2026年3月ディボーション

3月1日(日)

くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。

箴言16:33

 

景気低迷が続き、おまけにコロナの流行で人々が旅行に行けなくなると、テレビで旅番組が多くなりました。今も、安易に思われますが、旅とグルメ番組がテレビに頻繁に登場します。そして、旅行先で神社やお寺に行くことも多いのです。おみくじがあるところでは、女優さんやお笑いの方々が必ずおみくじを引きます。他人の運命を占っているのに、視聴者は文句も言わずに観て楽しんでいるようです。真の神が人間の人生を握っているのに、それどころか寿命まで主の御心によるのに、人々は気が付かないで、実態の無い偶像を拝むように、その吉凶の託宣をも真剣に聞くのです。古代のイスラエルでは、サイコロがすでにありました。それを使って自分の運勢を占うことも知られていたのです。ですから、自分の運命を占うサイコロをひざに投げたのです。彼らは知らなかったのですが、人間の未来は主が決められるのです。クリスチャンは運命という言葉を使わずに、摂理と言います。これは、偶然の要素がある運命ではなく、人間は、主の御心のままに導かれているので偶然ではないことから神の摂理という言い方をします。今日の聖句にもあるように、「すべての決定は、主から来る」のです。その主があなたを愛しているのです。あなたがいつも喜び、健康で、幸せであることを一番願っている方があなたの神なのです。ですから、神を信じて生きることが肝心です。主があなたのために良いことを未来に備えていてくださることを信じても良いのです。結局、信仰で将来の結果は大きく分かれることになるのです。自分の将来を人間に委ねることほど心細いことはありません。しかし、主の保証は絶対です。あなたは自分の将来をくじに賭けますか?それとも全能の主に信頼を置きますか?やがて、あなたの選択の結果を知ることになります。ちなみに、私は主を信じます。

 

3月2日(月)

絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

第一テサロニケ5:17、18

 

「絶えず祈りなさい」と命じられています。あなたは祈りをどうしていますか。クリスチャンは祈りが大切であると教えられていますが、それだからといって祈りが得意というわけでもないでしょう。いったいあなたはどれぐらいの時間を祈っていることができますか。以前に「1時間祈るセミナー」を開いたことがあります。ある教会で信徒が参加しましたが、一ヶ月後に1時間の祈りが続いている人は、一人でした。その人は、そのままずっと1時間の祈りを続けることができました。しかし、他の信者さんたちは、あっという間にできなくなりました。「絶えず」というのは、決して1時間のことではありません。祈りを止めることなくいつでも祈っていなさい、ということであれば、ずいぶん無茶苦茶な命令です。1時間の祈りセミナーは他の教会でもしましたが、誰も続けることができませんでした。つまり、「絶えず祈りなさい」の命令を守ることがいかに難しいかということです。ただ、聖霊が自分の内に居られるという自覚を持っている人は、絶えず祈りなさい、との命令を実現できる可能性があります。相手がいるからです。それも、自分の内側にです。このような超自然なことでもなければ、難しいことなのです。これと並んで命じられたことは、「すべての事について、感謝しなさい」です。これも、自分の力で頑張れば、すぐに挫折してしまいます。良い事であるのはわかっていても、忘れてしまうのです。ただ、聖書に書かれているので、挑戦してみるのは良い事です。神との関係がとても良くなるからです。このように、現代人は神を忘れるほど忙しく生きているのです。それはストレスに満ちたものとなりがちですが、絶えず祈り、全ての事について感謝する、と決めるだけで、霊的に良くなることを実感できます。物事も良くなり始めます。神の御心にかなうことを行うのは、このように良い結果が待っているのです。

 

3月3日(火)

わたしは生い茂るオリーブの木。

神の家にとどまります。

世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。

あなたがはからってくださいますから

とこしえに、感謝をささげます。

御名に望みをおきます

あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い

あなたの御名に。

詩篇52:10、11

 

旧約聖書を読んでいると聖所が出てきます。ソロモン神殿の前の話です。例えば創世記では、神が人の前に出現し、その場所に祭壇を築き犠牲を献げる場面です。いろいろな場所に神が現れるので、その都度祭壇を築いています。そこが後に聖所になるのです。重要なことは、神が現れることです。確かに聖所に神が宿ることは知られています。エルサレム神殿のような場所は、神の家のように思われています。今日では、世界中にキリスト教が広まり、教会も無数に存在します。ですから、ある人は自分の教会を神の家と思っている人もいます。そう少し、霊的に考えれば、クリスチャンそのものが神の宮と聖書に出てきます。確かに三位一体の神である聖霊が信仰者の内に宿るのですから、神の家と言えるかもしれません。この詩篇記者は、自分をオリーブの木と表現しています。神の神殿の庭に植えられたオリーブの木のように、私たちも自分のことを考えても良いのです。私たちはこの世のものではなく、神の支配する世界のものなのです。そこにいる者は、神の慈しみに依り頼む者たちです。自分の考えを超えて、私たちのためにより良くしてくださる神の計らいに信頼を寄せて生きるのです。私たちは、そのことがわかるので、神への感謝をやめません。どんな時でも、御名に望みをおきます。私たちは神の御名を知る者なのです。ですから、私たちは信頼に満ちた声でイエス様とお呼びするのです。主は、そんなあなたに恵み深いのです。

 

3月4日(水)

主に従う人よ、主によって喜び歌え。

主を賛美することは正しい人にふさわしい。

琴を奏でて主に感謝をささげ

十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。

新しい歌を主に向かってうたい

美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

詩篇33:1~3

 

大勢のクリスチャンで賛美するなら、それはそれは素晴らしいものです。確かに、全ての人に音楽の才能があるわけではありませんが、それでも信仰を持った者たちが今日の聖句のように主を賛美するなら、心も魂もいっぺんに天国へ引き上げられるようです。初めて教会へ行ったときには、讃美歌も知らず、その教会の暗さが記憶に残っているだけでした。しかし、その教団の全寮制の神学校に入った時に、同じキャパスの中に高校もあって、安息日の礼拝は合同で行われていたのです。広い公堂に学生と教師や職員にその家族、さらに近隣の教会員もいるのですから、讃美歌も迫力のある美しいものでした。多くの人がパートをとって歌っていました。これだけはまた体験したいと思うことでした。それから、いろいろな変化がキリスト教の世界にもあって、現代的な讃美歌が歌われ、新しい賛美がたくさん生まれてきました。アメリカのクリスチャン・ブックセンターに行ってみると、伝統的な讃美歌と並んで、現代の礼拝曲やCCMと呼ばれる曲にレゲエやゴスペルなどジャンル別に実にたくさんのCDが売っていました。YouTubeでは、楽器の讃美歌もいろいろあって楽しいです。また、バッハを持ち出すまでもないですが、クラッシックでも宗教音楽は奥が深く、霊感によって楽譜を書いた話など、神の領域の話もあり、二千年の歴史を感じます。こうした讃美歌は、「主に従う人よ、主によって喜び歌え」と書かれている通り、賛美の原点がここにあるのです。「主を賛美することは正しい人にふさわしい」とある通りで、罪を赦されキリストの血で清められた人は、また水の洗いも受けて、クリスチャンになりました。讃美歌はこのような人たちのものなのです。「新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ」とあるように、クリスチャンが集まったなら、このようにするのです。そこに、主の御臨在を感じるなら、それはまことであり、主が賛美の上に座しているのです。

 

3月5日(木)

見よ。わたしを救われる神。

わたしは信頼して、恐れない。

主こそわたしの力、わたしの歌

わたしの救いとなってくださった。

あなたたちは喜びのうちに

救いの泉から水を汲む。

イザヤ12:2、3

 

神様に救われた人は、罪人であったので神の怒りをかっていたのです。それなのに、神様は憐れみ深く、あなたのことをご覧になっていました。それで、怒りを翻して、あなたを慰めることにしたのです。ですから、あなたは自分をありのままにさらけ出して十字架に近づけるのです。あなたは本当に救われたので、その喜びは大きく、主への信頼は絶対なのです。あなたは信仰生活から、「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救い」と悟りました。そのことを喜ばずにはおられません。主を賛美し、さらに力を受けるのです。あなたに与えられた人生の日々は、決して平坦ではないかもしれません。雨や嵐の日だってあるのです。しかし、あなたには主イエス・キリストがいます。だから、途方に暮れても行き詰まることがありません。あなたは「救いの泉から水を汲む」ことができるからです。主を信じる者は幸いです。自分ではなくイエス様を見上げましょう。

 

3月6日(金)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6、7

 

イランとイスラエルにアメリカが戦争を始めました。どんな時にも戦争は良くありません。特に、中東で戦争が起こるのは危険です。ただ、黙示録を思い出して終末のしるしだと慌てることもありません。聖徒の皆様は神様に守られているので、いざとなれば天使の軍隊が陣を敷いて守ってくださいます。それよりも、平和を祈って行きたいですね。そして、このように一気に世が終わりそうな時には、自分の信仰を反省してみるのは良いことです。今日の聖句を読んで反省してみるのです。「キリストに結ばれて歩みなさい」と言われているのに、自我が強すぎれば、独りよがりの信仰になることもあります。キリストに結ばれているのですから、私が、私が、と自分の正しさばかりを主張するのは危険なのです。キリストに結ばれているというのは、キリストのようになっているということです。古い自分が未だ死んでいない人は、キリストに結ばれること自体が苦手です。それでは、上手くいかないので、大きな試練が来て砕かれる前に悔い改める必要があります。「キリストに根を下ろして造り上げられ」というのも、古い私ではなく、キリストからいただいた霊的な力でキリストに似た者に造り上げられることがクリスチャンの正常な経験なのです。自分の力で自分を変えることが困難なことだからです。聖書を学んでいるのに、聖書の教えに反していれば、残念な結果が待っています。そうならないように、「教えられたとおりの信仰をしっかり守って」生活することを身につけます。朝の祈りの時から、「あふれるばかりに感謝しなさい」というのは、誰でもできる主の恵みにあふれて生活する方法です。これも、難しいことではなく、誰でも毎日できます。ただ、感謝というのではなく、具体的に自分にとっての感謝を考えてみて、神様に感謝して行くのです。楽しくなり、嬉しくなります。クリスチャンの毎日は、神様に感謝することなのです。それは、あなたの喜び多い人生を確実にするからです。

 

3月7日(土)

イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。

マタイ24:4~8

 

湾岸戦争が起こった時、その前にアメリカの信者さんが「戦争は必ず始まります」と言われ、その人が自動車関係の会社の社長だったので、事前に情報が流れたそうで、果たして戦争は始まりました。その後、世界はグローバル化が進み、人々は世界をあっちこっち行ったり来たりしていました。技術は進み、情報化社会は発展し、戦争は起こらないと誰もが思っていた時に、ロシアのウクライナ侵攻が起こり、世界は衝撃をうけました。そして、今また、イスラエルとアメリカがイランを攻撃したことから、戦争が中東に拡大しています。聖書の舞台での戦争は、もう世が終わると慌てる人が出てきますが、キリストは、「慌てないように気をつけなさい」と忠告しています。今の状況は、「産みの苦しみの始まり」なのです。興味深いことは、初代教会時代から今までに何度も同じようなことが起こっていました。ですから、やはり、これは警告としなければならないのですが、まだ大きなしるしは起こっていないのです。一つは、キリスト教で目立った動きが見当たりません。それに、世界規模の政治や経済の動きです。さらに反キリストの出現です。これらが一気に起こる可能性はあります。そして、今がその条件が揃ってきているのです。このまま進んで行くのか、それとも神の忍耐はさらに続くのか、今はこのようなところにさしかかっているのです。信仰を持って日々平和の祈りをささげましょう。

 

3月8日(日)

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

ローマ15:4

 

聖書がクリスチャンにとっていかに大切な書であるか、今日の御言葉は教えています。聖書自体は、気が遠くなるほどの昔に書かれたものです。今のように書くための道具が進化して、声だけでも文章が書けるような時代に生きる私たちは聖書の価値が十分わかっているかどうか確かではありません。古代のことを学んだ人はまだ想像できるかもしれませんが、手書きの聖書がどれほど読みにくいか、写本を作る人の癖字が、あるいは書き方の癖が人によって違うのです。日本人が古文書を読もうとしても専門の知識がないと全く歯が立たないということからも、聖書の古い時代の写本が私たちの今日の日本語聖書にまで届いたいたことは神の御業としかいえません。そうまでして、私たちが聖書を読めるようにしてくださったのは、「すべてわたしたちを教え導くため」だったのです。ですから、聖書を読んでも成長し変わることのない人は、肝心な点を見逃しているということになります。クリスチャンがこの世でキリストに従って生きて行くことは結構大変なことなのです。時には試練にあったり、理不尽な扱いを受けたり、馬鹿正直に生きている自分よりも悪いことをしている人の方が得をしているように感じることだってあるかもしれません。要領良く生きている人の方が、聖書の教えを文字通りに生きている人よりも上手く生きているように見えるかもしれません。また、「すべてわたしたちを教え導く」御言葉を理解できるかどうかは聖霊の助けなしには難しいのです。ですから、聖書をよく学び知っていると思っている人が実は聖書に書かれている教え導くためのものであることがわかっていなくて、聖書によって教えられたり、導かれたりという経験をしていないことすらあるのです。これも不思議なことですが、最後に書かれている一文が体験できている人は心配しなくても大丈夫です。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と書かれた一文です。信仰を持たない聖書学者がヘブライ語やギリシャ語の原典を読んで、聖書註解書まで書いたとしても、今日の聖句のような体験はできません。しかし、聖書にいっぱい線を引き、ボロボロになるまで読んでいる聖徒にも、クリスチャンになりたてで、聖書に何が書いてあるのかも知らず、とにかく読めそうなところから読んでいる人にも、聖霊は働いて導いています。その働きは驚くばかりです。この世の知恵も多少は役に立つでしょうが、神の知恵は聖書から知ることができ、永遠の御国へと案内してくれるのです。あなたが聖書を持っているということはすごいことなのです。その素晴らしさを探ってみましょう。

 

3月9日(月)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。

あなたは私の悩みをご覧になり

私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

誰でも、人間は悩むものです。原因はあっても、それが何であれ悩むのが人間なのです。他の人にとっては悩みにならないことでも、ある人には悩みになります。つまり、悩みは個人的なことなのです。悩んでいる時に、他人の悩みを聞くと、大抵は自分よりも深刻な問題を抱えているので、自分の悩みは小さいと気がつきます。そこから、悩みを気にしなくなって克服することもあります。そうはいっても深刻な悩みもあるのです。ですから、何もしないで悩みを放っておくことは得策ではありません。幸い、クリスチャンは祈ることができるので、主に全てを打ち明けて祈るのです。誰かに悩みを相談しても良いのですが、主に試みられている時には、人間の力では何もできません。しかし、祈りは聞かれます。主は、その人にとって最も良いことをなさいます。ですから、悩みの解決も、自分の思い通りとはならないかもしれません。しかし、主が働かれたなら、悩みは喜びに変わります。魂が苦しむほどの悩みであっても、一つ一つ確実に解決して行かれます。一気に解決しないのは、人間が教訓を学ばないで、自分の問題が何であるか気づかずにただ大変だったと終わってしまう心配があるからです。しかし、悩みを通して信仰を成長させたり、祈ることを深めたり、忍耐することを学んだりと悟ることができれば、主の御心を知り、信仰者としても成長し、主の恵みを受けることができます。悩みがなくなれば、気が楽になり、主の恵みを素直に楽しみ、喜べるのです。どんなことも信仰と祈りと御言葉で解決しましょう。

 

3月10日(火)

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかた。」

黙示録12:10、11

 

キリスト教の二千年の歴史は信仰の戦いの日々でした。迫害されたのも度々で、多くの殉教者も出ました。それは、日本でも起こり、キリスト教徒の少ない現代では、理解されないことかもしれません。しかし、私たちも聖書に記された預言を信じ、今が終末であることも理解し、今日の御言葉も何が重要かを理解しています。神の聖徒たちは神と悪魔の大

争闘に巻き込まれているのです。それは善と悪の戦いです。悪魔はこの世の王であると自称し、クリスチャンを目の敵にしているのです。ですから、聖徒たちの落ち度を記録し、神の御前で訴えてるのです。その告発者が投げ落とされたと預言の書は語っています。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに彼に彼に打ち勝った」とあります。さらに「彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」と書かれているので、殉教者であるとわかります。このように、命懸けで信仰の戦いをした聖徒たちがいるのです。再臨が迫った頃には、そのような信仰の勇者が出てくるでしょう。誰もが死ぬようなことになるのではありません。殉教者は特別な霊の賜物を受けた人だけです。弱い者は守られますから心配する必要はありません。それよりも、罪人が完全に救われて天国へ入れるようになるために、神はキリストを通して働かれ、私たちの元には聖霊が派遣されて、最後の戦いが静かに進んでいるのです。神は何もしていないように見えるかもしれませんが、悪魔にも打ち勝つ力は、「小羊の血」と「自分たちのあかしの言葉」だと聖書に記されています。キリストの十字架と皆さんの信仰によるあかしの言葉で勝利できるのです。難しく考える必要もありません。霊の戦いに一人一人が勝利できるのです。そのことをよく考えてみましょう。

 

3月11日(水)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

ヘブル12:2、3

 

クリスチャンでも疲れ果ててしまうことがあります。この世は、天国ではないのですから当然と言えます。罪人たちの世界で生きているのです。しかし、悪人たちの中で生きているというのではありません。ですから、クリスチャンとして生きていれば、この世の中でも希望があるのです。私たちの模範はイエス・キリストですから、私たちが調子が悪い時は、イエスから目を離している時です。わざわざ人間に頼り、イエスに頼ろうとはしないので、気づくと心が元気を失っているという事態に陥ってしまいます。クリスチャンの生き方は、信仰によって生きることなのです。その信仰もイエスが創始者であり、完成者であるところの信仰のことです。この世の人でも信仰を持っているのですが、それはイエスとは関係がありません。それで、つい勘違いしてしまうのです。それで、自分の信仰は弱いからと自嘲気味になります。しかし、そもそもその信仰は本当にイエスの信仰のことでしょうか。イエスの信仰は十字架にあります。ご自分が犠牲となって死ぬことで、イエスを信じる者の罪の贖いができるので、その人は救われるのです。そのことが喜びだったのです。だから、あなたはイエスがはずかしめを受け十字架にかかってでも救おうとされたので救われたのです。それは、イエスがそうなると信じたからです。イエスの信仰は死よりも強いのです。目先の困難など、その先の喜びに比べれば大したことはないのです。そう信じる信仰をいただいているのですから、この世で疲れ果ててしまわないでください。

 

3月12日(木)

ああ、人はただ影のように移ろうもの。

ああ、人は空しくあくせくし

だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。

主よ、それなら

何に望みをかけらたよいのでしょう。

わたしはあなたを待ち望みます。

あなたに背いたすべての罪からわたしを救い

神を知らぬ者というそしりを

受けないようにしてください。

わたしは黙し、口を開きません。

あなたが計らってくださるでしょう。

詩篇39:7~10

 

今日の聖句は人間をよく言い表しています。人間は必ず死ぬので、「ただ影のように移ろうもの」と表現してみると、そうだなんと儚いものなんだろう、と人間の一面を認めるのです。自分の知らない生き方があって、それぞれに苦労しながら働き、それがいかに不確実で頼りなくてもそこで生きているのです。梨農家の方がテレビに出ていましたが、梨を生産することの難しさを語っていました。自然を相手にしているので毎年違うので大変だと言っていました。ほとんど休むこともなく働き、どうなるかもわからない結果に委ねているのです。富を得たと言う人も、その富を積み上げるだけで、死ねば誰かのものになってしまいます。このように、この世の人間は空しいものなのです。「主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう」。あなたの答えは何ですか。あなたはどうしたいのですから。詩篇記者は、「わたしはあなたを待ち望みます」と言いました。これは、信仰者の答えなのです。神のいない人は、自分以外に望みを託す方がいません。人は裏切るかもしれないのです。結局は自分のために生きているので、他人のために献身的に働くには限界があるのです。富も人も当てにならないなら、何に望みを掛ければいいのでしょう。そうです、「私も主を待ち望みます」と信仰告白するのみです。もちろん、主が来られれば裁きが伴います。ですから、確実な望みが主であるのなら、主の御前に立てる者になる必要があります。罪は神に対しての罪なのです。聖書を読む者は、主の命令を知っていますから、その命令を無視していることが問題なのです。神に背く罪を何とかしなければなりません。それはキリストにかかっています。また、信仰が与えられているので、その信仰を使うのです。救いの道はあなたが知っています。悔い改めも知っています。そして、あなたの救い主も誰か知っています。ですから、希望があります。クリスチャンはこうして神を知らぬ者とは一線を画す者なのです。この世に馴染みすぎると思わぬ落とし穴に落ちるかもしれません。自分に不安があるのなら、イエス・キリストのもとへ急いで向かいましょう。

 

3月13日(金)

主よ、あなたは情け深い神

憐れみに富み、忍耐強く

慈しみとまことに満ちておられる。

わたしに御顔を向け、憐んでください。

御力をあなたの僕に分け与え

あなたのはしための子をお救いください。

詩篇86:15、16

 

あなたの神はどんな神だろうか。言葉にしてみればよい。この詩篇記者は、「情け深い神」と言いました。それだけではありません。「憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる」と彼の神を説明しています。この同じ神があなたの神なのです。ですから、あなたも同じように神を語ることができます。さて、このような表現を持って神に彼は迫っています。それは、憐れみを受けたいからです。その憐れみとは敵からの救いです。神の与えられた自由意志は、私たちが今まで自由に生きてきたことでわかります。しかし、少しでも悪いことをすれば、心が痛み、アラームが鳴るのですが、それもだんだん繰り返すと弱くなってきます。罪人の特徴は、悪いのは自分のせいではなく、誰かのせいなのだ、と責任転嫁してしまうことです。確かに、「あなたはお父さんに似ている」とか「母親に似ている」と言われることがあります。それが祖父や祖母であることもあります。つまり、ご先祖の遺伝子がずっと繋がっているのです。最後はアダムに至るのです。そんなわけで、人間の罪の歴史が自分にたどり着いているわけです。その私に自由意志を与えてみればどうなるでしょう。やがて罪に気づき、その罪に翻弄される生き方しかできないことに驚くのです。ただ、キリストの福音に接するまでは、自分の罪を正しく認識するわけではありません。自己正当化、自己中心という罪人の性格がそのまま出てくるからです。ですから、神はこの人がどう生きるかを見ているのです。果たして神の愛に気づけるか、それとも悪魔の誘惑の中で迷って生きていくのか・・・。幸いなことに福音を知って救われるなら、その人生は大きく変わります。それでも、悪魔の誘惑との戦いや敵に酷い目に遭わされることすらあり得るのです。そんな時に、神に頼ります。その時の祈りがこの詩篇です。私たちは、「主よ。憐んでください」と祈れるのです。神がどのようなお方か、分かったからです。絶体絶命の中でも、自分の力に頼るのでもなく、有力な人間に頼るのでもなく、ただ神の憐れみにすがるのです。このような者であることを知って、信仰によって生きているのがクリスチャンと呼ばれる人たちなのです。神はこのクリスチャンに憐れみを惜しまず、必ず助けてくださるお方なのです。ありがたいですね。

 

3月14日(土)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰られる。私は、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

人間は同じようでかなり違いがあります。見た目の違いもありますが、個性の違いはとても大きく、またその人を特徴づける脳の仕組みも行く通りかあって、例えばものの認識の方法が脳の仕組みで異なっているのです。これは、ものを覚えることや考えを深めることなど、違いを生じます。脳科学が21世紀は一番発展する科学と言われていますから、学校での勉強方法や自分が得意とする分野など、明確になって、生きづらく感じていた人たちも楽に生きられるようになると思います。今までの人間は、自分と同じように他の人も同じように考えたり覚えたりしていると思っていました。たまに天才と言われるような人が出てくると、多くの人と全く違った考えをしていることがわかったりします。ある、大学のクラスで簡単な実験をしたことがありますが、一つの素材でこれを何に使うか、を考えるという単純な問題です。ほとんどの人が2~4つぐらいを考えつきました。ところが10以上考えた人が2名いました。先生は、それが天才だと言ったのです。つまり、多様に物事を考えられるからです。頭の良い人と思われている人でも、答えは一つと無意識に思っている人がいます。一方では、一つの答えはあり得ないと思っている人もいるのです。その人は、いくつもの答えが浮かんでくるのですが、それらをさらに深めて総合的に全体像を考えているのです。例えば、英語を勉強する時に、単語の意味は一つか二つで納得してしまう人と、その単語の本当の意味が何であるかを理解しようとして、それに当てはまる訳をいくつも考えて人が言葉で何かを伝えようとした時に、それができるだけ正確に伝わるように、ふさわしい言葉を探すのです。現代では、LINEのように短い簡単な言葉で、時間を競うように返信しています。だんだん、繊細な言葉を使って目に見えない想いを伝える短歌のような文化が消え去ってしまうようで残念です。それでも、聖書の御言葉を読んでいる人たちは、深く心を動かして考えることができると思うのです。今日の聖句のように、神様が預言者を通して語りかけてこられるのですから、その語られた御言葉をどう理解したら良いのか、信仰者こそが考えてみるべきなのです。聖書研究会では脳の仕組みが違う人たちが自分の脳の働きを分かち合って、神様の御言葉が自分に何を語りかけているのかを正しく受け取るまたとない機会なのです。神様はあなたを教え、導きたいのです。それを特権と思って、上手に受け取りましょう。

 

3月15日(日)

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、わたしは、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

第二コリント12:9

 

聖書には私たちが知らなかったことが多々書いています。それは、自分の常識と思い込んでいたことを覆すような、時には非常識と言いたくなるようなことが出てくるのです。しかし、神の言葉は絶対ですから、未熟な自分が勝手に常識と思い込んでいただけで、自分の思い違いを修正する必要があるのです。しかし、パウロですら気がつかずに信仰体験から理解した真理が今日の聖句なので、自分は大丈夫かどうか自分を吟味する必要があります。しかし、こうしたことは、大変重要なことなのですが、実際にこのような状況にならないと納得できないかもしれません。それでも、自分の弱さは問題にならないと言ってみるのも悪くありません。それに、信仰者としての自分が弱いとどこかで思っている人には、この聖句を自分に対する主の預言であると考えても良いのです。確かに、この世の考えでは、強い方が良いし、カッコいいです。だから、去勢まではって自分は強いとアピールする人もいるぐらいです。しかし、キリスト教では、古い自分は死にキリストに結ばれて生きることが正しいとされていますから、死のうとしている人が強いと真逆のことを言っていてはまずいのです。それよりも、自分ではなくキリスト、と考えて生きているのですから、弱さの中に主の力が完全に現れるという状態こそ理想なのです。ですから、弱くてもクヨクヨする必要はありません。主が完全に働けるように、ありのままの自分を受け入れましょう。クリスチャンは主のゆえに気楽に生きて良いのです。 

 

3月16日(月)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。

そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5、6

 

テレビでは旅番組が多いので、視聴者は旅に行きたいと思っているのだろうと予想がつきます。実際に旅に出かける人も多いのですが、街を散策する番組をまたよく見かけます。番組制作者の意図なのか、路地を見つけると大抵の散策しているタレントさんがその路地に入って行きます。皆さんは、どうでしょう。私が牧師インターンの時の指導牧師は、信者さんの訪問などに行くと、帰り道は必ず来た時の道ではない未知の道を通るのです。私は、牧師は事故を起こしてはいけないと思っていることもあって、大きな幹線道路を通るようにしています。慣れない細い道は、事故の危険が潜んでいると感じるからです。今日の聖句は、何を教えているでしょうか。文字通りに読んで理解されれば良いのですが、この通りに実行している人はいるでしょうか。ポイントは、「主はあなたの道をまっすぐにされる」です。つまり、主があなたの人生を正しく堂々と安全に生きていけるようにされるということなので、私たちにとって願ってもないことなのです。そのためには、二つの守るべきことがあるわけです。一つは、「心を尽くして主に拠り頼め」ということです。これを実行するには、「自分の悟りに頼るな」という厄介な問題があります。私たちは、起きている時には、いつでも頭を使って色々考え、選択し、こうしようと決めているのです。中には、重要なこともあれば、人生を左右するような問題も起こってきますから、その度に決断しなければなりません。ここで、普通は「自分の悟りに頼る」わけですが、クリスチャンは心を尽くして主に拠り頼むことが正しいのです。これができれば、不安がなくなり、精神が安定します。さらに、二つ目は、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」つまり、いつでも主を覚えていなさい、ということです。この二つが守られれば、あなたの人生は王様が通る大通りのように安心して歩むことができるのです。

 

3月17日(火)

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

ヨハネ14:27

 

主は、十字架にかかられるほどに私たちを愛してくださいます。この地上に立たれ、人間の有り様をつぶさにご覧になられて、憐れみを覚えられたのです。そして、神の救済計画が主イエスによって着実に実行され、いよいよこの世を去らねばならない時に、主は私たちのために最も良いものを残されたのです。それが、今日の聖句の通り「平安」です。しかも、これは世が与えるのとは違います。信仰によって味わうことができる平安なのです。ですから、不信仰に陥って恐れるならば、受け取ることができないのです。さらに言えば、不信仰の始まりは「心を騒が」せることなので、心配したり、不安になったら主の平安をいただけないということです。この主の与える平安は、周りの環境に影響されません。クリスチャンにとっては、そこにある平安なのです。それは、主の中に入って守られているような平安です。物事の大変さ、事態の深刻さなど一切関係ありません。主が与えると約束されたので、そこにすでにある平安だからです。環境が平和だから、心配事がないから平安だ、というのはこの世の平安のことです。これは、たとえ今死ななければならなくても、あなたが受け取れる平安なのです。これは、信じなければいただけません。でも、信じてすぐに自分のものとすることができる平安です。主があなたの内におられるので、すぐにでもいただける平安なのです。ですから、恐れてはいけません。

 

3月18日(水)

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

慈しみと憐れみの冠を授け

長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

詩篇103:2~5

クリスチャンであるということは、大変恵まれたことなのです。聖書を日本語で読めることも神の御業なのです。そこには、真理があり、罪と義が明らかにされ、神の愛が言葉となっています。平凡な弱い人間であるからと神に見捨てられることはありません。神はそれどころか、自ら歩み寄り、労り、励まし、慰める神なのです。人間の呪いは罪にあり、こればかりはどうすることもできません。本来ならば、神が罪人として裁かなければなりません。ところが、神は罪に苦しむ人間を見て、憐れまれ、また、そもそもエデンの園でアダムとエバが罪を犯した時から、人間の救済計画を立てられたのです。義人を救うならともかく、罪人を救おうとすれば、正義を守る公義の要である神は矛盾を抱えることになります。罪の問題を解決せずには人を救うことはできないからです。そして、罪の解決のためには、死をもって償わなければならないのです。しかし、人間が死んでしまうのなら、救いにはなりません。そこで、神みずからが身代わりに死ぬことで人間を救うことをお決めになりました。それがイエス・キリストの十字架です。そのイエスが地上にこられたのも、私たちの身代わりに罪の贖いとなるためでした。そのことを誰も理解せずに、十字架につまずき、キリストに従っていた大勢の群衆も離れて行きました。ところが、キリストは墓から復活し、死を打ち破られたのです。これらキリストの出来事の全てが、私たちを救うために必要なことだったのです。そのキリストが地上に来てみたら、人々は飼うもののいない羊のように見えたのです。キリストは憐れみ、病気で苦しむすべての人を癒しました。彼は創造主なのです。ですから、医者が難しいと言うような病気でも簡単に癒されました。キリストの御前では死人もよみがえりました。キリストは、信じる者に恵みを惜しまれなかったのです。そして、それは今日も同じなのです。私たちは、主イエス・キリストを信じます。それは、魂から信じています。キリストに望みを置く者は、失望に終わりません。あなたの主は、希望そのものなのです。あなたの期待に必ず答えてくださいます。それは、主はあなたを愛しておられるからです。主は、あなたが癒され、救われるために十字架にかかられたのです。たとえ、呪いがかかっていても、イエスの十字架によってその呪いも解かれるのです。自由になって、主と共に楽しい人生を送るのです。主を賛美しましょう。喜びがそこにあります。主があなたのために勝利してくださいます。

 

3月19日(木)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」8:12

 

イエスの言われたことは、心に留めているといい。なぜなら、それは真理だからだ。この世の中には真理ではないものが、偽りの真理として溢れている。そこで、人間にとって何が正しいのかがわからずに、道を踏み外してしまうことが起こる。人間にとっての救いが天国というゴールがあるのなら、そこへ至る道は一本である。それは、もちろん、イエス・キリストである。イエス・キリストがなぜ、人を救う一本道であるかと言えば、世の光だからだ。明るければ、誰も道に迷わない。しかし、この世界は暗闇なので、人々は暗闇の中を歩くことになっている。そこでは、偽りも真理も見分けがつかない。だから、暗闇というのだが、誰だって、そのような危険な人生を歩みたいとは思わないはずだ。それでは、どうすればいいのか? それは、暗闇の中を歩かなければ良いのだ。その方法は、イエス・キリストを信じることだ。信じるとは、信仰のことで、信仰には信じるだけではなく、それゆえに生じる行為が伴うのだ。それゆえ、信じることはイエスに従うことをも含まれるのだ。イエスは、光なので、暗闇に入り込むことはない。そして、イエスに従う者は命の光を持つ。それは、イエスは自らのことを真理と言っているので、真理は自由にする、という御言葉の通りに、自由になる。それは、罪、死、悪魔からの自由だ。これを救いという。この自由は、「愛によって互いに仕える」ためのもので、律法全体を全うすることになります。暗闇の中では肉に罪を犯させることができましたが、光の中ではできないのです。救われて新たな命を得た者は、光の中を歩まなければならないのです。それは、イエス・キリストの中を歩むということです。この世の思い煩いに心を使うなら、暗闇に迷い込んでしまいます。その人は、イエス・キリストを見ようともしません。見ているのは自分ばかりです。そのような人は悪魔の誘惑に気がつきません。ですから、初めは良いのですが、だんだん悪くなり、しまいには破綻するかもしれないのです。命の光は、イエス・キリストを信じて従順に仕える者のものなのです。イエスは、どこまでもお優しいお方です。主を信頼して、自分から近づきましょう。その力をも失った人は、魂から叫びましょう。主はすぐに助けにこられます。あなたは主に愛されている人であることを忘れないでください。

 

3月20日(金)

「その苦難の日々の後、たちまち

太陽は暗くなり、

月は光を放たず、

星は空から落ち、

天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子の微が天に現れる。

そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、

人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。

人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。

天使たちは、天の果てから果てまで、

彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 

 

主の再臨は、聖書に預言されているので確実に起こります。聖書を読んでいる方々は気がつくと思いますが、この世は、同じようなことを繰り返しています。日本人のメンタリティーにも栄枯盛衰の物語が影響しています。それなのに、人間は平和な日々が変わることなくいつまでも続くように思っています。ところが、イランとイスラエル、アメリカの戦争が始まり、世界中が巻き込まれてしまいます。中東が石油の産出国が集まっている特別な場所なので、世界中が困ってしまうのです。タイでは、火葬場の燃料が不足し始めて火葬ができなくなると慌てています。日本も例外ではありません。21世紀が始まる時には、もう世界に戦争は起こらないと誰もが思っていたのです。それなのに、時計を逆に回したように、戦争が始まり、ヨーロッパの国々では政治が右傾化して行きました。第二次世界大戦の前のようになってきたのです。このように、人々の思いとは別に、聖書に書かれた通りに起こって行くのです。再臨の日は世の終わりの日です。その時まで、信仰をも持ち続けているならば、ここに書かれている通り、天使たちはイエスに選ばれた人たちを四方から集めて救い出すのです。この日、地上に残る人たちと天に挙げられる人たちに分かれるのです。もちろん、天に挙げられた人たちだけが救われ、天国へ入れるのです。それまで、信仰を守り抜いた人たちだけが、救われます。この世に惑わされた人たちは、信仰者でもふるいにかけられるのです。皆さんの忠実な信仰は必ず報われます。そして、その時はだんだん近づいているのです。人の目を気にせずに信心深く生活して参りましょう。 

 

3月21日(土)

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

申命記6:4、5

 

出エジプトを果たしたイスラエルの民は、荒野の試練を乗り越えなければなりませんでした。これらの出来事は、まるでクリスチャンになった人が歩む道のように見えます。クリスチャンになった人は、初めこそこの世の人とあまり変わらないように見えますが、月日を重ねて行くにつれて成長し、この世にありながら神の国の住民に見えてきます。では、クリスチャンはどうやって霊的に成長を果たして行くのでしょうか。それは、今日の箇所を理解することです。日本流に言えば、「全身全霊を持って唯一の主を愛しなさい」とでも言えばいいでしょうか。聖書の不思議は、御言葉の力です。ですから、御言葉をそのまま覚えて忘れないことです。まず、興味深いのは、「我らの」とあることです。つまり、個人的なことではなく、神の民の一員として、正確に言えば、イエスの体である教会として考えます。ですから、教会の皆さんと共に「我らの神、主は唯一の主である」と唱えることです。教会といえども、普段はそれぞれの人生を歩んでいます。仕事もそれぞれ違います。学生かもしれません。しかし、一人で信仰を守っているわけではないのです。我らの神と唱える、信仰の家族として繋がっているのです。主は唯一なのです。ですから、偶像に見向きもしません。この世のものはすべて偶像になります。それが証拠に、神と自分がしようとしている事を天秤にかけて、どちらかを選んでいます。今日の聖句を自分のものとしている人は、そもそも天秤にかけません。礼拝よりも仕事やこの世の付き合い、自分がどうしてもしたい事などを紙よりも優先します。この人が一体何を神に期待するのでしょう。これは、一人一人の課題なのです。誰も助けることができません。この神を唯一としているのは、他を寄せ付けないからです。そして、正しい信仰は、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という御言葉にあります。このようにしていれば、決して神を第二にすることはありません。いつでも第一が神であり、主なのです。しかも、愛することでしか、主との関係を第一に保つことはできないのです。神は愛なので、だから私たちも神を愛する者であることは当然のことなのです。愛と同質なのは愛だけだからです。今日の聖句はキリストも弟子たちに教えていますから、最も大切な掟です。

 

 3月22日(日)

いかに幸いなことか

神に逆らう者の計らいに従って歩まず

罪ある者の道にとどまらず

傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し

その教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び

葉もしおれることがない。

その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

詩篇1:1~3

 

詩篇の最初の第一篇はクリスチャンの理想像が描かれています。人は、この世のしがらみの中で、自由に生きることができません。それでも、信仰を持った者にはその生き方があるはずです。それがどのようなものであるか、知りたいと思うものです。そして、詩篇にそれが見出せると、主は私たちに覚えやし方法で教えてくださっていると思えるのです。この具体的な教えがなければ、人はなかなか変わって行けないのです。この詩篇の初めを読めば、この世では罪の誘惑に満ちていて、それを避けるには決意が要ることがわかります。悪人の誘いを断る勇気です。そして、「主の教えを愛し」とあるように、主の教えを自分がどう考えるかで差が出てくるのです。主の教えを学ぶだけならば、人間の弱さですぐにやめてしまうでしょう。しかし、私たちは「主を愛しているように、主の教えをも愛せるのです。これは、規則を守るというような受け身で消極的な態度ではありません。そうではなく、主の教えがもたらす結果が最上の恵みであるように、主の教えが自分にとってどれほど素晴らしいものか、理解することです。そうすれば、この世界がどうなろうとも、繁栄をもたらす生き方を実現できるのです。これは、結果でわかりますから、ぜひ挑戦してみてください。

 

3月23日(月)

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

ピリピ3:10、11

 

キリスト教は初めから迫害に遭うことが避けられなかった。キリストが私たちの元へ天から降り、十字架の道を歩まれ、キリストご自身が苦しみを受けられたのだから、当たり前かもしれない。ユダヤ人にとっては、イエスの新しい権威ある教えが、つまずきとなり、自分たちが守ってきた宗教を壊す教えのように感じて抵抗したのだ。同じようなことが人間の歴史を通して繰り返されているように思う。真理を誰かが発見すれば、今までのようには行かなくなる。慣れ親しんだ教えの方が安心できるのだ。しかし、イエスが来られた時に、ファリサイ派の人も律法学者もイエスの教えを理解する柔軟性がなかった。自分が守ってきたことが侵害されていないかということばかりが気になって、安息日に癒される病人を見れば、良かったと喜ぶよりも、自分の信じてきたことが損なわれてしまったと、神への冒涜にまで感じたのだ。このようなことが今日でも同じように起こるのは、キリストが誰であるかを知らないからだ。今日の聖句を読めば、パウロは普通の人が知らないことを知っていることが明らかだ。誰が、「キリストの死と同じ状態になり」などと考えるだろうか。教理であれば、安心して教団などの教えに従えばいい。しかし、教団が人を救うわけではない。キリストによらなければ救いはない。キリストがなぜ人間になったか考えれば、色々わかるだろう。その中でも、私たちの模範となられたことは注意が必要だ。つまり、キリストは人間になって、人間が救いのためにできることを知ったのだろう。その上で、ではどうすれば救われるのか、救いの道を示したのだ。私たちが洗礼を受けたのも、古い罪人に死に、清められ、新しい人に生まれて、と色々聞いたはずだ。さらには、聖霊のバプテスマも必要で、現代のような世俗化が入り込んできた教会では合理化されて水のバプテスマの時に自動的に受けていると勝手に説明してしまう。実際にはそうではないので、信仰者は戸惑うばかりなのだ。そして、霊的に覚醒しないまま、頭でっかちに知識だけ積み重ねるのは、心配になる。なぜなら、実際に聖霊のバプテスマは今もあり、熱心な祈りにより、キリストを信じたものなら誰でも受けられる。本当の問題は、そうやって水と霊から新しく生まれても、その先の道が知らなければ、停滞してしまうことだ。つまり、今日の聖句を見れば、パウロでもキリストの示された道を一つ一つ辿っていることに気がつく。クリスチャンになっても、なかなか自分の罪の問題を解決できずいたり、霊的成長を願っているのにできないと悩む人が出てくるのだ。そのような人たちが、パウロが何をしているのか、ここを読んで理解できるだろうか。キリストの死にあずかれば、古い自分に悩まされずに霊的に死ねるということだ、それは、遺伝子レベルの抱えていた悩みからの解放になる。しかし、死んだままでは意味がない。だから、キリストの復活にあずかることを願っているのだ。このようなことは、自分の力ではできない。聖霊の助けがなければできないことだ。しかし、キリストに集中している人は、苦しみも経験するだろうが、死、復活と通るべき道を辿れるのだ。祈りと御言葉の研究、そして聖霊に満たされる経験が励みとなるはずだ。

 

3月24日(火)

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

ヨハネ8:31、32 

 

クリスチャンになって、時々、「キリストの弟子」という言葉を聞くようになります。初めはピンときませんが、聖書になれて、礼拝にも出席し、祈ることもできるようになってくると、イエスの御言葉が気になってきます。印象に深く残るのですが、すぐに理解できる御言葉は、敵を愛しなさい、というように実際に守るには難しいのです。それでも、イエス・キリストを信じている喜びがあるので、無視することなく、そういうことなのかと心に留めておきます。そのようにして、クリスチャンとして聖書的に考えて生きるようになるのです。それが進めば、今日の御言葉のように、私もキリストの弟子です、と言いたくなります。この弟子になることが重要なのは、そのことが、「真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」という御言葉につながるからです。私たちが、正しく生きてきたつもりでも、罪があると気がつかせてくださったので、罪を知ると、今度は罪から離れられない不自由を知ることになります。だから、頑張ってみても、ますます罪がはっきりしてくるのだけで、罪から逃れられないという恐ろしさに気がつきます。そして、その罪の解決がイエス・キリストにあり、そのことを信じる信仰によって、救われることを知ったのです。そして、洗礼を受けてクリスチャンになりましたが、罪の問題は再びクリスチャンの問題になってくるのです。その理由は、イエス・キリストの御言葉にとどまる本物の弟子になることが課題になるからです。それは、少なくともキリストの御言葉を聖書で全部読んでみることです。そして、その御言葉にとどまるならキリストの弟子であるというのです。この段階を達成したなら、次にキリストが真理であることを理解します。真理を知るということはキリストを知ることなのです。そのキリストがあなたを自由にするのです。この段階までは、気を抜かずにキリストに心を向け、キリストに祈り、キリストの御言葉に注意を払い、真理に到達することを目指すのです。これは、難しくなく、誰でも求める者には与えられるのです。

 

3月25日(水)

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

第一ヨハネ5:4

 

クリスチャンは神から生まれた者です。これも奇跡なのです。自覚がなくとも、目が開けたら、自分が新しく神から生まれた者となっていることがわかるでしょう。聖書には、この者が世に打ち勝つと明言しています。この世は、最後に完全に滅び去ります。しかし、それまではサタンは無駄に抵抗し、聖徒たちをも滅ぼそうと企みます。この世は、サタンの唆しにより、神は無いと言い切り、そのくせ偶像を拝むように働きます。それは人間の醜い欲が造り出す形あるもので、その背後にサタンがこの世の神として暗躍しています。しかし、クリスチャンたちは神を信じて神の国に生きようとしますから対立します。そこで、迫害が起こってくるのです。サタンは近代では科学を利用して、神はもともといないと人間に思わせようとしています。しかし、福音は人を救う力があるので、科学と宗教を対立させて戦っているのです。一方、世俗化がとどまることなく教会にも流れ込み、霊的なことを信じることが難しくなっています。霊的に弱くなると信仰も比例して弱くなります。そこで、世界的に教会の勢いが低迷しているのです。私たちは、知っています。確かなもの、信じるに足るものは、聖書であると。聖書から真理を知り、キリストへの圧倒的な信頼を持っています。ですから、信心深く生きるのか、中途半端に信仰を持つのか、で結果が違ってくるのです。最後に勝つのはイエス・キリストであり神なのです。しかし、この世の神であるサタンは最後まで諦めずに抵抗してきます。ですから、教会も巻き込まれます。しかし、聖書の預言は、明白です。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」。このように、終末に生きる私たちは、信仰によって生きる覚悟が必要です。そして、その信仰によって勝利し、主に守られ恵みから恵みへと進むことになっているのです。クリスチャンであることに感謝いたしましょう。

 

3月26日(木)

主を畏れて身を低くすれば

富も名誉も命も従ってくる。

箴言22:2

 

成功した人生を生きるには、どうしたらいいのでしょうか。このような質問をする人はどこにでもいるものです。しかし、大多数の人は流されるように生きています。なるようになると、たかをくくっていると後悔するかもしれません。それでは、聖書は何と教えているのでしょうか。今日の聖句を読めば、それが答えです。信仰を持っている人はそれだけで良い人生を歩める可能性を手に入れています。この世では、富を欲しがる人はたくさんいます。そして、富を実際に手に入れた人は、次に名誉が欲しくなります。これは富よりも難しいのです。富も名誉も手に入れたとして、長生きすることもできずに死んでしまえば、良くて銅像を建ててもらえるかもしれない、というぐらいのものです。それもなければ、すぐに忘れ去られてしまいます。ところが、主を畏れる者は、命も手に入れるのです。それも、永遠の命です。クリスチャンになるということは、このように聖書を神の御言葉として読むことができ、そこに書かれた通りに生きることもできるのです。無欲な人も、生活に困ることはありません。病気をしたり寝たきりになることもありません。主を畏れる生き方をして身を低くしているからです。神の祝福を受ける者は、このように生きていけるのです。

 

3月27日(金)

軽率なひと言が剣のように刺すこともある。

知恵ある人の舌は癒す。

箴言12:18

 

人間は言葉で失敗することがあります。それは、ちょっとした気の緩みやあまり考えることもなく発したひと言が、相手をいたく傷つけてしまったり、怒らせてしまうことがあります。ところが、知恵ある人はそのような言葉の失敗をしないのです。それどころか、人の話を聞くにも、注意深く話を聞いています。ですから、いつもの元気がなければ、その言葉の背後に何か心配事がないか、と気を配ることができます。その上で、相手の心に届く言葉を探すのです。人を大事にすることはクリスチャンにとって大切なことなのです。「互いに愛し合いなさい」「互いの重荷を負い合いなさい」と主の教えを覚えています。ですから、愛の眼差しを向けて、相手のことを思いやるのです。また、話し上手は聞き上手なので、とにかく相手の話をちゃんと聞こうとします。歳を取るとだんだんせっかちになり、人の話を最後まで聞けなくなると言われています。それでも、クリスチャンは忍耐を学んできたのですから、相手への愛がまさるはずです。それだけでも、相手の言い分を受容し、相手の気持ちに共感し、相手をいたわる気持ちがあれば、相手を癒す言葉をかけているでしょう。知恵のないものは神に願えば与えられるとヤコブ書(1:5)に書いてありますから、知恵を求めて祈りましょう。大切な兄弟姉妹を軽率なひと言で刺すようなことがないように祈り、気をつけたいと思います。

 

 3月28日(土)

主は倒れようとする人をひとりひとり支え

うずくまっている人を起こしてくださいます。

ものみながあなたに目を注いで待ち望むと

あなたはときに応じて食べ物をくださいます。

すべて命あるものに向かって御手を開き

望みを満足させてくださいます。

詩篇145:14~16

 

私たちは決して一人で生きているのではありません。自分では意識していなくても、誰かがあなたのことを気にかけているものです。しかし、人間は罪のせいで自己中心に生きるくせがついています。そこで、人からの愛情を求めていながら、人に愛情を与えようとはしないものです。与えるにしても条件付きなのです。そのようなものがこの世界で生きていけば、いろいろなことが起こり、対立や不和が本当に自分を苦境に立たせることも起こり得るのです。幸いにも、私たちは神様に救われました。イエス・キリストを個人的な救い主として信じています。それは、教会の教理を覚えたからとかではなく、個人的に主と出会っているからです。パウロのような劇的なことが起こらなくても、今では自然とイエス様と話しかけているのです。そして、今までに、何度助けていただいたことか。数えきれない恵みをいただいてきました。この主は、私たちが人生で倒れそうな時に支えてくださったのです。うずくまるほどのことが実際に起こると、必ずかたわらにイエス様が立たれ、起こしてくださるのです。世界中にクリスチャンはいますから、その人たちが食べるものもなく、お腹を空かせて主に祈り、待っていれば、必ず食べ物を与えてくださるのです。あなたの祈りを喜んで聞かれ、あなたの心の中の願いを理解して、それをかなえてくださるのもイエス様なのです。あなたは、イエス様を信頼しているので、幸福に暮らすことができます。そして、あなたは、イエス様とこの人生を歩めることを感謝し、喜んでいるのです。あなたはゴールを知っています。あなたの主は、ゴールに続く道なのです。

 

 3月29日(日)

この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。・・・「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

第二コリント4:4、6

 

福音宣教は、二千年前の初代教会以来の使命です。私たちは日本人がうけ持ちです。日本が世界で最も伝道が進まない国の一つなのですが、日本人は1億人以上いますから、大きな伝道地なのです。イエス・キリストも福音を伝えるように命じましたが、未だ全ての国、民族に届いていません。キリスト教伝道を禁じている国もありますが、そうした国へもクリスチャンがボランティアで助けに行っています。日本のように識字率が高く、教育が進んでいる国でも、伝道がうまくいかない理由は研究されていますが、今日の聖句を読むと、信じようとしない人々の心の目をくらましている「この世の神」と称する悪魔が働いているというのです。「福音の光が見えないようにした」というのですから厄介です。しかし、一方では、クリスチャンが存在するのですから、真の神も何か対抗して働いているのです。それは、「私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。ですから、日本伝道に希望はまだあります。神が、さらに多くの日本人の心にこの光を与えてくださることを祈りましょう。そして、私たちが日本伝道に期待されていることを覚えましょう。いつか日本にリバイバルが起こりますように、祈り続けましょう

 

3月30日(月)

ペルシャ王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、私はペルシャの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。

ダニエル書10:13、14

 

イランとイスラエル・アメリカの戦争は、世界中の人に不安をもたらしています。この戦争が長引けば、大変なことになります。イランは、ペルシャの流れを汲むものですから、特別なプライドを持っています。周りの国々を見下すイランは、戦争相手として厄介な相手なのです。さて、今日の聖句は、そのペルシャの名が出てくるところで、ダニエルに見せるための幻です。預言者であるダニエルだからこそ見せられている幻です。この幻の中では、ペルシャ王国の天使長が出てきます。これは、サタンを表していると考えられます。ペルシャの指導者たちにサタンは働き、イスラエルの民を帰還させないように捕囚のままに留めるように、イスラエルの民を苦しめるように働きます。それに対し、天使たちはクロス王が神殿再建のためにエルサレムに帰ることを許すように働いているのです。このように、サタンの軍勢と神の軍勢が戦い続けているのです。善悪の戦いです。この人間の歴史を通して、善と悪の戦いは続いています。ですから、今も私たちは油断してはならないのです。神の民は自分だけは大丈夫だと敵を軽く見てはいけません。そして、ミカエルが出てきますが、これはイエス・キリストのことだと解釈します。「大天使長のひとり」と出てくるので、何人もいる大天使のうちの一人と考えてしまうでしょうが、正確には「天の軍勢の指揮官」という意味に解釈できます。聖書にはミカエルの名は四箇所しか出てきません。ダニエル書12:1「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する」とあります。黙示録12:7には「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。・・・」と出てきます。あとはユダ書9節です。今回の戦争でも、目に見えないところでイエス・キリストと御使たちが戦ってくださています。こうして、確実に再臨へと進んでいるのです。信仰を持って生きて行きましょう。

 

3月31日(火)

 

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

ガラテヤ5:6

 

キリスト教の救いは、救われた者がキリストに結ばれることです。霊的なことを説明しているので、ピンとこない方もいるでしょうが、キリストと自分の関係が想像以上に深いということです。私たちは、以前と同じように生きているので、キリストの近さがよくわかっていません。思い出した時だけ、キリストがそばにいるということではありません。神は霊なので、私たちも霊として交わりを持つことができます。ただ、人間は肉と魂と霊によってできているので、目に見える肉に意識があります。そこで、目に見えないキリストに結ばれていると言われても、実感が湧かないのです。目に見えず、肉のような実感もないのなら、キリストに結ばれていることをどのように知るのでしょか。パウロが強調しているように、肉ならば律法、霊ならば信仰です。残念ながら肉に罪は宿っていたので、肉は良いものとは言えません。肉には欲がついて回ります。ですから、肉で自分を義にしようとすることは無駄なことなのです。それよりも義であるキリストに信仰で結ばれていることの方が義となれるのです。聖書は信仰について多くを語っていますから、信仰について調べ、考えてみることは有益なのです。割礼も肉のことなので、無くても問題ありません。クリスチャンが心して目指すのは、「愛の実践を伴う信仰」なのです。これだけを目標に掲げていれば、素晴らしいクリスチャンになれます。もちろん、キリスト・イエスに結ばれていることが条件です。クリスチャンはキリストに結ばれている人のことなのです。そうであれば、「愛の実践を伴う信仰」が大切といつも唱えていましょう。