2025年6月ディボーション

6月1日(日)

キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

エフェソ2:6

 

クリスチャンであるはずの私たちが、意外なことに劣等感に悩むことがあります。人に言わなければ誰も気づくことはありません。しかし、本人にとってはしつこく悩ませるものなのです。これは、クリスチャンになる前に持っていた劣等感ですから、クリスチャンになった時に、十字架につけてきたはずのものです。生まれたままの人の持っていた劣等感を本当は持っているはずがないのです。なぜなら、洗礼を受けた時に水の墓に古い人共に葬ってきたからです。新しい命をいただいて神の子にしていただいたのですが、それを正しく理解していないようです。本当のあなたの姿は、今日の聖句を読めば明らかです。「キリスト・イエスによって共に復活させ」とあるように、罪人のあなたはキリスト共に死んだのです。それだけではなく、キリストの復活にあずかって、一緒に復活したのです。それだけでも、劣等感を持っていた古い人は死に、新しい人として復活しているのですから、劣等感で悩む必要はありません。さらに、聖句は「共に天の王座に着かせてくださました」と書いてあります。意味が分かりますよね。イエス様は今どこにおられますから、復活後に昇天されて、天の王座に着かれました。そして、あなたも共に天の王座に着かせてくださいました、と書いてあるのです。このような驚くべき特権を与えられた人が一体何を悩む必要があるのでしょうか。ましてや、劣等感を持つはずがありません。どうですか。あなたは悪魔に騙されていたのです。真実はあなたは大きな恵みの中に写されていて、イエス様と共に天の王座に着いている神の子なのです。そのことを信仰で受け止めましょう。

 

 6月2日(月)

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。

イザヤ43:25

この聖句は、イスラエルが神に罪を犯してきたことが先に書かれていて、それを受けるように贖罪を神ご自身がなされるという感動的な箇所なのです。しかし、この箇所を私たちが普通に読んでみれば、「わたし」という言葉が三連続で出てきた時に、圧倒されます。私は、なぜ人間が犯してきた罪の責任をその人自身に負わせないで、独り子であるイエス・キリストに負わせたのだろうかと疑問に思っていました。もちろん、人間が罪の攻めを受け罰を受けるなら、自業自得であるが滅ぶだけになってしまいます。何の希望もなく、救いが無くなるのです。神が愛であるからこそ理解し難い、罪の無い神の子イエスがなぜ私たちの罪の罰を受けなければならないのだろうか。その罪の贖いによって私たちを救おうとされるのはなぜなのだろう、とどうしても思ってしまうのです。その答えがここにあるかもしれません。「わたし自身のために」とあることは意外です。「哀れな人間のために」とか言われた方が納得できます。しかし、神は人間が罪で苦しむことが看過できないのだろう。創造の時に人間アダムが完全に創造され、この地上を支配し、エデンの園で神との交わりを楽しみ、幸福に暮らすことが決まっていたのです。それが、罪を犯し、楽園を追放されてしまったのです。そこから始まる人間の悲劇と悲惨は、罪のせいであるというのです。さらには、罪の呪いが重く人間にかかっていたのです。そして、神の民イスラエルですら罪を犯し続けるのです。こうした人間の罪を神はどこかで決着をつけることに決め、罪の問題解決を決められたのです。御子イエスが十字架につかれて犠牲を払われたのは、他に罪を犯さない者が一人もいなかったからでしょう。「わたし自身のためにあなたのそむきの罪を拭い去り」と言われた神は、一度罪に落ちた人間は、自力で義となることができないことを見極めたのです。そうなると、ノアの洪水の時のように全人類を滅ぼすか、はたまた神の義と愛が両立する方法で人を救済するか、その場合にも、本人が信じる信仰で義と認められることを条件にしたら神の愛も正義も成立すると思われたのでしょう。罪をいつまでも見続けることは辛いはずですから、すぐにも人間を裁いて終わらせたいのでしょうが、まだ救われる人間がいるのです。そのために、時を伸ばして終わりを遅らせているのです。それも、間もなく終わるでしょう。神の赦しは、「もうあなたの罪を思い出さない」と言われたほど、徹底しているのです。神の愛と恵みがあなたに届いているでしょうか。