、イエスから目を離さずに、この道をゴールまで歩き通すのです。エレン・ホワイトは幻を見たそうです。それは、天国の入り口に通じる一本の細い道です。しかも上り坂なのです。時々、地上のことに気を取られてその道から転落してしまう人がいたそうです。この幻だったと思いますが、ゴールにはイエスがおられて、そのイエスから目を離さなければ、決して転落することはないのです。この教訓を忘れずに、今日の御言葉の通り、心が元気を失わずに、疲れ果ててしまわないために、イエスのことを考え続けましょう。

 

8月23日(土)

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

詩篇103:11

 

美しい空を見上げることは、誰にとっても気持ちの良いものです。カリフォルニアの空は日本よりも青くてとても綺麗に見えます。プールから天を見上げるとその美しさにパラダイスにいるような気になります。私たちクリスチャンが驚くことは、神様の御恵みが与えられていることは知っていますが、それがどれほど大きなものであるかをよく理解していません。なにしろ地上から天までの距離のように、圧倒的なスケールの大きさです。ですから、クリスチャンがクヨクヨしたり、すぐに悩んだり、マイナス思考に陥ったりすることがいかにバカバカしいことかわかります。クリスチャンは神様を過小評価しすぎです。

自分をも過小評価しているのです。なんでもすぐに出来ないと諦めたり、人の言葉ですぐに傷ついたと怒ったり、と小さすぎるのです。ですから、弱い自分を慰めてくれることをすぐに期待しているのですが、それでいいのでしょうか。なんのための信仰かわかりません。アメリカで牧師をしている時に、高齢の女性信者さんがお助けをしたら食事に誘ってくださったのでついて行くと、バフェ(バイキング)の店でした。先払いなので列に並んで待っていると、彼女が「先生はシニア?」と聞かれました。この店ではシニアは割引料金になっていたのです。その頃は50歳ぐらいでしたから、そんなに年寄りに見えているのかな?と思いましたが、笑って終わりました。しかし、信者さんと思わぬ形で食事をご一緒できたのは嬉しいことでした。このように、牧師の働きの中には、奉仕があって信者さんの助けになることも大切なことなのです。あるご婦人は、高齢になってから日本からアメリカのお嬢さんの誘いで渡米し、アメリカに住むことになったのですが、肝心のお嬢さんご一家はお母さんを残して帰国してしまいました。言葉もままならない異国の地で困ったと思います。ですから、歯医者に行く時にも頼まれて一緒に行っていました。いろいろなことがあって、珍しい経験も多くありましたが、どれも大変だとは思いませんでした。実へ、こうした奉仕の時にはイエス様も一緒に働いていてくださったのだと思います。ですから、全てがうまく行きました。こうした深い人間関係からくる喜びは大きいのです。こうした働きは、主を恐れているからこそ、面倒だとか大変だと思わずにできたことだと思います。そして、これらがみな主の御恵みなのだと今ではわかります。お金では測れない奉仕の喜びがあるのです。誰かのためにできる助けをすることはクリスチャンの恵みなのです。感謝ですね。

 

 8月24日(日)

あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。

申命記33:25

 

昔の町が砦のように城壁で囲まれ、入り口の門は一つにして夜は門を閉じてかんぬきをかけておくのです。万が一敵が攻めてきた時も門を閉じてかんぬきをかければ、ちょっとやそっとでは敵は入ることができません。映画などで見たことがあるかもしれません。日本でも、かんぬきを見ることができますが、木製でできています。お城などでは、その木製のかんぬきに鉄を打ちつけて補強している場合もあります。このように、敵の攻撃から守る肝心要がかんぬきなのです。そこで、あなたを守るものを神が与えるとそれは、鉄や青銅の金属で木よりも頑丈で強いものを与えるということです。あなたの門はどこにありますか。あなたを惑わし、あなたの信仰をダメにし、あなたの欲望を満たせるように偶像を入れる門です。心の門であり、精神の門です。あるいは思考や思想、信仰の門です。敵は、小さな穴を開け、それを時間をかけて少しづつ広げて行きます。あるいは、あなたを誘惑して丈夫なかんぬきを開けさせようとするかもしれません。あなたの持っているかんぬきは天国製の頑丈なものです。ですから、これを信頼して使っていれば、あなたは絶対に安全なのです。しかも、あなたの心が弱くなって誘惑に負けないように、神はあなたに力を与えました。あなたが生き続ける限りこの力は消えません。あなたは、勇者のように堂々と生きて行きます。あなたの内には聖霊が宿、あなたの人生は良いものに満ちて幸福になるように、神は備えてくださったのです。ですから、神に感謝を忘れないように生きて行きましょう。

 

8月25日(月)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ5:5

 

人間は希望があれば、生き抜くことができます。それは、どんなに厳しい状況の中にあってもです。ですから、クリスチャンは誰よりも強く生きることができます。誰一人味方がいなくなっても、周り中が敵となっても、それで負けることがありません。この希望はそれほど大きな力なのです。倒れても立ち上がり、心が折れそうになっても上を向き、決してへこたれないのです。それは、自分の心にたしかな神の愛が注がれているからです。神様があなたを認めていれば、それで十分ではないですか。私たちは、この地上に希望を持ったのではありません。キリストの到来によって始まった神の国の始まりを信じて、まだ目では見ていませんが、神の国の中にいると信じています。やがて、私たちが信じた主イエス・キリストが私たちを迎えに来られます。それは、この世界を裁き、キリストを信じて救われた者たちを天国へ連れ帰るためです。その時にはこの目でイエス・キリストを見ます。さして、天国を希望から現実にして、見るのです。なんと感謝なことでしょう。ハレルヤ!

 

8月26日(火)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

エレミヤ15:16

聖書を学ぶことはクリスチャンなら誰にとっても良いことです。しかも、聖書自身が霊的な食べ物であることを教えています。クリスチャンが新生し、聖霊の新しい命に生きているのなら、それは霊的な存在と言えるので霊的な食物が必要になるということは分かります。しかも、これは実感があるもので、たとえば礼拝に出るとそこでは神の御言葉が語られているので、信仰を持って受ける取るとそれは御言葉を食べるという表現ができるのです。聖書研究会は、どのような形であっても参加すれば霊的食物を得ることができます。キリストの記録の中で五千人の給食とか四千人の給食というお話が出て来ました。これでわかることは、キリストは空腹のまま人々を帰らせることはしないということです。しかも、食べ物を増やしたのは主ですが、一人一人に配ったのは弟子達でした。ですから、今にも神の言葉を食するようにと配る人がいるということです。初心者には初心者のように食べやすく、上級者に上級者のように美味に味わえるようになっているのです。もっとも、断食をする人も出てきます。主が断食をした時には悪魔の誘惑に遭いました。ですから、聖書を読まない人には悪魔の誘惑があるかもしれません。主は、悪魔の誘惑に御言葉で勝利しました。クリスチャンの皆様も全く同じです。聖書を食べ物と思ってエレミヤのように、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました」と言えるようになりたいのです。聖書はただの本のように扱ってはいけません。印刷されたものですが、信仰者が祈って読むと聖霊が働き、みことばを見つけることができます。それを食して自分のものとするのです。御言葉は「楽しみとなり、心の喜び」となるものです。このような不思議が起こるのは、あなたがキリストの名で呼ばれる者だからです。

 

8月27日(水)

激しやすい人は諍いを引き起こし

忍耐深い人は争いを鎮める。

箴言15:18

 

新約聖書でも「忍耐」が大切であることがしきりに説かれています。そこで、私たちは聖書では、忍耐が奨励されていて、信仰者にとっては大きな課題の一つなのだ、と認識します。ところが、人間は感情の生き物なのだと何度も思い知らされます。人前で失敗するのは感情的になってしまったからと反省はするのですが、それで気をつけようと思っても簡単には治りません。しかし、よく考えてみれば、感情に流されやすく、すぐに激しやすいということは、人間関係でしばしば失敗するということです。それで感情をコントロールしなければならないのですが、簡単なことではないのです。日本の車が可もなく不可もなく、と表現されたことがありましたが、優秀で壊れにくい車を作っているのですが、無難な車というイメージがついて回るのです。イタリアの車のように情熱的で稲妻のように走り、血が湧き肉踊る車と表現されるのとは大違いです。ドイツ車のように、精密に作られスピードも安心して出せるし、スピードが出れば出るほど車が路面に吸い付いて行く、と形容されるので、車の魅力がすぐに分かります。つまり、「忍耐深い」はすぐに怒らずに感情を抑えること、と言えばその人の個性が生きません。感情の豊かさは悪いことではないからです。人並みはずれて感受性が豊かな人には、それを生かす道に進めば良いだけです。平凡に暮らそうと思うから苦しむ割には「激しやすい人」と悪く言われてしまうのです。それよりは、感性を生かした生き方を学べばいいのです。もちろん、人の言動に敏感過ぎて過度に反応していれば、悪に向かってしまうでしょう。この人は信仰があれば、聖書の教えを取り込めばいいのです。聖霊の助けを得るために、祈りを大切にして時間をかけて祈るようにします。神の訓練を受けることにして、その訓練を受けるのが一番良いことです。本来、忍耐深い人とは、アガペーの愛を知っている人のことです。愛を知ると、人の外面ではなく内面を見るようになります。そこで、問題を抱えた人が感情を逆撫でするような挑戦的な態度を取ったとしても、なぜそうなのか、と反応するのです。ここで激する人と差が出てきます。そして、知識の言葉の賜物があれば、この人の心の傷が見えてくるのです。そうなると、ひどいことを言われても忍耐できます。さらに、他の人たちが争っている場合には、両方の意見をちゃんと聞けるのです。それだけではなく、こうなってしまった問題の本質がどこにあるかを探ることができるのです。ですから、多少感情を刺激されても、ここでも愛が出てくるので忍耐します。そして、冷静にお互いの主張をそれぞれ認めてあげて、問題の本質に触れることはできないとしても、それぞれが納得するようにキリストがそこにいるかのように導くのです。忍耐はまさに自分の十字架を負う人の姿と言えるのです。

 

8月28日(木)

未熟な者は何事も信じ込む。

熟慮ある人は行く道を見分けようとする。

箴言14:15

 

今日の聖句は、私たちをオレオレ詐欺から守る標語のように聞こえます。いつの時代も善良な人を騙してお金を巻き上げようとする悪人はいました。しかし、情報化社会になってからは、もっと悪質な詐欺が止みません。日本人の真面目さが悪人の悪意にさらされるというようなことは、神様の嫌われることです。きっと神様が悪に報いてくださいます。さて、もう一つ気になることは、SNSAIの登場によって色々変わって来たことです。ほんのつい最近まで、大学の教授達も知識を与えることで職をまっとうできたのですが、今は簡単に検索できるし、その内容は一流のもから三流のも、果てはウソまであるのですから、呆れます。AIに尋ねれば答えてくれるので、これも簡単です。皆が使えば使うほど学習できるのでだんだん正確になっていきます。昔は、留学先で手に入れた本を持って帰れば、授業で困ることはありませんでした。その本を翻訳することでもお金を得られました。しかし、今はそんなことはできなくなって来ました。聖書でも古い写本も貴重な資料も誰でも簡単に見ることができるようになり、重要な文書も簡単に手に入れることのできなかった辞書もタダで利用できるのです。そうなると、大学で教える先生は何を教えればいいのでしょう。今日の聖句に書いてあります。検索で「未熟な者は何事も信じ込む」。だから、「熟慮ある人は行く道を見分けようとする」。つまり、知識はAIでもネットでもモバイル機器でも得ることができるようになって来たので、勉強の形は大きく変化しています。今までのように知識の切り売りのようなことは通用しないので、本来の勉強の姿である「考える」ということが重要になります。得た知識でもそれだけでは意味がありません。せっかく獲得した情報や知識を活かして、何かを決めたり、選んだりする時にどう役立てるかが大切になってきます。以前は膨大な知識や情報をいかに覚えるかが大変でそれが勉強だと思っていたのです。しかし、今は情報洪水と言えるほどの状況の中で何かを選ばなければならない時に、どう判断するかが重要で人間に求められる深く考えることが重要になって来たのです。これは、本来の勉強の姿ですね。学問を身につけた人は情報化社会になっても振り回されることはありません。テレビで人気のクイズ番組が博学の人の脚光を浴びる場でしたが、これも消えて行く可能性があります。問題が出て、テレビを観ている人が検索してすぐに答えを見てしまうとつまらなくなります。大学も本物の学者でなければ働けなくなるでしょう。これほどの変化が起こっていれば、世界的に大きな変化が起こることは容易にわかると思います。それでも、聖書を読んで考えて来た人たちは、生き残るのです。聖書を使ってよく考えた人が勝つ時代になって来ました。

 

 8月29日(金)

わたしは主をたたえます。

主はわたしの思いを励まし

わたしの心を夜ごと諭してくださいます。

わたしは絶えず主に相対しています。

主は右にいまし

わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、魂は踊ります。

からだは安心して憩います。

あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく

あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

命の道を教えてくださいます。

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

右の御手から永遠の喜びをいただきます。

詩編16:7~11

 

これは、あなたのための詩篇です。あなたは、とても恵まれています。主に選ばれて、その召しにあなたは応えて、クリスチャンになりました。あなたは、最初はこの世の人とと同じように物事を考えていましたが、次第に聖霊の訓練が始まり、信仰が形成されて行きました。神はあなたにとって遠すぎて見えなかったのですが、信仰が与えられ、主に近づいて行きました。もちろん、主も近づいてくださいました。そのこともあって、だんだん信仰で考えるようになり、悲観的な考えをしなくなって来たのです。あなたが、主を信頼するなら、あなたは救われた者として生きていけます。そして、あなたは今日の御言葉の通りになるのです。主を喜ぶことは力なのです。あなたの賛美は天に届き、あなたの手の業はことごとく祝福され、主を信仰することの報いを受けるのです。今日も元気を出して、良い日を過ごしましょう。

 

 8月30日(土)

そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

マルコ11:22~24

 

あなたの山は何ですか?聖書は信仰のある人の不思議な読み物です。不信仰な者が読んでも何にも起こりませんが、信仰がある者には奇跡を起こす力です。正確には、その人が正しく信仰を使うなら、神の力が解き放たれるということです。箴言を見るまでもありませんが、悪い心で何か願っても得られることはありません。当然ですね。しかし、クリスチャンが信仰の旅路で願うことは何でもかなえてあげたいとお考えになるのが、私たちの父なる神です。イエスは、私たちがあまりにも信仰に無知なので、良いことを信じることすら心のブレーキをかけていることをご存じでした。つまり、「そんなことを私が願っても聞かれるはずがない」と勝手にあきらめてしまうのです。家が欲しい人が、家は高すぎて一生自分には買えないと信じていれば、そうなるのにです。でも、今日の御言葉を読んで、そうか!と気がついて、信じることを始めるなら、その人は遠からず家を自分のものにするでしょう。さて、これはプラス思考の話だと気がつく人は、自分がなぜマイナス思考なのか考えてみましょう。物事には理由があるからです。子供の頃の家庭環境が悪かったから、とか、学歴が無いから、とか、自分には力が無いから、とか、生まれた時から恵まれていないから、とか、人生に一度失敗しているから、とか、親がいつも自分を否定していたので、とか、いくらでも理由が出てきます。しまいには、聖書ではなく、神でもなく、誰か自分をひどい目に遭わせる人によって、その言うことを受け入れてしまい、自分を否定することを信じてしまったのです。確かに、気の毒な話であっても、それだからマイナス思考でいいということではありません。これは、呪いなのです。ですから一刻も早く呪いを主に解いていただき、自分も信仰で立ち向かうのです。最も良いことは、今日の御言葉を何度も読んで、口にして、自分のものにすることです。イエスを信じているというのなら、同じように主の教えを信じるのです。信じて救われたのですから、今度は信じて呪いを打ち破り、自分の神の子の人生を始めるのです。イエスの救いは、そこまで徹底しているのです。