2026年5月ディボーション

5月1日(金)

苦難と苦悩がわたしに降りかかっていますが

あなたの戒めはわたしの楽しみです。

あなたの定めは

とこしえに正しいのですから

わたしに理解させ、命を得させてください。

詩編119:143,144

 

神の御心を理解したいと願うのは、信仰者の真っ当な願いです。若い時には、熱情と言えるような信仰を持って、主の御心にかなう者になりたいと思うものです。ですから、聖書を読むのですが、初めはとっつきにくく、読んでもすぐには理解できないことばかりです。中でも、イエスの譬え話は、ただ分かりにくくて真理を理解させようとするのではなく、分からなくしているとしか思えないのです。しかし、何とか理解したいと御言葉のことを四六時中考えていると、上から答えが降って来たように、突然意味がわかるのです。そこで、聖書はただの古代人が書いたものではないと理解します。そこで、聖書註解書を知り、分からないところを調べてみても、常識的なことしか書いてありません。確かにそうなのですが、真理とか啓示というようなこととは違って、学者らしい用心深さなのでしょうか誰でもが思い浮かぶようなことが多いのです。そこで、聖書が聖書を説明しているという教えを聞いて、聖書に慣れることが肝心と通読してみることにします。通読は大変なのですが、その報いは十分あるのです。それから、祈って読むように言われていますから、祈ってみると確かに意味がとれるようになります。そして、御言葉が繋がりを持っていることを理解してきます。神学も役に立ちます。さらに多くの知識が増えれば、それだけ面白くなってきます。さらには、実際の人生で試練に遭う場合も初めこそ意味がわからず狼狽えていても、結局は神にすがって助けを求めることしか解決の道がないこともわかるようになります。それは、自分で自分を助けることの放棄が狙いなのです。そこまでして、神に従順に従うことが信仰の道だと理解するためです。今日の詩編記者のように悟ると、神の定めを理解することが正しく生きる唯一の方法であるとわかるのです。実は、全ての人がそこを目指さなければなりません。神に色々願うでしょうが、このことが究極的に重要なのです。そして、神はそのように私たちを導いているのです。この世のことで振り回されないようにしましょう。

 

5月2日(土)

主よ、あなたは近くいてくださいます。

あなたの戒めはすべて真実です。

あなたの定めを見てわたしは悟ります。

それがいにしえからのものであり

あなたによってとこしえに立てられたのだ、と。

詩編119:151、152

 

何か災いが近づくと急に不安になり、神を求めるようになります。人間の弱さか身勝手なのか、全てが順調だと神を必要としていない人も困れば神頼みになりるのです。私たちはクリスチャンですが、そうでない人とどこが違っているのでしょう。やはり、何か大変なことが起これば、すぐに神にすがります。そして、神はその祈りに応えてくださるということです。この世の人は一体誰に祈っているのでしょう。日本の神々でしょうか。普段は無神論と言って、はばからない人でも、観光に行けば神社で祈り、困れば神頼みになります。お守りは、プレゼントされて喜ばれるものとなっているのも不思議ですが、「あなたのことを思っているよ」というメッセージになっています。ここには、神が何か言うことはありません。ところが、キリスト教では、神は聖書から語りかけてこられます。毎日ディボーションを読んでいる人は、この短い聖句から神に語りかけられていると思う人がいます。つまり、クリスチャンの神は生きていて、あなたの近くにいてくださいます。

この世界は何が正しいことかだんだん分からなくなって来ています。偉い人も嘘をつくようになると未熟な人たちは、簡単に影響されて嘘が悪であることを考えないようになります。クリスチャンは、神が近くにいてくださるだけではなくて、戒めを与えているのです。それは、人間が正しいことを戒められないとすぐに正義から離れて行くからです。この世界が、そして人間がいまだに滅びていないのは、神の定めがあったからです。それは、聖書を読めば分かります。このように、世界がおかしくなって来た今、世界のリーダーが神の正義を守らないならば、多くの人が困ったことになります。そこで、クリスチャンが神の正義を認めて、正しく生きることが重要になっているのです。

 

5月3日(日)

わたしに代わって争い、わたしを贖い

仰せによって命を得させてください。

神に逆らう者に、救いは遠い。

あなたの掟を尋ねないからです。

詩編119:154、155

 

クリスチャンの皆さんは、人と争うことはまずないでしょう。迫害されているという人も日本ではほとんど聞きません。太平洋戦争の時には、天皇を崇めるために国家神道以外の宗教を合法的に無くそうと宗教法が作られ、キリスト教のような小さな団体は窮地に立たされました。ミッションスクールも狙われ、宣教師の逮捕も起こりました。教団の教会だけではなく、病院も学校も国家に強制的に接収されました。それが80年前のことで、平和を貪ってきた日本も国際情勢の変化で防衛費を増やし、何かきな臭くなっています。そして、政府与党にいた公明党が連立を解消したので野党になり、信教の自由がどうなるか分からなくなって来ました。旧統一教会の問題も影を差していて、キリスト教も安穏と安心してはいられない時代になっているのです。今はまだ心配することはありませんが、信仰の心構えは考えなければなりません。それは、今日の詩編記者のように祈れるかということです。興味のある人は153節からの(レシュ)というところを読んでみてください。祈ることは素晴らしいことですが、時に応じてどう祈るのか詩編は役に立ちます。それにしても、「神に逆らう者に、救いは遠い。あなたの掟を尋ねないからです」とあるのは、「神の掟を尋ねない者は、神に逆らう者」という意味であれば、クリスチャンも呑気に構えていられません。聖書を学ばなければ、御言葉を求めて心に留めて、御言葉の通りに信じなければ、危険なことだと分かります。互いに励まし合いながら、信仰に進んでまいりましょう。

 

5月4日(月)

日に七たび、わたしはあなたを賛美します

あなたの正しい裁きのゆえに。

あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり

つまずかせるものはありません。

詩編119:164,165

 

「日に七たび、わたしはあなたを賛美します」と、ありますが、これは文字通りであるのか、感謝すべき時には何度でも賛美しているという意味にとっても良いと思います。文字通りに理解すれば、いちいち数えなければならなくなります。朝の6時、9時、12時、午後の3時、夕の6時、に賛美しても四度にしかなりません。この聖句には下の句があるのでしが、「あなたの正しい裁きのゆえに」と続いていますから、賛美しているのは、神の正しい裁きに対して賛美しているということになります。これは、神の律法が正しく人を律しているから感謝しているのだ、と理解すれば、イスラエルの国が正しくよくなるようにする方法が神の律法だと言っていることになります。古代から人間は国ができると、どうすれば民が道徳を守って治安を維持できるかということを考えていました。今の日本のように法律を作ってそれを守ることでそれを実現しようというのも一つの方法なのです。さらに、次の165節を読むと、神の「律法を愛する人には豊かな平和があり」とあることから律法そのものに人が愛するという表現ができる内容があるのです。日本の憲法を愛するという言い方もできないわけではないですが、普通は誰も言わないでしょう。やはり、律法には人の心を捉える何かがあるのです。そして、人間が罪を犯したためにわからなくなってしまった、神が定めた人間の正しい生き方が、律法の中にあるのです。ですから、自分の力で律法を行って神に義と認めてもらおう、というようなことではないのです。なぜなら、「律法を愛する人」と聖書に書いてあるからです。律法を行おうとすれば、無理が生じて偽り、偽善者になるか、さらに見せびらかしてほめてもらおうとするようになります。そこには平和もなく、その人も周りの人もつまずかせてしまうのです。律法を愛するのは、そこに神の正しい裁きがあるからです。今のような世界で、何が真の価値か、何が正しいことか、わからなくなっているのですが、それは神を認めず、律法を知らないからです。何が正しいか、それを律法は伝え、その正しい裏付けに神が裁いているのです。私たちにとっても律法はそのようなものなのです。

 

5月5日(火)

主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。

御言葉をあるがままに理解させてください。

わたしが小羊のように失われ、迷うとき

どうかあなたの僕を探してください。

あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

詩編119:169、176

 

聖書を学んで行くと、原語ではこのような意味があるといった言い方をしてその聖句の意味を解釈する人がいます。一つは、語句の意味を解釈することが流行ったし、神学校などで教えているからです。そのために、多くの聖書語句辞典とか釈義辞典のようなものが出版されました。説教者は、そのような便利なものを使って聖書を読み、考えます。また、いろいろな聖句の解釈を比べてみて、自分の考えをまとめてみることもします。しかし、本当に説教者が預言者であるのであれば、レーマ(神から直接語られる言葉)を求めるはずです。そのためには、知性だけではなく、霊的にも理解しなければなりません。そして、聖書の読者は決して専門家だけであるはずはないのですから、誰でもがどんな聖書を読んでも理解できるはずです。ただでもらった新約聖書や古本屋で何気なく手に取った聖書からでも、ボロボロの古い聖書からでも、神の御声が聞こえてくるのです。そして、聖書は何と教えているのかといえば、今日の御言葉の通りなのです。「御言葉をあるがままに理解させてください」。ここに聖書を読むことの方法が書いてあるのです。主に祈って、あるがままに理解させていただくのです。これ以上の最上の方法は無いのです。このようにして聖書を読むと、真の読者は、御言葉を読んで、「ああ、これはあなたの戒めです」と理解するのです。そして、信仰者とは、自分を小羊のように考え、自分が何者であるかを理解しているので、失われ、迷うときに探してくださいと主に言える者なのです。それは、御言葉をあるがままに理解しているからです。

 

5月6日(水)

主がすべての災いを遠ざけて

あなたを見守り

あなたの魂を見守ってくださるように。

あなたの出で立つのも帰るのも

主が見守ってくださるように。

今も、そしてとこしえに。

詩編121:7、8

 

詩編が好きな人は多くいます。本来は、原文で読むのが良いのでしょうが、世界中の人が母国語で読むことができればそれに勝るものはないのです。それは、英語のような世界の共通語ではない、特殊な言語で書かれているためです。しかし、神はより多くの言語で翻訳されることを許され、そのために聖書そのものが伝道しているのです。イギリス人のように文学の中で詩が最高のものであるという考えの人たちは詩の意味が理解されているのです。日本人だと短歌や俳句のような短い文の中に驚くべき芸術を表現しているのですが、詩は自由でいて様々な技巧を凝らしていたり、絵画のように表現したり、やはり魂に共感や感動を呼び起こす力があるのです。それが聖書になれば、なおさらです。それは祈りとなり、神と人間の関係を端的に表現し、神との関係をどのように理解すれば良いのかわきまえさせるのです。日本の翻訳者も工夫しています。今日の詩編をよく見ると、一行目の「主が」から二行目の「見守り」と繋がり、五行目の「主が見守って」と同じ言葉で枠を作っています。その中を見てみると、二行目から「あなた」が三行に渡って3回繰り返すように作られています。そして、わずか五行の中に「見守り」が3回も出てきます。ですから、この詩篇は、主が見守ってくださるように、という祈りなのです。これは、私たちも祈るでしょうが、私たちの祈りでは「主が見守ってくださるように」と一回で終わってしまうでしょう。それをこの詩編のように膨らませて祈ることができるのです。しかも、今この願いがあるのですが、主が見守ってくださることはとこしえに願っていることなのです。さて、この詩篇では三つの「見守って」欲しいことがあります。第一は安全を見守って欲しいというわけです。第二は自分自身の深いところまで見守って欲しいということです。第三は自分が仕事や学校に行くのも帰るのも、何かを始めることも終えることも。自分がすることを初めから終わりまで見守ってください、という祈りです。これは完璧な祈りですね。このように祈れるといいですね。

 

5月7日(木)

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

わたしたちは決して恐れない

地が姿を変え

山々が揺らいで海の中に移るとも

海の水が騒ぎ、沸き返り

その高ぶるさまに山々が震えるとも。

詩編46:2~4

 

人間の世界で、私たちは何をしているのでしょう。私たちは幸い主イエスに出会いました。そして、教えを聞いたのです。それは、「互いに愛し合いなさい」という掟です。哲学者のヤスパースは「愛の闘争」という言い方をしています。遠慮なくずけずけ言い合っても、そこに信頼関係があることを言い表しているのです。私たちは、赦し合うことも同じように大切であることを知っています。自分の家族の間ではそれができているのですが、家族以外の人との関係ではどうでしょうか。絶対赦さないと恨みに思ったり、無視したり、責めたり、と人間は自分が傷つくとやってはいけないと分かっている行動に出ることがあるのです。クリスチャンは赦すという高いハードルがあります。ハードルを倒し続ける競技者のようになってしまえば、負けてしまうのですが、上手に飛び越えるのも大変なのです。また、普段の生活で円満に人間関係が続けば、幸せと感じることだってあります。しかし、逆に人間関係がうまくいかずにストレスばかりが増していれば、いつか破綻します。この時、「それでも赦します」と言わなければならないクリスチャンは、ここから何かを学びます。しかし、度を越してハラスメントや迫害を受けたなら、どうなるでしょう。普通はうつ病になったり、精神的に破綻するか、肉体的に病気になります。そうならない人は、今日の祈りを言葉に出して言うべきです。御言葉には力があるからです。だから、声に出して聖書をそのまま読むのです。そして、心から信じるのです。つまり、あなたには人間以外に人間以上の力ある神がいるのです。この神は、いかなる状況でも、どんなに強力な敵がいても、あなたを必ず助けることができます。だから、あなたは苦難をも恐れないのです。信仰を持っているということは、かくもすごいことなのです。

 

5月8日(金)

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

テトス3:4~7

 

今日の御言葉は少し長いですが、クリスチャンにとって非常に大事な箇所です。私たちがどのように救われたのか説明している箇所だからです。この前の3節は、罪人であった頃の私たち人間の様を言い表しています。どんなに善良に生きていても、正しく生きてきたと言ってみても、本質はこのような者だったのでしょう。それが、急に永遠の命を得るには、何か人間の努力や修行のような力を超えたものがあったはずです。それが、救い主イエス・キリストです。こんな私たちを神は憐れんで、救い主を送られました。それこそが神の慈しみと、人間に対する愛だったのです。では、どうやって罪深い者を新しく生まれさせたのでしょう。それは、聖霊によって実現しました。聖霊は神が主イエス・キリストを通して注いでくださいました。このようなイエス・キリストの救いを恵みと言うのです。私たちの功績ではなく、ただ神の憐れみによって、イエス・キリストの恵みによって義とされたのです。その結果として、永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

 

5月10日(日)

正義を勝利に導くまで、

彼は傷ついた葦を折らず、

くすぶる灯心を消さない。

異邦人は彼の名に望みをかける。

マタイ12:20、21

 

HNKの土曜ドラマの「マグダラ屋のマリア」第4回の途中から観ました。4回で終わるドラマのしかも途中からなのに、最後まで見入ってしまいました。マグラダと聞けば、聖書に出てくるマグダラのマリアを思い出します。ですから、作者はそのことを意識してこのドラマを作ったはずです。実際、それは罪を犯したが北海道の最果ての地に来て死のうとするのですが、実際には贖罪のために生きることになるのです。しかし、罪はどんなに努力しても、自分では赦すことができないのです。それどころか、罪に向かい合うことすらできていないのです。そのことが分かるようになるまで、そして罪に向かい合うと決心するまでに癒されて行く物語です。そして、主人公のマリアは、ある人に罪を赦されるのです。そこには愛があります。結局、罪を犯したものは悔い改めても、罪を赦す方に出会わなければ癒されないのです。それは、聖書でイエス・キリストが実際にやって見せてくださったことなのです。今日の聖句の「傷ついた葦」「くすぶる灯心」とは罪深い私たちのことです。誰でも、自分の人生に後悔があるものです。そこから逃げるように生きている人はとても辛い人生を歩むことになります。罪に対して自分で自分を裁いているように逃げているのです。それは、裁くことのできる神から逃げているということなのです。その神が私たちが思っていたこととは違って、そんな罪深い者を「折らず」「消さない」、つまり殺さないのです。そこには、ドラマで何度も聞いた言葉「死んではいけない」「生きなさい」という声が聞こえてきます。「異邦人は彼の名に望みをかける」とある通りです。私たちは、誰かに助けていただかなければならないのです。自力では死ぬしかなくなるからです。そして、私たちに「生きなさい」と言ってくださる方こそ、イエス・キリストなのです。この方にあなたは愛されたので、罪から自由になれるのです。

 

 5月11日(月)

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

第二コリント5:14、15

 

クリスチャンの生き方は、この世の人たちとは違っています。それは、生きる動機が異なっているからです。そこにはキリストの愛が関わっています。人は無償の愛を経験すると、人生が変わります。何かこの世のしがらみや肉の欲に縛られていたのが急に解放されたようになるのです。キリストを信じれば信じるほど人生は良くなります。自分を救うことのできるキリストが十字架に架かっています。その十字架の意味がわかった時に、私たちは初めて本物の愛で愛されていることを悟ります。この愛が私たちを駆り立てているのです。キリストはすべての人のために死んでくださいました。その神秘は、すべての人も死んだことになるということです。では、なぜキリストはこのようなことをなさったのか。それは、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるようになるためでした。この地上では、すべてが最後に裁かれて滅んでしまいます。それは、罪のためにです。その罪の世界がこの世なのです。ですから、どうすらば本当に罪の無い正しい生き方ができるのか、私たちは知らないのです。そして、キリストの救いは、私たちを愛することで、私たちがキリストを信じ、キリストに似た者になって、キリストと同じように生きることができるようになって、初めて義人となることなのです。そのために、自分の力に頼らず、自分はキリストの十字架に死んだと信じ、復活されたキリストによって新しく生かされ、キリストのために生きることで、この世にあっても神の国に生きるようにされたのです。この御言葉を信じて、御言葉の力にあずかりましょう。

 

5月12日(火)

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香でいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

ヨハネ12:3~6

 

ここには、人間が一見しただけではその本質がわからないものであることをよく教えています。一見マリアのしたことは、無駄なことで愚かなことのように見えます。そして、ユダの言い分はもっともなことのように思われたでしょうし、立派な人物であるような印象を持ちます。ところが、実際にはユダは盗人で、こともあろうにイエス様一行の財布を預かる金庫番だったのです。ユダは、お金には聡く、マリアがしたことが愚かなことに見えました。それは、ナルドの香油は財産としての価値があるもので、非常に高価なものだったからです。それをマリアはイエス様の足に惜しげもなく塗り、自分の髪で拭ったのです。ここには、教訓があります。ユダにとっては、イエス様の価値はそのような振る舞いには相応しいものではないと思っていたのです。ユダにとってはイエスはキリストでは無かったのです。それに対して、マリアはイエス様を愛していました。それがこのような大胆な行為になったのです。しかも、一家の高価な財産をイエスの足を拭うために使いました。それほどにイエス様に価値があると思っていたのです。ナルドの香油がいかに高価な価値があっても、イエス様の尊さに比べればいかほどでも無いとマリアは思ったのです。足は、人間の汚れる部分で一番卑しい箇所です。それを自分が献げることのできる最良の香油で拭うということは、マリアの主へのへりくだりを表しています。しかも、自分は人間の最も尊ばれる頭の髪で主の足を拭うことをしたのですから、主へのヘリくだりが愛から出ていることがわかります。また、ユダはその正反対の人です。このようにお金のことを口に出して、貧しい人々に施すようなことを言うやからは詐欺師か泥棒です。不思議なことに、人は口から心とは正反対のことを言うことができるのです。それに対して、マリアのような振る舞いは、嘘偽りなく自分を主に献げる信仰を表しています。つまり、キリストが何も言わなくても、その御前に来る人は自分の正体を明らかにしてしまうのです。嘘を言ってもダメなのです。主は全てをご存知ですが、あからさまに指摘しなくても、信仰を持った人とそうで無い人が明確に分かれてしまう究極の裁き主なのです。ちなみに、香油は聖霊を表しています。私たちが主にお仕えするのは、この聖霊をイエス様に注ぐようなものなのです。そこに主への真心があることが大切なのです。

 

5月13日(水)

主よ、あなたの道をわたしに示し

あなたに従う道を教えてください。

あなたのまことにわたしを導いてください。

教えてください

あなたはわたしを救ってくださる神。

絶えることなくあなたに望みをおいています。

詩篇25:4、5

 

クリスチャンになって、一体どうなれば良いのか調べてみてもよく分からずに、自分勝手にいろいろ試みても、一向にキリストに似た者には届きません。自分の先祖の遺伝子が悪いのか、最も元まで辿ればアダムになるのですから、罪の元祖にたどり着くわけです。それでも、キリストの功績があり、聖霊の助けが期待できるのに、どうもスッキリしません。カトリックのように修道院に入ってもどうにもならないのなら、この世にあってどうすれば良いのかと途方にくれるわけです。しかし、今日の御言葉を読んでいると「あなたの道」「あなたに従う道」と日本人も馴染みのある「道」が出て来ました。道は道教の専売特許では無いのです。むしろ、キリスト御自身が「わたしは道である」とおっしゃったぐらいですから、今日の詩編の問いかけに、神はキリストを通してお答えになったのです。「あなたはわたしを救ってくださる神」とは、まさしくイエス・キリストのことです。そうすると、クリスチャンも「絶えることなくあなたに望みをおいています」という信仰を持つことが大切なのです。私たちは、このように自分勝手にするのではなく、神に祈り、キリストを信じて、その導きにあずかるのです。そして、素直に「教えてください」と願えば良いだけです。自分に啓示が与えられても、それが天からのものか不安ならば、聖書から教えてくださいと願うことです。「あなたのまことにわたしを導いてください」と祈りましょう。

 

5月14日(木)

 

「彼はわたしを慕う者だから

彼を災いから逃れさせよう。

わたしの名を知る者だから、彼を高くあげよう。

彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え

苦難の襲うとき、彼と共にいて助け

彼に名誉を与えよう。

生涯、彼を満ち足らせ

わたしの救いを彼に見せよう。」

詩編91:14~16

 

あなたの神は、このようにあなたに約束してくださるお方です。問題があるとすれば、信じるか信じないかです。人によっては、自分に自身がなくて、このような良いことが自分には起きない、と決めつけているのです。それでは、この人の信じている通りになるしかありません。あなたは、どうでしょう。あなたは、自分の可能性を信じますか。神を信じると言っているなら、今日の聖句も信じましょう。それが神を信じると言うことです。この聖句を単純に信じて受け入れるなら、あなたの生涯は神に保障されたも同然です。あなたの頑張るところは、「彼(彼女)はわたしを慕う者だから」とあるので、あなたは神を慕う者であると自覚するのです。実際その通りだから、難しいことではありません。また、「わたしの名を知る者だから」ともあります。これも幸いなことに、あなたに当てはまります。あなたは、どこの誰かも知らない神を拝んでいるわけではありません。あなたは、ことあるごとに、「イエス様」とお名前を呼んでいるのです。あなたは、イエス・キリストの信仰者なので、主はあなたが叫び求めれば、答えてくださいます。苦難が襲えば、共にいて助けてくださいます。あなたは、考えていないでしょうが、主はあなたに名誉を与えてくださいます。あなたの生涯は主によって満ち足りたものとなるのです。これが、主の救いそのものなのです。

 

5月15日(金)

一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人の元に持って来た。神ひとは、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを100人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

列王記下4:42~44

 

私たちは、福音書から主イエスが五千人の給食、四千人の給食と今日のお話しと同じようにわずかのパンから食べて満腹し、残りを集めたら12カゴ、7カゴあったという記事を読んでいるのです。聖書には、このように食べ物の話が出て来るのです。有名なものでは、出エジプトの経験をした時に、荒野でマナが降って来たという記録があります。そして、キリストは「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6:51)と言われました。さらに、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(同)とおっしゃいました。つまり、言いたいことは、キリストは多くの人を救うためにご自身を十字架につけることを教えていたのです。ですから、キリストを人々はわずかばかりのパンのように過小評価していたと言うことです。しかし、キリストの恵みは想像を遥かに超えたもので救いが足りなくなると言うことはないのです。いつでも有り余るほどの救いが用意されているのです。キリストの豊かさは、人々の理解を遥かに超えています。ですから、この世は、はじめはキリストが人を救うことができるのか疑うのです、それが実際にはどんなに多くても十二分の救いが与えられるのです。しかも恵みとして無償で与えられるのです。これが神の御心なのです。

 

5月16日(土)

彼女はエリシャのもとから出て行くと、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、子供たちが器を持って来ると、それに油を注いだ。器がどれもいっぱいになると、彼女は、「もっと器を持っておいで」と子供に言ったが、「器はもうない」と子供が答えた。油は止まった。

列王記下4:5、6

 

エリシャは神の人と呼ばれていました。それは、彼が神と繋がっていたからです。そして、この物語は、大変面白く、多くのクリスチャンを喜ばせて来ました。それは、奇跡物語であ離ました。彼女の夫が預言者であったのに、死んでしまうと債権者に二人の子供を連れて行って奴隷にすると言われてしまうのです。そこで、エリシャに相談すると、この女が持っていたのは油を入れるツボ一つだけだったのです。なんという貧しさでしょう。しかし、神の人は、近所の人から器を借りて来るように言います。それもできるだけたくさんの空の器をです。そして、彼女がそこに油を注ぐと、どれもいっぱいになりました。それを売って、借金を返し、残りで暮らしていくようにエリシャは教えました。貧しい女を助けたお話しでしたが、それだけでしょうか。聖書では、油は聖霊を象徴しています。そして、土の器は人間を象徴しているのです。この世の多くの人はキリストを知らずにいますから、空の器なのです。クリスチャンになれば、聖霊の油を注がれて器は聖霊で満たされるのです。預言者の妻は、子供と共に伝道するように促されていたのです。そして、人々を聖霊の満たされた救いへと導くなら、生活も支えられて生きていけると言うわけです。この世界には、現実の世界ともう一つ神の国があると言うことです。

 

5月17日(日)

では、これらのことについてなんと言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

ローマ8:31

 

 

クリスチャンは、この御言葉の問いに対して責任を持って答えなければならない。それは、クリスチャンの生き方に関わるからです。この世界の歴史の中で日本も含めてクリスチャンが迫害にあったことは珍しくないのです。いつ私たちも迫害されるかわかりません。しかし、今日の御言葉があれば、勇気百倍です。そうです、神が私たちの味方なのです。神に勝てる者などどこにもいないのです。韓国人の牧師さんが反社の人に脅かされた時に、「私のバックには本当に恐ろしい方がついているんだぞ」と言い返したところ、相手は怯んで事なきを得多そうです。しかし、この牧師の言葉に嘘は無かったのです。神があなたの味方であることを信じていましょう。あなたを困らせたり、ハラスメントで困っていても、今日の御言葉を思い出しましょう。人を恐れてはいけません。恐るべきは神です。その神があなたの味方としていてくださいます。ですから、あなたの信仰を馬鹿にしたり、あなたにひどいことを言うならば、あなたを愛している神は黙っていないということです。そのようにあなたは神に守られているので、神以外の者を恐れないでください。このような人は、この世でも素晴らしい人に見えるのです。

 

5月18日(月)

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

ローマ8:32

 

いったい、御子の価値はいくらぐらいなのでしょうか。金額では計ることができません。この全世界を代価としても足りません。想像もできない価値です。その御子の命を私たちは無償で受けたのです。よい人間だったからとか、何か良いことをしたからというわけではありません。自分がよく知っている私が救われるには、御子の命が必要だったのです。ですから、御子は私たちを救うために十字架にかかられました。クリスチャンならよく知っているはずです。天の父なる神は、それほどまでにあなたを尊く価値のあるものと認めてくださったのです。ですから、今日の聖句で明らかなように、この世であなたが必要とするものがあれば、何でも与えてくださるはずです。高すぎて与えられないというような神ではありません。そうなら、御子を犠牲にするはずがありません。ですから、あなたは不足するはずがありません。クリスチャンは、いざとなれば神が誰かを通してでもお金ですらちょうどよく送ってくださることを体験しているはずです。車をもらった人も、家をもらった人も、自家用ジェット機をもらった人もいます。ですから、思い煩わずに、必要なものは天の父が与えてくださることを信じましょう。心配することはやめて、祈りましょう。良いことは天からやってきます。感謝を決して忘れてはいけません。日々、何不住なく生活ができている人も主への感謝を一番にしてください。子供のように主に喜びを表しましょう。天に向かって笑顔を見せましょう。

 

5月19日(火)

しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とするの力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

第二テサロニケ2:13

 

これはテサロニケ教会の信徒だけのことではありません。初代教会の信徒たちに回覧された手紙ですから、当時の信仰者の皆に当てはまることなのでしょう。それだけではなく、聖書に入れられたのですから、今日のキリスト者にも宛てられたメッセージとして読むべきです。私たちは、福音を聞いて洗礼を受け、クリスチャンになりました。そこがゴールではなく、スタートだったのです。ですから、クリスチャンの道のりを知りたいし、どうなればいいのかも知りたいのです。ところが、私たちの救いを考えればわかるように、私たちの罪を贖ったのもキリストですし、私たちを聖なる者へと変えてくださるのも聖霊の働きなのです。さらに必要なことは、いよいよ私たちのことですが、「真理に対するあなたがたの信仰」が必要なのです。それは、イメージしにくければ、主イエスとの関係を深めるということです。主との交わりを意識的に行うことが必要なのです。また、聖書を読んで学び、見出した真理の通りに生きることができるように祈り、聖霊に従うことが大切になります。テサロニケの教会員を「救われるべき者の初穂としてお選びになった」のであれば、私たちは二千年後の救われるべき者として選ばれた者なのです。神に選ばれたことを喜び、従順に従って参りましょう。

 

5月20日(水)

いかに幸いなことか

神に逆らう者の計らいに従って歩まず

罪ある者の道にとどまらず

傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し

その教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び

葉もしおれることがない。

その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

詩篇1:1~3

 

栃木県の資産家の農家に高校生ばかり四人組が押し入り、主婦を殺害してしまった事件が連日報道されています。このような凶悪事件が起こると社会不安が広がります。16歳の男子がどの程度の思慮があるかと言われれば、社会常識も思慮も不足していることは理解できます。彼らが神を知っていれば、このようなことにはならなかったでしょう。神を認めずに神に逆らう者は、悪を恐れません。自己中心的な考えをするので、悪知恵を働かせて、善良な人を食い物にしようと企みます。彼らの考えや悪の企みは、社会正義を踏みにじります。そして、分別のつかない年齢の者にとって彼らの誘惑はエデンの園の蛇のようなのです。一旦、罪の道に入ると抜けることも困難です。そして普通に正しく生きている者を見下します。馬鹿だと思っているのです。そのような傲慢な者と一緒にいることも危険なのです。私たちが、こうした誘惑から守られ、信仰を持つことができたことは奇跡のようなことなのです。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。これこそがクリスチャンの目指す人です。このようにすれば、誰でも「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」ことができるのです。成功した人生を歩みたいと願う人はたくさんいます。そして、その方法を伝授すると謳った本もSNSも巷に溢れていますが、それが神と関わりのないものであれば、意味がありません。信仰を持っている人は、成功法則を知っているのです。それを実践するだけです。私たちは「流れのほとりに植えられた木」なのです。「ときが巡り来れば実を結び」とあるように、性急に成功したいと考えるのではなく、木のように泰然とたたずんでいればいいのです。それは、主を信頼している姿です。「葉もしおれることがない」とある通りです。聖霊の川が流れていて、枯れるようなことはないのです。頑張ることもなく、主を信じているので、主の教えを愛し、それをいつでも忘れないで生きているのです。これは、決して難しくはありません。あなたの生き方となるのです。

 

5月21日(木)

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

ヘブライ1:1~3

 

私たちが旧約聖書と新約聖書の両方を正典としているのは、今日の聖句で明らかです。神が私たちに語っているからです。御子イエスを信じているのは、御子によって救われたからです。ですから、クリスチャンであれば、御子イエスのことを正しく知りたいと思うし、その御言葉を理解して自分のものとしたいと考えるはずです。事実、聖書を読み、また学んでいます。説教では聖書の御言葉が解き明かされて、説教者は知らずに預言を語っていることがあるのです。ですから、神が語っておられると信じる人だけが聞くことになります。御子が世界を創造されたことを信じるなら、この世界を支えているのも御子であり、その方法は創造が御子の御言葉によってなされたように、御言葉によって支えられているのです。科学者はその真理に近づきつつありますが、まだわかっていません。しかし、信仰者は信じています。それは、自らも御言葉を信じる者でありたいと願っているからです。御言葉の力が圧倒的なので、信仰の無い人には追いつけないのですが、信仰者にはすぐにでも開けてくるのです。御子は、すでに天の父なる神の右の座に着かれています。そこは、執り成しの座でもあるのです。御子は私たちに憐れみを垂れ、愛の御業を続けておられるのです。私たちの希望が御子にかかっていることを覚えて、感謝を献げましょう。

 

5月22日(金)

もしあなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ去り、わたしが授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、わたしは与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。この神殿は廃墟となり、そのそばを通る人は皆、驚いて口笛を鳴らし、『この地とこの神殿に、主はなぜこのような仕打ちをされたのか』と問うであろう。そのとき人々は、『それは彼らが自分たちの先祖をエジプトの地から導き出した神、主を捨て、他の神々に付き従い、これにひれ伏し、仕えたからだ。それゆえ、主は彼らの上にこのすべての災いをもたらされたのだ』と答えるであろう。」

列王記上9:6~9

 

ソロモンがついに神殿を完成させた時、聖書の中でも長い祈りを献げています。その記念の祭りも長期間行い、誰もが喜びを爆発させ、有頂天になって帰っていった後に、神がソロモンに現れました。そこで何を告げられたか、気になりますが、今日はその最後の部分を見てみましょう。ダビデの信仰は本物で神はそれを受け入れています。ソロモンにもダビデのようにその信仰を守ることを促し、王権が続くことを約束します。しかし、最後にもし子孫が神を捨て去り、他の神々に仕えるなら、災いを降すことが告げられたのです。そして、歴史はこの悪い方をイスラエルが歩み、預言通りに神殿は廃墟になってしまい、与えられた土地からも断たれてしまいました。それは、バビロン捕囚、紀元70年のローマによる破壊で完全に国を失ったのです。皆さんはどう思うでしょうか。ソロモンに神が告げた祝福の道は、「ダビデのように無垢な心で正しく神の前を歩み、神が命じた事をことごとく行い、掟と法を守るなら」ともっともな事なのです。これが子孫たちにはできなかたのです。それは、あなたがイエス・キリストを信じることをやめて、他の宗教に乗り換えるようなことです。そんなことはできない、とあなたは思うでしょう。不思議なことに、そうは思わない人もいるということです。こうして、人は神を選ぶのか、拒むのか、どちらか選ばなければなりません。願わくば、子孫もキリスト教信仰を継いで行って欲しいものです。

 

5月23日(土)

そして、私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛に共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

第一テモテ1:14、15

 

クリスチャンは、この箇所を読む時に、自分もパウロのように「その罪人の中で最たる者です」とは実に私のことです、と言いたくなります。教会の中でそう言えるのは、本当に主イエスを信じただけで、救われたからです。驚くべきことです。人々が認めるような良いことなど何一つしていないのに、主の恵みのみで救われたのです。主イエスは、本当に罪人を救うために世に来られたのです。全ての人にとって、これほど重大なことはありません。21世紀にはっても依然として、人間は戦争をしています。それがどれほどの不幸を生み出すか歴史から学ぶことができないのです。それどころか、領土を拡大して、自分の名を歴史に残そうとしているのです。大勢の自国民も他国の人も死んで行くのにです。彼らは、戦争を起こした人がいなければ、生きていけたのです。どうも、人間の愚かさはメンツにこだわることを乗り越えられないことなのです。パウロは、主イエスを信じて、つまらないメンツにこだわることを乗り越えたので、「罪人の中で最たる者です」と認められました。戦争を起こす者は、主の神殿を建てることを許されません。もちろん、神は人間の作った宮に住むようなお方ではありません。もっと偉大だからです。それなのに、クリスチャンは、聖霊の宮とされた奇跡の人なのです。私たちは、多くの人に主イエスを信じて罪人が救われる実例として世に姿を現さなければなりません、そのことが正常になされていれば、戦争すら防げるはずなのです。全世界の全ての教会がその役割を果たすことができますように。

 

 5月24日(日)

 

イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行なった。彼らが主の目に悪とされることを行なったので、主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。彼はアンモン人とアマレク人を集め、攻めて来てイスラエルを破り、なつめやしの町を占領した。こうしてイスラエルの人々は、十八年間、モアブの王えぐろんに仕えなければならなかった。イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。

士師記3:12~15b

 

約束の地に定住することになったイスラエルには、出エジプトの神がついていてくださったのですが、聖書には驚くことに「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行なった」とあります。このイスラエルの人々は何度も主に悪を行います。主を知っているだけではダメなのでしょうか。彼らの言って聞かせても、言うことを聞かないのですから、主は外敵を起こします。それがモアブの王エグロンです。このエグロンを強くすることでイスラエルを脅かした、と書かれています。つまり、主はイスラエルの民が悪を行うので、外敵を強くすることでイスラエルの民を悔い改めさせようとされていたということになります。実際、エグロン王はアンモン人とアマレク人と組んでイスラエルを攻撃します。その結果、十八年間もの長きに渡って、エグロン王に仕えることになったのです。ここで、ようやくイスラエルの民は「主に助けを求めて叫んだ」とあります。人の心の頑なさはこのように凄まじいのです。彼らは、異教の神々を拝んで主を裏切ったのですが、裏切った神こそが唯一真の神だったのです。ですが、すぐに悔い改めることができずの辛い人生を十八年間も過ごしたというのですから、驚きます。しかし、もっと驚くのは、それでも主は彼らを助けたことです。なんという忍耐力でしょうか。憐れみ深い神であることはここからもわかります。私たちも、信仰を持ったからには、主に忠実でありたいと思います。それでも、主の目に悪とうつるような事を行なってしまうかもしれません。それで、神は怒っているはずだと簡単にあきらめてはいけないのです。自分の力では自分を助けられない状況に追いやられて、イタズラにしなくてもよかった苦労をすることになるからです。そして、本当に追い詰められた時に、あなたは叫ぶことになります。これは、魂からの声です。本心から主を求めた時です。このようになるまで、あなたは追い詰められるのです。聖書から教訓を学び、同じ過ちを犯さないようにしたいものです。主は、あなたを簡単には見捨てないことを覚えていましょう。

 

5月25日(月)

どのような苦労にも利益がある。

口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

苦労がないことが幸せと思っているならば、それは不幸なことです。なぜなら、人間は成長できるので、成長することが人生を広げ幸いを多く経験することができるのです。その成長は、苦労によることが最も効果的なのです。ただ、苦労といっても、それは相対的なものなのです。一の苦労をしている人がその三倍の苦労をしている人を見れば、自分の苦労は大したことがないと思い、三倍の苦労をしている人が苦労している人であって、自分のは苦労ではないと思ってしまうのです。スポーツ選手は、自分を練習で追い込み、筋肉が足りないと思えば、筋トレを行うでしょう。同じことを普通の人がしようと思えば、すぐに挫折して今います。それほどキツイ訓練を続けるのは、苦労に違いなのですが、それで勝利することができたり、スポーツ選手なら契約金が大きく跳ね上がるのです。これは、明らかに苦労が利益を上げている例です。私たちは、それほどの苦労をしないように、気をつけて生きているかもしれません。しかし、仕事をして給料をいただいていれば、自分のスキルを高めたいと思うだろうし、それがより良い給料となって自分に返ってくるのです。では、信仰生活ではどうでしょうか。毎日、聖書を読むとか、1時間の祈りに挑戦するとか、伝道を自分なりにしてみようと目標を立てるとか、一日一善を実行するとか、聖書を原典で読めるように聖書語学を学んでみるとか、そして、キリストとの距離を近づけて行くことを決めて実行するとか、色々考えられます。しかし、これらも口先だけで、一向に何もしなければ、霊的欠乏は起こるのです。これらは、自分次第ということです。ただ、クリスチャンは聖霊の助けを得ることができます。ですから、意識して祈ってみましょう。苦労したと思えるほど頑張れば、その結果の利益を得るのは本人なのです。

 

5月27日(水)

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

マルコ12:29~31

 

聖書を学び始めると、「掟」や「戒め」という言葉に気がつきます。宗教であるかには、何かしら掟があるだろうとは思っていても、それがどのようなものであるのかは、気が付かないものです。やがて、十戒を知り、なんとなく違和感があるものの、戒めというものはこのようなものだろうと納得します。しかし、たった十個というのは少ないのではないかと考えて、この十戒を読み直してみると決して難しいものではないと思うのです。まだ、自分の罪に気付いていないからです。それから、長い信仰生活が始まり、十戒のどれ一つ守れないことに思い至り、キリストの道を頼りに歩み始めるのです。初めの頃に福音書を読み、この掟の箇所を読みます。そして、素直にこの二つの掟を守ろうと決心するわけです。神を愛し、隣人を愛す。これこそクリスチャンの生き方だと思うのです。それから、長い時間が過ぎて、何度も失敗し、挫折し、自力で愛することの難しさを知るのです。やがて、聖霊の恵みを知ります。聖霊の助けなしには、自分のことなのに、「心を尽くし、精神を尽くし、想いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟を守れないのです。自分自身を知ることが不十分で、自己を過信しているからです。何度も試練にあい、砕かれて行く過程で、どうやって掟を守るのか考えるのです。第一の掟ができなければ、第二の掟もできません。人の好き嫌いが激しい人は、なおさら難しい掟と言えましょう。結局、聖霊の支配に完全にゆだねることができるまで、この課題を満たすことができません。頑張ることは肉が頑張ることなので、肉では達成できないことなので失敗します。聖霊が自分を支配することを認めるまで、掟は到達できないのです。私たちは、クリスチャンなので、イエス・キリストの新しい掟を掲げています。それは、「互いに愛し合う」ことです。それは、互いに赦し合うことであり、互いに仕え合うことなのです。相手の足元にキリストを見出せるかが鍵です。クリスチャンが謙遜であることがどんなに重要であるかが、理解できれば掟は達成できるはずです。

 

5月28日(木)

イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行なった。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊もうしもロバも何も残さなかった。

士師記6:1~4

 

士師記はあまり読まれない聖書の中の一つです。専門家も創世記から申命記までの五書の研究家は多くいますが、どうも人気がないのです。イスラエルが出エジプトして、カナン侵入するまでは、物語としても面白いのでよく読まれていますが、肝心のカナンに定住してからのことは興味を引かないのか、聖書研究のリクエストも無いので、残念な気がします。実は、士師記は子供のクラスでは人気です。それは、英雄が出てくるからです。今日は、その中からイスラエルを救うために立てた士師であるギデオンについて見てみます。この時代は、まだ王様がいません。ゆるい十二部族連合の国なのです。そこで、出エジプトの神を拝んでいたはずなのに、気がつくとカナン人に同化されて来たのです。それは、主が「アモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない」と告げられていました。それを破ったのです。この深刻さを人間は理解しないので、夫婦が不倫をしているようなものだ、と言ってみてもピンとこないようです。信仰は、どのような環境に置かれても、変わることなく主に仕えて行くことなのです。イスラエルは主に人間の代表として実験された感じがします。結果は、惨めなものです。惨敗です。それで、すめばまだいいのですが、災いがやってきます。今回は、七年間、敵の手に渡されるという、恐ろしい罰です。ミディアン人が何をしたのか、書かれていますが、命の糧を根こそぎ奪って行くのです。生きる希望を失ってしまいます。彼らが拝んでいたアモリ人の神は何もしてくれませんでした。それは、生きていない偶像だからです。今日の聖句の中に「ガザ」という地名が出てきて、こんな昔からガザは略奪者に襲われていたのだと、不思議な思いになります。さて、このような状況で、「イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ」(6節)とあります。他の偶像を拝んでいたために、彼らはすぐには主に助けを求めなかったのです。それを神は知っていたので七年間と初めに言われたのです。私たちは、幸いなことに何か起これば、すぐに神に叫びます。それが唯一の救いの道だからです。主を信じて生きる人は幸いです。

 

5月29日(金)

イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。私があなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちはわたしの声に聞き従わなかった。」

士師記6:7~10

 

聖書時代に預言者は大きな働きをしていました。主は、この預言者を通して語り聞かせました。この方法は実に最高の方法なのです。皆さんは、テレビやラジオから声を聞くことがあると思いますが、そうした有名人が実際に自分の近くに来て、講演をしたり、コンサートを行ったりすると、その臨場感は比べものになりません。そこで、神が直接語れば、死人が出る騒ぎになります。神に耐えられる生き方をして来た人は稀だからです。そこで、肉声で直接神が語る方法が、預言者だったのです。だから、預言者は人々を恐れて都合の悪いことは言わないというような人はなれなかったのです。相手が怒ろうが、命を脅かされようが、神がお語りになられたことを直接伝えたのです。信仰者はそれを神のメッセージとして厳粛に受け取ったのです。ここで神の言われたことを考えると、イスラエルの神は、誰であるかは明瞭なのです。彼らが今エジプトで奴隷でないのは、実に神が力づくで救い出したからです。世界最強のエジプト軍も全く歯が立たなかったのです。神に逆らえる人間などいるはずもありません。そして、これほどの恩があれば、子々孫々までイスラエルの神を主と崇めるはずです。それが自分たちが一番安心して幸福に生きる方法だからです。それなのに、いわゆる世俗化したのです。そして、懲らしめがあって、彼らがようやく主に立ち返ると、たちまち主はイスラエルを助けるために、士師を起こしたのです。それがギデオンです。このギデオンの戦いは、主の戦いですから、とても面白いのです。それは、また次の機会にお話死します。

 

5月30日(土)

彼は言った。「わたしの主よ。お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」

士師記6:15、16

 

ミディアン人に七年間も虐げられて来たのに、今、御使はギデオンを召し出し、イスラエルを救うように命じます。当然のことながらギデオンは戸惑います。彼の言葉によれば、「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なもの・・わたしは家族の中でいちばん年下の者です」と言うのです。聖書を読むと同じようなことが他でも出てきます。神の目に良しとされる者は、人間の目に良いと思う人とは違っているのです。ですから、人間の常識で信仰者は考えてはいけません。自分が劣っているから、性格が弱いから、家柄が・・・などとつまらないことを考えていてはいけないのです。それよりも、自分が最も小さき者であると思うなら、主に用いられる可能性があります。ですから、私たちは自分を見て萎縮するのではなく、小さい者だからこそ、主の御用に用いていただけるかもしれないと、素晴らしい可能性を期待した方が正しいのです。肝心なことは、主への信仰を持っていることなのです。そうであれば、主と共に人生を歩めます。それは、とても素晴らしいことなのです。敵がどれほどいても一人の人を倒すように打ち倒すことができるというのですから、主が共におられるということがどれほどすごいことか分かります。クリスチャンであることを感謝しましょう。仕事も人間関係も悩むことはありません。主を信じて祈りましょう。その時、自分が立派なクリスチャンでないからと信仰を小さくしてはならないのです。その逆です。主は小さな者をお選びになります。「私はその小さき者ですが、主が共にればどんな問題も解決し、勝利者になれます」と肯定的に祈るのです。クリスチャンであれば、ギデオンのように選ばれた者であるということです。勇気を出しましょう。

 

5月31日(土)

レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、全てのイスラエル人と共に主の律法を捨てた。レハブアム王の治世五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。彼らが主に背いたからである。・・・預言者シェマヤが、シシャクのことでエルサレムに集まっているレハブアムとユダの将軍たちのところに来て言った。「主はこう言われる。『あなたたちはわたしを捨てた。わたしもあなたたちを捨て、シシャクの手に渡す。』」イスラエルの将軍たちは王と共にヘリくだって言った。「主は正しい。」主は彼らが遜るのを御覧になった。主の言葉がシェマヤに臨んだ。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさず、間もなく彼らに救いを与える。わたしの怒りをシシャクの手によってエルサレムに注ぐことはしない。ただし、彼らはシシャクに仕える者となり、わたしに仕えることと、地の王に仕えることの違いを知るようになる。」

歴代誌12:1、2、5~8

 

歴史が嫌いだと言う人が多いが、実は歴史は面白い。そして、多くを学び益となる、またとない生きた教科書なのだ。聖書にもその歴史にあたる箇所があり、歴代誌もその一つにあたる。今日の箇所は、ダビデ、ソロモン王の後の話となる。興味のある人は、実際に10章から読んでみるとよい。レハブアムの治世に大国のエジプトが攻め上って来た。それは、圧倒的で次々に砦の街を陥れていった。いよいよエルサレムが危ないとなった時、預言者シェマが王の前に現れ、主の預言を語った。それが、今日の聖句箇所です。不思議に思うかもしれないが、レハブアム王は全てのイスラエル人と共に主の律法を捨てた。つまり、主を拝むことも従うこともやめたのだ。それは、レハブアム王がソロモン王後の国の混乱をようやく平定し、王として力をつけて自信を持ったことが大きい。そうなると、神を平気で捨てるのだから、人間とはなんと愚かなのだろうか。真の神を捨てるということがどれほど恐ろしいことか考えられなくなるということだ。これほど、人間が全てがうまくいくとたちまち高慢になり、神を忘れてしまうのだ。ダビデの神を捨て、偶像を拝むことを始めれば、どれほどの呪いがかかるか考えてもいない。それでも、預言者の言葉にヘリくださると神は赦し、温情をかけられるが、人間を知っているので、エジプトの王に仕えることになる。それが主に仕えることとどれほど違うか体験するしかわからないのが人間なのだろう。主に仕える者として生きることを選ぶことの意味をダビデは示したが、それが容易いことではないことがわかるだろう。あなたはダビデ王のようであるか、それともレハブアム王のようになるのか、この機会に考えてみよう。