2025年12月ディボーション

12月1日(月)

終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

第二コリント13:11

 

聖書の中に「喜びなさい」との御言葉を何度も見つけます。クリスチャンなら、よく知っている御言葉です。しかし、それでクリスチャンがいつも喜んでいるかといえば、そうでもないのです。喜ぶということが意外と難しいからです。何か喜ぶことがあれば簡単なのですが、それがなかなか無いのです。では、なんで「喜びなさい」と言っているのでしょう。喜ぶ理由がなくても無理しても喜ぶのだと言われても、そのような無理はできません。では、聖書で何でこのようなことを書いているのでしょう。ネガティブでいないで、ポジティブでいなさい、と言っているのでしょか。実は、ラジオで面白いことを聞きました。それは、超能力の話です。超能力とは、自分の能力を超える能力のことだというのです。つまり、今の自分の能力は全ての能力を出し切っているわけではない。それは、右か左の脳が今以上の能力を出さないように制御しているからだ。というのです。実は、脳には今よりもっと大きな能力があるのに脳がそれを出さないように止めているというのです。これは、本当かどうかは定かでありませんが、もし、そうであれば、霊の賜物の話にも意味があるかもしれません。それは、信仰者の一人一人に霊の賜物がそれぞれにふさわしく与えられているというのですが、残念なことですが実際には、ほとんど霊の賜物のあらわれを見ていないのです。この霊の賜物の現れるために必要なことは、信仰なのです。もちろん、前提は聖霊のバプテスマですが、それを受けていても聖霊の賜物が出てこない理由です。それは、もしかすると、その霊的な力が現れないように、脳がストップをかけているのではないか、この脳のストップを外すのは、実は、「信じる」ことで、これは信仰そのもののことを意味しているのではないか、という仮説です。例えば、病人を前に祈ればその病が癒されるほど信じることができないことが大きな障害なのです。ところが喜ぶことが信じることに影響を与えて、癒しの賜物が出てくる。つまり、自分が祈っても癒されるはずがないと思っていれば当然癒されません。しかし、聖書に「喜びなさい」とあるので、喜んでみる、すると喜びの理由がないのにも関わらず、喜びが本当に沸き起こってきたとします。すると、「癒される」と続けて信じてみるのです。無意識のうちに「癒されるはずはない」と理性が考えてしまうのが、この時に崩れてしまい、癒されると信じられるなら、癒しが起こるかもしれません。もちろん、この賜物が与えられている人に適用されるはずですが、賜物が無くても、信じることができれば、癒されることが起こるのではないか、と思えました。実際、脳あるいは思考が「信じられない」と思えば、その先に何も起こりません。その逆に、「信じられる」と思えば、奇跡は今も起こっているのです。少なくとも、そのような証や報告があるのです。自分が何の賜物をいただいているのかは、現代ではわからなくなっていますが、それは、自分の好みや実際に奉仕していることにあらわれていると言われています。これらの賜物は、教会で互いに仕え合うことが望まれているので、その中で必要とされるのです。いずれにしろ、神の支配のもとで発見され、主の御心のままに用いられるものなのです。

 

12月2日(火)

神はわれらの避け所、また力。

苦しむとき、そこにある助け。

詩篇46:1

 

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。

私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

詩篇4:3

 

クリスチャンでも苦しむ時があります。自分だけは大丈夫と思っていても、何かしら悩みが生じることがあるのです。ところが、長くクリスチャンとして生きてくると、今日の御言葉が真実であることを体験してきたと言わざるを得ません。苦難に陥ってしまうと自分の無力を思い知るのです。そして、頼りにしていた人にも裏切られるかもしれません。一人でこの苦難を何とかしなければならないという状況は、誰にとっても最悪な事態です。非難の矢面に立たされる時、「神はわれらの避け所」と書かれた通りに、神は私たちを苦境から緊急避難させてくださるのです。苦しいからこその助けがいかにありがたいことか体験してみてわかるのです。それにしても、なぜ、私を助けてくださるのだろうと思うならば、それは、あなたが聖徒であって、主が特別に扱われているからなのです。あなたの声は、主にちゃんと聴かれています。ですから、あなたは主を信頼して助けを待つことができます。この世で失うことは、必要のないものです。あなたには永遠に耐えるものがふさわしいからです。ですから、正しく胸を張って生きて行きましょう。

 

12月3日(水)

してみると、あなたがたも、悪いものではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

ルカ11:13

 

クリスチャンにとって良い物とは、聖霊のことです。聖霊なしには完全になれません。初代教会では、すべての人が聖霊を受けていました。教会でもその仕組みがあったようです。例えば、聖霊のバプテスマを長老の按手によって受けると、その時に長老がその人に与えられた聖霊の賜物の種類を教えていたようです。それらを使って、互いに奉仕していたのです。それはワクワクするような教会であることが想像できます。そして、現代の教会でもこの聖書の約束は有効なのです。現代人は霊的なものに否定的な教育を受けてきました。宗教に関わることなら迷信と片付けられてしまいます。科学が万能で、宗教の神秘的な事柄はすべて非科学と否定されてしまうのです。この一方的な考えが、人間の精神性や霊性を無視することになって、精神的な悩みを解決できる場としての宗教の良さが失われてきたのです。しかし、人間の弱さは消えるわけではないので、逆にカルトや詐欺まがいの宗教に悪用されて、酷い目に遭う人たちが出てきました。教会は、福音宣伝と共にキリストの働きの継承者であるはずですから、弱い人たちを助ける役割もあるのです。しかし、聖霊の助けなしには同じ弱い人間でしかないのです。キリストを約束を守って、別の助け主である聖霊を遣わしてくださいました。使徒言行録のペンテコステの日以来、聖霊は降り続けているのです。ただ、それを受ける信仰があるかないかが問題となります。私たちも天の父の子どもになって、聖霊を求めましょう。今日の御言葉の約束を信じて、聖霊を求めて満たされましょう。

 

12月4日(木)

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。

ヨシュア1:9

 

人生とはいつ何時、思いもかけないことが起こるかわかりません。たいていは、恐れたり、心配して、弱り果てることになります。しかし、人生経験を積むと、いたずらに恐れてはいけないことを知ります。自分自身がしっかりしなければ、良い方向へ向かうことはありません。信仰者も同じで、普段から謙遜に生きているクリスチャンでも、トラブルに巻き込まれることはあります。こちらに落ち度があって謝罪するにしても、恐れてはいけません。神を知らない人のように振る舞ってはいけません。神は、あなたに約束をしているのです。「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある」と聖書に書いてある通りなのです。一人では、怖くても、主と共に行くのならどうでしょう。勇気が湧いてくるのではないでしょうか。相手がどんな人でも、神ではなく人間なのですから、恐れることはないのです。たとえ、相手が敵意を抱いていても、それでも主が共にいてくださるのですから、大丈夫です。問題は、恐るなと命じられているのに恐るなら、それは罪になるかもしれません。そもそもが不信仰なのですから、良い結果を期待することはできません。ですから、単純に御言葉を守ることです。それで、どんな結果になっても心配する必要はありません。主がついていてくださるというのは、これ以上の恵みはないのです。ですから、結果的に良いことになるとわかっているので、思い煩わないことです。恐ろしくなったなら、あなたの味方は誰か思い出してください。それは、神です。

 

12月5日(金)

あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。

申命記7:9

 

クリスチャンには報いがあります。主を信じているだけで恵みの人生が約束されているのです。それでは、クリスチャンの信仰とはどのようなものなのでしょう。それは、主を愛していること、主の命令を守ることです。もちろん、律法主義者のように、出来もしないことを自慢するような者とは本質的に違っています。なぜなら、主を愛しているからです。罪人は愛を裏切り、自己犠牲的な愛とは無縁な者です。ですから、罪から解放されない限り神を愛することはできないのです。まず初めに神が愛してくださいました。それで神を愛することができたのです。不思議なことにクリスチャンになる人は、自分の神が誰であるか知っているのです。洗礼を受けてクリスチャンになると、主だけが神であることを確信します。信仰生活が続くのは、神が誠実であるからです。私たちのような頼りない弱い者を主は愛してくださるのです。それは、試練の時にも変わりません。私たちが弱さを見せても、憐れみを持って接してくださいます。日々、慈しんでくださり、正しく歩めるように恵みを惜しみません。「恵みの契約を千代までも守られる」とある通りで、クリスチャンとして主を愛し、主の御心の通りに生きていこうとするなら、主は喜び、共にこの旅路を進んで行こうと励ましてくださるのです。そして、自分たちの子孫にまで恵みの約束は継続されて行くのです。主の愛は変わらないからです。

 

12月6日(土)

あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。

主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさならない。

詩篇55:22

 

何か心配事があるだろうか。自分がしなければならないことが重荷になってはいないだろうか。いつも忙しく生きていれば、疲れてくるのは当たり前なので、ちょっとしたことが重荷になるものだ。それでも、休むことなく頑張らなければと考えると危険な領域に足を踏み入れている。だから、あれもこれも自分で頑張ろうと考えずに、主にゆだねることを覚えよう。あれをして、これをして、といつの間にか、こうしたことが重荷になっている。だから、一旦立ち止まって、これは主にゆだねようと祈って任せてみる。そして、自分は無理せずに休むことだ。困ったことや無理難題を突きつけられるようなことはすごいストレスになる。クリスチャンだか我慢して、頑張ろうとしていなだろうか。まずは、主に相談してみることだ。できないものはできないので、はっきりと認めることだ。誰か人が自分にプレッシャーをかけてくることもある。どうして、ひどいことをするのかわからないのに、情け容赦なく攻撃してくるなら、立派な重荷になる。これも、すぐに主に祈るべきだ。真面目なクリスチャンにとって、誠実に良いクリスチャンを演じようとすれば、それは無理なことをしていることになる。作られた良い人など何の意味もない。せいぜい偽善者になるだけだ。そうではなく、一生懸命に頑張ってもできないことがある時に、主に祈り、へりくだって自分にはできないと認めることだ。謙遜に生きる姿勢が身につくなら、それこそが立派なクリスチャンといえる。その時、自分のプライドはへし折られるだろうが、それは大したことではない。人々に認められる立派な人となりたがるが、それは幻想だ。十分に自我が出ているのだから、立派なはずがない。それに気がつけないところがプライドなのだ。だから、そんなものは早くへし折られたほうがいいに決まっている。今日の聖句の人は、プライドをへし折られて、謙遜に生きることを知った人のことなのだ。そのような人を主がいかに大切にお世話してくださるか、わかるだろうか。「正しい者」とは、神の救いのご計画を知って、それを信じた人のことだ。イエス・キリストを知っている。そして、主への忠誠心がとても強い。だから、いつでも神を第一にし、キリストの弟子であることを自覚し、御言葉をよく学び、御言葉の教えを実践している人のことなのだ。そのような人が揺るがされるようなことはないと主が約束されている。

 

12月7日(日)

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

コロサイ3:12

 

クリスチャンの正しい評価は、ここに書かれている通りです。つまり、あなたがクリスチャンであれば、このように高い評価が下されています。これらは、自分の力で得たものではありません。そのことはあなたが一番良く理解しているはずです。それでも、まず理解して欲しいのは、あなたは「神に選ばれた者」なのです。それだけではありません。「聖なる者」であります。さらに、「愛されている者」なのです。これが、クリスチャンになった、あなたの真実な姿なのです。これらは、あなたにとって実感しにくいかもしれませんが、聖書に書かれていることから、信じる必要があります。違和感があるなら、毎日、自然と受け入れることができるまで、聖書を繰り返し読む必要があります。「神に選ばれた者」というのは、洗礼を受けてクリスチャンになれたのですから、一番受け入れやすいでしょう。次に「聖なる」という言葉にはそうではない、と否定的になりやすかもしれませんが、真実なのです。というのもキリストの十字架によって聖なる者にしていただいたからです。三番目の「愛されている者」というのは、信仰生活の中で実感できることです。こう考えてくれば、これらは受け入れることができます。そして、そのような者にしていただいたのです。信仰は、この奇跡を信じる力です。さて、クリスチャンとしてどう生きていけばいいのかという疑問が皆さんにあります。その答えが下の句に書かれています。「あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけないさい」とあるのですから、これらを意識して、日々身につけることを課題にして行くことになります。これらのリストを見ると、聖霊の実と一致します。ですから、聖霊の助け無しには難しいことです。しかし、自分でも意識してみるなら、肉と霊との戦いに加勢することになるのです。このようにして、品性を神が問題にしていることを忘れてはいけません。あなたは、もっともっと素晴らしいクリスチャンになれます。御言葉の通りになると信じ、聖霊と同じ思いを持って、キリストのような品性を身に着けて行くことが可能なのです。聖霊のお働きを妨げないように、むしろ協力することを心がけましょう。霊的な成長があなたの人生の目的です。

 

12月8日(月)

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

誰がそれを知りえようか。

心を探り、そのはらわたを究めるのは

主なるわたしである。

それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。

エレミヤ17:9、10

 

 人間の考えることは良いことばかりではありません。ましてや、社会の中で複雑な人間関係の中では、ストレスがあり、理不尽なことも少なくありません。世の中の多くの人々は、良い人であって正しく生きています。しかし、それでも環境や人間関係などの中で悪人にもなれるのです。自分さえ良ければいいという考えは、よくないことと理解していても、究極の試みが来ればどうなるかわかりません。毎日悪いニュースが流れ、悲しくなります。皆んなが仲良くなり、助け合い、愛し合えば、良いはずなのに、自己中心な心があれば、たちまち不仲になり、問題が出てきます。外見で見ても人の本質はわかりません。せめてクリスチャンだけは、善人であって欲しいと思うのですが、キリスト教国の人も戦争を行い、多くの人を殺してきた歴史があります。平和が何より大事なのですが、戦争は止むことなく、軍備を増やしている国が後を立ちません。クリスチャンは、自分がして欲しいと思うことを相手にしてあげなさい、と教えられています。逆に、自分にして欲しくないことを相手にしてはいけないとも教えます。この教えが素晴らしいことは誰でもわかります。しかし、守られないことも起こるのです。さて、私たちは大丈夫でしょうか。自分のことばかり考えていないでしょうか。隣人を思いやる心を大切にしているでしょうか。今日の御言葉は、神が人間の心を探ることが書かれていました。清い、正しい心であると認められたら嬉しいですね。主は、「それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」と語ります。どのように生きているか、どのようなことをしたか、その結果はどうであったか、このようなことを主は見ておられるのです。そして、良いことをした人には良い報いが、悪いことをした人には悪い報いが与えられるのです。それらの業の実は、それぞれの心の結果なのです。ですから、正しい心、清い心を主に求めましょう。

 

12月9日(火)

私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。

哀歌3:22、23

 

神の働きは罪を裁くことです。そして、人間は罪を犯して正しい者は一人もいない、と聖書に書いてあります。ですから、人間は自分の罪のために滅ぶことになっていたのですが、イエス・キリストが地上に現れたのです。そのご生涯の全てが私たちを救うためでした。主が人を裁くはずなのに、人に十字架にかけられ処刑されました。主が人の救いを失敗したと思われていましたが、3日目に墓から復活しました。それで、十字架の意味がわかりました。人の救いのために主は、人々の罪を身代わりに背負って裁かれるために十字架にかかられたのです。それにしても、なぜ私たちが救われたのか不思議です。その答えは、今日の御言葉にあります。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる」と。

それでも、どうして罪深い私たちを救ってくださったのですか、と聞かずにはいられません。その答えも「主の憐みは尽きないからだ」と明快です。つまり、私たちは主の憐れみによって救われたのです。私たちは、救われるのが当然と思われるような正しい生き方をすればいいのですが、クリスチャンになってもまだ、人気的弱さをさらけ出し、情けない生き方をしているかもしれません。せっかく、悔い改めて今度こそ義と認められるようにと決意しても、すぐに罪を犯してしまうような者なのです。主に砕かれて、試練を通り、段々と整えられてきましたが、主の憐れみなしにはここまで歩んでくることはできませんでした。「それは朝ごとに新しい」との御言葉は真実で、主の忍耐深さがわかります。主イエス・キリストが私たちの救い主であることが喜びであり感謝なのです。「あなたの真実は力強い」ハレルヤ!。

 

12月10日(水)

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが

我らは、我らの神、主の御名を唱える。

彼らは力を失って倒れるが

我らは力に満ちて立ち上がる。

詩篇20:8、9

 

信仰を持って生きる人は、幸いです。主の御名を知る者は、恵まれています。この世の人たちは、神がいないかのように振る舞います。それは、古代の人々が戦車や馬を誇ったようにです。時々、軍事パレードを行う国のニュースが流れることがありますが、今日の御言葉は現代でも変わらないことを思わされます。イスラエルの国が20世紀に入って建国されると、軍備の強化がなされ、その力でアラブの国々に囲まれても存続しているように見えます。しかし、詩篇記者がこの様子を見たら、何と言うのだろうかと考えてしまいます。日本も隣国と緊張関係が続いていますが、幸い日本は信教の自由が法律で保障されているので、「我らは、我らの神、主の御名を唱える」と信仰に堅く立つクリスチャン達がいます。私たちの祈りが必要です。今、戦力が素晴らしいと誇っても、それが良いことではないとわかります。不必要な争いではなく、友愛が必要です。クリスチャンの私たちが何を祈るかが大切です。平和を作るものは幸いです、とあるように、主の御名を唱える者が平和を求めて祈ることが何よりも大事なのです。

 

12月11日(木)

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。

あなたは、その翼の下に身を避ける。

主の真実は、大盾であり、とりでである。

あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

また、暗闇に歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

詩篇91:4ー6

 

目に見えるものを信じることと、目に見えないものを信じることは同じではありません。目に見えないものを信じるのは信仰と呼びます。今日の聖句を読んでも、前者は神には羽があると思っているのか、と考え、後者は主の守りが手厚いものであると理解します。次の聖句も、前者は、あたかも絵やイラストのように神の大きな翼で信仰者が覆われている姿を想像します。しかし、後者は災いの時に、神の保護がすでにあるのだが、その神の保護の中に自分の意思で求めて身を避けるのです。信仰を持つ者とそうでない者では、いざという時に大きな差が生まれます。信仰を持たないと言うことは、自分の力だけを信じて生きていると言うことですから、自分の力では解決できない状況に陥ればすぐに恐れに圧倒されてしまいます。信仰者が信じている神は、その人にとって大きな盾であって、あらゆる攻撃を受け止めてくれるので、信仰者には被害が及びません。さらに大きな敵が攻撃してきたとしても、逃げ込めるとりでなのです。そこには、敵が入れないので、安全が保障されているのです。つまり、神は信じる者にとって、絶対頼れる存在なのです。夜は大昔から人間にとって恐ろしいものの表現です。つまり、見えない敵の存在です。昼の矢は、目に見える敵の存在です。暗闇に歩きまわる疫病は、コロナで学習した通り、見えないけど近くにいる感染症のもたす死の恐怖です。真昼に荒らす滅びは、自然災害や戦争のような大勢が死ぬことになる災厄です。このように人間にはいつどうなるのかわからない恐ろしいものがいくつもあるのです。それがいつ起こるかわからないのです。しかし、信仰者には、それら全てから守ることのできる神がいるのです。ですから、この神を信じることのできる人は本当に幸せな人なのです。

 

12月12日(金)

天が地上はるかに高いように

御恵みは

主を恐れる者の上に大きい。

詩篇103:11

 

高いものとは? 東京タワーやスカイツリーでしょうか。富士山も高いですが、世界にはもっと高い山があります。聖書では、天と書かれています。確かに、天は地上遥か彼方にあるでしょうから、私たちの目で見るような尺度を遥かに超えています。最も高いものの表現が天となります。今日の聖句のポイントは、信仰を持っている人がいかに神の恵みの大きさを過小評価しているかという点です。私たちが考えているよりも遥かに神の恵みは大きいのです。何かいいことがあったから神の恵みがあったと考えるのは、その過小評価のよい例です。神は小さくありません。そして、神はあなたに恵みを施そうとされるのですが、それはあなたを圧倒するほどの恵みです。あなたの常識では到底理解できません。あなたの神がいかに素晴らしいか、あなたは正しく知るべきです。まず、信仰があるのですから、神の恵みを信じることです。ちっぽけな人間の考えるような恵みではありません。天に届くほどの恵みです。それが神があなたに与えようとしている恵みなのです。問題は、あなたの方にあります。それほど大きな恵みを神がくださるということをあなたは受け止められるかということです。あなたは、大胆に神を信じると公言しています。ならば、天に届くほどの恵みを受け取ることができるはずです。信じるということはそういうことなのです。楽しみですね。素晴らしい神の御業を体験いたしましょう。

 

12月13日(土)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ8:37

 

私たちの神様は愛の神様なので、救われたクリスチャンは全員神様に愛されています。自分に自信がなくても、立派な功績がなくても、大丈夫です。あなたが救われた事実で明らかなように、あなたは神様の目から見ると魅力的で素晴らしい存在なのです。あなたは、自分の力を過小評価しているかもしれません。福音を聞いて信じて救われるということは普通ではありません。日本人の多くはクリスチャンではありません。ですから、あなたは特別な存在なのです。私たちが救われたのは、私たちを愛してくださった神様のおかげです。この神様は完全なお方ですから、中途半端な救いではありません。皆様が遭遇する大変な事が、どんなに困難で自分の力では解決できないようなものであっても、心配しなくていいのです。今日の御言葉を信頼してください。気がつけば、あなたは圧倒的な勝利者となっているはずです。この世の人たちには理解できない方法で神様はあなたを勝利者にします。それも、圧倒的な勝利者です。ですから、何事をするにしても、誠実に一生懸命にやるのです。その報いを知っているからです。どうか信仰によって自信を持ってください。

 

12月14日(日)

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

テトス3:5

 

私たちは、聖書を神の御言葉と言い、事実その通りに信じています。ところが、書かれたことをそのまま信じることが時々できずに、自分に都合よく理解しようとする傾向があるのです。それは、霊的なことを理解することが難しいからです。この世のことなら理解できるので信じることができます。それは、目で見える世界です。ところが目に見えないことになると途端に理解できなくなってしまうのです。例えば、今日の聖句の中にも、「私たちが行った義のわざ」は目に見えるので理解できます。それなのに、聖句は「私たちが行った義のわざによってではなく」と書かれてあって、否定しているのです。人間の常識では、「正しいことを行なっている人を神は救う」となるのですが、聖書ではそうではありません。それは、全員が罪人であるという事実があるからです。罪人が正しいことを行なっているから義と認められるという理屈はそもそもおかしな話しなのです。罪人という時点でもうアウトなのです。それが目に見える世界だけで考えている人には理解できないのです。そもそも、目に見えない神も信じていないのですから、当然です。では、罪人が救われるには、どんな方法があるのでしょう。それは、神の「ご自分のあわれみのゆえに」と書かれています。つまり、人間が救われるのは、神の憐れみによるのです。それ以外にはありません。では、具体的には神はどうやって罪人を救ったのでしょう。それは、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって」と書かれています。つまり、罪人は自力では自分を救えないので、神の憐れみによって救われるのですが、方法は聖霊によるのです。聖霊は別のキリストです。まず、キリストが罪人の救いに必要な罪の赦しと清めを可能にする十字架の道を歩まれました。さらに、罪人は死に定められていたので、死からの解放が必要でした、そのために復活されて道を切り開かれたのです。その前提があって、キリストを信じる者は救われると言われています。具体的には、悔い改めてキリストを信じ、洗礼を受けます。すると、罪の赦しと清めが信仰によって実現します。そこで、聖霊が信仰者の中に入ることができます。その聖霊は、この信仰者をキリストのように造り変えるために来ています。ですから、初めに新生させます。聖霊ご自身が新しい命となってくださるのです。私たちは、神の子と認められ、古い私は十字架に死に、新しい命によって生まれ、神の子とされたのです。これらは、すべて神とキリストと聖霊のお働きによるのです。ありがたいことですね。

 

12月15日(月)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

世界の子どもたちは将来何になりたいのか?というテレビ番組があって、日本人の子どもたちは、「サラリーマンになりたい」というのに対し、韓国、中国、ドイツと外国の子供達でサラーマンになりたいという子どもはほとんどいませんでした。医者やインフルエンサー、宇宙飛行士、弁護士、などを選んでいました。日本は、どうなっているのでしょう?

 

世界の子どもたちは給料の高い仕事を選ぼうとしているようです。日本も時代によって、変わってきたのです。一人の人の寿命が長くなり、生きているうちに自分が良いと思って選んだことが、そうではなくなるような時代に生きているのです。このように変化の時代に人生に希望を持って生きることはだんだん難しくなってきているのでしょう。しかし、聖書の神を信じる人は幸いです。不思議なことに、あなたを選び、あなたを贖う神なのです。この神は、「わたしは、あなたの神、主である」とおっしゃってくださるのです。そして、主は、皆さんに「あなたに益になることを教え」と語られます。ですから、信仰を表してください。益になることを教えていただくのです。そのようにお祈りしましょう。さらに、「あなたの歩むべき道にあなたを導く」と語られたのですから、あなたの生き方は主が導かれます。あなたがどんなに自分勝手に生きてきても、「あなたの歩むべき道にあなたを導く」と語られた通りになります。私も気がつけば牧師になっていました。それぞれが主の御心のままに御目にかなった生き方をすることになっています。ですから、それはうまく行きます。試練があっても、必ず益となります。何も恐れることなく、堂々と主の導きのままに生きていけばいいのです。あなたは、主に祝福されていますから、余計な心配はしなくても大丈夫です。元気を出しましょう。

 

12月16日(火)

主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」とこうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた。

イザヤ63:8、9

 

日本人として生まれてきて、神々の住む国に生きていると言われ、どこにっても神社があり、そのいわれがあるのに、どうだろう、このように愛をあらわにしてその民と共に生きてくださり、救い主になってくださるような神々を私は知らない。聖書の神は、やがて私たちに現れ、召し出してくださったので、今ではクリスチャンとして生きている。それは、神が真の天の親であり、子であるクリスチャンを聖書の時代と同じように、背負い、抱いてこられた。私たちは、物分かりが悪く、自分勝手で、感謝の少ない者であった。それにも関わらず、見捨てられずに、かえって助けと恵みを受けてきた。だから、私たしたちは、もっと主に感謝を表し、従順に従おう。人はどうであろうと、私たちは主を信じて主を愛し、主の恵みを忘れることなく数える者となろう。何が起こっても、主を信じぬき、主をいつも喜ぼう。もし、私たちが苦しむ時、主も苦しんでおられることを忘れないようにしよう。そうであれば、必ず天からの救いがある。私たちは、主によって恵みの中を生きて行くように導かれているのだから。主をもっと讃美しよう。その讃美の上に神がいてくださることを覚えていよう。

 

 12月17日(水)

昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

ローマ15:4、5

 

聖書はクリスチャンに必要なことをすべて教えています。新約聖書だけが必要で旧約聖書は必要ではないと考える人がいますが、それは賢明ではありません。新約聖書も書いているように、「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです」とある通りなのです。あなたはクリスチャンになってから、何年経ったでしょうか。もし、聖書を全部まだ読んだことがないという方がいれば、もうすぐ2016年を迎えますから、聖書通読に挑戦してはいかがでしょうか。通読してわかる聖書の面白さがあります。そして、肝心な事は、「聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです」と書かれている意味を理解することができるはずです。自分では、十分に理解していないことがまだあると思いますが、信仰の旅路を行く者に必要なのは、希望なのです。希望がなければすぐに挫折してしまいます。しかし、教会の仲間がいて、互いに励まし合い、忍耐するのは、希望があるからなのです。その希望はイエス・キリストによります。イエスは、救いの完成者だから、最後に再臨されます。そこで、すべては終わります。しかし、クリスチャンは天国へ入るのです。そのためにキリストが迎えにきてくださるのです。すべての忍耐が報われる日が来るのです。日々の生活を聖書から学んだことを生かして、勝利、平和、成功へと向かっていきましょう。

 

 12月18日(木)

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、誰でも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1:19、20

 

日本人の好きな作家に宮沢賢治がいます。私も例外ではありません。宮沢賢治記念館にも行くことができました。有名な「雨にも負けず・・」のようになりたいと思った人もいると思います。日本人男性の一つの理想像です。聖書にもそのようなものがあるかと思ってみると、今日の聖句があります。「誰でも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」。人は誰かに自分の話を聞いてもらいたいという願望があります。しかし、他人の話は聞きたいくないというところもあるのです。ですから、願望のままに生きていれば、聖書の逆になってしまいます。「聞くには遅く、語るには早く、怒るには早い」人なのです。男性や女性の理想像というものも、年々変化していると思いますが、クリスチャン像というのがあります。クリスチャンが目指すべき理想像が、イエス・キリストなのです。ハードルが高いと思いますよね。だから、いい加減な気持ちではすぐに挫折してしまいます。しかし、人からよく思われようなどと姑息なことを考えている人には理解されない正しい生き方があるのです。人には左右されない、損得勘定でもなく、出世など考えることもなく、誠実な人間として誰が見ていなくても手を抜かない、人を傷つけない、たとえ謂れのない誹謗中傷を受けても笑って聞き流す、正しく生きているから誤解されても弁明しない、最後は神様がご覧になっているので誰が正しいかを判断されるので、神様を信頼して任せて生きるのです。このように、強い志があれば、この世ではなく神の国に生きることができるのです。

 

12月19日(金)

主がすべての災いを遠ざけて

あなたを見守り

あなたの魂を見守ってくださるように。

あなたなの出で立つのも帰るのも

主が見守ってくださるように。

今も、そしてとこしえに。

詩篇121:7、8

聖書に書かれた通りに祈る祈りは、聞かれると言われ、それを実行している方もおられます。私もそれは賢明な祈り方だと思います。例えば、今日の聖句を読んでみると、誰に対しても良い祈りであることがわかります。主であれば、何でもできるのですから、「すべての災いを遠ざけて、あなたを見守り」と祈れば、その通りになります。私は、毎朝、教会員と家族のためにこの御言葉のように祈ります。おかげで、主のお守りがあることを感謝しています。「あなたが出かける時も、帰って来る時も主が見守ってくださるように」とは、毎日のことですが、それだけではありません。人生であなたが何かを始める時、新しい仕事を始める、それは転職かもしれませんが、学校に入学したり、入学試験を受けたり、結婚したり、旅行や外国へ行くことかもしれません。つまり、あなたの人生を主が見守っていてくださいと願う祈りです。クリスチャンなら、それは生涯続く主の見守りなのです。このような保証があれば、何も恐れることなく、どこにでも行けますし、何でも始めることができます。私たちの特権がどれほど大きいか理解できれば、主に心から感謝を献げましょう。

 

12月20日(土)

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。

第二コリント9:8

 

クリスチャンが恵まれているのは、ご存知だと思います。常識では測れない恵みの豊かさがあります。今日の聖句を読めば明らかですが、肝心なことは、その書かれたことを信じているでしょうか。そして、自分のものとしているでしょうか。あなたは、普段どんな顔をしているでしょう。恐い顔ですか、暗い顔ですか、明るい顔ですか、それとも笑顔ですか?もし、あなたがいつも笑顔でいたら、人生は驚くほど好転して行きます。あなたの印象が人々の心に好印象として残るからです。いつも笑顔であれば、それは作り笑いではなくなります。笑顔が普通になれば、あなたを見る人は安心し、自分でも笑顔になるでしょう。そうです、誰でもがあなたを好きになり、あなたに好感を感じるはずです。これほどに笑顔でいることに力があるのです。ストレス社会では、うっかりしていると「恐い顔をしているよ」、と指摘されるかもしれません。その人の将来がどうなるか予測がつきそうです。さて、こうした人間的なちょっとした努力が大きな力となるのなら、今日の聖句を読むとあなたの神は、あなたが「常にすべてのことに満ち足りて、全ての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です」とあります。そうであれば、あなたはこの御言葉を信じるべきです。「あらゆる恵みをあふれるばかりに」与えられると信じてください。自然と笑顔になり、感謝が湧いてきますね。この大きな恵みは、満ち足りることだけではありません。すべての良いわざにあふれる者とされるのです。可能性が広がります。仕事で悩むことなどなくなります。ちょっと想像してみてください。あなたの素晴らしい未来が見えて来るでしょう。素晴らしい神様に感謝いたしましょう。

 

12月21日(日)

あなたがたを、つまずかせないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

ユダ24、25

 

私たちは、やがて再臨を迎え、天国へと地上から引き上げられて連れて行かれるのです。自分自身を知っている者にとって、それは完全な信仰者にしか実現しないのではないかと不安になるかもしれません。しかし、この救いは天の神と御子イエスによって実現するのおです。私たち人間にはそれだけの力がありません。ましてや罪人である時点でアウトなのです。それなのに、事実救われています。それは、クリスチャンとして信仰に生きているからわかります。肝心なことは、神の憐れみにより、全ての面で神の御力によ理、神の愛によってこの救いは完全であるということです。私たちにとって何かでつまずくなら、驚くほど簡単に教会を去ってしまうのです。そのまま信仰をも捨ててしまう人が残念ながらいるのです。ですから、「つまずかないように守ることができる」神が助けてくださるのです。どんな時にも、短気を起こさずに、まずは神に祈りましょう。自分ではできないことを神が成し遂げてくださいます。さらに驚くことは、罪人として生きてきたので、自分のことを傷ものと思っていたのに、キリストが十字架にかかり、すっかり傷もないものとしてくださったのです。それは、神の御前に立つことができるように完全な救いを実演してくださったからです。私たちの努力など何一つありません。全てが神の恵みなのです。そのことを理解したなら、私たちも今日の聖句のように賛美するのです。神を誇らしく思い、神の愛を感謝して、主イエスの恵みを決して忘れることなく、聖霊の交わりを喜び、ここに書かれた通りに賛美するのです。これは、初代教会の兄弟姉妹から現代の私たちまで、守られていきた幸いです。あなたのこの賛美に加わることができることを覚え、賛美の輪に加わりましょう。

 

12月22日(月)

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などといって心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

マタイ6:3133

 

クリスチャンの良いところは、神様からいろいろ教えていただいていることです。例えば、この世の中で生きていくのは簡単ではありませんが、一番の問題はお金のことだと思います。気づけば年金生活者になっていて、物価が上がれば即生活に差し障りが出てきます。働ける人はまだ良いのですが、働けない人もいます。だから、生きていくのは大変だ!となるのです。しかし、この世界にいながらにして神の国に生きる人もいるのです。その人は、どうやって神の国に入ることができたのか、それは聖書を学んでいただきたいのですが、クリスチャンなら誰でも可能性があります。そして、大きなヒントが今日の聖句です。人間が生きて行くのに必要なものはいろいろありますが、最優先は食べ物、飲み物、着るものです。それに付け加えるなら済むところでしょう。神様を信じているのに、こうしたことに困るはずがありません。何が好みで、何が必要かなど、神様は一人一人のことをちゃんとご存知なのです。まるで慈愛に満ちた賢い親のようです。だから、生活して行くのに困ることはありません。あるとしたら、それは試練で何かを試されています。今日の問題は、神の国に生きる秘訣ですが、今日の聖句を最後まで読んでみると、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とあります。私たちが本当に必要だと思っているものは、「それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と書いてある通りなのです。そうすると、私たちが必要と思っていること以上に大切なことを私たちがちゃんと求めていないことが問題なのです。それが、「神の国と神の義」です。神の国は、救われた者だけが入れます。罪人は神様に叛逆して逃げ出している者なのですが、悔い改めて福音を信じて洗礼を受けて救われた人は、神様に近づき、服従する者なのです。これは神の支配に服する姿なのですが、これが神の国に生きることなのです。ですから、神様を信じて服従することが神の国に入ることなのです。神の義は、罪人を救ってくださった主イエス・キリストによって与えられました。神の義はいったい何であるか?その答えが主イエスの十字架なのです。イエスは無罪でしたが、罪人の私たちを救うために、自らを民の代表として犠牲を払われたのです。そうしなければならない義務や義理は一切ありませんでした。そうであれば、これは何であったのか知りたくなります。その答えは、「神は愛である」ということです。十字架の自己犠牲の愛なのです。それは、神の御目に正しいことなのです。ですから、神の義は愛であると言えます。キリストに倣って、愛に生きることが求められているのです。

 

12月23日(火)

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

ヘブル13:6

 

人間社会に生きていれば、いろいろなことが起こってきます。聖書にもそのような実例がいくつもあります。人間関係で悩み、また、同じ人間関係で喜ぶのです。しかし、クリスチャンにとっては、信仰ゆえに迫害を受けることがキリスト教の歴史の初めから続いています。それゆえに今日の聖句にように、信仰を鼓舞するような御言葉があるのです。ありがたいことに、日本では信教の自由のもと、迫害されることもなく信仰生活を過ごすことができます。それでも、信仰のことで悩まされることもあるのです。さらには、クリスチャンとして人間関係の悩みをどうすれば良いのかと困ってしまう場合があります。そのような時には、この聖句を思い出して唱えてください。勇気が湧いてきます。とにかく、人を恐れないことがクリスチャンの基本です。神を恐れる者は人間を恐れないのです。それは、神を信頼しているので、人間が自分を傷つけたりできないからです。「主は私の助け手です」と信じていますし、事実その通りなのです。他教派の伝道師の友人が伝道集会に新興宗教のカルトの信者が押しかけてきて、問答を仕掛けてくるという話をしていました。以前に、同じカルトの信者がお葬式に押しかけてきて、大変なことになると心配されましたが、今日の聖句の通りに信じていましたから、何を言われても大丈夫と確信していました。元カルト信者であった教会員は、彼らのやり方をよく知っていたので、式をぶち壊すに違いない、彼らは大声で説教を妨害するから、牧師は知らないからそんな呑気なことを言って、とヤキモキしていました。しかし、礼拝堂の最前列に陣取ったカルトの人たちは、とうとう式の間、何も言わず、黙って説教を聞いていました。そして、何事もなく帰って行ったのです。元カルトの教会員の方は、不思議だ、どうして彼らは黙っていたのだろう、と不思議がっていました。「人間が、私に対して何ができましょう」と書かれた通りでした。人を恐れるのは不信仰になるので、気をつけましょう。主を信頼して、御言葉の通りになると信じていましょう。

  

12月24日(水)

神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。

ヨブ5:19

 

私たちも時には落胆してしまうことがあります。人生は良いことばかりとは限らないからです。ただ、クリスチャンの場合は、悪いことが起こるというよりも、それすらその人の益となるように神の見えない御手が背後にあるものです。そもそも人生を損なうような罪のような悪質なものは、人の意思ぐらいではどうにも解決できないのです。なぜならば、肉欲のようなものは死ぬ以外に解決しないからです。そこで、教会ではよく「砕く」という強い言葉を使うことがあります。「肉の自分を砕いてください」といった使い方をします。ですから、主がその通りに砕いてくださることがあるのですが、それを試練というか、悪いことが起こったというかは、人の見方によるのです。しかし、信仰を持っている人にはいつでも神が良い方向へと導いてくださるので、災いすら良い意味を持つのです。今日の聖句は、ヨブの友人がヨブを励まそうと善意で言葉を発する時のきっかけの言葉です。「六つの苦しみ」とは、飢饉、戦争、中傷、荒廃、飢饉、野獣の危害のような危害を意味しています。神は、この世の数ある危害からあなたを救い出してくださる、というのです。ですから、「七つ目の災いはあなたに触れない」と断言しています。これは数の格言と言われるものです。ここでは、神に依り頼むことの確かさが強調されています。私たちも、この御言葉の通りに実は信仰生活を送っているのです。大変なことが自分に降りかかってきても、後で振り返れば、何かしらの助けがあり、いつの間にか大した被害も受けずに通り過ぎていた、というような経験をするのです。年配のクリスチャンなら、すでに人生のもっと若い時に、試練を潜ってきたでしょう。それでも、神の助けはやはりあったはずです。それは、あなたが選ばれた人だからです。あなたを救おうとする神の偉大な御力を垣間見たのです。ですから、あなたは安心して主に信頼を置き、これからの人生も思い煩うことなく、目標目指して確かな足取りで歩んで行くのです。

 

12月25日(木)

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼れは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは

、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがなたがたへのしるしである。」

ルカ2:8~12

 

聖書には、主イエス・キリストの誕生物語が書かれています。毎年、クリスマスを迎えると聖書から美しい降誕物語が朗読され、教会に子供がいれば、降誕劇を行います。子供がいなくても、クリスマス・キャロルが歌われたり、キャンドルサービースがあったりと華やいだ雰囲気になります。私が青年の頃には、小羊クラブという児童伝を行なっていましたので、子供クリスマスがありました。長老さんにサンタクロースになっていただき、台車に乗せて大きなプレゼントの袋を担いてもらって、子供達にプレゼントを配っていただきました。クリスマスには皆が愛情深く互いを思いやる季節でもあります。アメリカでは家族が集まり、日本のお正月のような感じになります。クリスマスには贈り物があって、互いにプレゼントを贈り合うのです。これは、赤ちゃんイエス様に東方の博士たちが黄金、乳香、没薬の高価な贈り物をしたことによるのかもしれませんが、本当は、神様の方が御子イエス様を私たちへの愛の贈り物としてくださったのですね。ですから、私たちも困っている誰かの助けになれたらと思うのです。それにしても、イエス様は立派な病院やお城でお生まれになったのではありませんでした。それどころか、普通の家の中で出産することもできなかったのです。なんと家畜小屋で貧しくお生まれになりました。天使たちは心配でハラハラして見ていたのでしょう。しかし、救い主を待望していたのは、もっとも卑しい羊飼いだけだったのです。それに、異邦人の博士たちが新しくお生まれになった王様を探しにきてくれました。結局、赤ちゃんイエス様を見ることができたのは、この世の貧しい者の代表の羊飼いとやがて福音を聞き、信じてクリスチャンになる異邦人をまるで象徴しているような東方の三博士でした。イエス様が私たちを救うためにお生まれになられたことを感謝してお祝いしましょう。

 

12月26日(金)

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので

常にわたしは御もとにとどまることができる。

あなたは御計らいに従ってわたしを導き

後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。

地上であなたを愛していなければ

天で誰がわたしを助けてくれようか。

わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが

神はとこしえにわたしの心の岩

わたしに与えられた分

見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。

御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。

わたしは、神に近くあることを幸いとし

主なる神に避けどころを置く。

わたしは御業をことごとく語り伝えよう。

詩篇73:23~28

 

私たちは、自分を賢い者と思って生きているのだろうが、それは高慢であって、自分一人の見方でしかない。あなたのいない所で、人々はあなたのことを何と行っているだろう。あなたの期待するような賢い者とは言われずに、残念なことに愚か者と言い合っているかもしれない。有名人の一生を見てもそのようなことはある。表向きは褒めていても、陰ではどうかわからない。このような世界で生きているのだから、人によく思われようなどと考えてはいけない。また、人を人とも思わないような人は、将来の孤独が決定している。神を信仰しているというだけではダメなんだと人を見ていて学ぶことがある。御言葉を実行する人が本物のクリスチャンなのだと言われることがあるが、その通りである。クリスチャンが自分のことばかり考えていると、不本意なことに人を傷つけてしまう。そんなことは望んでいないだろうに、大声でその人の欠点を連呼している人を見ると恐ろしくなる。その人も同じ欠点を持っているからだ。今日の御言葉の前に「わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた」(22節)とあるのことが、人間の苦しみの原因を作っている。人間が考える正しさは、当てにならない。その人にとって、その時は正しいと思えているだけのことだから。神であれば、正しいと言える。それは、人間を愛しているからだ。ところが、人間は人間をそう簡単には愛さない。今は愛していても、明日は愛していないかもしれない。だから、獣のように生きている。このような者なのに、神は「右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる」のだ。これが、信仰者の実情だろう。わたしがではなく、神がわたしを、なのだ。この恵みは、死んでからわかる。体も心も朽ちるのだが、「神はとこしえにわたしの心の岩」なのだから、いつまでも変わらずに支え続けてくださる。まさに神は「わたしに与えられた分」と書かれた通りなのだ。この世の神々では意味がない。全く違っているから。私たちが救われるのは、何があっても「神に近くあること」のゆえだ。それが私たちの唯一良いところなのだから。

 

12月27日(土)

主はわたしたちを

どのように造るべきか知っておられた。

わたしたちが塵にすぎないことをを

御心に留めておられる。

人の生涯は草のよう。

野の花のように咲く。

風がその上に吹けば、消えうせ

生えていた所を知る者もなくなる。

詩篇103:14~16

 

昭和レトロブームといわれると、昭和生まれの人は懐かしさと居心地の良さを感じるのです。急速で大きな時代の変化について行くことは歳を取るほど大変です。しかし、親も同じように感じていたのだと思います。さらに祖父母も同じことなのでしょう。このように、人間と野の草花が似ているということから作られたこの詩が長く生きた人には不思議なぐらい納得が行くのです。主が、私たちを律法で裁こうと思えば、当に死刑になっていたでしょう。しかし、多くが老人になるまで生きるのは、私たちが塵にすぎないと知っておられるからです。だから、割引で見ておられるのです。そして、私たちの生涯は草のよう、といわれれば、そうだな、と納得してしまうのです。パレスチナの荒野に自生しているシャロンチューリップという聖書にも出てくる真っ赤な花があるのですが、その美しさは神の賜物です。その印象的な花が一面を覆っているのは、壮観で神の摂理まで感じさせるのです。しかし、風が吹くだけでしぼみ枯れて行く姿は、人間の生涯と重なるのです。どんな人にも青春時代があって、花を咲かせる時期があったのです。このように、人間は儚いものなので、よく生き、よく食べ、よく働き、笑って過ごせるようにしなければなりません。いつも笑顔でいられるなら、人生は比較的楽に生きることができます。人と接する時に、あなたは自分がどんな顔であるか気にかけていますか。笑顔が自分のトレードマークになることが人生を良い方向へと導きます。これは本当です。鏡の前で笑顔を作ってみましょう。かなりいい感じです。死ねば忘れ去られるだけですから、生きているうちに最善を尽くして良い人生にしましょう。その最も簡単な方法が、笑顔であることを覚えていましょう。

 

 12月28日(日)

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

第一ペトロ5:7

 

もうすぐ今年も終わります。新年にはいつも、今年の目標を決めている人は少なくありません。特に若い時には必要です。ロサンゼルス・ドジャースの大谷選手の高校生から始めた方法が有名になりました。彼は、自分が何を目標とするか考えてみたのですが、なぜそうなりたいのか、と一番深い深層心理まで辿り着くような自問自答をしたようです。それで、こうなるためには何をすればいいのかを考え、そのためにはどうすればいいのかと一つひとつ表にして行きました。もちろん、一枚の紙に書かれた目標とその達成のための行動が一目で分かるものを目につくところに貼っていたのです。彼も目標を立てその目標を達成するために必要な行動を小さなことから始めて行ったのです。さらに、目標を自分のできること、自分の力の範囲でやろうとするのではなく、周りの人たちにも目標を話してみるのです。つまり、家族や学校の先生や同級生、クラブの監督やチームメイト、など身近な人に自分の目標を話してたわけです。すると、誰かしらサポートしてくれるようになります。つまり、目標達成のために自分の力だけで達成しなくていいということです。人のサポートを受ければ、それだけ目標達成に近づくからです。大谷選手を見ているとまさに、この成功原則を実行していることに気が付きます。このように、人間は考えることができるので、本当に自分が望んでいることを「なぜ、そうなりたいのか」と考えていけば、本心がわかるのです。本当はやりたくないことでも、モチベーションを高めることができれば、やり抜くこともできます。ストレスコントロールを覚える人は、目標を達成しやすくなります。こうして、頑張れば、大抵の目標は達成できるのです。しかし、人間は怠け者の傾向があって、目標を達成する前に挫折する人が多いのです。そうならないために、自分の深層心理まで探ってみる必要があります。つまり、本当にやりたいことしかうまくいかないからです。ある時、仕事で出会った社長さんは、若い時にバンド活動をしていて、親の反対を押し切ってバンドとして仕事をしていたそうです。しかし、結局は目が出ずにあきらめ、親の仕事をついで今に至っていると教えてくれました。彼は、それで良かったと思っていました。親に言われてバンドを辞めていたら、後悔しただろうというのです。結局バンドでは成功できなくても、やるだけやったんだという満足があって、次の仕事を頑張ることができたと言っていました。幸いなことに、私たちは信仰があるので、思い煩う時に、今日の聖句を読んで、この通りに実行するのです。すると、神様が本当にあなたのことを心配してくださって、問題解決の道が開けて行くのです。こんなに頼りになる神様を信仰しているのですから、思い煩いも消えて行きます。まずは、お祈りしてください。

 

12月29日(月)

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

コロサイ3:9、10

 

キリスト教の教えを正しく理解しておくことは想像以上に重要なことです。なぜなら、あなたの良い功績で救われたわけではないからです。私たちは残念ながら罪人でしかなかったのです。つまり、生まれた時から罪人だったのです。その人を古い人と呼びます。クリスチャンになった時に、あなたは「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨」てたのです。もちろん、キリストの助けなしにはできないことでした。さらには、聖霊の促しがなくてもできなかったことです。幸いなことに、古い人を脱ぎ捨てても、次に新しい人を着ることが神の救いのご計画の中にあったので、洗礼を受けた人たちは、目には見えませんが新しい人を着他のです。残念ながら目には見えませんので、自分が新しい人を着ているか心配する人もいます。それも理解できますが、古い人を脱ぎ捨ててこそ、新しい人を着ることができるのです。興味深いのは、新しい人を着るメリットが記されていることです。「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」。このように書かれているのですから、救いの完成に向けて、まだ主のご計画が続くということです。人間として成長したいと思う人はいますが、罪人であれば、それも空しいことなのです。神の方法以外では、人間を救うことは不可能なのです。ですから、救いの御業以外では、人間の救いは実現不可能なのです。しかし、新しい人が生きるために送られてきた聖霊によって、整えられ、指導され、愛されています。これは、自分が新しくなって行くために必要なことです。何しろ、聖霊の助けなしには、誰一人、造り主のかたちを回復できないのですが、逆も真なりで、聖霊の助けがあるからこそ、造り主のかたちにを取り戻して、神との交わりが可能とされているのです。それにしても、新しい人を着ていることを忘れていませんように。

 

 12月30日(火)

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えていたる者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証のことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

黙示録12:10、11

 

今日の聖書箇所は、私たちにとって喜ばしい勝利の場面です。神と悪魔の大争闘の結果が当然ではありますが、神の側の大勝利で終わります。悪魔は、日夜、聖徒たちを神に訴えていました。皆さんの失敗を見逃さずに、大袈裟に神の御前で訴えるのです。クリスチャンにとって最大の敵です。神は、人間が罪を犯した時に罪の問題に直面しました。そこには悪魔の存在があり、悪魔の誘惑で罪が人間に入り込んだのです。それ以来、悪魔、悪霊は全人類を奴隷として支配することにしたのです。そして、この世界の王であり神であると自認していました。聖書の読者は、どうして神は悪魔を滅ぼさないのかと思われるでしょう。しかし、悪魔は神の愛を疑い、神の義を疑うのです。そして、罪の発生がなぜ起こったのか?人間を神に似せて造ったのに、なぜその人間が罪を犯したのか。ノアの時代には、世界は罪人によって汚れ、罪と悪がはびこり、悲惨な状況になっていました。そこで、一度、人間は洪水で滅びましたが、ノアが無垢で馬鹿正直であったから、彼とその家族が生き残りました。そこから人間はもう一度始まったのです。しかし、長い年月が過ぎてみても、罪の問題はこの世界に残り、救いはキリストによってのみ、信仰によってのみ実現しました。キリスト教が始まって2000年が過ぎ、簡単には歴史を閉じることにはなりませんでした。それも、罪がなんであるかを明らかにして、その結果を徹底的に検証して、天国に二度と罪が発生しないようにするために必要な時間だったのです。それも、もうすぐ終わるでしょう。歴史を学べば、人間が同じことを繰り返していることに気がつきます。つまり、検証はもう済んでいるはずです。そうなると、福音が届いて救われる人がまだ残っているということになります。しかし、今日の聖句で大切なことは、「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証のことばのゆえに彼に打ち勝った」と書かれている箇所です。キリストの十字架とクリスチャンの証の言葉で悪魔に打ち勝った、と言っているのです。証は、クリスチャンの信仰によって現れる出来事です。それは、言葉なのです。この戦いがクリスチャン個々に広がっていることを忘れてはいけません。勝利が預言されている戦いです。いい加減なクリスチャンでは、後悔することになります。誠実なクリスチャンとして信仰によって生きていけば、大丈夫です。神とキリストと聖霊との関係を深めて行くことを考え、穏やかな生き方をすれば良いのです。神を愛し、隣人を愛することが私たちの生き方となります。この愛が勝利へと導く鍵なのです。

 

12月31日(水)

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えいなります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ヨハネ14:16、17

 

あなたのために「もう一人の助け主」が与えられます。イエス・キリストとは別にです。あなたを救う計画は完全なのです。あなたを見れば、救いの確信を得られないかもしれません。しかし、あなたの力であなたを救うわけではないのです。全能の神様なので、あなたの罪を無かったことにして、清め、魔法のようにあなたを完全な義人にすることぐらい簡単にできるでしょう。しかし、それではダメなのです。そもそもの罪の発生を二度と起こさないために、今の人間の歴史があるのです。その歴史に助け主であるキリストが突入してきたばかりか、さらに「もう一人の助け主」である聖霊が送られてきます。キリストは、お役目があって天に戻りましたが、聖霊は最後まであなたの内にいて救いの完成を実行しているのです。このもう一人の助け主を真理の御霊と呼んでいます。キリストもご自身のことを「真理」と言われました。真理は自由にする、と書かれているので、人の救いに欠かせないものなのです。しかも、人の内側に住んでいるのですから、驚きです。残念なことに、「世はその方を受け入れることができません」とある通りです。現実にそのようになっています。教会も例外ではありません。真理の御霊を受け入れる人と受け入れない人に分かれています。このことはとても残念です。「世はその方を見もせず、知りもしないから」と書かれています。どうも、人間は聖霊を信じる人と信じない人に分かれてしまうようです。言葉では、聖霊と言ったり、セミナーを開いてみせても、聖霊が生きて働き、人の内に住み、霊の賜物を表したり、霊の実を結ぶことなどは、単なる知識でしかないので、聖書も深く理解できず、救いの完全には近づくこともできません。ですから、私たちは、聖書に書かれたことをそのまま信じて、約束は我が身になりますように、と受け入れる必要があるのです。決して、難しいことではありません。誰でも、信じるだけでできることなのです。今年一年を振り返り、聖霊に従ってきたかどうか反省してみる必要があります。そうしないと、新年を同じように信仰を停滞させるかもしれないからです。私たちは、要救護者であって、イエス・キリストと聖霊の助け主に救っていただかなければならないのです。来年こそ、聖霊に満ち溢れて生きる者になりたいですね。