2026年1月1日(木)
どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。
申命記5:29
私たちは、新しい年を迎え、平和で喜び多い幸福な一年であることを願います。それは、主の御心にかなっていますから、良い願いです。信仰の道は、それほど難しいものではありません。肝心なことは、神を畏れ、神の戒めをことごとく守ることなのです。それは、ファリサイ派の人たちが陥った戒めを守ることに縛られて、信仰がいびつになってしまったことが教えているように、考えて行うようなことではなったかのです。今日の御言葉でも、「わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け」ることなのです。「心」です。行いではないのですが、戒めを守ると言えば、すぐに行うと考えてしまうのが人間なのでしょう。しかし、神と信仰者の関係は、心に焦点があるのです。心にあることが言葉として出てくることでもわかります。心に御言葉の種を蒔くのも、心が肝心だからです。しかし、その心が種を蒔いても実のならない土地であれば、意味がありません。良い土地であることが求められています。御言葉が種と表現されているのは、100倍、60倍、30倍と実のるからです。そうであれば、ファリサイ派の人の問題は、心が良く無かったということになります。私たちは、新年を迎え、今年は主を畏れ、その戒めをことごとく守るこの心を大事にして信仰の道を歩もうと思います。それが幸福に生きる秘訣だからです。良い心とは、主を愛することです。今年は、ことあるごとに主を愛していることを意識してみましょう。そうすれば幸福が約束されているのです。
1月2日(金)
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ40:28~31
「あなたは知らないのか」。この御声が、あなたの耳に聞こえてきたことがあるだろうか。私たちはクリスチャンで信仰を持っている。それ自体が素晴らしいことなのだが、その信仰が弱ることだってあるだろう。力が無いことを痛感し、自分が情けない時だ。そんな時こそ、今日の御言葉を読んで考えてみてほしい。「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」と書いてある通りなので、そのことを求めて祈ればいい。この世界を創造された神があなたに何もできないはずがあろうか。世界には80億人を超える大勢の人がいるので、自分のような小さな者のことなど忙しくて手が回らないだろう、と考える人に会ったことがある。それも一人や二人ではない、実に大勢のクリスチャンがそのように考えているのだ。つまり、彼らは、神は力に限りがあり、すぐに疲れてしまいと思っているのだろうか。神も安息日を定めるぐらいだから、きっとお疲れになるに違いない、と神を侮ってはならない。あなたの神を小さくしてはいけない。あなたが神を理解できなくても構わないが、神を忙し過ぎて大変なので、偉い政治家やもっと偉大な人のために働いて欲しいので、私のような者には何もできないに違いない、というような考えを悔い改めて欲しい。「主を待ち望む者は新しく力を得」るとハッキリ書かれている。そのことを信じよう。あなたを神は大切に思っていることは信じて欲しい。そして、今年一年を元気に生き生きと過ごして欲しい。それが、神のあなたへの期待なのだ。
1月3日(土)
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。
使徒24:16
「良心に従って」と良い意味で使われることが多いと思いますが、良心が結構当てにならないことも事実です。わかりやすいのは、戦争です。正しい良心があれば、戦争は誰もしません。そして、戦時中には人がやはり良心に従って、ひどいことをしてきたのも事実で、終戦後に、謝罪することになったことも、良心の当てにならない証拠といえます。今日の聖句を見ていると、「責められることのない良心を保つように」とあります。ここでは、「神の前」とはあることの後に神の御前に出て、つまり自分が裁かれる時が考えられています。「人の前」も同様で、事後に裁かれていることを表しています。その時に、自分が恥じることのない正しいことをしたと言えるように、正しい心としての良心を保つように、最善を尽くしている、と言うのです。つまり、信仰者はどんな時にも、正しい良心を保つように最善を尽くさなかればならないと言っているのです。人がいちいち見ているわけでもないので、人は手を抜いたり、いい加減にしたり、自分に都合よく計ったりしてしまうことがあるのですが、そうしないで、神に見られても、人に見られても恥じることのない正しい良心を持ち続けようと、いうわけです。今年は、こんなことも気をつけて生活して行きたいですね。
1月4日(日)
朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。
ヨハネ6:27
ヨハネの福音書に書かれたことは、読者を考えさせるものが多い。今日の箇所も例外ではありません。ここでは、「朽ちる食べ物」と「永遠の命に至る食べ物」が対比されています。ここで、すでに読者は何のことだろうと考え込むわけです。何となくはわかるのだが、説明しろと言われるとすぐには答えられない、となるのです。また、「朽ちる」と「いつまでもなくならない」が上手に対比されています。もちろん、意味はわかるのですが、説明が難しい。あなたならなんと説明するでしょう。きっと、それは正しい説明になると思います。例えば、人間は昔から生きるために働いてきました。それは今日のパンを得るための仕事です。しかし、毎日の食事は、生きるために必要ではありますが、食べればなくなり、また食べなければ生きられない、という限りあるものです。それ以外に人間にできることがあるのでしょうか。ヨハネ書の中では、イエスは、ご自分を天からのマナと称し、天からの生けるパンなのだと教えています。ですから、ここでは、イエスを永遠の命に至る食べ物と言っているのです。そのイエスのために働きなさい、と。「人の子」はメシアのことです。父なる神もイエスをメシアと認めていると言うのです。「人の子があなたがたに与える食べ物である」とは、イエスが与える食べ物が何か分かりずらいですね。それは、「永遠の命に至る食べ物」なのですから、救いに関係しています。それは、十字架に架けられたイエスのことです。神殿で犠牲になった動物の肉を祭司が食べることが規定されています。ですから、十字架のキリストに罪を贖っていただき、罪人の古い自分も肉ごとキリストの十字架にかけていただき、古い自分が死ぬのです。そうしないと新しい私が生きないからです。私たちの常識では、食べ物を食べて、それが血や肉となり骨となるのです。同じように、キリストが血や肉となり骨となれば、新しい私はキリストのようになるというわけです。このために働きなさい、と言われているので、何もしないでいいというわけではありません。聖霊のお働きを信じ、聖書を学び、祈り、導かれた働きを忠実に行い、神を第一にして生きて行くことです。ことあるごとに、キリストに信頼を寄せ、喜び、賛美しながら日々の生活を送るのです。良いことは天からきます。楽しみに生きていけば良いのです。
1月5日(月)
見よ、わたしを救われる神。
わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった。
あなたたちは喜びのうちに
救いの泉から水を汲む。
イザヤ12:2、3
私たちの神は、天の親です。子供の成長を願い、悪いことをすれば叱り、困れば助け、時に成長のために試練を許し、敵が攻撃してくれば盾となり、慰めが欲しい時には共にいてくださり、人生の道標となってくださいます。罪に対しては怒りを表しても、人を憎まず、救い主を送ってくださいました。それゆえに、私たちは主を信頼しています。この世界で何があっても主のゆえに恐れないのです。主が私たちの存在を支え、恵みを与え、愛してくださるのです。その愛は、犠牲の愛で、十字架の上に救いを見出したのです。私たちが死を恐れても、キリストは復活して、死を打ち破り、たとえ死んでも生きると言われた意味がわかりました。私たちは、主を知ることで喜ぶことを覚えました。主への感謝が力となるのです。また、主の言われた通り、命の水は主から受けるものであると今は知っています。「救いの泉から水を汲む」とある通り、私たちは招かれ、この特権にあずかっているのです。主を賛美いたしましょう。
1月6日(火)
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
ローマ15:4~6
聖書ほど不思議な本はありません。神様は私たちに聖書をお与えになりました。読書家がすぐに聖書を読み始めることは理解できますが、普段本をまったく読まない人まで聖書を読むのです。悪魔も黙っていないのでしょう、聖書を読まないように誘惑してきます。そんな戦いをしている人もいます。昔は、全員が礼拝に聖書と讃美歌を持って参加していました。そうすると、説教者が引用する聖書箇所をすぐに開く訓練になっていました。モタモタしていると、開くことのできないまま、次の聖句を探さなければなりません。一度、開いた聖句は大切そうなので、赤鉛筆やマーカーで線を引いておきます。一年も礼拝に通えば、相当な数の有名聖句に印がついていることになります。こうやって、聖徒たちは、聖書を覚えていったのです。しかし、今はスライドで聖句が映し出されるので、聖書を開かない人が増えてしまいました。このため、自分の聖書から指定された聖句をすぐに開くことのできない人が増えていると思います。これでは、クリスチャンのためになっていないですね。そうなると、今日の聖句の意味が問題になります。「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ちつつ蹴ることができるのです」と書かれているのに、この霊的な特権をいかせていないことになるからです。聖書は事実、私たちを教え導くためのものなのです。クリスチャンが霊性を成長させることも、クリスチャンとしての生き方を学ぶのも、そして、クリスチャンにとって最も大事な、真理を知ることも、全てが聖書を学ぶことによって得られるからです。自分の信仰を最後まで持ち続けるためにも、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができることが大切なのです。今年こそ、聖書をよく読む一年にしたいですね。その分の見返りは十分期待できます。
1月7日(水)
正義を行う者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、このような人は、高い所に住み、その砦は岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。
イザヤ33:15、16
正しく生きることは、良い人生を保証する秘訣です。世界はどんどん移り変わり、価値観も多様になり、正義すら危うくなってきました。自分ファーストが当たり前になってくれば、当然、今日の聖句は守られません。しかし、聖徒たちの生き方は、人や時代に左右されません。それは、聖書を基準に正しく生きることを選択しているからです。神がいないと考えれば、悪いことをしても怖くありません。人を騙しても良心の咎めを感じないという人たちがいることは、とても残念です。社会の仕組みは大多数の人に生きる方法を示していますが、その社会の流れに乗らないと、途端に生活が苦しくなります。そうなると、社会を恨む人が出てくるのです。原因が自分にあったとしても、この社会に怒りを持ってしまうのです。ですから、どんな人にも人生の早い段階から真の神を教え、聖書を学ぶように教えることが大切です。それだけで、悪にはしることが無くなる可能性が出てきます。聖徒の皆さんは、大災害のような非常事態にまだ遭遇していないかもしれません。しかし、万が一そのような目に遭っても、今日の御言葉を守っている人には、神の助けがあるのです。どんな境遇に陥っても、正しく生きる人になることが大切なのです。誘惑はいつくるか分かりません。それだけに、信仰をしっかり持っていなければなりません。自分の生き方で天の保証が得られるのです。そうであれば、大きな危難が襲ってきても、神の助けを得ることができます。終末の生き方がここに示されていると思っていれば間違いありません。
1月8日(木)
こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない、休むとき、眠りは、ここちよい。
箴言3:23、24
神様を信じている人の人生は恵まれています。信仰がよくわからない初めの時期は、何が正しく何が悪いか、やっていいことと悪いことの分別を教えられます。また、聖書が何であるかを実際に教えます。ただ、自由であることも理解しなければなりません。信仰とは自由な選択でもあるからです。自分勝手にクリスチャンのイメージを持っていれば、それはどこか間違いがあるものです。ですから、それも修正がなされます。こうしたことは、子供のしつけと同じことなので、親に叱られると怖かったり、嫌なこととして受け止められますが、本当は子供ために大切なことなのです。クリスチャンは天にお父さんに子供として教えられます。しかし、それは大抵は生活の出来事として起こるので、試練が来たと嫌なこととして理解されます。しかし、これがなければ、天国に入る準備ができないことになるので、避けることができません。ただ、こうしてクリスチャン生活を続けていけば、確実に霊的成長を遂げることができます。それは、品性にまで良い影響があります。そして、あなたの歩む人生でつまずかなくなるのです。それは、悩まなくても済むようになっているということです。一番よくわかることは、夜、眠ろうとすると、心配することもなく、心地よく眠りにつけることです。私は眠りにつくときに、目を閉じると白い明るい光がさしてくることがよくあります。また、金色の光がさしてくることもあります。両方が見えることもあります。あまりにも明るくて、照明を消さなかったのかと思わず目を開けてしまうことがあります。そうすると真っ暗なので、ああ、神様の光だと納得するのです。クリスチャンは神様に守られて安心して眠りにつくことができるのです。
1月9日(金)
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
詩篇16:11
なんと素晴らしいことでしょう。神はあなたに、いのちの道を教えてくださるというのです。クリスチャンになってよかったですね。この世の道はどれも厳しいもので、一時良くても、長続きしません。不確実なことが多くて、今のように時代の進行が早いと、自分がせっかく苦労して身につけた知識や技術が、全く新しい知識や技術革新が起こり突然役に立たなくなってしまうのです。これは、まるで世の終わりが近づいていて、急いで全てのことが完結しようとしているようです。ですから、信仰の無い人にとっては大変です。では、信仰を持っている人の場合はどうでしょう。結局、人間にとって大事なことは、「いのちの道を知る」ことだったのです。それは、神に近づく道です。そこには、喜びが満ちあふれ、思い煩ったり、心配することが無いのです。心はいつも晴れやかで、神を拝めば、喜びが満ちてきます。そして、信仰者の人生には、実は楽しみがあるのです。神の備えてくださった恵みは、具体的で想像を遥かに超える良いものです。それだけではありません。自分が生まれてきた理由がわかるのです。自分に自信を持って生きていけます。いつも希望が心を熱くし、希望は主によって実現するのです。クリスチャンは楽しいのです。だから、あなたも毎日が楽しいと思えるように生きましょう。この主による楽しみは、とこしえに続くのです。
1月10日(土)
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。
ローマ14:17~19
この聖句は、クリスチャンがどう生きていけば良いのか分かる大変役に立つ具体的な御言葉です。キリスト教が他の伝統宗教と共に人々から必要とされずにいらないとされるようになってきて、逆にあらためてキリスト教とは何か、クリスチャンはどう生きればいいのか、と考える好期となりました。その一つの答えは今日の御言葉です。キリストが伝えたことは、神の国の到来でした。そして、今日の聖句の冒頭に神の国が出てきました。それは、「飲み食いのことではなく」とある通り、これは聖餐式のことと解釈すれば、キリスト教の礼拝がだんだん形骸化して行くことを予見していたように思います。ヨーロッパの教会を見ればわかります。では、キリスト教とは何かと問えば、「義と平和と聖霊による喜びだからです」と、いたって明瞭です。これは、初めの教会が聖霊のバプテスマが普通にあったのに、次第にそうした霊的な要素が無くなり、現代の多くの教会がそうであるように、聖霊のバプテスマは実質的に無くなったのです。これは、聖霊による覚醒のことなので、体験するものです。それがあると、「義と平和と聖霊による喜び」が本当に体験できます。そうでないと、クリスチャンになる前と変わらなくなってしまいます。聖霊に満たされると、キリストに仕えることがわかってきます。当然、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。つまり、クリスチャンとしての生き方が自分で努力するのではなく、自然とできるように聖霊が働くのです。そして、クリスチャンが何をしていけばいいのか、何を目標とするのかが、今日の聖句で答えられています。「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」。シンプルですが、このことを覚えていれば、クリスチャンとしてうまく生きていけます。神があなたをキリストを通しえて成長させてくださいます。
1月11日(日)
「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。
箴言20:22
クリスチャンの生き方は、個人個人で考えなければなりません。その中で、愛に根差した生き方ができるようにと思慮するわけです。ところが、自分ではどんな人でも愛そうと決めているのに、自分の想定を軽く上回る人が現れ、聖なる決意を簡単に打ち砕くのです。それは、何かのハラスメントかもしれないし、自分のことを嫌って意地悪をしているしか思えない場合もあります。また、自分が正しく生きるために、それが気に入らないと悪意を向ける人すらいるのです。罪人は自己中心にものを考えるので、自分の思い通りにならない人物が嫌いです。そうなると、どうすれば、相手が困るか考えてまるで逆恨みのように復讐計画を立てて実行する人もいるのです。もし、あなたがそのような敵に遭遇したなら、必ずあなたは窮地に立つので、どうするか考えなければなりません。その時に、今日の御言葉が聞こえてきます。あなたが直接に復讐してはいけないのです。「主を待ち望め」と命じられているのです。つまり、主がなんとかしてくださるというのです。そして、結果として「主があなたを救われる」のです。そんなことにならないのが一番良いのですが、この世には悪人がいるので、気をつけなければなりません。また、今日の聖句を覚えておけば、主に救っていただけますから、安心です。
1月12日(月)
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ2:10
クリスチャンは神の作品です。そのことに値打ちがあります。ですから、あなたは素晴らしい存在なのです。あなたは、生きているのでその行いに意味があります。あなたは聖書によれば「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と書かれています。ですから、あなたの本質は良い行いをする者なのです。人と比べたり、人の真似をする必要はありません。あなたは個性的に造られています。神の作品なのですから、完全なものとして造られています。それだけではなく、あなたは内面まで美しいのです。ですから聖霊が宿ります。そのようになるようにとキリストが清めてくださいました。これも良い行いをするためです。あなたの心はキリストと結びつき、キリストが願う通りに行うことができます。しかし、あなたは自由です。誰にも強制されてはいません。あなたはキリストを知って、キリストに愛されていることを理解しました。それで、あなたもキリストを愛しています。愛は、人間にとってとても良いものなので、究極的な良い行いとは、愛のことです。愛が働いて、誰かを助けたり、慰めたり、同情したり、助けたりします。あなたがそばにいると、周りの人たちが笑顔になります。あなたが一緒にいると、不思議なことに皆が安心します。あなたは人々にイエス・キリストを見ることがあります。それは弱い人たちです。困っていたり、失望落胆しているかもしれません。きっと孤独な人でしょう。誰からも軽んじられている人かもしれません。しかし、あなたはキリストと一緒なので、キリストが関心を持った人と出会い、友達になるかもしれません。こうした働きは、どれも後で良かったと思う結果になります。聖書によれば、「その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」とあります。クリスチャンとは不思議なものですね。
1月13日(火)
神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
第一コリント1:9
クリスチャンでない人でも、イエス・キリストの名を知っています。それどころか、クリスマスまでお祝いして、毎年ケーキを食べています。ところが、クリスチャンの場合は、神のお召しがあったというのです。もちろん、その召しに自分の意思で応えたのです。では、クリスチャンになってどうなったのでしょう。それは、聖書では、「主イエス・キリストとの交わりに入れられました」とあります。交わりとは、十二使徒達のようなイエスと生活を共にするという事でしょう。罪人はキリストと直接深く交ることはできなかったでしょう。でも、病を癒していただいたり、話したり聞いたりはできました。しかし、霊的な交わりはできません。その点、クリスチャンは霊的に交ることができます。それは、あなたの内にキリストがいてくださるということです。あなたがキリストに祈り、細き御声を聞こうと静まり、待つのです。御声を聞けば、あなたは何をさておいて主の御心を実現すべく行動するでしょう。また、あなたの人生に暗雲が垂れ込めてくれば、キリストがあなたを助けてくれるのです。キリストは驚くほど謙遜なので、あなたは自分に謙虚さが足りないことを学びます。また、あなたが無条件に主に愛されていることも知ることができます。自分が主に愛される存在であることが聖なる自信となります。そして、キリストとの交わりが実現するので、あなたが神の子供になったことも理解できるのです。大きな恵みの中にあなたはとどまり続けることができるのです。
1月14日(水)
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ4:4
情報化社会になってから、若い人でも先人の多くの知恵を身近に知ることになりました。昔の人ならば一生かかって知るようなことを簡単に知ることができるのです。しかし、ただ知っているというのでは、その知識は意味がありません。せっかく得た知識が活かせないのです。聖書に目を向けると、「いつも主にあって喜びなさい」とあります。クリスチャンは素直にこの命令を実行します。しかし、継続的に実行するかといえば、なかなか難しいのです。この御言葉を自分のものにした人たちは、実際にいつも喜んでいます。そんなことができるのかと言えば、できるのです。この命令がどれほど重要かと言えば、「もう一度言います」と書かれている珍しい箇所であることからもわかります。そんなに喜ぶことが重要なのでしょうか。自己啓発のようなものでも、同じようなことを言うでしょうが、意味は違っているのではありませんか。確かに、喜ぶ時に人間は良い表情になります。そして、心がポジティブになり、たとえ困難な時でも事態を解決する心のエネルギーが湧いてくるのです。だいたい、いつも喜んでいる人のところには悪いものは近づけないのです。逆も言えるのですが、いつも喜んでいる人のもとには良いことが勝手に近づいてきます。笑顔は作り笑いであっても良い効果を期待できるのですから、いつも本物の笑顔でいれば、どれほど恵まれるかしれません。時々は鏡を見てみましょう。自分の顔を見てください。どんな顔をしていますか。その顔を見たら人はどう思うでしょう?信仰者は、主イエス・キリストを信じて救われたのですから、いつも喜んでいるはずです。そのことを忘れる人は残念ながら多いのです。ですから、今年の抱負として、「いつも主にあって喜びなさい」という御言葉をモットーにして一年通して喜んでみませんか?自分一人の力では挫折しそうですが、主によって喜ばせてくださるのならできると思いませんか。主はあなたに一年でも一生でも喜ばせることができるのです。どうか、お祈りしてこのチャレンジに挑戦してみましょう。
1月15日(木)
だれに対しても、何の借りもあってはなりません。だたし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒めは、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
ローマ13:8~10
何の借りもない人生は、理想です。この世で生きていけば、誰かに借りができるものです。しかし、クリスチャンは何の借りもない人生を目指しているのです。パウロは、福音を伝えるために自給伝道者として暮らしました。まだ、教団や宗教法人がない時代ですから、他の福音宣伝者も同様でした。現代の牧師は教団に雇われ給料が保障されているのですが、給料ではなく、謝義と言われるものをいただいている牧師もいます。つまり、説教などの働きに対しての御礼のようなものです。そのような生活を送れば、神に仕えるように教会に仕えようと考えるものです。さて、クリスチャンでも例外があって、「互いに愛し合うこと」は別なのです。そして、驚くことに「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」とあります。つまり、イエス時代に律法学者やファリサイ派の人たちやイスラエルの人々は、律法が「他の人を愛する」ことだと悟れなかったことに失敗の原因があったのです。このような実物教訓があるので、クリスチャンは「互いに愛し合う」というイエスの掟に従うのです。ところが、好きな人は愛せますが、自分とは相性が悪い人や敵意を向けてくるような人を愛することは至難の業であって、無理と言いたくなるものです。それでも、聖書を読み「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ」と命じられているのですから、無視できません。キリスト教は愛の宗教と言われていますが、現実には隣人を愛せるかどうかを試されているのです。たしかに「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」と言う御言葉の通りなので、クリスチャンは愛にこだわって生きているのです。あなたもきっとそうですよね。あなたが隣人を愛そうとされているのは、主イエスにあなたが愛されているからです。そのことを自分のちからに頼らず、聖霊に助けられて愛に生きたいですね。
1月16日(金)
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いになられました。
第一コリント1:30
生まれながらのあなたは、どのようであったかは特に問題ではありません。あなたは、クリスチャンになったのです。クリスチャンになることは簡単ではありません。神の選びがあって、召命があります。それに応えたのがあなたです。人の目には違って見えているかもしれませんが、霊的に目が開かれたら、神に召されたのであったと気がつきます。あなたは信仰の告白として洗礼を受けました。そこにも霊的な神秘があります。今日の聖句の言い方では、あなたは「神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」というわけです。これも霊的なことなので、抽象的に聞こえる言い方しかできないのです。しかし、この言葉の通りになっていると信じてください。実際に神の不思議があなたに起こっているのです。それは、キリストはあなたにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いになられました。つまり、あなたが救われると言う意味は、キリストがあなたの救いに必要な全てとなった、ということです。神や霊的なことを知るために知恵が必要です。人間の知恵では足りないのです。また、義となって天国に入るのですが、人間の力では義となれないので、キリストがあなたの義となっているのです。また清めも人間にはできません。生まれてから一体どれだけの罪を犯してきたでしょう。数えきれないほどの罪を犯してきたのです。だから、そのままでは天国どころか地獄へ一直線に落ちて行くでしょう。ここでも、私たちにはなすすべが無いのです。ところがキリストがあなたの理解を超えた犠牲を払って、血を流し、命を代償にあなたを聖めたのです。神はキリストの義を通してあなたを見ているのです。あなたは人の命をお金で買えないことを知っています。では、自分の罪のために滅んでしまう人を救うために罪の代償をどうやって払えばいいのでしょう。それが、イエス・キリストの十字架の意味でした。キリストが、あなたの滅んでしまうはずの命を自らの命で買い戻してくださったのです。つまり、キリストの命で贖ったのです。ですから、あなたが一人で勝手に生きているわけでは無いのです。クリスチャンになって、あなたはキリストの内にいるのです。すごい奇跡がすでに起こったのです。あなたは、まだ肉の目で見ているかもしれませんが、それでは真実が見えません。信仰はあなたに奇跡を起こす力です。聖霊があなたを導き、教えてくださいます。あなたは命をも惜しまないほどに愛してくださったキリストのものなのです。喜びましょう。
1月17日(土)
あなたがたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
申命記28:2
あなたは神にとってどのようなクリスチャンですか? 困った時の神頼みタイプですか?一応クリスチャンだけれど未信者とあまり変わりないでしょうか? あなたは信心深いですか? あなたは主に従順ですか? それとも主の御声に聞き従う人でしょうか。社会で生きていれば、信仰を持たない人たちの中で全く影響を受けずに生きることは難しいことです。それでも、主に忠実でありたいと願う人もいれば、礼拝に参加している時とそれ以外では全く違って生きている人もいます。私も牧師になる前、青年の時には教会の中でも熱心な方だと思っていました、ところが牧師になってみると、24時間神様にお仕えしている生活になったので、それまでの信徒としての信仰生活がいかに甘かったかと思いました。逆に言えば、フルタイムで牧師の働きをすれば、それは私にとってはとても楽しい充実した時間になりました。しかし、信徒の時にはこの世の仕事をしなければなりませんでしたから、未信者の方々ばかりと世俗の中で働くことになります。信仰の話ができるのは教会員の方々だけです。それでは、聖書の中に出てくる人たちはどうでしょうか。信者さんでも、長く教会に通っている人たちは、信仰を捨てるようなことはありません。ただ、人につまずくことはあり得ます。それで教会に来なくなる人はいます。その人の信仰は「神の御声に聞き従う」というものではなかったのです。迫害されようが、人につまずこうが、神との関係を断つようなことは危険なことです。「神の御声に聞き従う」というのは、聖書に書かれている主の御言葉に忠実であることを意味しています。ですから、相手が悪くても和解する必要があります。赦すことがクリスチャンには求められ続けます。それは自分が神とキリストに赦されているからです。自分が赦されたのは、額が違います。この世の富では賠償しきれません。賠償額は、神のひとり子の命という値段です。それに比べて、あなたに負い目のある者の賠償額は全く大したことはないのです。ですから、私たちはキリストの十字架の贖いに感謝しながら、誰かを赦せないというのでは、話にもならないのです。忍耐を覚え、自分のプライドも捨て、惨めな自分を自己憐憫に陥らないくなるまで鍛えられます。そうやって、主の御声に聞き従うことができる者になって、ようやくすべての祝福があなたのものとなるのです。
1月18日(日)
こういうわけですから、兄弟たち、主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っているます。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
ヤコブ5:7、8
現代人は、昔の人よりも便利な生活を送っています。ご飯ひとつ炊くのも炊飯器がやってくれます。それすらも面倒で、レンジでチンすればすぐにご飯が食べられる時代になりました。そうなると、手抜き料理や買ってきた惣菜や冷凍食品が食卓で活躍します。女性が社会進出することは良い面と悪い面の両方が出てきます。かといって古い時代のままでは女性が不当に扱われていたと言わないわけにはいかないのです。便利になった食べ物は、食品添加物の問題が深刻になります。アメリカでは使用が許可されない添加物がたくさん日本では認可されています。その毒性が証明されているのでアメリカで許可されていないものを日本に売りつけている現実も政治問題が絡み改善されない理由になっています。つまり、日本人は知らずに売られている加工食品やお惣菜や飲み物にスイーツなど毎日食べるものに健康を損ない、癌になる危険性のあるものを食べさせられているのです。ですから、日本では癌になる人が異常に多いのです。心ある科学者は警報を鳴らし続けていますが、便利な方を選ぶ人たちが大勢いるために改善されることは期待できません。より安全な食を実現させるためには、どうすれば良いのか国民をあげての検討が必要です。今日の聖句には農夫のことが出てきますが、彼らは自然をよく知っているのです。それで、収穫を得るための手間を惜しまず、また時間の必要を承知しているので、忍耐して長い時間を待つのです。料理も同じ、食品も同じなのです。それをいかにインスタントに短時間で忍耐なしに食べられるかというところに儲けるチャンスがあると考える人たちが多いのです。旬の食材を知り、一番美味しい旬のものに手間暇かけてさらに美味しい料理とするのは尊い精神修行のようなものの気がします。料理の上手な祖母は、調理の前に必ず手の手入れから始めていました。料理への心構えが違っていたのだと思います。添加物を入れるという発想もなく、待つことも忍耐して、極上の食を実現していたのです。憧れますが、すべての人に向いているとは思えません。やはり、時代の要請に応じて役割分担で行なっていくのが良いのでしょう。日本料理は手間がかかると言われてきましたが、日本食自体が高い精神活動なのは事実です。だから、忍耐を持たなければできないのです。このようなことは廃れてしまうのでしょうか。再臨を待ち望む人の忍耐はすでに2000年という気の遠くなるような時間を費やしました。私たちはあと少しの忍耐です、と言われるような時代に生きているのでしょう。ですから、「心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです」と励まされていることを覚え、耐え忍びましょう。
1月19日(月)
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
ヨハネ16:13
全ては神のご意志の通りになります。聖書を読んでみるといろいろわかります。今日の御言葉を読むと、「真理の御霊が来ると」と、非常に興味深い言い方をします。ここでの言い方から理解できると思いますが、真理の御霊、つまり聖霊は別の助け主と言われています。キリストも助け主でした。聖霊のことをキリストとは別の助け主と教えていますから、キリストのように私たちクリスチャンを整え、霊的に成長させ、神の奉仕にふさわしいものへと変え、真理へと導きます。聖霊はキリストと同じように、「自分から語るのではなく、聞くままを話し」とイエスのお語りになったことと同じことを言っています。つまり、イエスも聖霊も人間を救うために遣わされたのであり、真理を知る方法なのです。聖書も真理を知る貴重な手がかりですが、聖霊の助けなしには閉ざされています。そして、この聖霊が救いに重要な役割を持っているのですから、祈って求めなければなりません。この場合、しつこく祈っても怒られることはありません。聖霊の助けなしに、聖書がイエス・キリストを証し、そのことを通してイエス・キリストを知ることこそが、完全な救いを知る方法なのです。また、預言の働きも聖霊がされるので、私たちには大変重要な存在なのです。
1月20日(火)
主はこう仰られる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」
エレミヤ6:16
現代人も疲れています。高度経済成長時代の人ほどではありませんが、疲れている人が多いのです。確かに、昔のような根性論やパワハラのようなことはだいぶ減ってきましたし、残業も減ってきました。それでも、疲れているのは楽しい仕事をしている人が少ないからかもしれません。また、肉体的な疲れと精神的な疲れがあります。こうした状態で日々の生活を送っているわけです。さて、今日の聖句を見てみましょう。「幸の道はどこにあるかを尋ね」とありますから、人は流されるように生きたり、好きでもない仕事をして生きるのは、当たり前ではないのです。学生時代に将来どうしたいのか考えたでしょうか。その時に、幸福になる道はどこにあるかを調べてみたでしょうか。何も考えずに、内定をもらえるところに就職した人いるでしょう。プロのスポーツ選手は、どうでしょうか。一見、好きなことをしているから幸せではないかと思いますが、成績で給料が決まる世界ですから、その厳しさは会社員の人にはわかりません。ましてや怪我でもすれば、夢は終わってしまうかもしれません。自分が幸福の道と思っていただけで、実際には違っていたということはよくあります。そのような失敗は、「昔からの通り道」を調べて探さなかったからです。人の幸福は昔も今も変わらないのです。それをちゃんと調べる人がいかに少ないか、そして、不幸せになる人がいかに多いか。私たちも「四つ辻に立って見渡」す必要があります。昔にすでに幸福の道を見つけて安息を見出した人たちがいるのです。それを知れば、同じようにして自分も幸福になれるのです。それは、「あなたがたの憩いを見いだせ」と書かれた通りに、疲れない生き方、疲れてもすぐに休めて安心して安息できる生き方なのです。高給取りになることでも、花形のスター選手になることでも、有名人になることでもありません。それよりも価値があるのは、安息できる生き方なのです。信仰を持っているので、あなたもきっと主の安息にあずかることになるでしょう。
1月21日(水)
どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことば と知恵を、わたしがあなたがたに与えます。ルカ21:15
あなたは誰かにキリスト教の話をしたことがあるでしょうか。確かに、誰にでもすぐに話せる人もいれば、なかなか話せない人もいます。どちらが良いというような問題ではありません。人には特性や個性があり、才能も人によっていろいろなのです。ですから、伝道もずいぶん個性が反映されています。人を誘って教会に連れてくるのが上手な人もいます。また、東北で文書伝道の日本一の先生にお会いしましたが、口が上手というのではなく、人柄の良さで文書伝道で日本一になった方でした。それに、実は議論で言いまかしても人は負けたからクリスチャンになります、ということは無いのです。それよりもキリスト教が嫌いになるかもしれません。一番良いと思ったのは、「あなたの信じている神様を私も信じたい」と言われることです。その人は、いつも観察していて、「この人は誠実な人で信頼できる、それだけでなく、神様のことをよく話すが、その神様がいかに素晴らしいかを話している。そして、見ていると、彼の神様が彼を助けていることがわかるし、恵みを与えていることがわかる」と、普段のクリスチャンの生き方を見ていて、私もあなたの神を信じたい、と言ったのです。ですから、話が上手な人が良い伝道者とは限らないのです。それよりも、クリスチャンである人を周りの人は実はよく観察しているのです。あなたがクリスチャンとして良く生きれば、それが一番の伝道になります。では、今日の聖句は何かと言えば、終末にはキリストのことで論争が起こったり、反対者がクリスチャンを責めるような場面が予想されます。そのような時に、今日の聖句の通りに神様があなたを助けてくださるので、何も心配いらない、ということです。知恵が与えられ、相手がクリスチャンを言葉でやっつけようと巧妙に企んでも、逆に神の知恵を与えられるクリスチャンに負けてしまうのです。ですから、迫害や論争でどうしたらいいのかと心配することはないのです。いつもの通り、信仰生活を続けていれば大丈夫です。
1月22日(木)
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
詩篇91:11、12
クリスチャンは神様に守られていると信じることは良いことです。今日の聖句を見てもやはり守られていると感じるでしょう。興味深いことに、荒野で悪魔に誘惑されたイエスは、なんとこの御言葉を使って誘惑されました。つまり、悪魔も聖書を勉強しているということです。そこで、毎日聖書をちゃんと読んで学んでいないと、悪魔にまんまと聖書で騙されてしまうこともあるということです。悪魔は、本当に高い所からイエスに飛び降りてみよ、と誘惑してきました。その時に、この聖句を使って飛び降りても大丈夫だからと誘ったのです。しかし、イエスに一蹴されてしまいました。この誘惑では、本当に神が助けてくれるのか試しに飛び降りてみよう、となるので、神を試す結果になるからです。それでは、神を試みてはならない、という戒めに反して罪となるからダメだったのです。そこで、御言葉を自分に都合良く解釈してはいけないということがわかります。そのためにも、聖書は一部だけではなく、全体から見て正しい解釈をすることが大切なのです。いっぺんには聖書を読めなくても、時間をかけて着実に一つ一つ聖書を理解して行きましょう。
1月24日(土)
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
ローマ12:19
私たちは平和主義者です。争いを好みません。それでも、世の中には悪魔のような人もいるので、そうした悪い人と遭遇すれば争いに巻き込まれることもあるかもしれませんが、普段から平和であり続けることができるように祈っておくなら、そのような不幸も避けられるものです。それよりも怖いのは、普通の人のように見えて、実は悪事を行なっている者です。知能犯であれば、とても敵わないでしょう。酷い目にあって初めて気がつくようでは勝ち目はありません。ですから、争ってももっと酷い目に遭うだけです。それでも、傷ついて頭に来たり、悔しければ復讐したいと思うのも人間なのです。自分は正しいと思えば、復讐心は増します。しかし、聖書の教えは、あなたが復讐してはいけないということです。あなたはキリストの命を代金に買い取られたので、主のものなのです。ですから、持ち主である主が私たちの受けた酷いことに報いてくださるのです。それが悪質で甚だ酷いことであれば、主は復讐してくださいます。ですから、私たちは復讐しません。それどころか、誰に対しても祝福を祈る係なのです。「汝の敵を愛せよ」との主の命令を守ろうと必死なのが私たちです。このことで、私たちは本当に変わることができました。相手が本当に悪い場合、私たちが復讐しないというのは、第三者に相手がいかに悪いかを話さない、つまり、自己弁護をしないで、主に祈り、主に問題を解決していただくのです。これは、自分がどれほど被害にあったかで、難易度が変わります。敵を赦します、と言葉にしても、何度も相手を思い出してしまうと、苦しみの大きさがわかります。それを逆手にとって、自分の肉を断ち、古い人を十字架にかけるのです。自己弁護をしなければ、わかってもらえない人や信じてもらえない人を大切にする必要はないと思います。主が私たちの味方で、私たちのために働いてくださるのなら、何も心配する必要はありません。それだけに、自分も人の悪口や噂話に耳を傾けないようにしたいですね。人を褒めるのはいいですが、人をけなしたり、悪口を言うのはクリスチャンのすることではありませんね。あなたに酷いことをする人が現れれば、その人に対して神が怒ることを理解しておきましょう。
1月25日(日)
主はわたしのために
すべてを成し遂げてくださいます。
主よ。あなたの慈しみが
とこしえにありますように。
御手の業をどうか放さないでください。
詩篇138:8
私たちの信仰を考える時に、主への信頼があります。それは、主を信じていることですが、今日の御言葉の通りに自然に考えている人は幸福な人です。この初めの御言葉は、信仰者が確信しているべき御言葉です。「主はわたしのために、すべてを成し遂げてくださいます」。どうです、心強いですよね。私たちは自分の弱さや力の限界を知っていますから、主に頼るのです。もちろん、自分のできることは誠実に一生懸命にしますが、時には自分の力ではどうしようもないこともあるのです。しかし、信仰を持っているのなら、主との関係を深めて、今日の詩篇と同じ気持ちになっているべきです。私たちは、この詩篇の通りに、何事も主の助けを得られるのですから、仕事でも学業でも、人生の大切なことをことごとく成し遂げて、良い人生を歩めるのです。私たちには功績などありませんから、こうした主の好意は、慈しみによるのです。ですから、私たちに足りなさや弱さがあったとしても、主の恵みを楽しむことができるのです。主のこうした好意が大小の奇跡となって、あなたの人生をより良いものにし、困難をも益に変える力となるのです。どうして、これほど良くしていただけるのかはわかりませんが、この奇跡が続くことを願わずにはいられません。主を大いに賛美致しましょう。
1月26日(月)
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。」
第一ペテロ3:9~11
クリスチャンとはどのような人のことなのだろうと考えたことはありませんか。あなたはどう答えるでしょう。親切な人、善い人、愛の人、思慮深い人、信仰深い人、忍耐強い人、まあ、いくらでも出てきますね。しかし、ただクリスチャンのイメージを言ってもそれはただのイメージにすぎません。聖書は何と言っているかを調べるべきです。例えば、今日の聖句にも出てきます。クリスチャンとは、「祝福を与える人」なのです。しかも、悪意を向けられても、侮辱されても、やり返すことはしないで、かえって祝福を与える人なのです。神はあなたを選んで、祝福を受け継ぐために召したのです。それは、あなたを祝福係にするためです。これは、とても気分の良い働きです。とはいえ、この世には色々な人がいますから、それほど簡単ではないかもしれません。それでも、意識して祝福して行けば、あなたの幸福は保証されて行くのです。さらに、クリスチャンの上級者になれば、「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ」と命じられています。初心者の時には、キリストを信じて、キリストの教えを学ぶことが大切でした。祈りや聖書を読むこと、神を礼拝することを大事にして、習慣化することを目指したのです。洗礼を受けてすぐに主の訓練が始まり、その聖なる大変価値のある訓練は、いつまでも続きます。聖霊の助けを得て、まさに聖なる訓練があなたをキリストの御姿に近づけてくださるのです。
1月27日(火)
主は私の力、私の盾
私の心は主に拠り頼み
私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び
私は歌をもって、主に感謝しよう。
詩篇28:7
主を信じることは喜びです。この人生で一番の信頼できるお方が私の力、私の盾なのです。この世では、良いことばかりとは限りません。それだけに強くなれければ倒されるかもしれません。しかし、実際には強い人よりも弱い人の方が多いのです。そのように非力な者でも主が自分の力になってくださるのです。それだけで、自信を持って生きて行けます。また、攻撃される事態に陥っても、主が盾となって守ってくださるのです。そのことが分かれば、人を恐れることはありません。人を恐れるとろくなことはありません。正義も守られず、嫌な思いをするでしょう。ですから、私たちは主により頼み、助けていただくことができます。この世の人たちには、そのような神がいません。ですから、主に守られている私たちは大変恵まれているのです。たとえ、深刻な問題に直面したり、強敵が現れて苦しめられそうになっても、私たちは主を信じているので、主にすがるでしょう。それが一生懸命であれば、主に助けていただけるのです。もう人生がおしまいだと諦めざるを得ないような深刻な災いが襲ってきても、それを神の方法で解決して、奇跡を起こしてでも助けてくださる主がいることを感謝しましょう。苦しみを信仰で乗り越えた人には、小躍りするぐらいの喜びがあるのです。クリスチャンは、主を讃美することを知っています。この讃美も喜びとなるのです。
1月28日(水)
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
第二テモテ1:7
私たちがクリスチャンであるのは、聖霊を授けられたからです。この霊は、別の弁護者であって、別のキリストと言っても良いのです。つまり、私たちを救い、清め、新しい人として私たちを造り変えるのです。当然、この聖霊の性質が私たちに反映されます。それが、力と愛と慎みなのです。クリスチャンは弱そうですが強く力があるのです。さらに、キリストのように愛の人であり、謙遜で慎み深い人なのです。それは、もっぱら聖霊によるのです。ですから、古い人のままであれば、こうした特徴が出てきません。自分をかえりみて、「力と愛と慎みの霊」が反映されていないのなら、そして、古い自分がまだ生きているのなら、クリスチャンとして課題を抱えていることになります。それは、「おくびょう」として出てくるので、そこでわかります。今は、幸いキリスト教信仰を持っていても迫害されません。ですから、わかりにくいかもしれませんが、クリスチャンとして正義を行う勇気が出てこなかったり、キリストの教えに服従できないなら、それは、臆病だからかも知れません。クリスチャンがいることは、キリストがそこにいるのと同じなのです。聖霊がその人の内にいて、生きているからです。ですから、もっと愛の業があなたの人生に現れてくるはずです。そうすれば、いつでも満たされ、喜びが自然と出てきます。それは、健康にもつながっています。また、良い人間関係が広がって行くでしょう。
1月29日(木)
いちじくの木の番人はその実を食う。
主人の身を守る者は誉れを得る。
箴言27:18
昔のことですが長野県の桃畑に連れて行ってもらったことがあります。そこで、桃を自分でとって食べても良いと言われ、すぐ目の前の大きな桃をとって食べながら、さらに奥へ進んでいくと、さっきとった桃よりも大きな桃がなっている木を見つけました。そこで、その中でもいちばん大きな桃をもぎ取ったのです。桃畑を持っている人が羨ましくなりました。その先に進むと、さらにもっと大きな桃が実っている木を見つけました。この桃畑の番人ならば、どこに一番大きくて美味しい桃がなっているのか知っているだろうと思いました。そして、その桃をとって食べることもできるのです。それは、たくさんの桃を盗まれたり、食べられたりしないように守っているからです。それまでの苦労がありますから、実を結べばその報酬にありつけるのです。そして、その番人が誠実に自分の職務を果たした結果なのです。私たちも主から託された使命があって、それを果たせば、良い報酬があるものです。自分の仕事を真面目に働けば、主はそれをよしとしてくださるでしょう。信仰に忠実であれば、それに主は褒美をくださるでしょう。善行を尽くせば、それにも報酬はあります。自分のしたことに報いがあるのです。主に誠実に生きていれば、その恩恵に必ずあずかります。主のために何ができるか考えて、日々主のために生きることがクリスチャンの理想です。その人は、やがて天国で大きな誉れを主から受けるのです。
1月30日(金)
御恵みはいかに豊かなことでしょう。
あなたを畏れる人のためにそれを蓄え
人の子らの目の前で
あなたに身を寄せる人に、お与えになります。
御もとに彼らをかくまって
人間の謀(はかりごと)から守ってくださいます。
仮庵の中に隠し
争いを挑む舌を免れさせてくださいます。
詩篇31:20、21
クリスチャンの人生は、本来恵みに満ちているものなのです。それは、神様がそうなさりたいからです。しかし、それは主を畏れる人のものなのです。主へのあなたの信仰態度が良くなければ、主の恵みを手に入れられなくしているかも知れないのです。ですから、主へのあなたの気持ちがどうであるか、探ってみる必要があります。主を畏れる人と言えるかどうかです。主は聖書に書かれた通り、主を畏れる人のために御恵みを蓄えておられます。信仰者は、必ずしも強い人とは限りません。弱い人いれば、普通の人が多いのです。しかし、際立っていることは、主を喜んで畏れ敬っていることです。ですから何かことが起これば、すぐに主を頼り、緊急事態の時には、主に身を寄せるのです。これは、試練を潜ってきた人には経験があると思います。まさに、御もとに彼らをかくまってくださるのです。「人間のはかりごと」は恐れろしいものです。まれに教会の中ですらこのような悪が起こることがあります。そのような時には、誰も味方してくれずに途方に暮れるかも知れません。放っておけば、誹謗中傷の嵐に飲み込まれてしまうかもしれません。ですから、神は「仮庵の中に隠し」とあるように、何か安全な緊急避難場所を用意されるか、身を寄せることのできる安全地帯に隠してくださいます。「争いを挑む舌を免れさせてくださいます」とあるように、あなたは自分の弁明をすることもできないかも知れませんが、何も話さなくても、主の完全なお守りがあるのです。それには、力ある者も権威ある者もどうすることもできません。人間の中には弱さがあるので、言い争いや、強く言いすぎてしまうことや、自己弁護のために自分に都合よく話してしまうかもしれないのです。そうやって、罪を犯さないように、言い争うような事態に遭遇しないように、守ってくださいます。ありがたいですね。ですから、主に忠実な信仰生活を過ごしていましょう。
1月31日(土)
主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。
主は信仰ある人を守り
傲慢な者には厳しく報いられる。
雄々しくあれ、心を強くせよ
主を待ち望む人はすべて。
詩篇31:24、25
聖書は、私たちを励ましています。信仰を持っている人たちは、何の守りもなく生きているわけではありません。主の守りがあることが御言葉で約束されています。それでも、偶像を拝む者たちの世界に生きていれば、厳しい場面もあるでしょう。私たちは、クリスチャンであるのに、この世で輝きを失い、時に失望し、うまくいかない事を嘆くでしょう。そして、敵に翻弄されて意気消沈することもあるでしょう。しかし、そんな時こそ、今日の御言葉を思い出してください。私たちは、この世にどっぷり浸かってはいけないのです。なぜなら、主イエス・キリストを信じて救われ、神の国に生きる者とされたからです。私たちは、神に愛されている者なのです。そのことを知ったのは、「主の慈しみに」生かされていることが分かったからです。ですから、私たちは神を知り、イエス・キリストを知っています。主のよくしてくださったことを忘れてはいけません。私たちは、主を愛しています。そのことを明確にする必要があります。そうすれば、どんな時でも雄々しくいられます。あなたは心を強くしなさい。あなたは主を待ち望む人なのです。この信仰を最後まで持ち続けるのです。主は必ず来られます。
