2025年9月ディボーション

9月1日(月)

人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉になるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実のそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

第一ペテロ2:19~23

 

あなたは、クリスチャンとしてこの世に生きています。その事自体が奇跡なのですが、つまり神が働かなければ誰一人救われることがないからです。そして、あなたは神に救われた奇跡の人なのです。それでは、どんなに恵まれた人生を送れるかと期待が高まりますが、実際にはこの世の中で普通に生きていくことになります。あなたは、その中でクリスチャンとして生きるとはどのようなことなのかと考えたことでしょう。聖書も読んでみて聖なる生活を夢見たことでしょう。しかし、現実は厳しく、自分の弱さばかりが目につきます。それでも、時々クリスチャンの自覚が問われるようなことが起こるのです。例えば、今日の聖句のようなことです。「不当な苦しみ」を受けることがあるということです。「悲しみをこらえる」と書かれたような日もあるのです。私たちは、自己正当化という性質を持っていて、自分は正しいと言い張りたいのです。しかし、それは罪人の特徴であって、決してクリスチャンの特質ではありません。「不当な苦しみ」とは文字通りで、真面目に頑張っているにの、誤解されたり、逆恨みされたり、思い通りにならないので苦しめてやろうと悪意を持たれたり、勝手な思い込みで自分が酷い目に遭っているのはあいつのせいだと恨まれることから陥れらるようなこともあるのです。特に、クリスチャンだからということで正しいことをしよとするだけで、嫌われることもあります。この世の弱い人たちは、心が小さく、小心なので、広い心で正しく生きている人を理解することができません。そのために、自分が安心するためにクリスチャンをやり込めてしまいたいと思うことだってあるのです。ただ、そうしたことは仕返しをしたり、自己弁明のために相手をひどく言ったりというようなことはしてはいけないのです。それは、私たちの模範であるイエス・キリストが辿った生き方とは違っているからです。クリスチャンとはキリストに似た者なのですから、自分に言い聞かせなければなりません。私たちは、キリストにならって、「正しく裁かれる天の神」に任せればいいのです。心が折れそうにあったら、イエス様と頼れば良いのです。あなたの報いは天の報いです。品性も磨かれ、やがてキリストの身丈に届くようになるでしょう。

 

9月2日(火)

神の国はことばにはなく、力にあるのです。

第一コリント4:20

 

キリストは「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と語られました。つまり、キリストの到来と共に、「神の国」が出現したのです。世の終わりに再臨があることを私たちは知っていますが、その時に救われた人々は天に挙げられ、文字通り神の国へ入るのです。しかし、目に見える形ではなく、信仰によって、この地上にまだ生きているうちに神の国に生きることができるのです。それは、ナザレのイエスが誰であるかを知ってメシヤとして信じることで、目の前のイエスというユダヤ人が旧約預言の成就としてキリストとして実際に現れるのと同じです。ですから、神の国はこうだああだと議論するようなものではありません。それは、現実なので、信仰のあるなしに関わらず見ることができるのです。ただ、不信心な者には、分からないのです。イエスが奇跡をおこなったり、病人を癒したり、死人をよみがえらせたり しても、不思議とイエスが誰であるを理解せずに、キリストを否定した人たちもいたのです。反対にイエスを信じた人たちは、神が支配していることを自分の目の前に見たのです。ですから、「神の国はことばにはなく、力にあるのです」と聖書に書いてあるのです。神の国のうちに生きていけるように信仰を大切に、奇跡を見ることのできる者となりたいですね。

 

9月3日(水)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

第一コリント1:30

 

神の国はここにある、あそこにあるというものでは無い、とイエスは言われました。それは、あなた方のただなかにあるのです。これはどういう意味でしょう。今日の御言葉によると、「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」とありますから、このことが神の国に私たちがすでに入っていることを意味しているのです。ですから、あなたは、そのことを理解してキリストのうちにあることを意識して生きていくことが神の国を現実にするために意味があるのです。キリストのうちにあるということなので、キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、義と聖めと、贖いとになっているのです。つまり、あなたが神の子と呼ばれている理由がここにあります。キリストなしには、神の子にはなれないということです。そのように、神の子の意味を理解して、この世に生きるなら、神の御心をきっと実現できます。その上、大いに祝福されますから、何があっても喜んで生きていけます。苦難が来ても信仰があるので、キリストのうちにいることを信じて、神の知恵と助けで乗り切れます。あなたの心はだんだん地上から天へと向けられて行くのです。キリストのうちにいれば、あなたがどんなに弱くても強いのです。そして、すでにあなたはキリストのうちにいるのです。だから、安心してください。

 

9月4日(木)

知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き。

箴言10:1

 

まだ牧師になる前の頃、教会の修養会で宿泊先の一室に参加者が集まり、一人一人好きな讃美歌言って、それを皆んなで歌い、その曲を選んだ人がどうして選んだか話すというプログラムを行いました。その時、いつも元気で明るいご婦人が讃美歌510番を選びました。そして、「母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや」という歌詞が好きですと、二人の娘を育てている苦労とクリスチャンとしてどうやって祈っているのか、証されました。それは、今でも覚えているので、感動したのだと思います。この讃美歌の歌詞は、空しくこの世をさまよっている息子のことを母が涙して祈っているという内容です。

 

1番、まぼろしの影を追いて

   うき世にさまよい、

   うつろう花にさそわれゆく

   汝が身のはかなさ、

(おりかえし)

   春は軒の雨、秋は庭の露

   母はなみだ乾くまなく、

   祈ると知らずや。

 

2番 おさなくて罪を知らず、

   むねにまくらして、

   むずかりては手に揺られし

   むかしわすれしか、

(おりかえし)

 

3番 汝が母のたのむかみの  

   みもとにはこずや

   小鳥の巣にかえるごとく、

   こころやすらかに 。

4番 汝がためにいのる母の

   いつまで世にあらん、

   とわに悔ゆる日にこぬまに、

   とく神にかえれ。

 

 9月5日(金)

わたしは、天から降って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

ヨハネ6:51

 

人が生きるためには食べなければなりません。そのことは誰でも知っています。ところが、人は全て罪人なので死に定められているのです。そのような者を生かすためにキリストを天から降りてこらました。キリストが生かすという意味は、罪人の罪を贖い、罪を清めて永遠の命を得させることです。その方法がキリストをパンとして生きるために食べなさいと言うのです。しかも、そのパンは世の人々を救うためのキリストの十字架のことだというわけです。ですから、私たちはキリストを信じて救われました。しかし、もう少し考えると、「わたしは、天から降って来た生けるパンです」というのですから、パンを食べて生きることを考えればいいのです。十字架にかけられたキリストをパンとして食べると考えれば、キリストが私たちのうちで血となり肉となるような、キリストに置き換えられて、しまいにはキリストのようになっている、という意味にとれます。それほどまで、キリストと信仰によって一つになることを目指すことが意図されているのです。霊的な飢え渇きを天からのパンであるキリストを食べて生きる、まるでそのような積極的にキリストを求めて一つになって行くことが救いの道なのです。

 

9月6日(土)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ヘブル4:12

 

この御言葉は有名です。ですから、皆さんもご存知ですね。というのも、聖書で自分の思いや思考を判別できるというので、いろいろなところで引用がなされて来たからです。例えば、魂と霊というのも実際に見ることもできないので、牧師や聖書学者も別々に分けて感がえなくても良い、と一つにして考える人たちもいます。しかし、わざわざ書いてあるのですから、別々のものであるが見分け難いもの、の例えとして書かれているのです。そこで、心のこと、魂のことと言われても自分でもよくわかないのです。しかし、このようなことだと思います。「本当は何を考えているのか」。「言葉ではきれいごとを並べているが、本心は何を考えているのか?」。自分でも正しいと思っていたのに、実は他人に対しての見せびらかしでしかなくて、本当は真逆のことを思っていた、というようなことが人間には起こるのです。ですから、救いに直接関わる信仰にどこか偽りが隠れていないか、本音はどうなのか、と御言葉の剣が深く刺し貫いて峻別してくるのです。この世にいれば、いろいろな情報が耳に入り、気づかないうちに影響されます。ですから、昔は小説を読むな、テレビやラジオを聴くなと厳しく指導していた時代が教会にはあったのです。しかし、SNSの普及ですっかり様変わりしたのです。ですから、日々、静まって聖書に向かい、御言葉で自分の心や思考、あるいは信仰を吟味することが必要なのです。このことは決して聖書の専門家になる必要はありません。普通に聖書を読めばいいだけです。私たちのことをよくご存知の主は、このように私たちを守り助ける方法を与えていてくださるのです。

 

 9月7日(日)

主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。

彼はとこしえに記憶される。

彼は悪評を立てられても恐れない。

その心は、固く主に信頼している。

彼の心は堅固で恐れることなく

ついに彼は敵を支配する。

詩篇112:6~8

 

クリスチャンは、たった一つ心がけることがあります。それは、「主に従う人」になることです。そうすれば、社会の中でいろいろな難問にぶつかっても、揺らぐことがない人になれるのです。人間の難しさがあって、時に敵が現れることすらあるのです。どうしてか自分のことを嫌って困らせようとするのです。そんな時に、普通の人は動揺して、大抵は間違った対応をします。そのために、たいそう苦しむことになるのです。しかし、悪意を持った人が攻撃してきても、主に従う人は揺らぐことがないのです。例えば、悪口を言われます。人間の愚かさは、SNSでデマ情報が流されても、その真偽を確かめたり、慎重に吟味したりしないで、軽率にその偽情報を広めてしまったりします。ですから、クリスチャンが悪評を立てられると教会とか会社などの狭いコミュニティーの中で大変困ることになります。しかし、今日の御言葉にあるように、「悪評を立てられても恐れない」というのです。その理由は、「その心は、固く主に信頼している」というものです。恐れることは不信仰であると、皆さんは教わっているはずです。ですから、主を信じている人は主を信頼しているので恐れないのです。これは、簡単なことではありませんが、正しいことをするしかクリスチャンが救われる道はないのです。このように実践できるクリスチャンは心の堅固な者なのです。だから、恐れないのです。この人の信仰は義と認められますね。主をどんな状況でも信じて信頼しているからです。そうしていれば、「ついに彼は敵を支配する」という結果になるのです。クリスチャンは信仰で勝利するというと簡単そうですが、実際には辛く、試されることになります。それでも、主を信頼している人は、勝利者になれます。

 

9月8日(月)

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

イザヤ26:3

 

人間にとって幸せの条件の第一は、心に不安や恐れ、心配がなく、また後悔もないことです。夜、眠りにつこうとした時に、気になることがあって悪いことを考え出すと眠ることはできません。ですから、1日の終わりに平安のうちに主に守られて眠りにつきたいのです。そうなるには、どうすればいいのか、今日の御言葉は大きなヒントを与えています。それは、「志の堅固な者」であることです。ただ生きているということでは、満足も少ないし、人生に空しさも感じるでしょう。でも、御言葉の「志の堅固な者」は、主に信頼しているのです。私たちも、平和な日を重ねて行きたいと願うなら、主に信頼を堅く置くことです。信仰は皆等しく持っているとしても、どんな時にも主に信頼を置いている人は違うのです。自分を攻撃してくる人がいたり、悪意を向けられたり、理不尽な扱いを受けたとしても、主を信頼していれば、問題は解決して行きます。主が働いてくださるからです。あなたに残るものは、主からくる平安です。そして、自分が主に信頼していたので、守られたと理解するでしょう。これがクリスチャンの特権なのです。主は、あなたを見守っていますから、あなたがいざとなったらどうするか主への信頼を見ているのです。あなたが問題と格闘しなくても良いのです。主があなたに変わって戦ってくださいます。あなたが、主を信頼していなければ、あなたは自分で何とかしようと手に負えないことを引き受けることになります。主を信頼することは勇気もいるし、正しいことを選ぶことも必要です。これらを信仰と言っているのです。誰でも、このような試みがあることを覚えていましょう。

 

9月9日(火)

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

ローマ15:2

 

クリスチャンの存在意義はとても大きいものです。つまり皆様が神に期待されているということです。この世界が滅びないのは、神の憐れみによるものですが、それは、クリスチャンが世界中にいるからという意味でもあるのです。クリスチャンがいれば、彼らは、聖書を学び、その教えを守り実行するからです。今日の聖句もその良い例です。ここでは、「ひとりひとり」と書いてあるので、私たち全員がということになります。では、私は何をすれば良いのか、自分だけで考えれば何も思い浮かばないかもしれません。しかし、御言葉でしっかり書かれていれば、さすがに気がつきます。そこで、「隣人を喜ばせること」「その徳を高めること」そして、「その人の益となるようにすること」、この三つを守り、実行するのです。そのために、どうすればこの要求を満たすことになるのかを各自が考える必要があります。こうしたことは、主体性が大切なのです。人に強いられても大した意味がありません。自分が自発的に、聖書の指示があるので、これをなんとか実行したいと考えるところから始めれば良いのです。例えば、隣人に親切にすれば、喜んでいただけるだろう、とか、困っている事があれば、何かしら助けられる事があるのではないか考えてみる、とか、これはいろいろアイディアが出てきそうです。「その徳を高める」というのは難しそうですね。でも向上することが目的ですから、互いに向上することを考えてみるのです。「益となるように」というのも、小さな善を行うことから考えてみればできそうです。こうしたことは、自分の目線で考えるよりも、相手の目線で考えてみることです。クリスチャンは親切なので、人から受け入れられるのです。

 

9月10日(水)

わたしは主をたたえます。

主はわたしの思いを励まし

わたしの心を夜ごとに諭してくださいます。

わたしは絶えず主に相対しいます。

主は右にいまし

わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、魂は踊ります。

からだは安心して憩います。

詩篇16:7~9

 

現代人の悩みの一つに睡眠があります。夜に良い睡眠を取ることは、健康生活に欠かすことができません。ところが、ストレスの多い社会で生きていれば、睡眠にまで悪い影響が出てきます。最近は、睡眠の科学が注目されて、睡眠指導がなされるようになってきました。そこで、クリスチャンも睡眠のことで心配があるならば、今日の聖句を読んで学びましょう。夜は、体の疲れを癒すだけでなく、疲れ切った心をも癒してくださる時間なのです。昼間、嫌なことがあればその事が気になって、なかなか寝付けないということはあるかもしれません。不思議なことに、「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごとに諭してくださいます」とある通り、正常であれば、主が夜に体も心も全て癒してくださるのです。自分の頭の中で色々悪い妄想が出てくるのを防いで、クヨクヨしなくても済むように主が諭してくださいます。これが信仰者の普通なのです。ですから、快眠できるのです。ところが、現代では社会は忙しく皆がイライラして、ゆとりがなくなり、ストレスの原因が増えていくばかりなのです。ですから、油断していると悪魔は否定的な思いを吹き込んでくるのです。それは、寝る時が一番効率が良いことを悪魔は知っているので、クリスチャンでもうかうかできません。夜の祈りが大事になります。悪魔は、昼間にあったことで心を悩ませるようなことを主に祈って解決していないと、その人の心にマイナス思考を吹き込み、今日の嫌なことだけでなく、昔のことやもう過ぎてしまった事まで思い出させて、悩ませるのです。そうなるとなかなか寝つけないことになります。そのような時には、一回起き上がり、布団から出て、祈ることにしてください。短い祈りで大丈夫です。

たとえ、自分が悪くても、悔い改めればよいのです。主は、ちゃんとあなたを守ってくださり、いつでも祈りを聞けるように側にいてくださいます。しかも、肯定的な思考の側、右側にいるのです。ですから、悪魔は否定的な思考になるように働いてくるのです。でも、その手に乗らないぞ、とすぐに右側にいてくださる主に祈るのです。そうすると、信仰者は揺らがなくなります。不思議なことに心は喜び、魂は踊ります。そして、体は安心して憩うのです。これが安眠の秘訣です。

 

9月11日(木)

義に飢え渇いている者は幸いです。

その人は満ち足りるからです。

マタイ5:6

 

そもそも誰が義に飢え渇いているのでしょう。この世の人たちは、考えたこともないでしょう。私もクリスチャンになる前に義など考えたこともありませんでした。ですから、義に飢え渇いている人は稀なのです。そのことに気がついて、思い至っただけでもすごいことなのです。さすがに、クリスチャンになるとローマ書などを読んで義を突きつけられます。教会でも説教者は、義という言葉を普通に使います。しかし、専門に学んだこともない人にとって、「義」の意味を理解するのは容易ではありません。それでも、長くクリスチャンをやっていると、さすがにわかってきます。人間は皆罪人であること。その罪が「不義」を意味していること。つまり、生まれながらの人間は義では無いということです。義は正しいということですが、それは神の目から見て正しいということです。また、神との関係が正しいことを義と言います。そのような関係を「愛」と表現するのです。それから、その人を義人と呼びます。この人が天国に入るのです。では、どうやって罪人が義人になれるのでしょうか。そうです、主イエス・キリストが十字架にかかって、命を持って私たちの罪を贖ってくださったからです。そのことを知って、悔い改め、主イエス・キリストを信じて救われ、義と認められたのです。ですから、今日の聖句は、自分が罪人と知って、なんとか罪の赦しを得て汚れを清められ、義と認められたいという、飢え渇きということです。そのような人は誰でも、満たされると主は約束してくださったのです。皆さんは、まさにこの御言葉の体現者なのです。ですから、「満ち足りている」と信じてください。

 

9月12日(金)

わたしはあなたを目覚めさせ

行くべき道を教えよう。

あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

詩篇32:8

 

人生は、決まったレールの上をただ進むだけのものではありません。どこに、挫折が待ち伏せているか、どこにチャンスが待っているのか、私たちはには見えないから、明日も今日と同じだと漠然と思って電車のように走っているのです。しかし、あなたの人生を振り返ってみて、何かやり残したことや、もっとああすればよかった、などと後悔がないでしょうか。人生を一からやり直すことは難しいですが、こんな人生で良かったのかと心が騒ぐなら、今日の御言葉を読んで考えてみましょう。また、今の人生が結局良いと思えるなら、そのまま進めば良いのです。ただ、ある日、進むべき人生に迷いが生じたら、今日の御言葉を思い出し、神に頼ってみましょう。私たちは、クリスチャンなので、聖書の御言葉をそのまま信じて受けることができます。ですから、思い煩わずに主を信頼していましょう。私の人生を振り返ると、この御言葉の通りだと思うのです。初めから牧師ではなく、途中から牧師になりました。青年の時に牧師になりたかったのですが、すぐにはなれませんでした。また、神学や聖書学などキリスト教の勉強は許され、気がつけが博士課程まで学ばせていただきました。それから、大学院の教授にもなりました。しかし、他の法律とか神様と関係のないものを学ぼうとしても、一切道が閉ざされてしまうので、聖書だけ牧師だけが主の御心で、「行くべき道を教えよう」と御言葉の通りになりました。ですから、「行くべき道」なので外国に行ってもどこに行っても、困ることはなかったのです。主は、「あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」とお語りになりました。ですから、心が迷うような時には、静まって主の御前に出てみましょう。きっと、「わたしはあなたを目覚めさせ」とあるように、道が見えてくるはずです。主のお導きを信じましょう。

 

 9月13日(土)

主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り

聖なる山に住むことができるのでしょうか。

それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。

心には真実の言葉があり

舌には中傷を持たない人。

友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。

主の目に敵わないものは退け

主を畏れる人を尊び

悪事をしないとの誓いを守る人。

金を貸しても利息を取らず

賄賂を受けても無実の人を陥れたりしない人。

これらのことを守る人は

とこしえに揺らぐことがないでしょう。

詩篇15:1~5

 

あなたはこの詩篇を読んでどのように思ったでしょうか。この通りに生きてみようと思ったでしょうか。あるいは、この通りに生きていると胸をそらしたでしょか。それとも、このように生きたいのにうまくいかないと俯いてしまうでしょうか。もちろん、私たちの理想とするクリスチャンの姿がここには描かれています。意志の強い人や頑張ることができる人は、この通りに生きていると言うかもしれませんね。しかし、よく考えてみてください。キリストは、この後に登場するのです。しかも、十字架にかかりました。パウロは、「正しいものはいない。一人もいない」(ロマ3:10)と断定します。そこが問題なのです。私たちは、意識して今日の御言葉の通りに生きようとするでしょう。しかし、この社会はなかなかそれを許してくれません。そこで、クリスチャンには鍛錬が長い期間必要となるのです。ですから、この世で辛い思いをしても神様のせいにしないでください。自分で自分がダメだと思っているのに、責任転嫁して神様のせいにするのも人間なのです。それでは、希望が無くなってしまいます。イエス様がなぜ来てくださったか、その理由がわかりますね。私たちは、いくら頑張ってみてもしれているのです。肉に罪が宿っている者だから、外見を綺麗に装うことができますが、内面は汚れているのです。だから、イエス様が探しに来てくださって、優しく諭してくださったのです。十字架を見上げなさい、と。自分を正しい人と思い込んで、この詩篇の通りに実行しても空しいのです。できたと自分を誇ってみても、偽善に過ぎないことが示されるからです。しかし、私たちは、イエス様に出会い、自分が罪人にすぎないと分かったのです。それだけでなく、救いの道も示されました。ですから、十字架に辿り着き血を流して苦しむイエス様を見せられたのです。そして、イエス様を信じました。ですから、今は神様との平和を味わい、信仰で生きることを学んでいるのです。あるがままに救われたので、自分をよく見せようと思わなくて済みます。聖霊の導きと助けを受けて生きていけば大丈夫です。元気に生きて行きましょう。

 

9月14日(日)

彼は自らの苦しみの実りを見

それを知って満足する。

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし

彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

彼が自らをなげうち、死んで

罪人のひとりに数えられたからだ。

多くの人の過ちを担い

背いた者のために執り成しをしたのは

この人であった。

イザヤ53:11、12

 

聖書の中でも有名な苦難の僕の最後の箇所を今日は読みました。初めてこの苦難の僕を読んだ時には、驚き、イエス・キリストのことを預言の成就と理解しただけではなく、本当に罪人のために犠牲となってくださったのだと分かったのです。それは同時に、私自身の救いの問題そのものでした。ですから、イエス様の犠牲の愛を理解し、その愛を自分も受けたのだとわかりました。さらに、イエス・キリストのもとにおびただしい救われた人の群れが付き従っている光景が見えてきます。その中に自分も入れていただいたという感激があります。本来なら、天の御子の御座にとどまっておられるお方が、僕の姿に身をやつして愛を実践して見せられたのは、人間の乏しい理解力では追いつけないほどの偉大な御業でありました。十字架はさらに屈辱的な罪人の中でも重罪の者が刑罰としてつけられる見せしめ刑でしたから、おいたわしいと心がざわつきます。「多くの人の過ちを担い」とある通り、その中に自分の過ちもあるので、主への感謝は深くなるのです。古い私たちは、「背いた者」なのです。主イエス・キリストは「背いた者のために執り成しをした」のです。だから、私たちは主を信じて、へりくだって、従順にイエス様に従って行こうと決めているのです。

 

 9月15日(月)

親切な言葉は蜜の滴り。

魂に甘く、骨を癒す。

箴言16:24

 

私たちが心がけるのは親切な言葉です。と言ってもうわべだけの親切な言葉ではありません。人には、真心は伝わります。ですから、うわべをいくら取り繕っても心が伴わなければ相手は見破ります。それは、自分の信用を失う事にもなるので、気をつけなければなりません。信仰者の親切な言葉は、いつでも真実であるはずです。現代のように特殊詐欺のような知らない人を騙すような人も、親切な言葉を使うことがあります。これが効果があるのは、「親切な言葉は蜜の滴り」とある通りだからです。そのように親切な言葉で騙されれば、心の傷も深いものになります。心が固くなれば、福音も届きにくくなります。ですから、世の光であるクリスチャンは親切を心がけ、自分の言葉にも責任を持つように誠実さを心がけなければなりません。いわゆる癒しの賜物がなくても、クリスチャンの親切な言葉には、癒し効果があります。それは、魂にまで届くからです。しかも、骨を癒すというのですから効果が絶大なのです。高齢者が増えた現在、この御言葉の意味するところは、絶大なはずです。自分がいつも親切な言葉を語れる者になれば、その人自身も癒やされています。それだけではなく、その人の考えが肯定的になり、人生を好転させることができます。人間関係で悩む人は、特にこの親切な言葉を心がけるだけで、悩みを解決できるでしょう。何しろ聖書に書かれているのですから、間違いありません。早速、今日から親切な言葉を実行に移しましょう。

 

9月16日(火)

彼らは、主の家に植えられ

私たちの神の大庭で栄えます。

彼らは年老いてもなお、実を実らせ

みずみずしく、生い茂っていましょう。

詩篇92:13、14

 

詩編92篇から読みます。この前の節には、「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます」とあります。つまり、神様を信じて信仰から一歩もそれない人は、豊かに繁栄し、その器も大きくなり皆が見上げるような立派な人に成長します、と言っているのです。私たちの目標は神の国に入ることですから、この世の成功者にならなくてもいいのですが、人物としては、神様の恵みの中を信仰で生きて来たのわけですから、練られて清められ、キリストを感じさせる者へと成長しているのです。そう言われると、急に自信を無くす人もいるかもしれませんが、それはキリストをよく理解していないからです。キリストは、決してイスラエルの中で地位や権威を得たわけではありません。それどころか、権力者からは睨まれ、宗教者からは憎まれました。しかも、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:2、3a)。キリスト教会で何度も言われることは、「へりくだる」ようにとか「謙遜に」という言葉でしたが、その通りで、最も危険なことは「高慢になる」ことなのです。そこで、年齢を重ねた時に、未だ若い時と変わらずにいるならば、それは問題なのです。周りの人から見て「あの人は謙遜になった」と言われていれば、ひとまずは安心です。ですから、自信満々のクリスチャンは心配されるわけです。私たちは一年一年、知識は増し聖書も長く読んできたので分かってくるのです。そこで、自分を顧みて、自分の足りなさをようやく理解し、嘆くかもしれませんが、その祈りは天に届き、主は御顔を向けてくださるのです。ようやく、主に従うことができるからです。その人のために書かれた聖句が今日の御言葉です。皆様もそこに近づいているのです。

 

9月17日(水)

わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。

ヨハネ6:44、45

 

聖書の不思議は、皆様も経験していると思います。今日の聖句を読むと、皆様がキリストのもとへと導かれたのは、偶然ではなく、人によったのでもなく、天の父なる神様が引き寄せてくださったからなのです。そうでなければ、誰もキリストのもとへ来ることはできなかったのですから、クリスチャンにもなっていないはずです。神様はあなたのことを知っているのです。そして、キリストへと導かれました。ですから、あなたは引き寄せられてキリストのもとへ来たのです。では、あなたへのキリストの約束は何かと見れば、「終わりの日に復活させる」ことなのです。それが救われたということです。この世でたとえ死んでも復活できる約束です。これが特別なことであることはわかりますね。聖書を手にして読み始めた経緯は人によって違っているでしょう。でも、たとえ、お寺や神社の子供として生まれてきても、父なる神様が引き寄せている人は、聖書を手にして読み始めるのです。日本はキリスト教国ではありませんから、聖書を学ぶという点では恵まれていません。それにもかかわらず、聖書を読んで学び、イエス・キリストに出会い、いつしかキリストを信じているのです。それだけではなく、洗礼を受けてクリスチャンになったのです。これほどの奇跡はありません。死んでいた者が生き返ったのですから。無自覚に聖書を通して父なる神から学んでいたとはと驚くでしょうが、実は今も学びは続いているのです。それは、キリストによらなければ誰も救われないからです。ですから、キリストをもっとよく知り、もっと主のそばに近づくことが必要なのです。祈ることも聖書から教えられます。聖書がわからないというのなら、聖霊の助けがあり、また聖書教師の助けもあります。信仰書や聖書の註解書もあります。説教は一番身近な天の父の言葉を学ぶ機会なのです。このようにして、主の御言葉の通りになって行くのです。

 

9月18日(木)

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。

同じことをくり返していう者は、親しい友を離れさせる。

箴言17:9

 

愛は不思議です。誰でも「愛」という言葉は知っているはずですが、愛の力を知りません。男女の間の愛や親子の間の愛は語られていますが、キリストの教える愛は多くの人が知りません。この愛こそが一番大切なのに、そして、この愛なしには希望がないことを知らない人ばかりなのです。人は誰かを愛していると言いますが、それは奪う愛です。自分に無いものを奪う愛なのです。ですから、決して自分を与えることをしないのです。クリスチャンは、キリストをご自分の命を与えることにショックを受けました。なぜなら、自分は自己中心で神にそむき、罪を犯したのですが、キリストはその罪を償うために自分の命を与えて愛を示しました。それが真実の愛だったので、私たちは自分の傲慢さに気がつき、心を180度回転させる悔い改めをしたのです。「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者」というのはイエス・キリストなのです。ですから、私たちはキリストに習う者となりました。ですから、人から酷い仕打ちを受けても、裏切られても、そむきの罪をおおう者であろうとしています。それは、その人への愛です。私たちもイエスにそのように愛されたのですから、今度は私たちも同じようにするのです。そうすれば、親しい友に「あの時はあなたに酷い目にあった」と何度も同じことを繰り返していうことはありません。人は一度は我慢しても、何度も同じことを言われて責められると耐え切れないのです。大人になっての友は貴重なのに、親しい友に去られては悲しいですね。あなたにはイエスに愛された経験があります。ですから、あなたもイエスに倣って愛を追い求める者として生きてください。

 

9月19日(金)

主を仰ぎ見る人は光と輝き

辱めに顔を伏せることはない。

この貧しい人が呼び求める声を主は聞き

苦難から常に救ってくださった。

主の使いはその周りに陣を敷き

主を畏れる人を守り助けてくださった。

詩篇34:6~8

 

今、私の目の前のモニターには自分の住んでいる所の「雨は27分後に止むでしょう」と天気予報が出てきます。なんと便利な時代になったのでしょう。もっと長生きすれば、まさにSFで見ていた未来がそこに実現するのでしょう、と実感できます。しかし、時代がどんなに便利に発展しても、人間自体はそう変わることがありません。事実、旧約聖書の物語を読んでいると、自分たちと変わらないことに驚きます。ですから、聖書時代から2000年、3000年と過ぎても、心配事はあるし、パワハラはいけないと盛んに言われてきても、未だニュースで政治家や運動部の指導者などのパワハラのニュースは無くなりません。だいぶ前に、このストレス社会で人間性が阻害されていると騒がれました。それは、産業革命から起こったことで、やはり時代が進んだ時に生じた人間の負の代償でした。確かに、便利な生活を人間は求めています。目の前のモニターは、「雨は18分後にやみ、それからら31分後に再び降り始めるでしょう」とまるで預言者のように知らせています。こうした天気のことそこ、神の領域であって、聖書中でも雨の神バールを拝んでいました。現代人は、まるで情報神という神を拝んで、創造主を拝まないのです。その違いは明らかです。私たちは体験しているから分かります。神の守りは絶対なのです。「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」とある通りなのです。誹謗中傷や叱責、罵倒、など心にダメージを与えるような酷い目にあったとしても、私たちは天使の軍勢が周りに陣を敷いて、絶対に守っていただけることを信じています。このために、大切なことは、日頃から主を賛美し、主を仰ぎ見ることです。その「人は光と輝き」とある通りです。ですから、あなたを苦しめようとする者もそのことに気が付きます。そうなると、簡単にはあなたを攻撃できなくなります。それでも、苦難に陥る時には、あなたの声を主は聞かれるので、常に救ってくださいます。ですから、信心深く生きることは良いことで、主を賛美することを習慣にしましょう。主はそうして、あなたの声を知ることになります。

 

9月20日(土)

御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。

あなたの掟を教えてください。

わたしの目は川のように涙を流しています。

人々があなたの律法を守らないからです。

詩篇119:135,136

 

この世界に生きて、正義を考えることがあります。子供時代には、正義は単純明快でした。テレビのヒーローこそが自ら「正義の味方」と公言していたからです。アンパンマンですら、バイキンマンがいるから、子供には正義が分かりやすく単純なのです。しかし、その悪人もアンパンマンの優しさで、反省できるのです。今も正義のためと大義を掲げて戦争をしている国がありますが、兵隊ではない一般人を殺したり、病院や学校を爆撃しても正義はあるのでしょうか。テレビで「容疑者Xの献身」という福山雅治さん主演の映画を観ました。天才数学者役の堤真一さんが上手に演じていたので、正義について考えてしまいました。天才なのに不遇に絶望して首をくくろうとしていた時に隣に引っ越してきた美しい母と中学生の娘に、彼は人生に光が射したと思ったのです。愛することも愛されることも人間には必要なのですね。しかし、ここから、悲劇が始まっていたのです。この引っ越してきた隣人には悪人の夫がいて、逃げていたのです。その男に見つけられ、暴力を振るわれ、抵抗して逆に男を殺してしまいます。その音を隣で聞いていた堤さんは、彼女たちを助けるために、最後には自分が身代わりになって警察に出頭します。彼の計画は完璧で警察も堤さんが単独犯であるとし、隣人の母子は救われるのですが、堤さんへの罪責感に負けて、母は警察に来てしまうのです。堤さんは、彼女たちを救えたことに満足していたのですが、最後にそれがぶち壊しになって、大泣きに泣くのです。正義とは何かという問題は、昔から多くの賢人たちによって考えられてきました。この話のどこに正義はあったのだろうか?しかし、正義だけでいいのだろうか?愛は理屈が通らない!と私たちは、人間の複雑さに困惑します。聖書は、人間は複雑に考える、とありますが、そうなのでしょう。さて、今日の聖句を読むと、「あなたの掟を教えてください」とあります。これは、正義を教えてくださいと意味を取ってみると、人間としてどう生きることが正しいのかを教えてください、と言っているのです。詩篇記者の言い方は「わたしの目は川のように涙を流しています」と、ずいぶん大袈裟な気がします。しかし、その理由を聞くと急に納得します。「人々があなたの律法を守らないからです」。もし、全ての人が神の律法を守っていれば、何の悲劇も起こらないのです。罪そのものがないので、愛が人間の本質となるのです。しかし、現実は人々は律法を守りません。知らないというだけではないのです。律法を熟知していたイスラエル人も守らないと言われても仕方なかったのです。人間に罪がなければ、どれが正義で、ここには正義はないのか、などと悩むことはなかったのです。私たちは幸い主を知っています。イエス・キリストを信じて、信仰を持っています。それでも、神の正義に照らした時に自分は大丈夫かと心配になるのです。完全な救いを与えられているのにも関わらず、人々があなたの律法を守らないから、と川のように涙を流すだろうか?主への献身をもっと考えてみましょう。いつでも、正義を実践できる生き方を目指したいですね。 

 

9月21日(日)

あなたはわたしの嘆きを踊りに変え

粗布を脱がせ、喜びを帯びとしてくださいました。

わたしの魂があなたをほめ歌い

沈黙するこのないようにしてくださいました。

わたしの神、主よ

とこしえにあなたに感謝をささげます。

詩篇30:12、13

 

クリスチャンになるということは、驚くべき人生の大転換です。なぜならば、私たちは皆罪人であったからです。神は罪人が自分自身の罪によって深い闇の穴に落ちてしまうような者であることを知っています。その暗闇の狭い穴に落ちているのに、気が付かないで神から離れるように生きている罪人は、自分の思い通りに生きようとしますが、それはいつもできずに失敗します。一時は、うまくいっていると勘違いしている人は自分の姿が見えていないのです。そして、神が見えていません。まるで、気が付かないうちに自らの愚かさのゆえに遭難してしまった人のようです。もはや自力では助からないと悟った時にはもう遅いのです。しかし、まさに奇跡的に誰かが助けに来ました。一人で勝手に神から逃げて暗闇を彷徨っていたら、深い穴に落ちて、わずかばかりの空間にかろうじて生きている自分の状態に気づいた時には絶望したのですが、誰かが探して助けに来たのです。それがイエス・キリストでした。自らの罪を悟った人は、もう生きていけないと苦しみます。そのことがわかりやすいのは、戦争に行った人たちです。私たちは幸い命懸けで敵を殺すような残酷な戦場に行かなくて済みましたが、戦争に行って戦った人たちは、罪が文字通りに自分を責めてくるのです。その罪責感は、尋常ではありません。そして、一生続くのです。このような経験が多分、もっとも罪を意識し、理解できるのだと思います。戦争に行かなくても良い世代の人にとっては、罪がわかりにくいのです。ですから、自分の罪が十字架でキリストによって、赦されたということが今ひとつピンとこないのです。ですから、神は罪を理解させようと働かれます。そこで、罪を理解してイエス・キリストに救いを見た人が洗礼を受けているのです。罪を深く理解した人が救われると、今日の御言葉の通りであることを知るのです。

 

 9月22日(月)

あなたの定めは驚くべきものです。

わたしの魂はそれを守ります。

御言葉が開かれると光が射し出で

無知な者にも理解を与えます。

わたしの口を大きく開き、渇望しています。

あなたの戒めを慕い求めます。

御顔をわたしに向け、憐れんでください。

御名を愛する者への裁きに従って。

仰せのとおり

わたしの足どりを確かなものにしてください。

どのような悪もわたしを支配しませんように。

詩篇119:129~133

 

パウロの教えを読んでみると、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)とあります。ところがどうでしょう、この詩篇には明確に敬虔が現れています。信仰者にとって正しく生きるとはどういうことか、どう生きたらいいのか、という問いは避けられません。そこで、自分で考えていいと思うことをし始めます。それは、一見よさそうですし、何よりも自分が聖なる生活を送っていると思えてきます。ですから、敬虔は好まれるのです。しかし、その先には何が待っているかといえば、ファリサイ派や律法学者の自己義認に至るのです。この詩篇をよく読めば、決して問題があるとは思えません。素晴らしいと思うでしょう。ところが、詩篇記者は、神とその偉大な御業ではなく、神の御言葉と掟へと心を向けています(「掟を教えてください」135節)。さらには、律法の中に慰めを見出すのです(「律法を楽しみとしていなければ」92節)。クリスチャンは、神の愛と恵みに、キリストの十字架の救いに慰めを与えられています。「救い」という一番大事なことを考えれば、神がキリストを通して救ってくださったということになります。それも、律法を守ったからではなく、むしろ律法を守れなかったので、「神の救い」、それは律法によって自分の罪が明らかになったので、その罪の贖いと解放をキリストが成し遂げてくださり、キリストを信じる者に罪の赦しと罪からの解放を与えてくださったのです。それをパウロは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(ローマ3:22)と表現し、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(同23、24節)。このように、キリスト教は考えます。ですから結果、敬虔な生き方になっても、あくまでもイエス・キリストを信じることで義としていただいていることを忘れてはならないのです。

 

9月23日(火)

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

ガラテヤ5:6

 

割礼の有無は、ユダヤ人であることのしるしであり、アブラハムと子孫、そして神との間の契約のしるしでした。ですから、イエス・キリストが到来されるまで、ユダヤ教徒にとって律法と割礼が救いを保証するものだったのです。しかし、その彼らが律法でイエスと対立し、憎しみを募らせ、しまいにはイエスを十字架にかけて殺してしまいました。キリストの到来は、すべての人の救いのためでした。しかし、十字架で死んだ時に、救いの希望が絶たれたように見えたのですが、3日目に墓から復活されて、キリストが死を打ち破られ、十字架の意味も私たちの罪を身代わりに負って、刑罰として死ぬことにより、罪の赦しと解放を実現しました。それは、別の言い方で言えば、私たちの罪の負債をキリストの命という代償を支払うことで完全に罪から自由にし、キリストのものとなったということです。そこで、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、罪赦された者として生きることが可能となりました。私たちは、律法の実行によって義と認められようとしても、それは不可能だったのです。なぜなら罪人であったから、無理だったのです。そこで、キリストが愛を表して、つまり罪人のために十字架にかかり、罪の罰を一身に受けて、苦しまれ、血を流し、体を裂かれて、罪人の救いのために死なれたことが、神の義であったのです。その神の義を、イエス・キリストを信じた者に無償で与えました。つまり、イエス・キリストを信じた者を義と認めたのです。それが救いなのです。ですから、この救いは神の恵みと言います。あなたの正しさ(義)は、キリストの義をいただいて認められています。ですから、「キリスト・イエスに結ばれていれば」というような言い方になります。イエスを信じるとは、まるで一つに結ばれている、あるいはキリストと一つになる、ということで、ようやくキリストの義が自分の義となるということなのです。この状態を保つことが大切なのですが、それは、「愛の実践を伴う信仰」を持つことです。キリストと一つでなければ、愛の実践は難しいことです。誰かのことを思いやる、困っている人がいれば、そっと助けの手をのべる。自分にして欲しいことを隣人にする。自分の利益のために愛す流のではなく、その人の利益のために愛する。クリスチャンは、このキリストの愛を実践して行きます。それは、十字架の意味がキリストの愛だからです。キリストと結ばれているのなら、そのような愛が現れてくるはずだからです。律法主義は愛も杓子定規です。書かれたことを最低限だけする。それも自分の都合で変えることができると思っている。律法を守ろうと努力すれば、自己満足を得られるかもしれない、しかし、実際にはストレスが増し、八つ当たりのように他人を裁くようになります。それは愛ではありません。それなのに本人にはわかっていません。この聖句は、このようなことを意味しています。

 

 9月24日(水)

口の言葉が結ぶ実によって

人は良いものに飽きたりる。

人は手の働きに応じて報いられる。

箴言12:14

 

クリスチャンには知恵が与えられます。それは生き方に確信を与え、良い人生を実現する力となります。今日の御言葉も知恵の書に書かれていますから、信仰を持っている者には恵みとなります。ここには、私たちが毎日何気なく口を開き何か語ることにも意味があることを教えています。口から何か言葉を吐き出しいるのですが、その言葉は心の中から出てきます。自分の個性や能力がどうであるかに関わりなく、優しい言葉が出てくれば、周りの人や言葉を聞いた人が、慰めを受けたり、励まされたり、認めてもらえたと勇気を得たり、ありのままの自分でいいと言われたように安心できたりします。物やお金はすぐに消えてしまいますが、この優しい言葉が結ぶ実は、必ず自分に返ってきます。もちろん、それは良いものです。私たちは悩んでいる人が元気になったり、悲しんでいる人が笑顔になったりするのを見るのが好きです。そう、それはこうしたことが愛だからです。自分の内にキリストがいるので、自分の思いよりもキリストの思いが優先して出てくるような生き方をしていれば、その人は良いものに飽き足ります。同じように、人間は仕事をした分、その分の報いを受けるのです。ですから、良い仕事をすることです。いつでも誠実に仕事をしていれば、それに相応しい報いを受けます。力が弱くて、少ししか働けなくても、神様はその弱さに働いてくださり、神様の助けを得てより良い報いを得ることができます。ですから、あまり将来のことまで心配せずに、その日、その日を楽しく過ごそうと心に決めておくことです。神様の恵みは尽きないから、感謝してその恵みをいただけば大丈夫です。

 

9月25日(木)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

クリスチャンも色々な人がいます。世界中にいるクリスチャンも実にそれぞれのお国ぶりや多種多様な文化によって個性的なのです。それでも、聖書は一つ、主は一人、洗礼も一つ、聖霊も一つなのです。ですから、多様性を認めなければ、途端に争いが始まり、自分が一番正しいと言い合うことになります。アメリカのトランプ大統領の支持基盤に福音派がいることをメディアは報道していますが、これに対してリベラル派が反対側にいます。今、アメリカでは分断が問題になっていますが、キリスト教においても分断を懸念しているのです。自分が正しいという声が大きくなるほど、本当にそうなのか?という疑念が湧いてきます。同じキリスト教なのにと残念に思いますが、真のクリスチャンにはこのような愚かな争いは無縁なはずです。これは、クリスチャンが自分勝手な考えをしているから起こるのです。聖書が聖典として認められているのですから、御言葉に従えば赦し合いの大切さや互いに愛し合うというキリストの掟を守ろうとするはずですが、現実はうまくいっていないように見えます。これらの原因は、自分の感情で判断しているからであり、神ではなく自分の正しさを気にしているからであって、聖書的ではありません。聖書的であれば、そもそも争わずに謙遜に振る舞うはずです。それがおかしくなるのは、政治が関わってきたり、宗教を自分の人気取りに使う者が現れてきたからです。今、世界的な伝統宗教の凋落によって、キリスト教も厳しい状況になっています。ですから、争うときではなく、互いにキリストにあって一致し、世の光、地の塩の役目を果たすべきです。それがクリスチャンならできるからです。時代が悪くても、恐れることなく、キリストの愛に生きて、自分を主の御用に用いていただけるように祈り、伝道の難しいと言われる日本でも、「圧倒的な勝利者となるのです」。これは、私たちを愛してくださる方によって実現することになっています。ここに希望がありますね。

 

9月26日(金)

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

詩篇23:6

 

私たちに与えられた聖書の御言葉に教の聖句が書かれています。詩篇23篇は特に信仰者の好きな聖句として一番に挙げられるものです。私は、この23篇を信じ、その通りに生きていけばいいと思っています。例えば、この6節ですが「私のいのちの日の限り」と言っているように、私たちイエス様を主と信じるものにとって、死ぬまで「慈しみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と書かれた通りに誰でも生きることができるのです。私たちは、何か嫌なことがあったり、心配事や不安になることがあれば、たちまち信仰が揺らぎ、主がいるので大丈夫だと思えなくなるかもしれません。それどころか、そんな自分を責めてしまうかもしれないのです。悪魔は何か嫌なことを引き起こし、攻撃するかもしれません。そうした時に、私たちはまんまと敵の策略にハマって、信仰を失ってしまうのでしょうか。そもそも信仰というのは、強い者の専売特許ではありません。弱い者こそ、自分ではなく主に頼ることができるのですから、信仰を発揮できるはずです。ですから、実は不安になったり、まだ起こっていないことを恐れることがあったとしても、すぐに「イエス様!」と呼ぶことができます。イエス様は世の終わりまであなたと共にいてくださいます。ですから、自分が弱い羊であっても、強くて頼りになる羊飼いのイエス様が守っていてくださるのです。あなたは、主の慈しみを受けることが決まっています。ですから、あなたは大変恵まれています。あなたは死ぬまで特別なのです。なぜなら、イエス様があなたの主であるからです。あなたは死ぬまで主に慈しまれ、恵みが追って来ると面白い表現をしていますが、まさにこの御言葉の通りでしたと知ることになります。ですから、私は主に慈しまれ、恵みが絶えることなく与えられて、一生幸せに暮らせると信じましょう。その通りになります。

 

9月27日(土)

時宜にかなって語られる言葉は

銀細工に付けられた金のりんご。

聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは

金の輪、純金の飾り。

箴言25:11、12

 

私たちは、人生を重ねてどれだけ成長しただろうか。人格者と言われるほどではないとしても、若い人や頼りにしてくれる人や子供たちに、時宜にかなった言葉をかけているだろうか。人は、認められて成長し、ほめられて伸びるものだが、未熟なら時には厳しいことも言わなければならない。しかし、言い過ぎてはならない。傷つけてもならない。聖書は、「銀細工に付けられた金のりんご」のようにと旨い表現をしている。私たちは、そのような素敵な言葉を自分の大切な人たちにかけているだろうか。この「金のりんご」はイメージしやすい。これからは、誰かに大切なことを言わなければならない時に、言うタイミングと「金のりんご」と覚えていよう。また、いつでも「聞き分ける耳」を持つことを心がけよう。何歳になっても聞き分ける耳があれば、人生はまだまだ成長できる。若い時には、親や教師、先輩や上司と自分を叱ってくれる人たちが人間としての成長を助けてくれていた。今では、パワハラとすぐ言われて、昔のようにすぐにも間違いを正してくれる人はいなくなってきたかもしれないが、それでも、私たちは自分に甘く、自分の思い通りに生きたいと思っているような者なので、若い時には特に懲らしめが必要になる場合がある。しかし、それは「賢い懲らしめ」でなければならない。その価値は非常に高いので、聖書も「金の輪、純金の飾り」と表現している。私たちが年齢を重ねて人の上に立つ時に、心がけていることとして「賢い懲らしめ」がある。それは、本当にその人を正しい道へ導き、心を正し、立派な人になるようにとその人を美しく飾り立てるような良いものなのかどうか吟味しなければならない。今日の御言葉を心に刻んでおきたい。

 

 9月28日(日)

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

詩篇46:1

 

大昔の神様を信じる人たちから現代まで、一体どれほどの人たちがこの御言葉を唱えて、苦難を乗り越えてきたのでしょう。今日の信仰者も、例外ではなくこの短い聖句を覚えて、苦しむ時に何度も唱えて、助けられてきたのです。それほどに、私たちの信じる神は心強い助けの神なのです。この世では、実にいろいろなことが起こり、一喜一憂しながら生きています。しかし、人間の本当の価値は、苦難の中で発揮されます。信仰する神がいなければ、その人の無力だけが明らかになり、抵抗虚しく酷い目に遭うことも常なのです。ところが、神を信じる人たちは、聖書を読んで学んでいますから、いざという時にその成果が出てきます。それは、天の知恵であり、恵みなのです。私たちは決して強い人間ですとは言えない、むしろ弱い人間なのです。だからこそ、私たちを助けると言い切る神を頼もしく思い、そこに心の平安を得ているのです。弱いことは決して恥ずかしいことではありません。信仰は、その自分弱さを認める強さなのです。矯正を張る必要もないし、ありのままに愛してくださる神がいるのですから、そのことを幸いと喜ぶ信仰でいいのです。嵐が吹けば、避け所として神のもとに避難できます。自分の心が苦しくなれば、そこに神がおられすぐさま助けてくださいます。ですから、まるで幼子のように神を信じているのです。

 

9月29日(月)

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。

ヨハネ3:16

 

神の愛が人を救うのです。人間も天使も悪魔も被造物です。神によって創造されたものです。神は創造主です。悪魔は天使が堕落したもので、人間に罪を犯すように誘惑し、人間が罪を犯せば神に訴えるものなのです。聖書に天使は霊であると書いてありますから、悪魔も霊です。そして、人間を苦しめる者であり、支配しようとする者でした。ですから、人間にとって悪魔からの救いも必要で、特に支配されてしまった人は神の助けが必要です。神はそのような人間を助けるために、イエス・キリストを送ってくださったのです。ですから、明らかに悪魔の攻撃を受けている人は、イエス・キリストを信じて悪魔の支配から解放される必要があります。悪魔の偽りに騙されると、とことん酷い目に遭いますから用心が必要です。万が一自分がおかしなことを信じていると思えば、悪魔に騙されている可能性があります。イエス・キリストを信じる信仰が助けとなります。また、悪魔の偽りを信じると暗闇に引きづり込まれるようなもので、真実が見えなくなり、たやすく騙されます。そうならないように、身を守る方法の一つが聖書です。聖書をとにかくたくさん読むことです。悪魔が働くと聖書を読ませまいとしますが、イエス・キリストを信じているとそれでも読むことができます。このようにして、悪魔からの攻撃を防ぐことができます。神様に祈ることも大切です。また、イエス・キリストを信じていることを明確にして、口で告白して救われるのです。神の愛があるので、イエス・キリストを信じて解放を得ましょう。神は人間を罪と死と悪の支配からの解放するためにひとり子をこの世に送られたのです。それが、あなたの救い主イエス・キリストです。

 

9月30日(火)

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。

イザヤ48:10

 

クリスチャンに悩みが無いということはありません。まだこの世に生きているからです。時には、神の試みにあうことも避けられません。ただ、これは恐るようなことではなく、私たちが罪人の名残があってそれが問題を起こすからです。人間的には強い人も弱い人もいます。神にとっては両方とも価値のある尊い存在です。ですから、優劣はありません。しかし、その違いが試みにも現れるのです。皆さんが理解できるのは、自分の場合だけです。信仰と試みの間にも関係があります。試みが来た時に、なんとか逃れたい一心で試みられる意義について考えないとイタズラに長引き、苦しむことになります。そこで、クリスチャンは神が試みる理由に気づくかもしれません。神への従順、神の愛への応答、神の御心を聖書に求める信仰、隣人への愛、こうしたことが大切であることにだんだんと気づかされて行くのです。そして、試みの炉の中で、不純物が全て焼き尽くされ、純粋に価値あるものだけが残るように導かれます。信仰のない時に価値があると握りしめていたものが、全く価値のないもので不要なものであったと悟り、捨て去ります。イエス・キリストという真の価値以外は価値が無いことを悟ります。握りしめていたものを手を開いて捨ててしまうのです。過去の肉を満足させるだけの全てが虚しく無価値であると嫌悪します。こだわりや、プライドも今や空しいと悟ります。キリストだけが自分を生かすことができると知ります。また、キリストに無条件に従うことが最善の選びであることも理解します。キリストを自分の中心に置くことが最も正しいことで、平和と愛の中に自分を置くことになります。人を見ることが変わります。キリストが見るように見ていると思えるように導かれます。自分を困らせる嫌っていた人の心が突然わかって、その弱さに驚き、憐れみが湧いてきます。その時、相手を恐れることがなくなります。そして、不思議と相手が嫌ではなくなり、良い関係が生じてきます。このように、試みは悪いことではなく、罪の名残や肉の残骸を掃除して剥ぎ取り、捨て去ることなのです。神の子になる為には、必要なことです。そして、耐えられない試練は無いと聖書ははっきり書いています。ですから、クリスチャンになってイタズラに試練を恐れる必要はありません。それよりも、主によって、整えられることを感謝した方が良いのです。主は良い方ですから、私たちに良いことしかなさいません。安心ですね。