2025年8月ディボーション

8月1日(金)

望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。

ヨブ11:18

 

クリスチャンは望みがあると保証されています。何かトラブルがあったり、悩み事が起こった時でも、望みがあるのです。この世では、望みを失うようなことがあります。しかし、クリスチャンには望みがあるのです。ですから、あなたは慌てることはありません。また、イタズラに悩んで夜も眠れないとなる必要はありません。信仰を使う時が来たのです。宝の持ち腐れにしてはいけません。悪いことを考えたり、最悪の妄想をしても、良いことは何もありません。現実だけを見て、たとえ最悪なことが起こっても、それは案外大したことではないのです。それに、私たちにはイエス様がついていてくださいます。それだけでも心強いのですが、聖霊も一緒に働いてくださいます。必要ならば万軍の天使も降りてきます。あなたは、信仰によって安らぎ、あなたは守られていると実感できます。さらに、心が不安や恐れに支配されていたのを悔い改め、主を信じているのに、恐れたことを謝ります。そして、主を賛美します。あなたの好きな讃美歌を声を出して歌うのです。そして、主の故に望みがあると祈ります。心に平安が来るまで祈りましょう。あなたが主にゆだねれば、主が問題解決のために働いてくださいます。あなたは、相手を恨まず、相手が悪くても赦しましょう。心が軽くなるまで、頑張って赦してください。あとは、主が働かれます。私たちには助け主がいるのですから、勇気を出しましょう。

 

8月2日(土)

もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

詩篇119:92、93

 

聖書を読む人は、決してクリスチャンだけではありません。日本でもいろいろな人たちが聖書を読んでいます。中には、原語で読もうとヘブライ語やギリシャ語を学んでいる人たちもいます。ヘブライ語はことのほか難しく、入門レベルで終わってしまう人がほとんどです。独学で学ぶとなれば、趣味を超えてオタクと言いたくなるレベルの方々が頑張っています。そこまでしなくても、聖書は日本語で読めますので、信仰者の場合は御言葉を味わうということができるはずです。また、今日の詩篇詩人のように神のみおしえとして聖書を読んでいる人たちもいるわけです。どちらかといえばクリスチャンはこちらに入ると思います。神のみおしえとして読んでいると効能があります。それは、みおしえが自分の喜びとなることです。悩んでいる人は、出口が自分で探せていません。一人の小さな考えの中だけで堂々巡りをしているのです。小さな悩みが勝手にどんどん大きくなります。これでは破滅してしまいます。しかし、御言葉には力があります。ただの言葉が自分を正し励まし、神からの御教えとして自分の心の中に入ってくると悩みが小さくなりだし、しまいにはどうでもよくなり、それ以上の天来の喜びが溢れてきます。悩みにしがみついているのか、それとも神のみおしえに従うのか、従えればそれはあなたの戒めとなるのです。戒めなので、また悩みに戻ることもありません。自分勝手な人間はこうして神に服従するのです。悩まなくても、神の御言葉を読んで自分の心に蓄えていけるように心がけましょう。

 

8月3日(日)

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。

ヨハネ14:1

 

あなたには先生がいますか。弟子達にはイエスという先生がいました。弟子達は先生から色々学ぼうとしました。それは、先生と3年半ほど続きました。生活を共にし、巡回伝道に従い、説教を聴き、病人を癒すのを見たり、律法学者やファリサイ派の人たちとの対話も聞きました。弟子達だけに教えてくださったこともありました。この先生は、神の子だったのです。だから、聞いていても分からなかったこともあったのです。それでも、先生がただの人ではないと思うようになり、生活を共にしていたほど親しくしていたのに、ペトロは「神の子」と先生を認めました。もっとも正しくイエスを理解するには、復活の後まで待たなければなりませんでした。そのイエス先生がお語りになった御言葉が今日の聖句です。これは、現代の弟子であるみなさんにとっては、ご自分にイエスが語られた御言葉として受け取る必要があります。これほど、素晴らしい御言葉はありません。なぜなら、この世の中で生きていれば、「心を騒が」せるような事はいくらでもあります。その度に慌てて、神に助けを求めているのかもしれませんが、実は、もっと重要なことがあります。それは、あなたがイエスの弟子であるのなら、この御言葉の通りにすればイイのです。大切なことは、何事かが起こった時に、慌てずに、すぐに冷静になって、神を信じ、イエスを信じていることを確認するのです。この信仰だけで私たちは生きているのです。この信仰が裏切られるような事は一切ありません。だから、あなたの信仰があなたを救うことになります。決して、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」。

 

8月4日(月)

どのようなときにも、友を愛すれば

苦難のときの兄弟が生まれる。

箴言17:17

 

友達が大切であることは誰もが認めるでしょう。しかし、大人になると子供の時のような友達はなかなか得られないものです。クリスチャンの方からも友達がいないことを相談されることがあります。男性女性を問わず、心の友と呼べるような大切な友達が欲しいのです。教会に同じ年ゴロの人がいれば、友達になれる可能性があります。しかし、相性と呼べるようなものがあって、誰でもイイというわけにはいきません。結婚相手となると、クリスチャン同士が理想ですが、これはなかなか高いハードルです。日本の教会は小さな規模のものが多く、ほとんどが五十人以下の教会です。その内の70%が女性で男性はとても少ないのです。そして、ほとんどが高齢者なのですから、若い人が結婚相手を見つけることは普通に考えれば難しいのです。ですから、祈りが必要になります。このように、親しい友を見つけることはそう簡単ではありませんが、聖書には信頼できる友達を作る方法が書いてありました。それが、今日の聖句です。秘訣は、「どのようなときにも、友を愛すれば」とあります。ポイントは二つ、一つ目が「どのようなときにも」です。ここが難しいところです。喧嘩をするかもしれません。誤解が生じるかもしれません。誰かが、「あの人とは付き合わない方が良い」とささやくかもしれません。病気になるかもしれません。そして、遠方に引っ越すことになるかもしれないのです。友がみんなから批判されて孤立してしまった時、友の傍に居続けることができるでしょうか。最悪なことに、共に裏切られるかもしれません。それでも赦せるでしょうか。聖書を読んでいて不思議になるのは、「イエスは、『友よ、しようとすることをするがよい』と言われた」(マタイ26:50)と書いてある箇所です。イエス様は、弟子に「友よ」と呼びかけるのです。あなたも弟子ですから、イエス様はあなたにも「友よ」と呼んでくださるでしょう。ただ、この聖句の言葉を語られた相手はイスカリオテのユダでした。今にもイエス様を裏切り、捕えさせようとした時のことです。それでも、イエス様はユダを愛してくださったのです。これが「どのようなときも」なのです。ユダは、イエス様の愛に耐えきれず、裏切ったことを後悔しました。友を愛することを聖書は教えていますが、クリスチャンには覚悟が入ります。十字架で主が死なれた時に、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を取り下ろしたいとピラトに願いでます。これは、苦難のときの兄弟が生まれたことを証明しています。さらに、「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:26、27)とあります。これも「苦難のときの兄弟が生まれる」と記された例です。あなたにも友がいるでしょう。大切にしたいですね。

 

8月5日(火)

人間は心構えをする。

主が舌に応えるべきことを与えてくださる。

箴言16:1

 

何か問題が生じた時に、私たちはどうすればいいのか考えます。まさに熟慮することになります。そして、ついにその応えを決める時、口から出る答えは主が与えてくださったものだというのです。信仰者には分かることだと思います。信仰のあることが人間に神の正しい導きを与えるのです。あなたにも心当たりがあると思います。どうすれば良いのか悩む時です。もちろん、間違った結論にならないように、よく考えるのです。時には人に相談するかもしれません。それでも、決められなくて、主の御心を求めて祈るのです。このようにして、最後に口から出てくる言葉がなんと主が与えられた応えであるとすれば、クリスチャンは何と守られているのでしょうか。この世の人なら、占いに頼るかもしれません。自分では決められないからです。人に頼ってもそれですんなり答えが出てくるわけでもありません。心がそれでは納得しないのです。しかし、一刻も早くこのような悩みからは解放されたいので、誰かに言われればもうそれで良いと思うかもしれません。また、もっともな理由を教えてくれる人もいますが、それで自分を納得させようとしても、心の奥の方で、本当にそれでいいのか、と言われているように感じるのです。失敗したくありません。ですから、神のせいにして、これが御心だと自分に言い聞かせようとします。しかし、最後に分かることですが、答えは神が与えてくださるのです。それが神を信じる人の特権なのです。よく祈って自分の気持ちを全て主に伝えてみましょう。そして、正しい答えを見出すことができるように祈り、信じるのです。あなたのことを主は全てご存知で、しかもあなたを愛されていますから、あなたにとって一番良い答えを与えて下さいます。

 

8月6日(水)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

真の神を知らない人たちがどのように生きているか、クリスチャンは知っています。それは、まさに過去の自分のことだからです。聖書の中にこの聖句があるので、私たちは救われました。このようなメチャクチャに見える教えは、他の宗教に見ることはできません。普通はこの逆だからです。「良い行いのある者が、敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その良い行いが義とみなされるのです」となります。これなら、誰でも理解できます。まさに常識です。ですから、キリスト教の教えは間違っているのでしょうか。決して間違っているとは言えません。そのことを知っている人がクリスチャンです。同じローマ書が告げているように、「正しい者はいない、一人もいない」のです。ですから、私たちも罪人のまま救われたのです。それも不思議なことですね。それが可能になるには、方法は一つです。誰かが身代わりに罪の罰を受けるということです。神がいるなら、罰は必ずあります。そうしないと正義が成り立たないからです。そこで、キリスト教は、神自らがその罪の罰を一身に受けることで、正義を貫く宗教なのです。それでは、罪人は何をしたらいいのでしょうか。その犠牲となった神、イエス・キリストを信じることで救われます。つまり、キリストの十字架は神の愛を表していて、罪人はこの愛によって心が変わり救われるのです。そして、救われた人はキリストのように愛に生きるので、キリスト者、クリスチャンと呼ばれています。それだから愛の宗教というわけです。

 

 8月7日(木)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16:33

 

この聖句を読んで、あなたは何を一番大切であると思ったでしょうか。社会に出ていけば、自分と全く同じように考える人ばかりではありません。相性の良い人もいれば、悪い人もいます。そのような世界で、トラブルが起こっても不思議ではありません。そのような様々な困難の中でも宗教的な迫害が一番怖いはずです。しかし、幸いにも今は迫害は起こっていません。個人的には、家族に反対されるとか親しい人に宗教はやめるように反対されることもあるかもしれません。また一生懸命にしたことでも、誹謗中傷する人がいます。そういう人は何かしら理由があるのでしょうが、幸福な生き方とは言い難いです。このように、人間にとって「世にあっては患難があります」と聖書に書かれた通りなのです。しかし、キリストは「勇敢でありなさい」と言います。もちろん、ただ突っぱねて頑張れと言っているわけではありません。「わたしはすでに世に勝ったので」心配せずに「勇敢でありなさい」と励ましているのです。しかし、それだけではなく、「あなたがわたしにあって平安を持つため」という言葉を認めると、クリスチャンはこの世で何が起ころうが、キリストにあって平安を持つことができるのです。このように、聖書に励まされて、今日も出掛けましょう。今日するべきことを元気にやり遂げましょう。人の顔色で自分の気分を左右されないように、キリストを仰ぎ、今日の聖句を思い出しましょう。「勇敢でありなさい」ときっとみ声が聞こえてくるはずです。

 

 8月8日(金)

あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。

申命記14:1

 

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神のこどもです。

ガラテヤ3:26

 

旧約聖書も新約聖書も、主を信じているあなたを神の子どもです、と教えています。すごいことですよね。人に自慢できるほどの立派な人間であるとは思えないかもしれませんが、そうやって考えているのは信仰とは無縁の古い私です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。ここでもわかるように、「望んでいる事柄」つまり、自分が「神の子ども」であることを望んでいることが大切なのです。それを確信することが信仰なのです。そして、神の子であると実感してそれから自分は神の子です、となるのではなくて、神様がおっしゃっているのですから、神様が自分を神の子にしてくださることを確認するのです。それは、私たちがキリストのようになる事が目標ですと言っているからです。事実、初代教会の信仰者から今に至るまでそのように言われてきたのです。人間の力では到底できない事ですが、神様にできないことはありません。ですから、聖書に書いてあればできるのです。そして、私たちがすることと言えば、それは信じることだけです。救われた時に信じたのと同じです。ですから難しいことではありません。あなたも、神の子どもとして毎日生きていいのです。人生を楽しみ、幸福になることは神の子に相応しいと思います。主を信じているのですから、明るい未来を信じることができます。人間は頑張れば大抵のことはできます。しかし、神の子になるのは、神様の御言葉によるのです。だから、こそ信んじて良いのです。残りの人生を神の子どもとして生きていきましょう。

 

 8月9日(土)

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。

使徒24:16

 

良心は良い心と書いてあっても、必ずしも当てになりません。自分に都合よく良心が動いてしまえば、何にもなりません。ですから、クリスチャンは良心を甘やかせないのです。それは、良心がブレないように、「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように」と基準を設けているのです。人は罪の問題を抱えているので、当てにならないと言えばそうなのですが、建前と思われても良いので正論で正しい事を心がければ良いのです。この方法は、かなり根性がないと批判や反論に晒されて辛い思いをするかもしれません。もしそれが嫌な人は、周りの人たちに小さな親切を心がければ良いのです。大変なことはできなくても、小さな親切は笑顔になれます。親切を受けた人も笑顔になりますから、敵がいなくなってきます。それでも、疑り深い人もいますから、何か魂胆があって親切にしているのでは、と考える人もいます。ですから、小さな親切は長く続けることになります。クリスチャンとしては正当なことなのですけど、鍛えられますね。さらに、クリスチャンが本物になってくる時にも、良心の問題は必ず出てきます。その時に、人間ではなく神を見ることです。神の前に責められない良心とは何かを考えてください。これはそれほど難しくありません。神はわかりやすく示されるので、難しく考えてはいけません。例えば十戒を考えてみればわかりやすですね。大切な戒めはたったの10でした。確かに、それぞれの戒めが意味の深いものですが、それでも10なのです。ですから、わかりやすいと言っているのです。ただ、聖書にもある通り、「最善を尽くしてい」る事が必要なのです。気を抜けば、良心は横道に逸れていくかもしれませんから。クリスチャンは、このようにして神第一に生きているのです。

 

8月10日(日)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

ヨハネ16:13

 

真理の御霊が来ると・・・。クリスチャンにとってこの御言葉をどのように受け取り、理解しているかでそのさきが大きく異なってきます。現代の教会は、あまりこのことに触れないようにしている感があります。あるいは、文字通りというよりは、現代人が受け入れやすいように解釈して説明する傾向が見受けられます。こうしたことは、理性の範疇を超えて、特殊な体験と結び合わせる時に、教会内にトラブルが発生することを予見してのことであり、また、霊的で特殊な体験が強調されることに危機感を感じるからです。しかし、よく考えれば宗教には昔から霊的で特殊な体験はありました。それを求めて指導を仰ぐこともあったのです。宗教なので、霊的な体験は求めこそすれ、否定することはなかったのです。それが、現代では危険視され、霊的体験も否定されて、タブー扱いになっていたりするのです。では、霊的なことを失って、何を持って補っているのでしょう。それは、心理学や自己啓発に近いことであったりします。それすらなければ、宗教の一番大切な部分を自ら捨て去ったのですから、聖書物語を語ったところで、現代人は教会に来る魅力を見いだせなくなり、教会に来なくなります。なぜなら、例えば、牧師の元へ離婚問題を持ち込めば、弁護士のところへ行ってくださいと言われ、病気で悩んでいる人が来ても病院へ行けと言い、心の悩みはカウンセラーに行けと言うのです、と言う人がいます。確かに、これでは教会の意味がわからず、必要ないものとなってしまいます。これは、世界共通の問題です。こうしたことは、聖書に書かれたことをそのまま信じることができなくなって、信じられないことは無視したり、古代人は科学を知らなかったから、と切り捨ててしまうことに問題があるのです。私たちは、このようなことにならないように、気をつけて、聖書を真理と信じているのですから、合理化して読むようなことにならないように気をつけたいですね。そして、真理の御霊を求めて、聖書の通りだと証したいですね。

 

8月11日(月)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

 

私たちは、天国レースに参加している選手のようなものです。レースである以上、なんとしてもゴールして勝利したいものです。しかし、よく考えてみれば、このレースは勝つことが約束されているレースなのです。神は私たちを愛していると堂々と公言しています。それは、驚くほどの愛です。あんまり大きな愛なので、気がついていないのかもしれません。神は全知全能ですから、将来も見通しています。それなので、私たちは神を信頼していれば良いだけで信仰が大切になります。つまり、神に逆らわなければ勝利できるレースなのです。レースに勝利するために、神が特製の勝利の秘訣をまとめた書が聖書です。つまり、聖書こそが必勝のコツを教える本なのです。そして、人生という長い時間のレースなので、アクシデントや思いがけないことも起こりますから、それも神は見越して、ちゃんと手を打っているのです。もちろん、走るのはあなたです。走るのまで取り上げて仕舞えば、さすがに意味がなくなります。ですから、あなたはいろいろなことが起こる中で勝利を信じて走り抜かなければなりません。それで、神は起こり得るすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるように、働いてくださるのです。これ以上何を望むのでしょうか。神が作られる特製ドリンクのボトルを給水場で待ち受け、手渡ししてくださるのも神なのです。辛い坂では、箱根駅伝のように、後ろから神が監督になって、檄を飛ばし、ペースを教え、励ますのです。時には、ほめてくださいます。こうやって、一人で走っているようで、実は神と二人三脚で走っているのがあなたなのです。日々、圧勝して、確実に天国のゴールを目指しましょう。勝てるレースなのですから、余計なことを考えずに、ひたすら走って行きましょう。それでは、ゴールで会いましょう。

 

 8月12日(火)

わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。

そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。

箴言3:1、2

 

クリスチャンは天の父のおしえを知ることのできる者です。もちろん、聖書を読んでいるからですし、約束の真理の御霊が送られてくるので真理を知ることができます。ですから、天の父の命令を理解しその意味がわかるのです。そこで終わっていいのではなくて、それを心に留めるように命じられています。そうすれば、「あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる」と聖書に恵みの約束が記されているのです。そうであれば、聖書を読み、調べ、瞑想し(御言葉のことを考えるという意味です。決して何も考えずに無になろうという意味ではありません。それは心が自然と開き悪霊が入ることすら可能になるので危険です)、聖書研究会なども利用すれば長く続けることができます。日本人は「読書百遍意自ずから通ず」と言ってきましたから、繰り返し読んで行くことの効用を知っていたのです。生涯で何回聖書を読めるのか、自分への挑戦になりますね。今日の聖句は、平和に良い日々を暮し、長生きできるのは、聖書を読んで、天の父の教えと命令を忘れずに心に留めていることによると、大切なことを教えていました。

 

8月14日(木)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

使徒言行録を読むと、初代のクリスチャンが信心深かったことがうかがいしれます。それがどんなものであるのか、聖書の御言葉から探ってみれば、今日の聖句が出てきます。同じ人間なので、御言葉の力は同じように働くはずです。ここで、大切なことは、「望みの神」と書かれていることです。私たちにとってこれはありがたいことです。厳しく採点する減点主義の神であれば、私たちはすぐに希望を無くしてしまいます。ところが、聖書の神は、望みの神、希望の神なのです。ですから、あなたも神に期待してください。あなたに与えられている信仰によるすべての喜びと平和を持って満たされる、と信じてください。いつでも、心が明るくなります。何か嫌なことが起こっても、気にならなくなります。今までとは違って、心に嵐を起こすようなことにならないのです。信仰していて何の得があるかと思ったことがあるのなら、今日の聖句こそ最高の望みなのです。クリスチャンは信仰をもっているので「喜びと平和」に満たされた状態になれるのです。ネガティブなことが起こっても、喜びが心を支配しているので、大丈夫です。平和は争いがないことだけではありません。神との関係が良好であることを意味します。そこから来る穏やかでゆとりのある心の状態です。この世は、あまり良いとは言えませんが、それでもクリスチャンがいる所には希望があります。聖霊が働かれるので、その力で望みにあふれさせてくださるのです。これはポジティブの最高の形です。ですから、全てが好転し、何をやってもうまくいくのです。主の御心にかなうことを願うようになるのです。ですから、すべて実現して行きます。人生が楽しくてしかたないと思うでしょう。これが、クリスチャンであるあなたのために祈られているということです。

 

8月15日(金)

地の果てまで

すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り

国々の民が御前にひれ伏しますように。

王権は主にあり、主は国々を治められます。

命に溢れてこの地に住む者はことごとく

主にひれ伏し

塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

わたしの魂は必ず命を得

子孫は神に仕え

主のことを来るべき代に語り伝え

成し遂げてくださった恵みの御業を

民の末に告げ知らせるでしょう。

詩篇22:28~32

 

あなたは朝一番に何を祈りたいですか。神様に目覚めさせていただき、今日も生かしていただいたことを感謝したいですか。それとも、神様を讃美しますか。きっと、あなたの願い事があるでしょう。それは何でしょう。私が願うことが聖書に書いてありました。それが今日の聖句です。この世界の全ての人が神様に膝をかがめてひれ伏しますように、と祈りたいのです。それと、子孫が神様に仕えることも願いです。私たちは、自分に神様が何をしてくださったのか、語ることができます。同胞のために福音を告げつることと言えば、難しいと感じる人がいますが、私たちはまず家族にそれも子孫に、それほど神様によくしていただいたか、困った時に助けてくださったか、心が暗く沈んだ時に魂に光を照らしてくださったことを教えたいのです。祈りは聞かれること、主を第一に大切にすること、主にお仕えすれば生活も支えていただけること、主を求めて近づけば主も近づいてくださること、主の恵みを味わうことが許されていること、主に愛されていることを伝えなければならないのです。自分の話を聞こうとする人が与えられるので、恐れずに主のことを語るのです。これは、聖書の時代の信仰者から現代まで変わることがありません。主は私たちの誇りなのです。主を大いにほめたたえましょう。ハレルヤ!

 

8月16日(土)

彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。

列王記下2:11、12

 

エリヤは子供達にも人気があります。もちろん、クリスチャンにとってもヒーローなのです。イスラエルには預言者はたくさんいましたが、他に比べるべき者がいませんでした。圧倒的な神の人でした。この時代、サマリアの王が悪かったのです。まるで自分たちに神がいないかのように、異教の神々に頼っていました。それは最も悪いことだったのです。現代でも、浮気をして他の神々を慕ってはいけません。そのような者に神は恐ろしい神となります。逆に、エリアのようにたとえ権力者である王に憎まれても、神が守ってくださいます。それも、神が生きているとわかるように大きな御業をなさいます。1章には、アハズヤ王がエリヤを軍隊を送って捕えようとする場面が描かれているのですが、天から火が降って来て、その兵隊たちを焼いてしまいました。神を恐れ、人を恐れない信仰は必ず神によって勝利へと導かれるのです。軍隊を持ってしても神の人を王の思い通りにはできないのです。そのエリヤもこの世の活動を終える日が来ました。それは劇的ですが、嵐の中、火の馬車が現れてエリヤを連れていかれました。エリヤの後継者はエリシャでした。彼はエリヤから離れようとしなかったのですが、神に引き離されました。エリヤは嵐の中を天に上って行きました。エリシャがこの情景を見て、叫んだ言葉が聖書に書かれています。「イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と。そして、キリスト教でも讃美歌として歌われたり、神のことをこのように呼んで祈り、讃美したのです。皆さんの信仰がこれからも力の神によって守られ、どのような敵が現れても、決して恐れることなく勇敢に信仰を守り通すことができるでしょう。主の到来まで、忍耐して主を待望していましょう。

 

8月17日(日)

そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐに起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。

使徒言行録9:33~35

 

クリスチャンの中には、自分も癒しの賜物が欲しいと願う人がいます。今日のように奇跡が無くなっている時代には、なおさらそのような働きをする人が教会には必要だと思いますが、実際には驚くほど御霊の賜物が見えなくなっています。もちろん、一部には現れているとしても、自分がクリスチャンになってからでもこれほどひどいことはなかったです。この記録の中で、注目に値するのは奇跡で癒されたアイネアを見た人たちが皆、主に立ち帰ったことです。やはり、癒しの賜物は伝道に役立つと言うことです。だから、牧師でも癒しの賜物が欲しいと公言する人たちがいます。それが伝道に役立つことを理解しているからです。昔、沖縄で癒しの賜物を授かった牧師がいました。その先生が祈ればどんな病気も癒やされるのです。そこで、教区が問題にして、その牧師を呼びつけ、その癒しの賜物はどこからきたのか、と問いただしたのです。そこで、この牧師は萎縮してしまい、しばらく癒しをやめたのです。そして、もう一度癒しをしようと思った時には、その賜物は消えていたのです。何度ももう一度癒しの賜物をくださいと願ったそうですが、残念なことに二度とその牧師に癒しができるようにはなりませんでした。このように、癒しの賜物をいただいた時に、周りから批判や圧力がかかることがあります。聖書のようなリバイバルに繋がらないで、真逆の疑いと批判が起こることがあるのです。では、どうしてそのように反対の現象が起こるのでしょう。この聖句の前の聖句には、「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」(32節)とあります。「聖なる者たち」のところだったので、癒しは起こり、そのことがリババルにつながったのです。現代の世俗化した社会で伝道するときに、癒しの賜物を持って伝道しようとすれば、疑い、批判、中傷、反対が起こることは避けられません。それでも、構わないと恐れずに進めば、主に立ち返る人たちが出てくるのです。信仰が試されますね。