ディボーション

Jill WellingtonによるPixabayからの画像
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8月17日(日)

そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐに起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。

使徒言行録9:33~35

 

クリスチャンの中には、自分も癒しの賜物が欲しいと願う人がいます。今日のように奇跡が無くなっている時代には、なおさらそのような働きをする人が教会には必要だと思いますが、実際には驚くほど御霊の賜物が見えなくなっています。もちろん、一部には現れているとしても、自分がクリスチャンになってからでもこれほどひどいことはなかったです。この記録の中で、注目に値するのは奇跡で癒されたアイネアを見た人たちが皆、主に立ち帰ったことです。やはり、癒しの賜物は伝道に役立つと言うことです。だから、牧師でも癒しの賜物が欲しいと公言する人たちがいます。それが伝道に役立つことを理解しているからです。昔、沖縄で癒しの賜物を授かった牧師がいました。その先生が祈ればどんな病気も癒やされるのです。そこで、教区が問題にして、その牧師を呼びつけ、その癒しの賜物はどこからきたのか、と問いただしたのです。そこで、この牧師は萎縮してしまい、しばらく癒しをやめたのです。そして、もう一度癒しをしようと思った時には、その賜物は消えていたのです。何度ももう一度癒しの賜物をくださいと願ったそうですが、残念なことに二度とその牧師に癒しができるようにはなりませんでした。このように、癒しの賜物をいただいた時に、周りから批判や圧力がかかることがあります。聖書のようなリバイバルに繋がらないで、真逆の疑いと批判が起こることがあるのです。では、どうしてそのように反対の現象が起こるのでしょう。この聖句の前の聖句には、「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」(32節)とあります。「聖なる者たち」のところだったので、癒しは起こり、そのことがリババルにつながったのです。現代の世俗化した社会で伝道するときに、癒しの賜物を持って伝道しようとすれば、疑い、批判、中傷、反対が起こることは避けられません。それでも、構わないと恐れずに進めば、主に立ち返る人たちが出てくるのです。信仰が試されますね。

 

 

Michelle Jones-SoodによるPixabayからの画像
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8月16日(土)

彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。

列王記下2:11、12

 

エリヤは子供達にも人気があります。もちろん、クリスチャンにとってもヒーローなのです。イスラエルには預言者はたくさんいましたが、他に比べるべき者がいませんでした。圧倒的な神の人でした。この時代、サマリアの王が悪かったのです。まるで自分たちに神がいないかのように、異教の神々に頼っていました。それは最も悪いことだったのです。現代でも、浮気をして他の神々を慕ってはいけません。そのような者に神は恐ろしい神となります。逆に、エリアのようにたとえ権力者である王に憎まれても、神が守ってくださいます。それも、神が生きているとわかるように大きな御業をなさいます。1章には、アハズヤ王がエリヤを軍隊を送って捕えようとする場面が描かれているのですが、天から火が降って来て、その兵隊たちを焼いてしまいました。神を恐れ、人を恐れない信仰は必ず神によって勝利へと導かれるのです。軍隊を持ってしても神の人を王の思い通りにはできないのです。そのエリヤもこの世の活動を終える日が来ました。それは劇的ですが、嵐の中、火の馬車が現れてエリヤを連れていかれました。エリヤの後継者はエリシャでした。彼はエリヤから離れようとしなかったのですが、神に引き離されました。エリヤは嵐の中を天に上って行きました。エリシャがこの情景を見て、叫んだ言葉が聖書に書かれています。「イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と。そして、キリスト教でも讃美歌として歌われたり、神のことをこのように呼んで祈り、讃美したのです。皆さんの信仰がこれからも力の神によって守られ、どのような敵が現れても、決して恐れることなく勇敢に信仰を守り通すことができるでしょう。主の到来まで、忍耐して主を待望していましょう。