2023年10月ディボーション

10月1日(日)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のため、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9、10

 

私たちがよく知っている聖句です。私たちが救われたという時、神は、そのひとり子を世に遣わしてくださり、それによって命を得させてくださった、というのです。つまり、罪人であるすべての人が、その罰から逃れることはできなかったのですが、神は憐れみ、独り子を遣わされました。それは、私たちの罪の問題を解決して、救うために、尊い御子の命を犠牲にするために遣わされたのです。もし、あなたがピンとこないのなら、それは正しい反応です。なぜなら、私たちは神をよく知らないのです。だから、神が私たちを救わなければならない理由がわかりません。まして、ご自分の独り子を犠牲にしてまで、なんで神なんか関係ないと言っていた人たちを救うのかがわからないのです。神は、天で人間を裁く方です。ですから、人間が罪を犯せば罰を与えればいいはずです。それなのに、その罰をイエスに与えるのです。私たちには、なぜなのか分からないというのが正直な反応です。しかし、ここには「ここに、神の愛が私たちに示されたのです」とあるので、驚くことになります。クリスチャンは、実は罪人だったので、かっこよく神を愛しているなどと言えないのです。実際に、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」た、と聖書に書いてあるのです。驚くことに、神はあなたを愛していると言ってくださったのです。事実、キリストは十字架で死なれました。そこで、私たちは、神を知ること、イエスを知ることが必要なのです。自分の疑問を解決するためです。そして、神を知るなら、神の愛を知ることになります。私たちとの関係も愛であることの意味を知る必要があります。イエスが「私たちの罪のため、なだめの供え物として」遣わされたのは、神が私たちを愛してくださったからです。神を知る必要はあります。そのためにイエスを知るのです。その結果、神が愛してくださったことを理解できたなら、あなたの人生は今までのようには生きて行けません。この神の愛に応えて生きることが必然になるからです。

 

10月2日(月)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

クリスチャンの心配は、今の自分が信仰者としてこれで良いのか、という心配です。主は、私を見てガッカリしていないだろうかと気になるのです。何年経っても成長している気がしない、とか、聖書を読んでもわからない所がいくらでもある、とか、このままで天国に入れるのだろうか、といったことを思い煩う人は多くいるのです。特に、何か大きな失敗をしたり、クリスチャンのくせにと言われそうな事態になってしまったりすると落ち込むものです。しかも、自分がどのようなものであるかは自分が一番よく知っているので、それが立派な義人になれるとは思えないのです。そこで、生活の忙しさにかこつけてあまり考えないでいるのです。しかし、イエス様を信じる思いは、変わらず、いや初めよりずっと信じているはずです。私たちはこのような者かもしれませんが、信仰の旅路を歩み続けなければならないのです。そのうち、孤独に感じたり、一人で旅を続けるのは辛いと思う日も来ます。ところが、聖書に今日の御言葉が書かれていました。主が自ら語ってくださった御言葉は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」というものでした。何か、ありがたいですね。普段は忘れていますが、信仰の旅は、イエス様との二人旅なのです。イエス様に愛想を尽かされたら困りますが、決してそんなことにはなりません。それどころか、離れず、捨てないと約束してくださっているのです。ですから、きっと心配は杞憂に終わり、主の恵みがどこまでも続いていることを理解するのです。思い煩う人は、主を見失います。課題が山積みだと思っている人ほど、主を見上げることです。私たちはもうこの世の者とは違うのです。信仰によって神の国を生きる者です。ですから、イエス様によってこの世でも勝利者になれます。

 

10月3日(火)

心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。 あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである。

申命記4:29b、31

 

この世に影響され、あるいは飲み尽くされるような事態に至っても、まだ、神はあなたをあきらめない。たとえ、この世の肉の欲望を満たす偶像が心をとらえてしまったとしても、それでも、あなたはその所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。方法は一つ、「心を尽くし、魂を尽くして求める」ことだ。そうすれば、「あなたは神に出会うであろう」。今日の最初の御言葉は、私たちへのチャレンジだ。神に出会う経験は、特別なもので、自分の生き方を大きく変えてしまう力がある。モーセのように特別な人が神に出会っている。モーセのように偉大な神の人になることが難しくても、「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会う」と書いてあるのだから、このことだけに集中すればいい。私たちの神は、「憐れみ深い神」なのだ。今日の聖句に書かれた通りの神なので、そのことを忘れてはならない。この聖句を覚えていれば、いつか助けになる。自分が情けないと思う時も、信仰が無いと嘆く時も、すっかり自信を失ってしまった時でも、今日の聖句を思い出して、自分の神である主を求めて欲しい。主に仕えて生きようと決めるなら、永遠に繋がる素晴らしい人生を歩むことになる。

 

10月4日(水)

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Ⅰテサロニケ5:9~11

 

私たちは特別な仲間であり、主の導きに従う羊の群れです。主を離れれば、すぐに道に迷います。ですから、主から離れてはいけません。私たちがこの信仰の道からは離れないのは、神が「主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」。確かに、善悪の大争闘ですから、神の側と悪魔の側に分かれての戦いが続いています。勝敗は、主イエス・キリストによって大勝利を得ましたが、最後の再臨の時まで悪魔たちは、悪あがきを続けるでしょう。ですから、私たちは互いに励まし合って、落伍者にならないようにしなければなりません。私たちの力は、主から来ます。それは、「主が私たちのために死んでくださった」からです。私たちは、十字架の意味を知っているので、「目覚めていても、眠っていても、主とともに生きる」のです。私たちは、主から愛のチャレンジを受けています。それは徳を高めること。徳を高める方法は、互いに愛し合うことです。これだけのことを理解していれば、私たちは主に付き従う羊の群れから離れることはありません。再臨の日までに全ては整うでしょう。

 

10月5日(木)

預言者たちも、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証された際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。

Ⅰペトロ1:11、12

 

神の救済計画がいかに時間をかけた雄大なものであるか、あらためて感じさせられます。旧約聖書にキリストのことが預言され、その成就としてイエス・キリストが到来し、私たちが聞かされた通りに、キリストは見事に全てをやり遂げて昇天されました。預言者たちは、ことの重大さに気づき、その預言がいつ成就するものなのか調べたのです。しかし、それは私たちも知っている通りに新約時代まで待たなければなりませんでした。初代教会の人たちは、聖霊に満たされた使徒たちから福音を聞きました。そして、信じる人と信じない人に分かれたのです。それが今日まで続いているのです。私たちは、福音を聞き、主イエス・キリストを信じて救われました。それは、どれだけ凄いことなのか、多分、私たちは十分には理解していないのでしょう。しかし、素朴であっても、主を信じる信仰は本物なのです。私たちは、信じる通りになると、言われているので、聖書をよく調べ、聖書に書かれた通りに信じるのです。私たちが受けた啓示は、聖霊によって明確になります。主にへりくだって服従するならば、目が開け、知恵が与えられるでしょう。日々の生活も主の恵みに満ちています。それは、あなたの望んだ通りの恵みになっているはずです。私たちは信仰に成長できるのですから、その恵みを知ることができるのです。

 

10月6日(金)

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ないものとされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

Ⅰコリント15:50~53

 

パウロが死んだらどうなるか神秘を語る場面です。クリスチャンの私たちは、私に対して楽観的です。行き先がわかっているからです。神の国も黙示録を読むと、具体的なイメージが湧いてきます。問題は、死は眠りと理解しても、復活の時にはどうなるのかという疑問です。日本のようにほとんどが火葬になっている国では、そもそも肉の体がありません。もちろん、土葬の国でも肉は朽ちてしまいます。そうなると、体が無くなり、霊だけになるのかというイメージになります。日本人的感覚では幽霊みたいになると思ってしまうのですが、パウロは、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活すのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Ⅰコリ15:44)と語っていますから、復活するのは霊の体なのです。よく、復活したら、死んだ時の歳なのか、それとももっと若い時なのだろうか、と想像力逞しく考える人がいますが、シワだらけのお婆さんの姿で永遠に生きたくないという女心なのでしょう。しかし、心配することはありません。霊の体になるので、永遠に美しいままです。再臨の時、キリストはラッパを携えてきます。そのラッパが合図で、万軍の天使たちも世界中に散って、復活した聖徒を集めるのです。当然、生き残った人々も、一瞬のうちに変えられます。肉の体では、老化も避けることはできませんし、病気や怪我にも弱いのです。ですから、肉と血は永遠の時間に耐えられないわけです。そうであるから、復活した聖徒たちは、朽ちるものから朽ちないものへ変えられるわけです。もう、決して死なない者となるのです。

 

10月7日(土)

「恵み深い主に感謝せよ

慈しみはとこしえに」と

主に贖われた人々は唱えよ。

主は苦しめる者の手から彼らを贖い

国々の中から集めてくださった

東から西から、北から南から。

詩編107:1~3

 

私たちの人生はドラマのようだ。平凡にしか生きていないと思っていても、他人がその人生を聴けば、興味が尽きない。そして、詩編107篇はわずか43節の中に、みごとに人の救いは主によること、それぞれに天国行きのコースが分かれていることを教える。主の贖いを経験した者は、異口同音に唱える讃美がある。それは、「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」と唱えるのだ。私たちは、この同じ言葉を繰り返し唱える者なのだ。それは、たとえ人生の日々が波瀾万丈であっても、結局は主が贖ってくださるので、人生に希望があるのだ。人から恵みを味わうことができなくても、私たちは主から恵みを溢れるほどいただいたので、自分の尊厳を保つことができた。主はどこまでも慈しみ深く、尽きることがない。そのように主の救いを味わった人々は世界中にいる。主は東西南北から集めてくださった。そこには、驚くべき主の贖いの出来事がある。私たちは、一生かけて主を知り、主の御目にかなう者になろうと願うだろう。主の慈しみは尽きないのだから。

 

10月8日(日)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。 

コロサイ3:23、24

 

この箇所は、奴隷に対する訓戒です。ですから、コンツェルマンの私訳の方がわかりやすいので引用します。「あなたがたのすることはすべて、人間のためにではなく、主のための事として心から行え」。キリスト教では、私たちは主の僕という言い方をします。キリストにお仕えする者という自覚的な呼称です。そうであれば、今日の聖句も私たちにも意味が出てきます。クリスチャンになると、23節の御言葉はいやでも聞きます。良いお勧めの言葉と理解されているからです。そこで、私たちはこれを忠実に守りたいと願うのですが、実際には難しい事なのです。それは、競争社会に生きているので、このようなやり方では、すぐに見下され、ひどい目に遭いかねないのです。虚勢を張ってでも他人に見くびられないように頑張らなければならない社会では、損こそすれど得することは期待できません。しかし、本当にこの御言葉の通りに心から行う人がいたら、どうなるでしょう。もしかしたら、評価されるかもしれません。ただ、評価されることを期待してやるようなことではありません。それに、この世では評価されなくても、神様は非常に高く評価されます。ですから、報いが大きいのです。それは、御国を受け継ぐという報いです。つまり、天国へ入れるということです。それと、もう一つあります。それは、あなたが信仰を持って主に対してするように、心から行うなら、その信仰のゆえに、相手がキリストに変わるのです。本当にあなたはキリストにお仕えすることになるのです。それも、大きな報いですね。キリストにお仕えできるなんて、なんと素晴らしいことでしょう。それが、日々の生活の中で普通にできるのですから面白いですね。

 

10月9日(月)

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。

黙示録22:12、13

 

日本人は四季の移ろいに、時は循環するものと理解しました。冬が来てもまた春が来ると。時は円のようにくるくる回っているものと理解しているのです。しかし、聖書を読むと、時には初めがあり、終わりがあることがわかります。つまり時は直線なのです。創造主は、「わたしはアルファであり、オメガである」と語られました。つまり、初めであり、終わりであると宣言されたのです。新約聖書の最後の書に、預言者を通して終末のことがつまり終わりが書かれています。初めは、創世記に記されている通り、天地万物の創造から始まりました。私たちの知ることは、アダムが神に似せて造られ、エデンの園に置かれたことから全てが始まり、罪の発生とその罪からの救いが御子イエス・キリストによってなされ、悔い改め、イエス・キリストを信じるだけで救われる道が開かれました。そして、この世の終わりにキリストが再臨され、裁きがなされます。それは、再臨の時に、キリストは報いを携えて来られ、それぞれの行いに応じて報いる、というのです。確かに「万物は御子において造られ」ました(コロサイ1:16)。イエス・キリストはアルファなのです。そして、キリストの再臨、最後の裁きでこの世は終わります。イエス・キリストはオメガなのです。その時が近づいています。再臨の日に、人間は二つに分けられます。命の書に名前が記されている者は、新しい天と新しい地を見ることになります。私たちが見ていた天と地は去って行き、もはや海もなくなります(黙示録21:1参照)。救われた聖徒たちは、新エルサレムを見るのです。しかし、悪人たち、命の書に名を記されていない者たちは、「火と硫黄の燃える池」に投げ入れられます。このような終わりが迫っているのが今の時代なのです。信仰を持ってその日を待望しましょう。

 

10月10日(火)

なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです、

Ⅰテサロニケ1:5

 

今日では伝道がより困難になり、信仰から離れて行く人も少なくないのが現状です。伝道が現代人には難しいというのは、実感としてあるのでしょう。その原因を考えてみると、今日の聖句が答えを持っていると思います。福音を伝えることが伝道であると誰でもが思っています。しかし、どうやってか、という所で聖書に一致していないのです。つまり、「言葉だけによったのではなく」とはっきり書いてあるのに、言葉だけで伝道してうまくいかないのです。それでは、何が必要かと言えば「力と聖霊と強い確信とによったからです」と聖書は答えています。現代人にとって一番弱い所です。何しろ、目に見えないものを認めないという聖俗と同じ考えがあるからです。どうして、こうした聖書の教えを認めずに、伝道の行き詰まりを招いているのかといえば、病人は医学で治すという新しい福音を手に入れたことが大きいでしょう。それに、聖霊についても教会はアレルギーがあるので、なかなか口にできないのです。それでも、伝道が行き詰まると、最後に残るのが聖霊なので、聖霊の必要を唱え始めるのですが、説教する人自身が聖霊のバプテスマを経験していないなら、泳いだことなのない人が水泳を教えているようなものです。ですから、リバイバルも起こりません。しかし、なんとか打開しなければなりません。聖書には、もう一つの言葉が書いてありました、「強い確信とによったから」と。つまり、強い確信を持って、リバイバルを求める必要があるのです。リバイバルは、聖霊の線状降水帯です。聖霊の大雨が降り続けるのです。ですから、信仰者だけではなく誰にでも聖霊がその地域の人々に降り注ぐのです。それだけではなく、伝染するのです。遠くから求めて来た人にも聖霊の降下があるのです。今の世界に必要なことは、聖霊の恵みであることは明らかです。私たちができることは、根気よくリバイバルを祈ることです。祈りの忍耐が必要です。どのリバイバルにも、そのような祈りの人がいたのです。聖霊の雨を求めて祈りましょう。

 

10月11日(水)

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

Ⅰコリント7:10

 

とても印象的な聖句ですね。そして、意味を考えるとその通りだと納得できます。つまり、悲しみにも違った意味があるということですね。自分の罪に気がつくということは、神様のお働きですね。自然のままでは気がつくことはありません。そのままでは、恐ろしい罪の裁きを必ず受けて滅ぶばかりです。しかし、憐れみ深い主は、私たちに悲しみをお与えになられたのです。それは、この世の悲しみではありません。この世の悲しみは、何でも自己中心的に考える自分が満たされないで悲しんでいますが、神様の御心に適った悲しみは、自分の罪に気づかせることで生じる悲しみです。しかも、この罪からの救いの道が備えられていることも示され、悔い改めへと導かれます。悲しみ無しの悔い改めなどありません。絶望的な罪の事実に悲しむのですが、そこで終わらないのは、主イエスの愛が迫ってくるからです。それは、主の苦しまれた十字架を知るからです。このように、悔い改めには不思議があります。本当の悔い改めには、「取り消されることのない救いに通じ」ているというのですから、希望があります。悔い改めが救いに通じているのですから、徹底的な悔い改めが必要なのです。聖霊のバプテスマを受ける時にも、悔い改めが必要でした。徹底的な清めを必要とするからです。

 

10月12日(木)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

申命記31:6

 

昔、子供讃美歌で「♪雄々しくあれ、強くあれ、少年たちよ♪」と、勇ましく歌った曲は、なぜか内側から勇気がわいてくる忘れられない曲でした。クリスチャンは、決して好戦的ではなく平和主義者ですが、弱そうに見えて実は強いのです。ピンチの時は誰にでもあります。恐ろしくなり、不安で夜も眠れないような危機の時がやってきます。その時に、今日の聖句を思い出して欲しいのです。多くの場合、誰か特定の人が恐れの原因になります。自分の力では対抗することもできないと分かると人を恐れてしまうのです。もちろん、聖書を読んでいるので、人を恐れてはいけないと知っていますが、自分を脅かす現実の人がいると、時に恐怖するのです。では、どうやって打ち勝つのか。それは、「あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ」と書いてあることを信じることです。主なる神以外に誰が助けてくださるでしょうか。猛烈に主に助けを求めるのです。ダビデはいつもやっていました。そして、いつも神に助けられて勝利しました。このような激しい試練に合わなくても、日々、人間関係のことでストレスを覚える人は、「私には主が共にいてくださる」と、言葉にして信じるのです。幸い、「私の主は私を見放さず、私を見捨てない」と、言うことを神に許されています。ですから、人間の常識に縛られずに、大胆に信仰を告白することです。私は、今は高齢になったのにいまだ「♪雄々しくあれ、強くあれ、少年たちよ♫」と心の中で賛美しているのです。ですから、今まで大きな試練も乗り越えてくることができました。それは、みことばの通りに主なる神が私を見放さず、見捨てなかったからです。人を恐れないと言うのは、信仰そのものなのです。だから、あなたも大丈夫です。

 

10月13日(金)

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

ローマ12:19~21

 

クリスチャンは、皆普通の人間ですが、この世の人と同じではありません。神様を信じているので、聖書に書いてある通りに行おうと決めている人たちなのです。そう思って聖書を読むと、心に語りかけてくるのが聖書の不思議な所です。この世の中には、おかしな人もいて、時に理不尽なことをしてきます。明らかにひどいことをしてくると、肉の性質が出てきて、怒ってしまいます。それは当然なことなのですが、怒って自分で復讐すると、それで終わらずに、相手も怒ってさらに困ったことになるものです。そこで、クリスチャンには対処法が書かれているのです。例えば、やられたらやり返せ、と言う言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、「「倍返しだ!」と主人公が言うドラマがヒットしたこともありました。しかし、クリスチャンは聖書を読んで、例えば今日の聖句のような箇所が複数出てきます。イエス様は、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(マタイ6:27、28)と諭されました。自分で復讐せずとも、私たちの主なる神様が復讐してくださいます。ですから、それは恐ろしいことになります。それを知っているので、私たちは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と言われているのです。怒りっぽい人は、アンガーコントロールを学ぶように勧められています。クリスチャンなのに、怒りっぽいのでは、後で後悔することになります。簡単な方法は、怒りが湧いてきたらイエス様のことを思うのです。そして、今日の聖句を覆い出すことです。歳をとると老化で怒りを抑える働きも鈍るそうですから、聖書から学んで自分に必要な御言葉を書き留めておくことも役に立ちます。

 

10月14日(土)

主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせ、一時は悪魔に捕えられてその思うままになっていた人々でも、目ざめて、そのわなを逃れることができるでしょう。

Ⅱテモテ2:24~26

 

人と争うことがいけない事であることは誰でも分かっています。それでも、簡単に争う事態になることも経験されているのではないでしょうか。自分の思うことが他人に理解されずに拒否されたり、否定されることは普通にあります。しかし、自分の真剣度が高い事柄には感情がたかぶって、失敗する危険があります。さらには、自分の意見が通らないと腹を立て、相手を批判したり、否定してしまうのも起こりがちなことなのです。クリスチャンになりたての頃は、伝道しているつもりが、議論になり、相手を説き伏せようと喧嘩腰になって、何をしているのかわからない始末になったこともありました。私たちも、クリスチャンの姿は、「すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒し」ている、人格者のイメージです。しかし、自分がそうなりたいと思うだけでは、うまくいきません。そのために、長い時間をかけて、自分の思いを通したい高慢や自我にこだわる心を砕き、いつでも自己正当化する思考を悔い改めさせ、イエスの愛に自分が染まっていくように、主は私たちを整えてこられたのです。私たちがつまらない自分の面子にこだわることなく、どんな人でも悔い改めて回心することができると信じて、柔和に忍耐強く、イエスの愛と真理を伝えていけたなら、魂を一人勝ち取ることができるかもしれません。その喜びは、何にも変えられません。クリスチャン歴が長くなると言うことは、忍耐強くなったと言うことです。全ての人に優しくできるクリスチャンになりたいものです。

 

10月15日(日)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9.10

 

キリスト教会は、初代教会から異端の教えを教会に持ち込もうとする異端者と戦ってきました。そのために、逆にキリストの教えが守られました。信徒が誰でも正しいキリスト教の教えを言えるように、定式化していったのです。それがあったおかげで、キリストの教えが私たちに正しく伝わっているのです。そうであるから、聖書を読み、教理を学べるようになっています。ただ、難しいことを学ばなければ救われないという意味ではありません。信仰は誰でも持つことができますが、それは、神の愛によるのです。イエス・キリストを信じるのは、神の愛が示されたからです。私たちが罪人であることは、クリスチャンにはよく分かっているはずです。その罪を自ら贖うことはできませんから、放っておけば、地獄行きです。しかし、唯一全ての罪人の罪を贖うことができるお方が御子イエスでした。神は、独り子をそのために遣わしました。主イエスは、十字架にかかるために人となって来られたのです。その方法以外に人を救う方法がなかったのです。でも、主は創造主ですから、被造物を滅ぼすこともできたのです。わざわざ、御子をなだめの供え物にしなくてもよかったのですが、神はそうしませんでした。神が初めに私たちを愛してくださったからです。ですから、私たちはその神の愛に応えて神と御子イエスを愛して生きていく者になるのです。愛されて私たちは新い命に生きる者と変えられたのです。

 

 10月16日(月)

神よ、わたしを究め

わたしの心を知ってください。

わたしを試し、悩みを知ってください。

御覧ください

わたしの内に迷いの道があるかどうかを。

どうか、わたしを

とこしえの道に導いてください。

詩篇139:23、24

 

私たちは、自分のことを理解しているようで、実は案外わかっていないことがあるのです。クリスチャンにとっては、霊的状態です。うまくいっていないと兆候はそこここに出ているのですが、自分の顔を見ることができないように、見えない自分が分からないのです。やっかいなことに、信仰者は、自分の信仰は真実で、神様を畏れ、忠実であろうとしていることも真実であると思っていますから、日々の生活で不調になった時に、自分の思いとは裏腹に信仰が正常に機能していないことに気が付きにくいのです。そして、気がついた頃には、かなり重症になっているかもしれません。すぐに、神様に今日の聖句を自分の祈りとして祈りましょう。どんな人でも、信仰のスランプもありますし、成長する過程で停滞することもあるのです。なにしろ、生まれたままの古い自分を捨てなければならないのですから、大変なわけです。大抵は、自分ではできないので、神様が何かしら助けを送ります。それが、不調と感じている原因であることがあります。さらに、まずいのが悪霊です。悪霊が攻撃してくることは知っていると思いますが、多くの場合それは誘惑です。ですから、コンプレックスがあれば、確実に狙ってきます。罪の傾向も知っていますし、弱点を熟知しているので、やっかいな相手なのです。ですから、神様との関係を深めておく必要があります。何しろ、とこしへの道に導くことができるのは神様だけだからです。そして、イエス様は、あなたの良き理解者ですから、忍耐強くあなたを待っています。あなたは、主よ「わたしを究め」てください、と祈ることができます。自分の心を知っていただくのです。

 

10月17日(火)

何をするよりも、自分の心を守れ。

そこに命の源がある。

曲がった言葉をあなたの口から退け

ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

目をまっすぐに前に注げ。

あなたに対しているものに

まなざしを正しく向けよ。

どう足を進めるかをよく計るなら

あなたの道は常に確かなものとなろう。

右にも左にも偏ってはならない。

悪から足を避けよ。

箴言4:23~27

 

人間はすぐに堕落する。残念だが、それは真実だ。その理由は、「自分の心を守れ」という箴言を知らないからだ。クリスチャンなら、神様を第一にするということだ。それが自分の心を守ることになるからだ。人間は弱いので、属する集団の中で良い位置を取りたいと頑張ることになる。最下位になれば、ろくなことにはならないことを知っているからだ。大人になれば、知恵がついて、自分を演じることができるようになる。これも、集団の中で自分のポジションを高めるためだ。それでも足りなければ、他人の足を引っ張り、妬み、憎み、嫌う。それが悪の道であることを考えもしない。こうならないために、自分の心を守らなければならない。それは、人として正直に正しく生きると決心することだ。実は、これがとても難しい。しかし、主を信じる信仰によってできるようになる。主が十字架に至るまで従順であったことを知ったからだ。心を守れば、健康でいられる。たとえ酷い目にあっても、それでも健全でいられるのだから、心を守ることは大切なことなのだ。さらに、心を守っているかどうかは、自分の発する言葉によって分かる。曲がった言葉、悪い言葉のことだ。ひねくれた言葉、心がひねくれているから出てくるので、その瞬間に心は守られなかったことになる。言葉は自分の心の状態を明らかに反映するのだ。だから、私たちは言葉に気を遣う。「目をまっすぐに前に注げ」とは、分かりやすいと思う。心の迷いやすい人は、視点が定まっていない人のことだ。自分の直面していることをちゃんと見ない。心が消極的になってしまい、するべきことに立ち向かう気概が無いのだ。「あなたに対しているものに、まなざしを向けよ」。人間は、次に何をするかということが向こうからやって来るので、次々に対処しなければならない。それをいい加減にしたら大変だ。間違いなく正しくこなしていくことを毎日繰り返しているのだ。それがどこかで狂うと、修正が難しいので、正しい状態に戻るのに時間がかかってしまう。そのために、軌道修正できずにそのまま生きてしまう人もいるのだ。ここでも、信仰は役に立ち、主イエスの助けと導きは力があるので、本来の正しい道に戻ることができる。そのことが分かれば、キリストを信じるという生き方を大事にして、自分の余計な考えに振り回されるようなことはしてはいけない。ましてや、悪い誘惑に迷ってはいけない。主は決してあなたを否定しないで、いつでも愛の対象として受け入れてくださるので、あなたは、その愛を受け取って、主に愛され続けて生きるのだ。そうすれば、全てが上手くいく。でも、自分を否定するように誘惑されて、そのまま自分はダメだと言ってしまうのは、危険なことをしていると知るべきだ。主が自分のことを愛してくださるのに、その自分を否定するのは、主を否定することになるからだ。その愚かさは分かるはずだ。だから、自分の心を守らなければならない。 

 

10月18日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

私たちには人生の選択がしばしばあります。とても重大な決定をしなければならない時には、そうとう悩みます。人の面白さは、すぐに決めることのできる人とそうでない人がいることです。どちらが良いとは言えませんが、一番困るのは、これからどうするかを決められない時です。私の場合は、アメリカの教会で働くように招聘があった時です。若い時には、アメリカに行きたいと思っていましたが、50歳になろうという時に招聘があったのです。子供のこともありますし、アメリカに行けば日本に帰れないのではないかとか、心配することはいくらでもありました。それでも、これが神様の御心であるのなら、どんなに困難が待ち構えていても行こうと思えるのですが、この時にはなかなか御心がわかりませんでした。相手側からは、何度も返事の催促が来ましたが、決めることができませんでした。しかし、アメリカの友人の牧師が病気で働けなくなっていることを知り、その事も彼を助けに行かなければと思わせたのです。日本にいた方が楽だし、良いこともあったのですが、主のお導きを信じてアメリカに行きました。住む家も無く、引越し先もわからないまま、アメリカに行きました。ですから、アメリカで一ヶ月は友人の家に居候させていただいていました。でも、振り返ると今日の御言葉の通りであったことがわかります。あなたが道を求めているのなら、主はあなたの道案内です。よく祈り、主の御心を求めましょう。そして、今日の御言葉を唱えて、主に約束の成就を願うのです。クリスチャンは結果が良いのです。主のお導きに信頼しましょう。 

 

10月19日(木)

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。また主を畏れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

詩篇145:18、19

 

私たちは幸いなことに主を知っています。それがどんなにありがたいことか忘れてはなりません。主を信じる者を今日の詩編では、「主を呼び求める者」と表現しています。そして、皆さんが主を信じる信仰を深めていくと、「まことをもって主を呼び求める者」と呼ぶのです。その約束は、皆さんが経験済みです。そうです、主はあなたの近くにおられるのです。それがどのような意味か考えてみてください。あなたを一人にしないのです。ですから、この世でどんなに大変なことがあっても、あなたは乗り越えていけます。あなたは、信仰生活から敬虔を学んでいます。敬虔な信仰を身につけるように生かされているのです。あなたが主を知れば、あなたは主を畏れることを学びます。そして、あなたの願いは聞かれるようになります。あなたが試練の中にあっても、苦難の中で苦しむ時も、あなたの叫びを主は聞いて、救われるのです。この叫びは祈りです。魂の祈りです。主を信じる者の報いは大きいのです。

 

10月20日(金)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰られる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

私たちが感謝すべきは、私たちの主なる神は、生きて働く神で、私たちが信頼を置いて安心できるお方です。私たちは、人生がうまく行っている時には、自分の思い通りに生きようとするし、反対にうまく行かなくなると、慌てて神の助けを求めるような者なので、なかなか信仰に成長しないのです。それでも、主は忍耐強く私たちに付き合ってくださるのです。そして、悟りの遅い私たちでも、さすがに主がいかなる神か分かり始めるのです。聖書の中に主の約束がたくさん書いてあるので、それがどれほどの価値があるか理解し始めるのです。例えば、今日の御言葉を読んでみると、私たちの罪を贖う神、つまり救ってくださった神はイスラエルの聖なる方です。「わたしは、あなたの神、主である」と神の側から名乗っています。そして、信仰者は、神によって益となることを教えていただけるのです。さらに、道に迷う人は多いのですが、そのようなあなたに「あなたの歩むべき道にあなたを導く」と約束しておられます。ですから、クリスチャンは主を信頼して、楽観的に生きることができるのです。ですから、心配せずに、いたずらに道に迷うことなく、御言葉の通りに我が身になりますように、と祈ればいいのです。  

 

10月21日(土)

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

イザヤ63:9

 

主は神様なのに、私たちが苦しむ時に、いつも苦しまれるのです。それは、愛する者が苦しむ時に、感じる愛情なのだと思います。つまり、あなたは主に愛されているということです。ですから、あなたが地上で何かで悩み、苦しむと、主もあなたのことを心配して、苦しまれていると思ってください。苦しみの中では孤立感がさらに苦しみを増幅するのですが、一人ではなく、主が共に苦しんでおられるのですから、希望があり、苦しみの原因を取り除け、解放してくださるのです。その方法も、深刻な時には、御使いが救いに来てくれるのです。このように、あなたが信仰を持っているので、何か問題が迫って来て困っても、助け主がいてくださるので、天使を送ってでも救ってくださるので、心配し過ぎないでください。あなたを愛する神様の憐れみは想像できないぐらいに大きいのです。その証拠に、聖書時代の昔からずっと、神を信じる者を子供のように背負い、抱いて来られたのです。ですから、悩み苦しむ時にこそ、信仰を発揮して、御言葉の通りの神様を思い出し、救いを求めて祈ってください。

 

10月22日(日)

悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。

詩篇32:10

 

聖書の読み方はいろいろで、人によっても違いがあります。例えば、今日の聖句を結果から見てみると、「心の痛みが多い」人と「恵みが、その人を取り囲む」人のどちらがいいですか、と問われれば、よほどひねくれていなければ、後者を選ぶでしょう。では、その恵みに取り囲まれた人は、どのような人かといえば、「主に信頼する者」となります。さて、前者の人、つまり「心の痛みが多い」人は、「悪人」であると書いてあるのです。そこで、悪人の意味が広がります。「心の痛みが多い」ことが悪人の定義になっているからです。例えば、思い煩ってばかりいれば、心は痛むでしょう。人を裁いてばかりいれば、やがて自分が人を傷つけてばかりいたことを思い知らされる日が来ます。どうして赦さなかったのかと後悔するのです。人を愛さないと心の痛みは増えます。高慢であることも、貪欲であることも、心の痛みの原因になります。そして、高慢も貪欲も罪の代表的な者なのです。つまり、聖書の言うところの罪こそが、心の痛みをおおくするもので、そのような人を悪人と言っているのです。ですから、クリスチャンは罪に敏感であり、悔い改めて救われたのですから、主を信頼して主による罪の赦しに生きるのです。

 

 10月23日(月)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちをご自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

Ⅱペトロ1:3

 

クリスチャンは、正しい認識を持つことが求められます。それは、不信仰な言葉を防ぐためです。私たちが永遠の命や敬虔を得ることはその必要な全てを主イエスが与えてくださったからなのです。皆さんがクリスチャンであるのなら、なんと幸いなことでしょう。皆さんは、自分の力で救いを達成したわけではありません。いつわらぬ感想は、「神の恵みによる」でしょう。十二使徒たちは生きたイエスに出会いましたが、私たちは生きて人となったイエスに会ったことはありません。しかし、主イエス・キリストを知っています。見ていないのに主を愛しているのです。あなたは、大勢の人間がこの日本にいるのに、わずかなクリスチャンの一人になれたのです。主に召されずにクリスチャンになる人はいません。福音を聞いてもイエスを信じる人と信じない人に分かれます。では、何が分けるのでしょうか。とても不思議です。私たちには、それぞれの主との出会いの経験があります。そして、主イエス・キリストを信仰するに至りました。さらに、誰が私を召し出してくださったかを認識させることにより、主を信じたのです。そこには、神である主イエスの栄光と力ある業があったのです。その人の感受性の個性に従って理解しています。それで、主を礼拝する者となりました。ただ、生まれたままの古い人が出てきて、自分の聖化を邪魔していると感じている人はいるのです。しかし、完全な救いのために必要なものは、主イエスの神の力で、与えられていると御言葉は告げています。つまり、聖化できないと嘆く必要はないのです。聖化の理解が足りないだけです。そこで、まずは、今日の聖句を信じることです。聖化に必要なすべては先に与えられているのですから。そこから始めるのです。

 

10月24日(火)

この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。

Ⅱペトロ1:4

 

クリスチャンは、キリストの功績によって救われたことを知っています。それは、単なる昔話を聞いて、それが根拠となって救われたというようなことではありません。キリストは十字架で死なれ、三日目に墓から復活し、弟子たちの見ているうちに昇天されました。これらがすべて私たちの救いのために必要なことだったのです。これは、どのような人間にもできません。ただ、人となったイエス・キリストだけができた出来事です。大勢の人がキリストの贖いによって救われるのは、まさにキリストの栄光と力ある業によるのです。私たちはこの世に生まれて来ましたが、キリストに救われて、この世ではなく、新しい世に生きる者に変えられたのです。しかし、この世から天に取られたのではなく、世の光、地の塩としてこの世に未だ置かれているのです。それでも、この世にまみれて汚れていかないように、むしろ、罪から贖われた者として、そして、聖霊の宮とされたのだから、「神の本性にあずからせていただくようになる」のです。天国に入った時の栄化の前に、この地上で聖化することが我々に必要であるように、神の救いの過程、ステップが決められているのです。ですから、信仰によって義とされるように、聖化のステップも踏んで行かなければなりません。与えられた時間には限りがあります。自由な意志でキリストに近づき、欲望に決着をつけるのです。聖霊の助けは、大きな力ですから、きっとあなたはやり遂げるでしょう。祈りと信仰が勝利の秘訣だったと思うでしょう。

 

10月25日(水)

わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。

イザヤ45:21、22

    

私たちは、東の果てに住む人々です。主は、私たちにも古から呼びかけていたのです。そして、今も優しく語ります。「わたしをおいて神はない」と。八百万の神々がいると言われる日本は、神国日本とも言って来ました。それだけ、神々を信仰して来たのです。日本人は信心深いのです。しかし、日本の神々がどのようなものであるかはよく理解していないのです。神社で願い事をするのが当たり前になっていると思いますが、この神々は良いこともしてくださいますが、祟りもするのです。つまり、恐ろしい神々なのです。そのように、昔から考えられていました。ですから、安易に願い事をすると危険であると知っていたのですが、今は、祟りの方はすっかり忘れているのか、いい加減に信心しているのかということなのでしょう。さて、私たちも日本人ですから、以前は他の日本人と同じように神々のことを考えていました。それが、キリストに召されて救われたのです。今までは、神々のことを学ぼうとは思っていませんでしたが、クリスチャンになると、真の神を知ろうと聖書を学ぶようになりました。そして、今日の御言葉のような真実を知るようになったのです。私たちに救いを与える神は、聖書の神の他にはいないのです。今までは、神々がいるとどこかで思っていたとしても、実はいないのです。生きて人の救いのために働かれている神は、唯一です。この神は、慈しみ深く、憐れみに富んだお方です。地の果ての我々にも、救いの福音を送り、召してくださいました。今や、私たちは神を仰いで、救いを得ました。このことがいかに幸いであるか、感謝せずにはいられません。そして、私たちは、神の招きを受けている人を見つけ、福音を告げ知らせたいと願っているのです。

 

10月26日(木)

どのような苦労にも利益がある。

口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

苦労を好む人は稀です。しかし、苦労を苦労と思わない人はいます。何事にも真面目に取り組む日本人は、苦労にも利益があることを覚えると良いのです。苦労を損と考えれば、損になります。そのような人は、成長することがなかなかできずに、苦労の意味を理解できずに過ごします。ですから、苦労から何の恩恵も受けることができません。クリスチャンは、主に仕えることを心に決めていますから、苦労にも意味があると考えます。主に祈っても取り除かれない苦労なら、その苦労そのものに意味があり、きっとこれも益になると考えられるのです。そうであれば、苦労から逃れることばかり考えていたのに、耐えようとします。そして、祈りを学んだり、キリスト教の本を読んだり、信仰を学んだりし始めるのです。主はそれらをご覧になっています。そして、苦労に意味があるので、その目的を達成したなら、苦労が喜びに変わるように終わって行きます。一方、苦労にちゃんと向かい合って利益を得る人とは対照的に、苦労から逃げ出してしまったり、努力することもなく無駄話しばかりであれば、その人は何も得られないだけでなく、窮乏の道を進んでいることになります。口先だけの言葉を語る人は、欠乏が待っているのです。私たちは、主に見ていただいていると思って生きているので、いい加減な仕事はしないし、口先だけの人間にはなりません。誠実に生きようとすれば、時には貧乏くじを引くことがありますが、そこにすら主の教訓や主のご計画があると信じて、前向きに受けとめています。実際、偉人と呼ばれる人の伝記には、苦労にも利益があることを証明していると実感できるのです。決して、口先だけの人間にはならないように気をつけましょう。 

 

10月27日(金)

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

ヘブライ12:11

 

近所のクリニックの医師が、玄関にジャージをいつでも置いている、と話してくれました。運動が必要なことは誰でも知っていますが、継続して実行するのが難しいのです。そこで、医師によると、今から運動しようと決心して、着替えなければ、運動靴はどこになったか、タオルやスマホは持っていくか?水分補給のために水筒も持って行った方が良いか、などと考えることがいっぱいあり、面倒になって明日にしようとやめてしまうというのです。そこで、時間ができた時に、すぐ考える間もなく、玄関でジャージに着替えて家から出る、と運動できる、と言うのです。また、15分の散歩でもいいので、サンダルで出かけてもいいじゃないですか、と気軽に運動することを薦めていました。それほど、体を鍛えると言うことは大変なことなのです。それなのに、ジムが次々にできて、誰が入るのかと思うのですが潰れることなく、24時間オープンと宣伝しています。若い人から年配の人まで、体の鍛錬が重要であると知っているのです。でも、実行するのは簡単ではないのです。さて、体の鍛錬のことを語ってきましたが、霊的にも鍛錬が必要であることを聖書は教えています。肉体の鍛錬は、健康面では役に立ちますが、他はせいぜい筋肉の自慢ぐらいしかできません。霊的な意味の鍛錬は、「当座は喜ばしいものではなく」、むしろ「悲しいものと思われるのです」。でも、後になれば、パウロたちのように鍛え上げられた人々に天の報いがあるのです。ですから、クリスチャンが厳しい状況に置かれて、苦しく、辛くても、これがいつまでも続くのではなく、一時の鍛錬だと思ってください。そして、他では得られない、「義という平和に満ちた実を結ばせる」と聖書に書いてあります。神様との間が正常になり、より良い関係になっているということです。「信仰による義」、などと構えてしまうと難しく感じますが、鍛錬によって鍛え上げられると、神様との関係が変わり、より良い状態になります。罪の隔てが無いのですから神との関係が平和に満ちたものとなります。それは、「実を結ぶ」とあるので、御霊の実のように、キリストの品性が分け与えられるようなことであり、その人の品性がキリストのようになるということです。そのために、聖霊の内住という内面の霊的変革と同じように、人間として試練など鍛錬にあうことで、聖化が進むということです。

 

10月28日(土)

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:5

 

私たちは、困った時や悩みの日に、そばにいて支えてくれる方が必要です。幸いなことに、聖書には、主ご自身の御言葉として、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と書いてあるので、いざとなれば主が一緒にいてくださると確信できます。人間でも弱った時にそばにいて支えてくれるなら、ありがたいのに、ましてや主が離れないでいてくだされば、こんなに心強いことはありません。そのことがわかっているので、私たちは試練を乗り越えることができます。その結果、自分の弱さを認める強さを得ました。それも、主が「あなたを捨てない」と、おっしゃってくださるからです。ですから、弱気にならないで、正しい道を歩むのです。ただ、自分の考えにこだわりすぎると、失敗します。できるだけ心を広く持ち、多少のことはこだわらずに、主と同じように愛の目で人を見ることが肝心です。人を愛するということは、今日の御言葉のように、相手から決して離れず、捨てない、という覚悟が必要なのです。罪人が自分の罪をイエスを信じるだけで、解決しようとしているのですから、何とも難しいことをしているのです。しかも、イエスを目で見たことがないのです。それでも、あなたは主イエスを愛しています。それが信じて救われたしるしです。それで、あなたも主のように隣人を愛する人になったのです。一時の感情で愛しているというのでは、失敗するでしょう。愛は、決して離れず、捨てない、信頼の覚悟なのですから。

 

10月29日(日)

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

ホセア6:3

 

聖書は、明確に「主を知ろう」「主を知ることを切に追い求めよう」と促しています。ですから、神を信じる者は、自分の人生で一番大切なこととして、実行しなければならないのです。クリスチャンになったことで、安心してしまって、その後、この世の煩いに心を奪われて、主を知ることを考えないクリスチャンは意外と多いのです。それでは、クリスチャン人生は上手くいきません。主の現れを知らないなら、どうのようにして信仰を保つのでしょう。私たちにとって第一のことは、「主を知ること」と心に刻みつけておきましょう。そのようにした人だけが、圧倒的な主の現れを知り、雨のような聖霊の恵みにあずかることになるのです。「主を知ること」を忘れれば、思い煩いの人生を歩むことになります。せっかく神様を信じたのに、知ることをしなければ、意味がありません。主は暁の光のように現れ、大雨のように来られます。誰でもがわかるように、確実に来られるということです。そして、聖霊の雨となって、私たちを神様漬けにしてくださるのです。そのようにして、主を知ることができるのですから、切に追い求めようではありませんか。

 

10月30日(月)

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ローマ10:11

 

人間に信頼をおいても、残寝ながら裏切られることがあります。しかし、イエス様は、決してそのようなことがありません。ですから、クリスチャン生活で大変なことがあった日も、悲しみに沈む日も、イエス様に信頼する者は、失望させられることがないのです。長く生きたクリスチャンは、この御言葉を文字通りに体験しているはずです。そして、「その通り、失望させられることはありませんでした」と証しするでしょう。それは、困難なことが無かったというわけではありません。試練が襲ってきて苦難を経験したかも知れません。それでも、主を信頼するから失望しなくてすんでいるのです。つまり、どのような状況になっても、イエス様を信頼するかどうかを試されているのです。そして、本当に主を信頼した人は、奇跡を経験したり、大きな喜びを経験するのです。ちょっと大変なことがあるだけで、文句を言って主を信頼することができない人は、何かを期待しても得られないでしょう。また心配ばかりするのも、主への信頼を損ないます。でも、信仰経験の中で、イエス様は弟子訓練をされるので、主に従順になることを目指してください。きっと、どんな時にも主を信頼する人に成長できます。

 

10月31日(火)

悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

エフェソ4:29

 

言葉で失敗する人は、多くいます。政治家は人前で話す機会が多いので、失言を捉えて批判されることがあります。それが、誰かを傷つける悪い言葉であれば、その人がどんな考え方をする人かすぐに分かってしまいます。テレビで、悪い言葉を語っているのに、本人だけがそれに気づかず、正しいことのように悪い言葉を繰り返すと、とても残念な気持ちになります。ですから、自分は正しいという思い込みを捨てなければなりません。私たちがするべきことは、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と、書いてある通りにすることです。どんな言葉を語るかは、自己責任ですから、慎重であるべきです。しかし、「その人を作り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とある通りに、いつも意識していれば、できるのだろうか。クリスチャンの話し方には、このように決まりがある事をどれだけの人が意識しているのでしょう。まずは、悪い言葉を一切口にしないようにすることから、始めてみましょう。