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2024年10月12日

💠説教題:復活

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ24:1〜12

 

イエスの復活は、弟子たちにも理解できないことでした。しかし、この復活こそがキリスト教を生み出した力なのです。それが証拠に、日曜礼拝が始まります。毎週、復活を祝っていたのです。今では、イースターの日の一年に一回になってしまいました。しかし、復活を毎週祝う意味はありました。昔の教会では、「復活節の疑い」と言う言葉があったそうです。復活を疑ったのではなく、死を疑ったのです。死は恐ろしいもので、死んだらおしまいで、死にとらえられた者は二度と生きることができなかったのです。それが、イエスが復活したことで、死を打ち破ってしまいました。死はそれほど確かなものではなかった、と死を疑うようになったと言うのです。そればかりか、「復活節の高笑い」というのもあって、初期には土曜の夜から復活祭の礼拝をして日曜日の朝に終わる時に、会衆一同が高笑いをするというのです。復活の意味をしっかりと受け取り、キリストが本当によみがえった、そのことを思うと笑みがこぼれ、しまいには大笑いしてしまったということです。礼拝に中でこれほど愉快なことはありません。この笑いが私たちにも起こることを期待します。

2024年10月5日

💠説教題:イエスの死

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ23:44〜56

 

イエスは十字架で死にます。その時、聖所と至聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けました。その意味と最後のイエスの御言葉を考えます。そして、キリストの死後にアリマタヤのヨセフのしたこと、ガリラヤから来ていた婦人たちの様子、こうしたことを検証してみましょう。

2024年9月29日

💠説教題:十字架のイエス

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ23:26〜43

 

イエス・キリストの十字架は、私たちクリスチャンにとっては最も大切なものであり、救いの象徴です。しかし、「十字架はどんな意味があるか」と問われると、多くの人は「罪の贖い」と答えます。確かに模範解答と言えるのかもしれませんが、果たして、それだけなのでしょうか。十字架にはさらに深い意味があるのではないでしょうか。それを探るために、イエスの御言葉から考えてみます。

2024年9月21日

💠説教題:イエス裁かれる

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ23:1〜25

 

 ピラトはイエスに罪を見出せなかった。祭司長や長老たちの訴えはいずれも死刑に相当する重い罪だったが、ピラトはイエスは無罪であると見抜いた。だが、ユダヤ人の群衆をも焚きつけて祭司長達は強硬にイエスを死刑にしようとピラトに圧力をかけます。ピラトはヘロデ王にイエスの裁きを丸投げしますが、イエスは一言も語らず、ピラトの元に戻され、ピラトは抜き差しならぬ問題から逃げられなくなった。ピラトには二度の失政があった。ユダヤ人たちにはそのピラトのしくじりをローマ当局へ訴える権利があった。つまり、ユダヤ人達はピラトを脅すことができた。それで、ピラトは、イエスは無罪であると認めていたのに、ユダヤ人がイエスを好きにできるようにしてしまった。人が正義を曲げる時、そこには罪が隠れているものだ。

2024年9月14日

💠説教題:神の子か

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:63〜71

 

イエス・キリストの受難は、クリスチャンにもいろいろな感情を引き起こします。人間的なものが多いのですが、ここで、よく考える必要があります。イエス様に暴言を吐いたり、罵ったり、叩いたり、暴力をふるっている人たちが、だんだん罪人の象徴に思えてきます。すると、その罪人は自分であるのではと気がついてきます。クリスチャンになる前の自分はまさに罪人で、イエス様に暴言や暴力をふるった人の悪意や醜さが自分の根底にあるのではないか、自分が罪を犯して生きていることが、イエスを苦しめた下役と変わらないのではないか、と考えさせられるのです。そして、イエスがここまで耐えているのは、そうしなければ、私たちを救えなかったからで、神が神であられるということはこういうことであったのかと知るためだったのです。今日は、そのことを考えます。

2024年9月7日の礼拝の録画を失敗したためにアップできません。大変、申し訳ありませんでした。

2024年8月31日

💠説教題:オリーブ山の祈り

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:39〜46

 

十字架の直前のイエスの祈りを読みます。有名なゲッセマネの園での祈りですが、ルカはマタイ、あるいはマルコによる福音書とは違って実に簡潔に書いています。その分、イエスのお言葉に集中して祈りの意味を考えることができます。終末に生きる私たちにとって考えさせる祈りの意味を押さえておきましょう。

2024年8月24日

💠説教題:財布・袋・剣

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:31〜38

 

ペトロは自分にはイエスへの忠誠心が人並み以上にあると思っていました。ですからどんなことがあってもイエスに従う自信がありました。ところが主は、明け方までに三度知らないと言うと、断言されてしまいます。人間の決意や忠誠心は意外なほど脆いのです。それでも、主は執り成して祈ってくださると言います。裏切られてもペトロへの信頼は失われないというのです。このことも考えてみましょう。弟子の心構えも考えます。

2024年8月17日

💠説教題:偉い人とは

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:24〜30

 

最後の晩餐まで、弟子たちは誰が偉いかで争っていました。キリストは、自分がまもなく天に帰ることを考え、弟子たちに福音を全世界に広める働きを任せなければなりません。しかし、弟子たちは、その準備ができていないのです。十字架直前に弟子たちは準備ができていなかったのです。キリストの教える偉い人とは何であるか、皆様とご一緒に考えてみましょう。

2024年8月10日

💠説教題:最後の晩餐

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:17〜23

 

いよいよ最後の晩餐の場面です。絵画にもなる有名な場面ですが、ユダヤ教の過越の祭の起源になる出エジプトの出来事があって、毎年盛大に祭りが執り行われていたのです。キリスト教は、この過越が聖餐式になっています。そこで、聖餐式の意味を少し考えてみましょう。

2024年8月3日

💠説教題:備えられた過越

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:7〜16

 

過越祭の食事を準備するようにイエスがペトロとヨハネに命じるところからです。不思議な話があって、食事の会場が決まります。イエスが犠牲の小羊であることが明らかになります。この犠牲の羊で象徴されていた本体であるイエス・キリストが困難な十字架の道を決めていました。しかし、イエスは最後の食事を弟子たちと共に過ごしたかったのです。そこにも、主の愛が明確に表されています。

2024年7月28日

💠説教題:イエスの殺害計画

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:1〜6

 

ルカの福音書を読み始めて、いよいよクライマックスが近づいてきました。今回はその序論のような箇所を読んでみましょう。ここには、イスカリオテのユダの問題が出てきます。なぜ、十二使徒の一人がイエスを裏切るのか、いろいろな人が想像を巡らす箇所でもあります。しかし、このことことがあって、主イエスは十字架にかけられるわけです。私たちの救いには十字架の犠牲が必要不可欠なのです。神の意図は、天よりも高く、深淵です。今回は、この問題について考えます。

2024年7月20日

💠説教題:目を覚ましていなさい

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ21:29〜38

 

イエスの譬え話から始まります。自然を見て時のしるしを見分けられるのだから、終末のしるしも見分けるように、というお話です。確かに、前回も天体が揺れ動く、といった御言葉が出てきましたが、ヘブライ詩では、星は大きな国を表します。他を平らげてしまうような大国のことを象徴的に描いています。ですから、現在のそのような国を見ていれば、それが天から星が落ちるような大きなことが起こるので、それを終末のしるしであると教えているのです。

2024年7月13日

💠説教題:終末について

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ21:20〜28

 

エルサレム陥落と再臨の話です。終末という言い方は、教会でも良く聞くだろう。しかし、終末について神学的に聞くことはあまりない。そこで、そもそも終末とは何かを神学的説明から考えてみましょう。

2024年7月6日

💠説教題:終末のしるし

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ21:5〜19

 

ルカの難解な箇所を読むことにします。ここは、主の日、エルサレムの崩壊、再臨、迫害、と四つのことが混ざり合って書かれているのです。しかし、終末預言として、私たちがどのように考え、備えて行けばよいのか知る箇所なのです。ご一緒に、考えてみましょう。

2024年6月29日

💠説教題:主は見ておられる

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ20:45〜21:4

 

二つのエピソードをイエスは語ります。章をまたいでいますがこれはひとつづきの話です。律法学者がもっとしっかりしていれば、イエスがメシアだと一番に見分けることができたはずです。しかし、現実は堕落していました。そして、もう一人は正反対のやもめの話です。彼女の献金をイエスが見ていたのです。そこから、献金の意味を考えてみましょう。

2024年6月22日

💠説教題:あなたの主

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ20:41〜44

 

イエス様は、難しいお言葉を語りました。それは、私たちに主とは何かと考えさせることになりますし、また、メシアとは何をする方であるかを古い考えではなく、正しく理解するようにと今日の聖句の箇所をお語りになりました。ご一緒に確かめてみましょう。

2024年6月15日

💠説教題:神の子だから

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ20:27〜40

 

今度の挑戦者はサドカイ派の人でした。復活は無いと考える彼らは、レビラート婚と言われる申命記にある律法から、七人兄弟が次々に死んで同じ女を妻とした場合、復活したら誰の妻となるのか、という難題をイエスに突きつけました。しかし、イエスは、イスラエルのどの賢者も律法学者も教えたことのない、最高の答えをされます。それ以降誰もイエスに質問する者はいなくなりました。死と復活を考えます。

2024年6月8日

💠説教題:皇帝のものは皇帝へ

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ20:19〜26

 

イエスを陥れるためにイエスのファンを装った、ユダヤ人の回し者がやってきます。彼の放った矢は、ローマの税金を払うことは律法に適っているか否か、という難問でした。払うなと言えば、その日のうちにローマ総督のピラトの前に連れて行かれるでしょう。しかし、払えと言えば、今度はイエスについてきた民衆、とりわけガリラヤの人たちの信頼を失うことになります。これに対して、イエスは驚くような答えをしました。

2024年6月1日

💠説教題:ぶどう園と農夫の譬え

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ20:9〜18

 

だんだん、イエスは十字架への道を確実に歩んでいました。今日の聖書箇所は、譬え話ですが、今回は聴衆が意味がわかる譬え話です。それは、イスラエルの将来の運命まで含まれるもので、ある意味公然と宗教指導者たちを糾弾しています。旧約聖書の要約のような内容に、人々はイエスがメシアであることを悟れたのに、彼らは最悪な選択をすることになります。

2024年5月25日

💠説教題:何の権威で

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ20:1〜8

 

イエスは宮の境内で人々に教え福音をお語りになっていました。そこへ、祭司長、律法学者、長老がやってきました。彼らは、イエスに権威について問答をしかけてきたのです。その質問に、イエスは質問で返しました。その質問に、彼らは答えることができませんでした。さて、この出来事の意味を考えます。

2024年5月19日

💠説教題:声をあげて泣く

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ19:41〜48

 

イエスは、エルサレムの都が見えてきた時に声を出して泣いた。それは、ここから先40年後にエルサレムがローマに滅ぼされるのをご存じだったからだ。もしかするとその悲劇を見ていたのかもしれません。神のメシアが預言者の言う通りに到来したのに、彼らはメシアを拒んだ。イエスをメシアと信じなかったのだ。もし、その時にメシアを受け入れていたなら、悲劇は避けられたのだろう。しかし、彼らは・・・。

2024年5月11日

💠説教題:子ロバに乗る王

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ19:28〜40

 

いよいよイエスはエルサレムに入場する所まで近づいています。その時に、子ロバに乗って向かいます。弟子たちはその姿に王でありメシアであることを見たのです。本来なら、賞金がかけられていたイエスのエルサレム入りは密かに行われるべきものでした。それが、大勢の耳目を引く、スポットライトを浴びたスターのように、堂々とエルサレムへ向かうのです。ここに何があるのか、その意味を考えてみましょう。

2024年5月4日

💠説教題:ムナの譬え

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ19:11〜27

 

エルサレムを目前にして、イエスは譬え話を語り出します。それは、ムナの譬え話でした。この譬えの意味をご一緒に考えてみましょう。

2024年4月27日

💠説教題:捜して救う

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ19:1〜10

 

ザアカイのお話です。ここから、イエス・キリストが天から来られた理由を確かめます。さらには、救われるということにはどんな意味があるのかを考えてみます。私たち自身に深く関わることですから、ご一緒に考えてみてください。

2024年4月20日

💠説教題:主よ、憐れみたまえ

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ18:35〜43

 

物乞いの目の見えない男が、イエスが来たと聞いて「ダビデの子、憐んでください」と叫び続けたことから、イエスが立ち止まり、目が見えるようにしていただくお話です。このお話から、何を学ぶか考えてみましょう。

2024年4月13日

💠説教題:人の犠牲と主の犠牲

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ18:28〜34

 

今回は、人の犠牲と主の犠牲という、二つの犠牲を考えます。私たちがクリスチャンとして払う犠牲とは?主の払う犠牲とは?

信仰生活の中で考えておかなければならない問題です。

2024年4月6日

💠説教題:神にはできる

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ18:15〜27

 

二つのお話をされたイエスは、大切なことを教えようとしています。幼子の話、金持ちの若い議員の話です。これらは、救いは受けるものであること、隣人との関係をうまくやっているつもりでも、神との関係を正しく行なっているかどうか、救いの肝心な点を教えています。このことをご一緒に考えてみましょう。

2024年3月30日

💠説教題:神よ、この罪ある私に憐れみを

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ18:9〜14

 

クリスチャンが熱心に信心に励むと、ファリサイ派の人のようになれます。ファリサイ派の人たちは、信心深いと人々に認められていたのです。しかし、イエスは神が義とされたのは、このファリサイ派ではなく、罪人の代表のような徴税人の方だったのです。では、徴税人は何をしたのでしょうか。今日のイエス様のお話は、人の救いとは何かを明確に教えています。ご一緒に考えてみましょう。

2024年3月23日

💠説教題:裁判官とやもめ

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ18:1〜8

 

 聖書を読んでいるとオヤ!と思ってしまう箇所があります。その一つが今日の聖句です。牧師でも嫌いだと公言する方がいます。それぐらい、わかりにくい箇所なのだと思います。しかし、再臨を待望している人にとっては、励ましを受ける箇所なのです。早速、説教を聞いてみましょう。

2024年3月16日

💠説教題:神の統治

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ17:20〜37

 

 今日の場面でイエスへのファリサイ派の質問は、神の国はいつくるのか、というものでした。彼らにとってメシアの考え方が間違っていたのですが、そのことに全く気がついていません。そのために、目の前にメシアがいるのに、なんともまのぬけた質問をしたものです。そして、メシアがすでに来ていることが、神の支配が始まったことを意味していたのです。神の国と訳しているので、意味が分かりにくくなっていますが、イスラエルの民ならば、神の支配と訳すところです。神の国は・・・、となるので天国のイメージになってしまいますが、神の独り子でキリストが到来したので、彼らの中にすでに神の支配が始まっているということを理解させようとされている箇所が、ここになります。

2024年3月9日

💠説教題:信仰と救い

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ17:11〜19

 

 10人のうち何人がお礼に帰ってくるか?答えは、一人。それも、ユダヤ人ではなく、サマリア人だった。このようなお話をします。イエスは、この一人帰ってきたサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と言います。肉体の癒しではなく、霊的な救いを言われた。このことも考えてみよう。

2024年3月2日

💠説教題:信仰者の姿

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ17:1〜10

 

 イエスは弟子たちに話し出します。弟子は「信仰を増してください」と言います。そこで、イエスはからし種一粒ほどの信仰があれば、と諭します。ここで、多くのクリスチャンはからし種一粒ほどの信仰もない、と嘆くのですが、主の言われたのは、信仰は多い少ないではなく、「ある」か「ないか」のどちらかだけだと教えられたのです。ですから、誰も、自分の信仰は少ないとか弱いとか言ってはならないのです。そうではなく、信仰があるなら、どんなに小さな信仰でも、奇跡を起こすぐらいの力があることを諭しているのです。

2024年2月24日

💠説教題:ラザロの話

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ16:15〜31

 

 金に執着するファリサイ派の人たちに嘲笑されたイエスは、彼らの問題行動を指摘し、ラザロの話を始めます。ここには、私たちにも有益な指摘があります。それは、聖書に耳を傾けることです。ここに全てがあります。信仰というだけでは、ファリサイ派のような失敗をしてしまう可能性があります。

2024年2月17日

💠説教題:不思議な話し

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ16:1〜13

 

 最も難しいイエスの譬え話と言われる箇所をご一緒に考えてみましょう。今日の譬え話は、弟子たちのためです。ファリサイ派の人に聞かせるものを前回は考えてみましたが、弟子たちの場合はどうでしょうか。早速、ご覧ください。

2024年2月10日

🔶説教題:父は

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ15:11〜32

 

放蕩息子の譬え話を考えます。ファリサイ派の「イエスはなぜ罪人たちと食事を共にするのか」という言葉から、イエスが語った三つの譬え話の最後です。弟の悔い改めは、いかにも心許ないものに見えます。それでも、父は赦し、最高の喜びを表します。一方、兄は父のやり方に怒ります。この兄は、ファリサイ派を表しているのでしょう。しかし、この兄は弟以上に問題があるように見えます。そこに気付けば、譬え話は分かったとなるのでしょう。

2024年2月3日

ビデオが不具合で最後が途中で切れています。すいません。

 

🔶説教題:悔い改める罪人

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ15:1〜10

 

 ファリサイ派や律法学者はイエスが徴税人や罪人と一緒に食事をすることを非難します。そこで、イエスは二つの譬え話をしました。当然、彼らの考えが間違っていることを教えるためです。失った羊を探す話と1ドラクメ銀貨を失った婦人の話です。これは、神が失われた罪人を悔い改めに導くお話です。それは、今までのラビたちの教えていた「正しい者になれたなら、神の元へ行こう」という発想ではなく、イエスの教えは、真実は失われた人間を神様が一生懸命探して、救いへと導くという意味の譬え話だったのです。

2024年1月27日

🔶説教題:

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ14:25〜14:35

 

イエスはエルサレムに近づき、群衆も増えながら後についてきます。そのような時に、イエスは、群衆が革命を起こすような勢いで、イエスを祭り上げようとしていることに危機感を持たれて、イエスはエルサレムに行って死のうとしていることを伝えようとします。しかし、群衆の思い込みを変えることは困難でした。そこで、親・兄弟や家族よりもイエスを愛さなければ弟子になれないこと、弟子は自分の十字架を背負って従うことを告げます。そのことをしっかり考えなくてはならないと諭します。今日に生きる、私たちも弟子として一切を捨てる覚悟を持っているか、問われています。

2024年1月20日

🔶説教題:イエスの譬え話

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ14:7〜14:24

 

 イエスの三つのお話から学びます。特に最後の譬え話は、イスラエル人たちのイエスに対する態度から、神の招きを断る人がいることに気が付かされます。この世のことにかまけたり、忙しくして、神様を忘れると、そこには落とし穴があるものです。目の前のキリストに気づかない聖徒たちがキリストのヒントを聞いてもわからなかったことから、私たちも聖書の教えのように生きなければ、最後の裁きに耐えられないでしょう。そんなことを考えながら読んでみましょう。

2024年1月13日

🔶説教題:それは愛か

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ13:31〜14:6

 

 ヘロデの領地にいいる時に、ファリサイ派の人に「首を切られる」と警告されます。しかし、イエスは決然とご自分の歩みは止められないことを宣言し、それが十字架への道であることを示す。そして、イスラエルの民が見捨てられることが告げられる。14章に入ると、水腫を患っている人を安息日に癒すかどうかで、悶着がある。イエスは癒し、安息日でも子供や牛が落ちたら引き上げるではないかと語り、彼らは何も言えなかった。

2024年1月7日

🔶説教題:狭き戸口

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ13:22〜30

 

 「狭き戸口」について考えます。有名な言葉なのでクリスチャンでなくとも知っています。でも、それが何を意味するかは別です。私たちが天国に入れるかどうかは、ここに明快なメッセージがあるのです。それをご一緒に考えてみましょう。

2023年12月30日

🔶説教題:律法か憐れみか

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ13:10〜21

 

 安息日に会堂でイエスが行った癒しの話、神の国をからし種とパン種にたとえての話。よく知られたたとえではありますが、それは、あなたにとってどのような意味があるでしょうか。ご一緒に考えましょう。

2023年12月23日

🔶説教題:いつ実を結ぶのか

🔶説教者:佐久間典臣

🔶聖 句:ルカ13:1〜9

 

 人間は、大きな災難や理解を超えた不幸が起こると、それは本人や親か先祖の罪の罰で因果応報なのだと考えやすい傾向があります。古代のイスラエル人も同様な考えを持っていたので、大きな事故や事件でたくさんの人が亡くなると、何かしらの大きな罪を犯していたからだと考えました。イエスはあなた方も悔い改めななければ、皆同じように滅びる、と言いました。ここでの主の教えを考えます。

2023年12月16日

🔸説教題:むしろ分裂だ

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ルカ12:49〜59

 

 イエスは火を投じるために来たと、言います。イエスは、十字架につかれることを知っていました。それは、罪人の罪を贖う救いの業でした。しかし、十字架にすべての罪がかけられるのですから、その恐ろしさは例えることができません。人間には到底理解できない恐怖と苦しみです。ですから、神様の裁きを受ける前に神と和解するように、たとえで語ります。その裁きとは、主の再臨のことです。いつ再臨があってもいいように目を覚ましているように、主は語りました。そして、時の徴を見ることができる者になるように諭されました。

2023年12月9日

🔸説教題:主を待つこと

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ルカ12:35〜48

 

キリストが語り出した、不思議な話を考えてみます。この箇所は、狭い意味では再臨についての教えです。広い意味でも、主の召集に備えるようにという特別な意味があります。キリスト教にとっての再臨は初代教会から大きな関心事です。それは、同時にクリスチャンにとっても待望する大きな出来事です。ご一緒に考えて見ましょう。

2023年12月2日

◇説教代:思い悩むな

◇説教者:佐久間典臣

◇聖 句:ルカ12:22〜34

 

 今日の箇所は、クリスチャンがよく知っているお話です。私たちは、聖書を読んでいて意味がわかったつもりになっても、実は真逆な意味であったという経験があるのではないでしょうか。この箇所もそのような箇所の一つです。神様を信じるということの意味を改めて考えさせられます。

2023年11月25日

🔸説教題:貪欲にご用心

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ルカ12:13〜21

 

 今日は、「貪欲」について考えます。一人の人がイエスに「兄弟が財産を分けてくれない」と訴えます。そこから話しは始まります。そして、イエスの譬え話が続きます。この世の財産に執着しないように、と諭し、命を失えば意味がないことだからと言うのですが、それだけでなく、神の前に豊かになるようにと語ります。では、その意味は?ご一緒に考えてみましょう。

2023年11月18日

🔸説教題:イエスの仲間たち

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ルカ12:1〜12

 

 ファリサイ派との激しいやり取りの後に人々はますます集まってきました。そこで、黙ったファリサイ派の人たちから弟子たちに向かいイエスは話し始めます。ファリサイ派のような偽善はダメだと、語り出します。結局、私たちを救うために天の父が御子イエスをこの世に遣わし、罪を贖うために十字架にかかることを許され、ただ、イエスを信じるだけで救われる道を開かれた神を信じ、イエスに全てを委ねて生きることを選べば、偽善の信仰を持つはずがないと言うのです。これから、弟子たちがイエスのゆえに迫害されることをご存知の主は、この世の肉の命を取ることしかできない者を恐れるな、と言われ、地獄に投げ落とすことができる方を恐れよ、と語られました。主を信じるということは覚悟がいるのです。人々の前で自分をイエスの仲間であると言い表す者は、イエスも神の御前に自分の仲間であると言い表す、と約束されました。これらが弟子の覚悟です。

2023年11月11日

🔸説教題:心の中の光は消えていないか

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ルカ11:37〜53

 

 ファリサイ派の人との問題から、考えます。カルト宗教がマスコミで問題となっている時に、宗教が陥る危険と正しい宗教との違いをこの聖書箇所から学びます。

2023年11月4日

🔸説教題:神の言葉を聞き、守る人

🔸説教者:佐久間典臣

🔸聖 句:ルカ11:27〜36

 

 スクエアーのLIVE礼拝。神の言葉を聞き、守る、とはどのような意味か、考えてみましょう。律法主義では人は義とならないことを私たちは聖書から学んでいます。ですから、何か書かれていることを人間の力で守ることを言っているようには思えません。では、神の言葉とは?それは、福音のことです。罪深い者 が律法を守ることは難しいのです。そのために、自分がダメなクリスチャンであると思えてきます。そうなると、自分を自分自身が裁き、責めることになります。しかし、福音はその罪の罰をイエス・キリストが十字架にかかって身代わりに受けてくださったというのです。だから、大丈夫だと、自分を責めなくてもいいというのです。それを信じることを「守る」といっているのです。