2025年7月ディボーション

7月1日(火)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

コリント1:30

 

クリスチャンのあなたにとってキリストの価値は、十分に分かっているはずです。そして、自分の感じとか感覚などに頼っていては決してキリストを知ることはできないことも知っているでしょう。信仰に全ての鍵があります。今日の聖句でも、神があなたにしてくださったことは、「キリスト・イエスのうちにある」ようにしてくださったことです。それがあなたが信仰によって義と認められたという聖書の御言葉の意味を説明しています。キリストは聖いので、罪人がそのままでキリストのうちにあることは不可能です。確かに、神の救いを受けているクリスチャンはキリストによって自分の罪を贖われたので清いのです。それで、自分の罪は赦されたことが明らかなのです。では、クリスチャンは古い自分は死んで新しい自分が生きていることは、どうしてわかるかと言えば、下の句を読めば明らかです。「キリストが、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とあるからです。罪人であったまま救われたので、そのままの自分ではキリストに似た者にはなれないのです。でも、神のご計画は今日の聖句の通りで、クリスチャンは、信仰を持って自分ではなくキリストを信じるなら、必要な「神の知恵、義と聖めと、贖い」が有効になるのです。そのようにして、生きるのでこの暗闇の世界で光の子として生きることができるのです。キリストに信頼しましょう。神に従いましょう。

 

7月2日(水)

なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。

伝道2:26

 

神を信じてどんな良いことがあるかと言えば、今日の聖句で十分にわかるかと思います。クリスチャンは、神の御心にかなう人たちです。ですから、知恵と知識と喜びが与えられます。生きる上で、この世ではひたいに汗して、つまり苦労しなければ食べていけないという呪いがかかっています。ところが、クリスチャンはその呪いをキリストに解いていただいたのです。ですから、それだけでもありがたいことなのですが、さらに、よりよく生きていくために知恵と知識が与えられているのです。この二つが揃うと怖いものなしです。どんな仕事もできます。生活面でも勝者になれます。当然のことながら生活全般がうまく行くのですから喜びが伴います。いつも喜んでいられるのです。それどころか、驚くことに、「罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられている」というのです。意味がわかりますか。クリスチャンも罪人もこの世で同じように生きていると思ったら大間違いだというのです。クリスチャンはこの世でも、心配のないようにうまく生きるのに必要な知恵と知識が与えられていて、その人生は喜びに満ちたものとなるのに、一方の罪人はクリスチャンに渡すために働いているというのです。私たちは、このような恩恵の中に生きているのです。ですから、神の御心にかなっている人生を歩むように信仰の道を守って行きましょう。信仰は報われるのですね。

 

7月3日(木)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

クリスチャンであるあなたは、大きな保証を得ています。ですから、あなたはどんなことでもできるのです。自分を過小評価してはいけません。謙遜であることはいいことですが、それが自分をただ小さくして、消極的にさせているのなら、間違っています。キリストを信じている人が、この世でも活躍できることを覚えてください。自分で、制限しなければ、どんなことでもできるのです。それは、自分の力ではなく、あなたを強くしてくださる方によってです。あなたが信じているキリストが、あなたのために想像を超えた恵みを与えてくださるのです。多分、あなたにはチャレンジが来ているのではないでしょうか。何か大変なことが目の前にあるかもしれません。それが何でもあっても、正しいことであれば、今日の御言葉を唱えて、挑戦してみてもいいのです。自分の力だけで、となれば、過去の自分の知っていますから、できないと思うか、無理はしないと消極的な判断を下すかもしれませんね。しかし、今日の御言葉をよく考えてみてください。クリスチャンは自分の力以上に主の力で強くしていただけるのです。ですから、困難だからすぐにあきらめるといった情けないことにはなりません。ただし、無理をしなさいという意味ではありません。無理をしてもいいことはありませんから、無理やり困難に立ち向かえということではありません。あなたの内に願いが起こされ、やりたいことがあるかどうか。それを主は望まれているかどうか。これは御心にもかなっていると確信できるなら、どんなことでもできる、と信じて挑戦してみてもいいのです。困難があっても、それは初めから承知の上です。ですから、さらに主に強くしていただくのです。そして、自分はできると信じることも大事です。ただ、人にはそれぞれの使命がありますから、無謀なことをやればいいということではありません。よく祈って、確信を得てから挑戦してみましょう。

 

 7月4日(金)

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

エペソ1:19

 

クリスチャンの皆様は、実は大変恵まれています。その実感が無いと言われる方もおられるとでしょうが、これは事実です。少し考えてみればわかります。皆様ご自身を振り返ってみて、どうやって救われたかと考えてみればいいのです。皆様はありのままで救われたはずです。特別、他の誰よりも優れていたり、正しいと認められたわけではなかったのです。罪人を罪人のまま義とされた神のおかげで救われました。それも、ただ過去の罪を赦されただけではありません。キリストの用に変えるというのです。自分がどれほどの者であるかはよくわかっているはずです。ですから、どんなに人間的に頑張ってみてもキリストのように変わることはできないとわかっているはずです。では、どうするのかといえば、それが「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」をもって天に入ることができるように変えてくださるのです。人間には理解できないこともありますが、私たちが信仰によって御言葉を信じ、聖霊の助けを得て実行して行くことも大切なことなのです。恵みと共に責任もあるということです。ですから、クリスチャンは神に近づくことが必要です。それは難しくありません。あなたが願うことで可能になります。あなたは、この信仰に希望を持ってください。自分を見てがっかりするのではなく、キリストを見て、希望を持ち、喜んで日々生きて行くことです。神の御力があなたに働いているのです。

 

7月5日(土)

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力を持って、あなたがたのうちなる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

エペソ3:16、17

 

我が家の周りをウグイスがテリトリーとしていて、大きな声で鳴いているのですが、「ホーホケキョ」とはなかなか鳴きません。「ピーちゃん、ピーちゃん」と連呼しています。そこで、私が口笛で「ホーホケキョ」と鳴いてみせると、しばらく考えているようで、「ホーホケキョ」と鳴きます。何度か同じように練習すると、それそれは美しい声で鳴くのです。このように、どんなことでもコーチがつく必要があるのです。例えば、人間は自分の顔が見えないように、人から見てもらって調整してもらう必要があるわけです。そこで、クリスチャンも聖霊という特別コーチがマンツーマンで指導することになっています。しかも、うちなる人を強くしてくださるのです。この働きは、自分ではできません。ですから、聖霊に頼ることになります。このことは、聖書が教えているように、聖霊=キリストと考えて良いので、あなたを救う働きは、いまだに継続しているということです。よく、聖化という言い方をしますが、天に入るのにふさわしい品性を聖霊によって作っていただいているのです。地球から唯一持っていけるのがこの御霊の実とも言われる愛の品性なのです。あなたがたが信仰を持ち続けているので、キリストが内住していてくださるのです。ですから、信仰がとても大事です。良いことを信じて、肯定的に思考することも大事です。

 

 7月6日(日)

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

イザヤ43:18、19

過去に縛られている人がいます。それが良いとは言い難いのです。キリストの凄さは、私たちの罪を赦された事です。それも、単なる甘やかしではなく、また法的にも完全な赦しが得られるように、十字架に書かられたのです。誰も、悪魔さえも何も文句をいえません。つまり、過去のことは全て主が解決してくださったのです。それがなければ、人は前に進めないからです。しかも、クリスチャンにしてくださったので、希望があるのです。過去に、どんなに惨めであろうが、どんなに恥ずかしいことをしてきたとしても、私たちの希望はキリストの十字架にあります。ですから、赦された確信を持って、過去に縛られないのです。そのことは喜びとなり、日々の生きる力になります。これからのことを考え、主の導きを求めて、希望ある人生を歩むことです。私たちの神は、新しいことを起こされるのです。ですから、後ろ向きな生き方は好まれません。そうではなく、新しい人として前向きに生きればいいのです。神が何を起こされるのか、楽しみにすれば、その恩恵にあずかることができます。もし、今困難な所に置かれていて、困っていたとしても、私たちの神は、荒野に道を造られる神なのです。そして、荒地に川を設ける神なのです。ですから、人間的になり過ぎずに、信仰を持って雄々しく生きていきましょう。道は開かれるのです。

 

7月7日(月)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」

イザヤ48:17

 

私たちは神を知っています。それは素晴らしいことです。あなたは、「わたしの主」と呼びかけ、祈ります。それは奇跡なのです。あなたが過去において罪人であったからです。そして、今は神の子にしていただきました。ですから、今日の聖句もあなたのものです。あなたの人生に益となるように主が教えてくださいます。また、時に道を求める日が来ます。その日、あなたは心配することはありませんし、迷う必要すらないのです。なぜなら、あなたの主があなたの歩むべき道にあなたを導いてくださるからです。多くの人が願うことをあなたは特権として得ているのです。ですから、信仰を持って堂々と歩めばいいのです。また、この世の惑わしが心を揺さぶる時には、あなたは主のお導きを求めることができます。誤ることのないように、明確な導きを得て、確信と安心を持って進むことができます。あなたがクリスチャンであるから、そして、あなたを贖った主が導かれるのですから、良い恵まれた道であるに決まっています。主を信頼して一歩一歩慌てることなく、主の望まれる通りの道を歩んで行きましょう。その時、あなたは自分がどれほど祝福されているのかわかるでしょう。

 

7月8日(火)

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

ヤコブ1:17

 

この御言葉は本当です。私は長い信仰生活で学びました。クリスチャンも色々ですから、信じない人もいるかもしれませんが、それは損な選択です。祝福してください、とか恵みを与えてくださいと祈る人はいますが、今日のヤコブ書の御言葉を信じない人はいます。ですから、その人の考えている通りになっています。光は最も速いものです。ですから、良い贈り物も、すべての完全な賜物もすぐに来ます。天の父は、普遍です。その時の気分次第で、などと人間のような不安定さはありません。それは、詩人に言わせれば「岩のよう」となります。あなたは、最も信頼できる方から、恵みをいただいています。この世の考え方を捨てないならば、いつまでもこの御言葉の真理はあなたのものにはならないでしょう。でも、あなたが一番大切なものを手放すなら、天の約束そは、あなたのものです。神様を信じて生きているのですから、あなたの必要なものはすべて天から来ることを信じていましょう。あなたを愛しておられる天の父は、あなたの想像以上の素晴らしい愛のお方です。ですから、安心して信仰に生きましょう。あなたは恵まれた方なのです。

 

7月9日(水)

正義を行う者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを受け取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。

イザヤ33:15、16

 

選挙が近づくと、立候補者にこの聖句を読んでもらいたいと思います。残念ながら、権力闘争の中で悪いことをしてしまうのは、仕方がないと思っている人もいるのです。ダビデ王の物語を読むまでもなく、誘惑はいつでも権力者の側にあるのです。では、クリスチャンの私たちは、どうでしょうか。この御言葉の通りにすることは良いことであると分かりますが、相当の勇気と力がないと難しそうだと分かるからです。良い人だけの世界なら、良いのと思う気持ちはよく分かります。しかし、ニュースは悪いことばかり伝えています。ですから、クリスチャンが聖書の基準を知っているので、本来は世の模範となることが期待されているのです。この世の人たちは、まさかこのように厳しく神様が人間に求めているとは知らないのです。しかし、本当に厳しい要求でしょうか。この戒めに従っていれば、主は確実にこの世でも成功し、食糧も事欠くことはないし、安全な所に住めるし、神様に近い高い所に住むことができるのです。実は、信仰者が目指しているところがここに描かれていて、クリスチャンの踏ん張りどころがどこにあるかを教えているのです。この世の権力者におもねるのではなく、天の王の王に従うことが私たちの願いなのです。

 

7月10日(木)

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ヨハネ1:12

 

キリスト教の救いは、思いもかけない結果を約束しています。つまり、罪人が罪赦された、ということだけではないのです。それでは、罪赦された人、と言われるだけです。ところが、救われた人は、神のこどもとなる特権を与えられたというのです。しかも、正確には、「この方を受けれた人々」そして、「その名を信じた人々」という説明です。あなたはどうでしょうか。イエス・キリストを受け入れていますか?それは、イエス・キリストという名を信じることです。これなら、クリスチャン全員に当てはまります。しかし、さらに注意して読むと、「神の子どもとされる特権をお与えになった」と言っているのです。与えられるのは特権です。中身は「神の子どもとされる」ことです。では、いつ神の子どもになっているのでしょうか。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)とありますから、聖霊に導かれて信仰の道を歩んでいる人のこととなります。ですから、聖霊のことを考えないで自力で生きるのはよくありません。内住の聖霊が生きて働かれていることを認め、聖霊の導きに従うと決めることです。聖霊に祈ってみることも良いことです。自分がわかるように聖霊に導いていただき、その導きに従えるように祈るのです。神の子がこの世に生きていることに意義があります。きっと素晴らしいことが待っています。神の子であると自覚して生きてみてください。

 

7月11日(金)

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

ペテロ3:9

 

再臨のことを告げることはいつの時代でも大切なことです。ただ、キリスト教会は、その再臨を2000年も待っているのです。ですから、もう再臨のことを言わなくても良いというわけにはいきません。人間は本当に忘れるからです。でも、再臨しか言わないというのも違っているように思います。聖書自体がそうだからです。聖書は再臨のことを預言し、強調していますが、ページ数で言えば少ないのです。クリスチャンが成長するためのことが書かれ、イエス・キリストの物語が書かれ、福音がどのように世界に広がったかが書かれています。また、天地創造が描かれていて、アブラハムが選ばれて、最初のユダヤ人になったことなど、イスラエルの歴史が書かれています。これらどこからでもクリスチャンは学ぶことができます。しかし、世の終わりの再臨はこれから起こることで、しかも確実に起こります。その時、「主よ主よ」と言う人が、主に「私はあなたを知らない」と言われることが起こり得るので、少なくとも聖書には書いてあるので、ただクリスチャンになればそれだけでいいということにはなりません。聖化といわれることが誰でも必要なのです。ですから、人間的に過ぎるとまずいのです。信仰を持ってキリストのようになると信じているはずですから、肉的なことをことごとく捨て去る必要があるのです。そうしないと、主は一人でも滅びることを望んでいないので、後からクリスチャンになる人にどんどん抜かれていってしまうかもしれません。すべての人が悔い改めに進ことを私たちも希望していましょう。

 

 7月12日(土)

その時、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書が記された。「彼れは、ーーー万軍の主は仰られる。ーーーわたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分につかえる子をあわれむようにわたしは彼らをあわれむ。」

マラキ3:16、17

 

クリスチャン同士の交わりや会話は実に楽しいものです。何しろ、この世の交わりと違って、神様のことを話せる楽しさです。このことは、聖書時代にも同様で、「主を恐れる者たちが、互いに語り合った」とあります。興味深いのは、主は「耳を傾けて、これを聞かれた」とあります。つまり、私たちの話を主が聞かれているということです。クリスチャン同時なら、嘘偽りがありませんから、神様のことを正直に語り合うことができるのです。そのような聖徒たちは幸いです。万軍の主は、彼れらのために、「記憶の書が記された」とあるように、聖徒たちの信仰の言葉は記録されているのです。そして、バン軍の主はこう仰られました。「わたしが事を行う日に、わたしの宝となる」と聖徒たちの将来がどうなるかお語りになりました。おそらく、これは再臨の日のことでしょう。この世が滅びてしまう天変地変が再臨の前に起こります。これが最後なのですが、主は聖徒たちを空中に引きあげるのです。生まれた時には土塊に過ぎなったか者が、信仰で救われて、神を愛し、恐れて仕え、忠実な信仰を表した結果です。クリスチャンの生活が主からの報いを決めるのです。自分は主に仕えていると自覚していましょう。主を愛していれば、人生は幸福になりますし、神の愛によって天国に入る準備が整っていくのです。決していい加減なクリスチャンにならないことです。主を恐れ、愛する者だけが天に入れるのです。

 

7月13日(日)

どんな反対者も、反論できず、反証もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに与えます。

ルカ21:15

 

選挙が近づいているせいもあって、政策の議論や、米国の関税問題や、やたらと議論を聞くことが多くなりました。専門的に勉強していない人にとっては、コメンテーターの言葉が大きな意味を持ってきます。それらを聞き比べると、専門家という人たちでも、よくわかっていない人がいますし、天才的に全てを理解していると思われる人もいます。しかし、庶民は自分の気に入った人の言葉を鵜呑みにしてしまうかもしれません。政治家に至っては、自分が正しいと声高に語りますが、票を得るためのバラマキを攻めている政党も結局はばらまきと言われても仕方ない政策なのです。国民の借金をいかに減らすかという票にならないことは言わないのですから、本物の偉人はいないのでしょうね。さて、宗教に目を転じてみると、皆さんがもし、終末の終末、再臨直前まで生きていれば、宗教のことで議会や裁判所に立たされることが起こる可能性があります。その時には、何を語ろうかと心配しなくていいと聖書は断言しています。聖霊がその時に語ってくださるからだというのです。さらに、今日の御言葉を見ると、主が約束してくださっているのです。この御言葉を読めば、勇気が湧いてきます。「どんな反対者も、反論できず、反証もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに与えます」。老練な検事でも、弁舌の鋭い敵でも、頭が良い人たちでも、絶対負けないで勝てるのです。これが、クリスチャンに約束されているのですから、終末だから大変だと慌てたり、心配することはありません。それよりも、脅されても、主を信頼して信仰を保つことを考えておきましょう。ただ、伝道の時に、誰かを言い負かせば、その人は怒るかあなたを嫌いになって、決してクリスチャンにはならないでしょう。伝道では、愛が力なのです。そのメリハリを覚えておきましょう。

 

7月14日(月)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩篇16:11

 

人生は選択の連続だという人がいます。確かに、過去を振り返り、あの時にああしておけばよかったと後悔することもあるのです。自分の選択が間違っていたのか、それともこれでよかったのか、そんなことを考える時もあるでしょう。しかし、その時に正しい選択をしたかどうかなどわかりません。たとえ、その時にした選択の逆を選んでいたとしても、その先でさらに選択が続くからです。これほど、不確かな人生を人は歩んでいるのです。ところが、間違いのない確実な人生を歩む方法があります。それは、クリスチャンになることです。クリスチャンにも人生の選択がありますが、私たちには「いのちの道を知らせてくださる」神がおられます。その道は、主に導かれて行く道です。それは、羊飼いに導かれて行く羊に似ています。主の御前には喜びが満ち、その右には楽しみが永久にあります。これこそが、人間が望んでいる人生なのです。クリスチャンは、その特権を味わっているでしょうか。この世に生きているので、誘惑も多いし、悪魔は惑わしてくるし、肉の性質が大きな惑わしになるでしょう。しかし、それを打ち破り、勝利する力がすでに与えられています。それは、聖霊です。悪魔も逃げ出す神の霊です。その聖霊があなたに信仰を求めています。聖霊を信頼し、神の御心を求めるように促しています。信仰者なので、この世の人と自分を比べることなく、神の子として生きていけるのです。勝利は約束されているのですから、自信を持って生きていけるはずです。クリスチャンは、今日の御言葉の通りに、喜びや楽しみがあるかどうかで自分の選択が正しかったのか間違っていたのかを知ることができます。いつも喜んでいることができることを覚えていましょう。

 

 7月15日(火)

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。

ヘブル12:1

 

どうやら、私たちクリスチャンは競争に参加しているようです。実際には走るのが苦手な人もいるでしょうが、これは競技に例えているだけなので、心配はありません。ただ、信仰者の走るべき行程は、マラソンにそっくりなだけです。私たちの誇りはイエス・キリストだけですが、初代教会から現代の私たちまで、たくさんの先人達の証人がいて、それも私たちの心を励まし続けています。長く生きると、時代がどんどん移り変わっていくことがわかりますが、それだからといって信仰が変わるわけではありません。走るべき行程も変わりません。ですから、聖書に書かれたことこそ、天国への道に続くガイドなのです。私たちは幸いなことに、先輩達がどうやって信仰を全うしたかを知ることができます。聖書を読んだだけでもわかるのです。そこで、忠告に従って「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、この信仰の競争を忍耐を持って走る続ける」のです。さまざまな障害があると思いますが、聖書の教えの通りに忍耐して障害も越えて行くのです。神の恵みはいつでもあなたの周りにあります。給水所もあるでしょう。コーチの声も聞こえてきます。宝の地図のように聖書をよく調べて、天来の知恵と知識と力を得ましょう。マラソンの中継をテレビで観ていても応援したくなります。ですから、あなたのことを応援している人や天使やイエス・キリストが声援を送っているのです。勝利の栄冠はあなたを待っています。楽しみに待ちましょう。

 

7月16日(水)

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子をすなわち神が認証されたからです。

ヨハネ6:27

 

テレビを若い世代の人たちが観なくなったと言われるようになり、地上波は無くなるとまで言われています。確かに情報はあふれ、何かを調べるために図書館まで行っていたのが、スマホでいとも簡単に調べることができる時代になってしまいました。それで、テレビを改めて観ると「食べ物」の事ばかりと言いたくなるほど、食べ歩きなどの番組が欠かせないようです。それほど人間は食にこだわるのかと思いますが、決して飢えているわけではないのです。これは、口から入る食べ物では本当には満たされないからなのです。一時的には満たされても、食べ終わればすぐに霊的飢え渇きが起こるのです。これこそ、聖書の言うところの「なくなる食物」です。ですから、「永遠のいのちに至る食物」が必要なのです。そのために「働きなさい」と聖書は教えています。これがヨハネによる福音書に書いてある事なので、この食物とは、イエス・キリストが「あなたがたに与えるものです」と書いてあります。「イエスが『わたしは天から降って来たパンである」と言わました。また、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:53、54)と明確に言われました。ユダヤ人は理解できませんでしたが、クリスチャンの私たちは、これは主の十字架のことだと気が付きます。十字架で裂かれたキリストのお体、流された血が私たちの罪を贖い、救いとなったのです。十字架を信じるとは、キリストを食べ、飲むようなことなのです。自分の中に入れてしまうようなことなのです。そして、キリストによって生きると決めることなのです。十字架を仰ぎ見る信仰を忘れないようにしましょう。

 

7月17日(木)

主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

申命記31:8

 

私たちは聖書を神の言葉と信じています。そして、その信仰は裏切られることはありません。主は聖書を通して語られるからです。しかし、求めない者には与えられません。ですから、信仰のある人に語っています。もちろん、救いに導かれて主の召命を受けた人は、その証で、クリスチャンになる前から、主は聖書から語られたと証言する方がいるのです。そのようにクリスチャンはもとより求道者にも、聖書の不思議を語る方がいます。それだけでも聖書から主の言葉を聞こうと思えますが、今日の御言葉のように人生に主が関わっておられるような約束は特に励まされます。誰でもが、自分の人生を思い通りには動かせませんが、クリスチャンはそのような不確かな人生に主の保証を与えられているのです。主の御心にかなった道を歩むことが条件ですが、信仰に生きるという人は皆御心にかなった人生を送っているはずです。それでも、将来のことは見えませんから、不安材料はこの世に満ちているのです。不当に自分のことを苦しめす人だっているかもしれません。イエス・キリストを信じて幸せと言う人を憎む人もいるのです。ですから、主のお守りが必要です。そして、悪魔も行手を阻もうとするかもしれません。しかし、主はすでに悪魔に勝利しています。世の終わりまで主が共にいてくださるのですから、今日の御言葉は有効です。これを恵みというのです。主の恵みの中をあなたも賛美しながら前進するのです。

 

7月18日(金)

まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。

詩篇18:31、32

 

私たちの神は、生きて働かれる神です。天でじっとしている神ではありません。それどころか、天から降り私たちの救いのために贖いとなられた神です。神は永遠に生きるお方ですから、わざわざ人間になられて、私たちの一人となって、十字架にお掛かりになりました。それは、神が愛だからです。現代に生きる私たちにとっては、世の中が大きく変わっていく転換期にいるために、これからどうなるのかと不安の中に生きているのですが、しれだけに変わることのない安定した岩のような神に頼りたくなります。神はこのように変わることがないので、神の言葉である聖書も信頼できます。この神は、私たちを救ってくださっただけではなく、私たちをキリストのようなものとなるように道を造られます。ですから、私たちが弱かろうが、欠点があろうが、ダメだと言われようが、私たちに力を帯びさせて、主の定めた道を乗り越えていけるようにしてくださり、私たちを完全な者にしてくださるのです。ですから、弱音を吐く必要はありません。否定的に物事を考える必要もないのです。あなたにあるのは、明るい未来であり、キリストのような完全になれるからです。このような恵みをキリストを信じる者に無償で与えてくださる神に感謝しましょう。あなたの人生の道は主によって完全にされるのです。

 

 7月19日(土)

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

エフェソ1:19

神様を知らない人にも神様が働かれていることはあります。しかし、クリスチャンは全く扱いが違っています。イエス様がお弟子達を集めて伝道旅行を続けられたのは、イエス様が昇天後の地上で後継者として福音宣教にあずからせる目的がありました。その弟子達の活躍は、使徒言行録を読むとよくわかります。弟子達は世界中に福音を伝えようと頑張りました。そして、自分の走るべき行程を走り切ったのです。彼らの後を継ぐ者がいました。そして、その継承が駅伝の襷リレーのように現代にまで続いたのです。今は、私たちがキリストの弟子として、宣教の最前線に立っているのです。私たちには、その使命の達成のために神の特別な力が働いています。それは、認める者には分かるものです。ですから、クリスチャンには大きな特典が与えられているわけです。伝道をしたことのある人には、神の力が働いていた実感が残ります。この場合、人と自分を比べてはいけません。それぞれが賜物が異なっているからです。そこで、無理をする必要もありません。嫌なことを義務でやってみても決してうまくいきません。でも、信仰を持って主に献身すると、とてもワクワクするようなことが起こります。良い結果が伴うので満足感が後に残るのです。それは、自分に与えられている才能や賜物を使ったからです。人前で話すことが苦手な人に公衆伝道者になって良い話をするように言われても、それは無理です。でも、才能や賜物を活用すれば、それは何の負担にもならないのです。人間の個性も優劣はありません。私たちにとってのメリットは、神の優れた力がどのように偉大なものであるかを体験的に知るとができることです。これが実に価値があるのです。

 

7月20日(日)

あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責め立てるどんな舌も、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。ーー主の御告げーー

イザヤ54:17

 

クリスチャンが恵まれていることを正しく理解していない人がいるのですが、その恵まれたことの一つが、今日の聖句に書かれている主の御告げです。この世の中で生きていけば、あなたを攻める敵が現れることがあります。クリスチャンは穏やかに生きているので、喧嘩になることは滅多にありません。その代わり、一方的に攻められて悔しい思いをすることがあります。しかし、あなたの信仰を奮い立たせて、今日の聖句を思い出してください。あなたを陥れようとする者が用意する攻撃の武器は、どれも役に立たなくなる、と主は言われます。ですから、あなたは恐れずに堂々としていればいいのです。それだけでなく、あなたが天国に入れるかどうかを決める裁きの時に、あなたを責め立てるものがいるのです。それが「どんな舌」であっても、恐れることはありません。逆にあなたは「それを罪に定める」ことになるからです。神が裁判官ですが、その法廷であなたは圧倒的に有利に裁判を進めて、勝利することになっているのです。これが「主のしもべたちの受け継ぐ分」なのです。神から受ける義が勝利の秘訣なのです。それこそ、主イエス·キリストを信じた信仰によって与えられた神の義です。だから、クリスチャンとして堂々と生きていきましょう。

 

7月21日(月)

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。

ゼカリヤ13:9

 

世界の中でクリスチャンは三分の一と言われています。今日の聖句にも三分の一が出てきます。内容も、その三分の一を練り、試すと言うのです。その結果が、神に求められた神の民となり、彼らは「主は私の神」と言う、と書いているのです。どう考えても、クリスチャンとは、神に練り清められ、主に試されることで金のようになるというわけです。現在、説教でクリスチャンになった後にどうすることが聖書に書かれているか、一つ一つ確かめているところです。さらない、聖書に書かれたことを信じることが重要であると言うことも確認しています。これは、クリスチャンのアイデンティティが「神の子」であるということを理解して、それを認めて信じることを土台にしています。そして、さらに練り清め、試すことで天国に入る者となることを理解し、クリスチャンの人生に色々な問題や試練が起こることの理由を明らかにしました。そして、神の目標を自分の目標とすることも理解していただき、第二ペトロ1:3~10に書かれている神の品性に合わせて、目標を確認しています。これを知らなくても、このように導かれます。ただ、その時の反応が良いか悪いかで結果が違ってきます。ですから、説教をよく聞いて、ご自身でも聖書を読んでもいただき、納得してご自身の目標を聖書から決めるのです。これは、合理的で、無駄な遠回りをしなくても済む方法です。どうか、皆様が再臨までにご自身の聖なる準備を整えることができますように、祈って行きましょう。

 

7月22日(火)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

第一テサロニケ5:16~18

 

幸福に生きたいと願う人は多いでしょう。聖書からその秘訣を探してみれば、今日の御言葉に出会います。あなたも幸福な人生を望んでいるのなら、この教えの通りにすればいいのです。もっとも肉を満足させたいと願っていれば、ここに意味を見出せないでしょうが、信仰によって幸福に生きるにはどうすればいいのか求めている人には、この聖句で十分でしょう。確かに、神を愛し、隣人を自分のように愛すことも欠かせない大切な教えですが、クリスチャンであり続けている人は、十分に理解していると思います。ですから、今日の聖句も決して知らないものではないはずですが、簡単すぎると読み飛ばしてしまった人もいると思います。もしそうであれば、よく読んで自分はどうするだろうかと考えて欲しいのです。いつも喜んでいることは実際には難しいことにすぐ気がつくでしょう。人生は、色々なことが起こりますし、怪我や病気の時もありますし、人間関係で問題が生じたら、喜んでなどいられないわけです。絶えず祈りなさい、と言われても、仕事や家事に勉強とほとんどの時間を祈りとは無関係に生きているのですから、これも実行することを考えれば難しいとなります。どんなことにも感謝しなさい、と言うのもなんとなくわかるのですが、嫌なことや困ったこと、あるいは悲しいことが起これば、誰でも感謝できないでしょう。そこで、この聖句を読んで「いいな、よしやってみよう」と思った人も、すぐにやらなくなり、すっかり忘れてしまうのです。そんな教えをなぜ聖書に書いてあるのか、考えてみてください。下の句を読んでみると、「神があなたがたに望んでおられることです」と書いてあるではありませんか。つまり、神が望んでいれば、それは実現するのです。ただ、自由意志が与えられている人間なので、信仰で「神の望まれる通りに私に実現してください」と願うのです。神が働かれることができるためにこのようにします。つまり、自分では良いと思ってもできないと認めて、神の望んでいる通りになることを承諾するのです。この実現には、イエス・キリストが関わっておられます。ですから、あなたには強力な味方がいて、助け主なので、あなたの益となることなので、確実に成し遂げてくださいます。信仰によって義となるわけです。

 

7月23日(水)

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

詩篇119:130

 

クリスチャンは信仰があるので、聖書が特別なものであることを知っています。その聖書から不思議な体験をした人も多いでしょう。聖書を学べば知識が増えて聖書が分かってきます。きっとあなたにも聖書に関する良い体験があると思います。今日の御言葉は、とても詩的な表現ですが、かえってよく分かります。まさに、閉ざされていた御言葉の戸が開かれるという表現がピッタリな時があるのです。それは、光が差し込む、と言われるように天啓を受けたかのように、インスピレーションが働くのです。それは、わきまえのない者に悟りを与えます、と書かれた通りです。例えば、祈って神にたずねていた答えを聖書を読んでいる時に見つけた、という証はよく聞きます。わきまえのない者という表現もよく分かります。例えば、クリスチャンになる前の自分を当てはめることができます。神の存在を正しく理解していなかっただけでなく、聖書の知識が全くなかったので、自分が罪人であることを理解していませんでした。むしろ、真面目な良い人だと勝手に思い込んでいました。しかし、神のお導きの中で聖書の御言葉を聞くようになり、自分でも読むようになって、何かが変わっていったのです。そして、イエスの譬え話が何を言いたいのか意味が分からずに考えても全く分からないので、あきらめればいいのに、頭から離れないのです。そして、一週間ぐらいそんな状態が続き、ある時、突然「御言葉の戸」が開いたのです。それは、ブドウ園の労働者の譬え話でした。朝から働いた人も夕方来て働き始めた人も、同じ日当だったのです。主人の答えも常識はずれでした。この1日1デナリの意味が救いのことであると光が差し込んだのです。労働は功績です。多くの功績がある者も少ししか功績のない者も主の恵みで救われると理解できたのです。つまり、クリスチャンでなかったために、神を拝まず、キリストの教えも守らず、愛を知らずに、自己中心に罪の生活を送ってきた自分が、今、神の招きによって何の功績もないのに、救われるということが納得できたのです。このように主は聖書から働かれるのです。

 

7月24日(木)

私は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄させられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。

詩篇68:6

 

神は私たちに恵みを与えてくださいます。それは、時には孤独な者に家庭を与え、あるいは一緒に暮らす者を備えてくださいます。そうでなくても、一緒に人生を歩むいつも傍らにいる人を与えてくださいます。捕われ人とは、バビロン捕囚にあった人を言っているのでしょうが、そのように、何かに捕えられている人でなくても、この世のしがらみに縛られている人や、自分は負け組だと諦めている人、自分の可能性を信じられずにくすぶっている人などを神はその境遇から助け出すというのです。それだけではなく、栄えさせられる、と言っているのですから、新しい人生が成功し栄えるのです。ですから、クリスチャンになればおのずと希望が湧いてきます。しかし、そのようなことを信じないと頑張る人がいます。神が自分にだけは過酷で希望を持つことができないと頑なに否定する人です。この人は、自分でこの最悪な考えを選んでいるのですから救いがないのです。唯一、方法があるのは、悔い改めて、神の恵みを信じることです。せっかくの人生を不幸にする必要はないのです。クリスチャンで人生がうまくいっていない人は、もう一度自分の信じていることを確かめ、聖書に書かれたとおりに信じているかどうか、謙虚に調べるといいのです。それが、頑迷であり続けるなら、焦げつく地に住むことになります。自分で選んでいるので、選びかえることも可能なのですが、本人しかできないことなのです。

 

 7月25日(金)

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。

第一テモテ2:4~6

 

今日の聖句のポイントは、「すべての人々が救われて」と書かれているところです。同じように「すべての人の贖いとして」と書かれたところも今日考えることです。神はすべての人を救おうとされているのか、それとも、救われた人は初めから決まっているのか、という難しい問題です。これは、例えば、救われる人が初めから決まっているのなら、伝道する必要はなくなります。ところが、日本人の私たちは、キリスト教国ではありませんから、伝道する人がいなければ、いまだクリスチャンにはなっていないのです。とすれば、すべての人が救われるように神が願っているということは正しいことで、私たちも何とか福音を伝えたいと思えるのです。ただ、実際に救われる人を神が知らないということもおかしなことになるので、神はそのことも知っておられるのでしょう。そして、人間に等しく福音が伝えられ、救いのチャンスが公平に誰にでもあるということが大切なことになります。人間には自由意志がありますから、自分で選ぶのです。この問題の難しさはすべての人が罪人であることです。それだけを見れば、公義を司る神は罪を罰する必要があるのです。そうでなければ不動のはずの正義が曖昧になってしまうからです。しかし、罪を罰するというだけでは、誰一人救えないということになります。例えば、犯罪を犯すような極悪人と善良な人を比べれば、極悪人を罰して欲しいと思うでしょうが、実は両方とも罪人なのです。罪人という意味が意外と単純ではないことに気がつくでしょう。ノアの洪水の時には、ノアとその家族だけが救われ、他の人間は全滅しました。その時のことを神は聖書では後悔したと書いてあります。もちろん、神は人間のようではありませんから、これは単なる比喩だと言われています。では、神はどう思われたのでしょう。聖書には書いてありませんが、水で滅ぼさないと言われたのです。そこで、洗礼のことを考えてみると、古い罪人を洗礼の水の中で滅ぼしているのです。しかし、約束があるので、その水から引き出しているのです。そして、極悪人と善良な人の区別なく、滅ぼしていいのかといえば、いいわけはないのです。だからといって、罪人を善良だからと、そのままで救っても良いのか、という厄介な問題が残ります。そこで、罪の罰で人間を死なすことなく罰して、罪の問題を解決して、その上でキリストを通して神の愛を信じた人を救うことにしたのです。この信仰を神が義と認めることで人は救われるのです。

 

 7月26日(土)

こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

詩篇18:35

 

「御救いの盾」と書いてあります。救われたことで喜んでいましたが、クリスチャンになっても戦いがあり、日々の生活で信仰の歩みは成長になりますが、悪魔の攻撃を受けることもあれば、試練の中で自分の欠点や弱点を克服しなければなりません。祈ることを実践で教わり、私たちは祈りの大切さを身をもって知っています。その私たちに与えられた「御救いの盾」とは何でしょう。盾といえば防御の道具です。敵の攻撃を受け止め、自分に被害が及ばないための守りの要です。であれば、救い自体が、いっときのものということではなくて、救われた後も盾となって私たち弱い者を守ってくれている事になります。神様の御救いはこれほどもまでも完全なのです。ですから、クリスチャン人生を恐れてはなりません。敵も恐れてはならないのです。これは善悪の戦いだからです。盾があってもそれだけでは不安だ、という人に朗報なのは、神様「の右の手は私をささえ」とある事です。ですから、神様ご自身が皆様をささえていてくださるのです。あなたは信仰の道をひたすら歩まれてきたと思います。そうであれば、あなたは大きく変わっている事でしょう。神様は謙遜であられるので、あなたを完全な神の子にするために日夜働かれています。神様が恐ろしいだけの方であれば、私たちが成長してキリストに似た者になることはできないでしょう。神様は謙遜であるので私たちの過ちや罪を赦すことができます。ですから、失敗しても信仰によって悔い改め、主に従順になることで成長は止まることがありません。聖化とあるように、まさに聖なる者に変えられて行くのです。神様は偉大で私たちは御足のそばにさえ近づけないような者なのです。それなのに、親しく神様に祈り、話しを聞いていただけます。それは、神様が謙遜だからです。愛は謙遜にさせるのですね。私たちは、自分の成長がわかりません。そこで、兄弟姉妹を愛しているかどうかで測れば良いのです。愛に翳りがなければ、あなたは大きくされています。

 

 7月27日(日)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23、24

 

さて、あなたはいつでも主にお仕えしていると思っているでしょうか。洗礼を受けた後はそのように思っていたでしょう。そうでなかったとしても、信仰の旅路のどこかでそう思ったはずです。聖書によれば、「あなたがたは、主キリストに仕えているのです」と書かれています。ですから、このことを確信して自分の人生が主のものとなったのだと認めることです。それは生き方に反映されてきます。もはやこの世の人たちと同じようには生きていないのです。残念ながら、この世にとどまっていなければならないので、どうしてもこの世の影響を受けることは避けることができません。その上で、人間関係で一つ心に覚えておかなければならないことが、今日の聖句に出てきました。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」という戒めです。クリスチャンとしての価値を決める教えでもあります。そこで、信仰者は、この御言葉を守ろうとします。それがどれほど価値があるかといえば、徳を身につけることができるからです。クリスチャンのステップを一段登れるのです。さらに、これが難しいことであっても、「主から報いとして、御国を相続させていただく」事になっていると教えています。つまり、天国に入るために必要な事だと言っているのです。そうであれば、覚悟してこの戒めを極力守ろうと努力する事になります。聖霊の助けなしにはできそうもありませんが、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従っていてるなら、きっとこれもできるでしょう。天国への道がきっと見えてくるでしょう。

 

7月28日(月)

主よ、御もとに身を寄せます。

とこしえに恥に落とすことなく

恵みの御業によってわたしを助けてください。

あなたの耳をわたしに傾け

急いでわたしを救い出してください。

砦の岩、城砦となってお救いください。

あなたはわたしの大岩、わたしの砦。

御名にふさわしく、わたしを守り導き

隠された網に堕ちたわたしを引き出してください。

あなたはわたしの砦。

まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。

わたしを贖ってください。

わたしは空しい偶像に頼る者を憎み

主に、信頼します。

詩編31:2~7

 

生きていれば、ピンチに襲われることがあります。誰も避けることができません。その時に、頼れる人間がいれば頼るでしょうが、その人間にも荷が重ければ逃げていきます。そして、頼るべきは神様だけになります。日本人の多くが偶像に頼る時に、クリスチャンのあなたは、主イエス・キリストに頼るはずです。あなたは祈る事には慣れているので、このピンチをなんとしても助けて欲しくて、一生懸命に祈るでしょう。しかし、ただ助けてくださいでは足りないと気がつきます。しかし、言葉が見つかりません。そんな時に、今日の聖句は素晴らしいと思います。詩人であるダビデが生きていた時代は戦国時代です。ですから毎日が危険と隣り合わせで、時には絶体絶命の危機に遭遇するわけです。そのような時にどうやって祈るのか、今日のは詩編30篇の初めの部分を読んでみましょう。まず、「助けてください」などと言っていません。「主よ、御もとに身を寄せます」と切り出します。つまり、私たちは神様を知っているので、直接御もとへ行けるのです。自分を保護してくださる方の元へ身を寄せるわけです。次に、人間にとって恥に落とされることは死に値します。ですから、ダビデも死ぬことよりも恥に落とされることの方が嫌なのです。そして、「恵みの御業によってわたしを助けてください」と祈っています。「恵み」と言っているのは、恵みによって救食われた、という言い方と同じです。正しいから助けてくださいということではなくて、自分にも落ち度があり、負い目があるからです。それから、「あなたの耳をわたしに傾け、急いでわたしを救い出してください」などと祈ったことがありますか。私たちが、詩編から祈りを学ぶことが大切だという意味がわかると思います。実際に少しずつ詩編を学んでください。そして、祈りをそのまま自分のものにしてください。さらに、実際に困ったとき、自分を陥れようとする人や困らせられている人がいる時など、この祈りをそのまま祈ってみるのも良いのです。御言葉の力を試してみましょう。

 

 7月29日(火)

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピ3:13、14

 

パウロはマラソンに例えて、私たちを励ましています。パウロですら、「既に完全なものとなっているわけでもありません」と言っています。ですから、クリスチャンの皆さんは、やはり天国へ通じる道をひたすら走っているのです。そこは、既にパウロが通った道です。このマラソンの勝利の秘訣を知りたいと思うのですが、パウロはヒントを与えています。それは、「なすべきことはただ一つ」と言っています。あれもこれもと言われれば、きっと無理だと諦めてしまうところですが、一つならばなんとかなりそうです。それは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。よく、オリンピックなどの表彰式で、メダルを授与され晴れやかに手を上げて振っている選手のようなイメージです。もちろん、「神がキリスト・イエスによって上へ召して」とあるので、私たちはキリストによって天に入れられるのです。生きてか死んでかは分かりませんが、天国に入って賞を受ける道が備えられているのです。ですから、信仰者として最後まで忠実に走り続けたいものです。その為には、後ろのものを忘れる必要があります。よく、後ろ髪を引かれる、と言いますが、何か執着しているものがこの地上にあれば、そのことが天国へのレースを台無しにしてしまう可能性があるのです。そして、天に入ることだけを考えて右にも左にもそれない信仰です。目標を目指してひたすら走ること、これが極意なら誰でもできそうです。兄弟姉妹もいるので、励まし合いながらゴールを目指しましょう。

 

 7月30日(水)

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を追うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

ヘブライ9:27、28

 

再臨を待望しているでしょうか。この世のことで心を煩わせていると再臨を待望することを忘れてしまうことがあるかもしれません。再臨は、キリストとお会いできることを楽しみにしている人に救いをもたらすものなのです。現代は、霊的なものを否定し、神も認めない人が大勢を占めているように見えます。しかし、実際には日本人も神々が大好きで、二億を超える宗教が存在します。国民の数の倍ぐらいの宗教がある国というのは、どう考えても異常です。それでいて、神がいないように振る舞い、欲望のまま好き勝手に生きているのは危険なことなのです。聖書は、人間の定めとして、「一度死ぬこと、その後に裁きを受けること」が決まっていると教えています。そのことを知っていれば、生き方を正しい方向へ変えるかもしれません。ですから、福音を伝える必要があるのです。皆さんは、幸いなことにクリスチャンになって、死後の裁きも再臨も知っています。何より、イエス・キリストを知っていることが感謝なのです。それは、キリストの召しがあった時に自分の意思で応じたことです。今では、信仰を持って生きています。主に頼り、主に従い、主に従順な者として生きているのです。それでも、救いの確かさが不安だ、と言う人もいるでしょう。それは、再臨の日に「救いをもたらすために現れてくださる」とあるように、キリストと直接お会いする時に、救いは確かなものとなるのです。何しろ、そのまま天国へ入っていくのですから。地上生涯は、主人が旅に出ている間、家を守っている僕のようなものなのです。確かに主人のものなのですが、主人を見ることができない油断や不安がどうしてもあると言うことです。しかし、この間に何をしたかが裁きの場で明らかにされるので、クリスチャン人生を正しく歩んで行きたいのです。

 

 7月31日(木)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和を持って満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

私たちの神は、望みの神です。それは素晴らしいことです。貴方には、いつでも望みがあるからです。それも、神という根拠があるのですから、ただの望みではありません。この神が、貴方を信仰によるすべての喜びと平和を持って満たしてくださいます。信仰を持っているということは、喜びがいつでも見出せるということです。貴方がいつでも喜んでいると信じていれば、喜びが見つかります。今まで、喜べなかったとしても、これからは信仰があるので喜びが起こるという秘訣を知ることになります。また、大きなこととしては平和がいつでも心にあるということです。これも、主の御業です。貴方の信仰にはこのような力があるのです。平和があるということは、神との関係が良いという意味であり、この世にあっても貴方を困らせたり、人間関係で悩まされたり、ということがたとえあったとしても、神が共にいることで平和が心を満たすのです。そして、貴方がいるだけで、争いが消え、不思議な平和が生じるのです。喜びと平和を知ることがクリスチャンの特権です。聖霊の力を知ることはクリスチャンのとって重要なことです。これも信仰によるので、クリスチャンなら可能なのです。聖霊が働かれるとワクワクしてきます。本当に神がいると実感できます。そして、望みにあふれさせて下さいます。この望みが信仰を強めるのです。悲観的に物事を見ていたのが、反対に私にはできるという肯定的な見方に変わるのです。その場で、聖霊が自在に働けるように信仰を持って聖霊に全てを任せることです。これがクリスチャンが主の御心にかなった道を選び、成功へと向かう方法なのです。

今日の聖句を貴方の目標として、そのまま自分の祈りとすることができます。これは主がかなえることのできる願いです。