2026年4月ディボーション

4月1日(水)

その日には、あなたは言うであろう。

「主よ、私はあなたに感謝します。

あなたは私に向かって怒りを燃やされたが

その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。

見よ、私を救われる神。

わたしは信頼して、恐れない。

主こそわたしの力、わたしの歌

私の救いとなってくださった。」

あなたたちは喜びのうちに

救いの泉から水を汲む。

イザヤ12:1~3

 

クリスチャンは神に感謝を献げる人たちです。ことあるごとに神に感謝しているのです。それは、神の天の御座にまで届きます。また、あなたが神に感謝し始めると神がその上に来られています。賛美の上に座するお方だからです。祈りがうまくできないと言う人は、賛美がうまくできていないことがあります。今日の聖句は、そのような人に神への感謝を教えるまたとない聖句です。初めに読んで、これが自分の祈りだと思えるなら、そのまま使えば良いのです。聖句から祈りの言葉を覚えることは理にかなっています。もっとも聞かれる祈りと言えるのが、聖書の御言葉をそのまま使う祈りです。私たちは、このような祈りに使える箇所を通して、何を神に祈っているのかを知り、なぜ神に感謝しているのかを理解するのです。そして、自分をかえりみて、自分の内に神への信頼があるか、恐れはないか、主を自分の力と言えているか、主が私の救いであると信じているか、と問いかけてみるのです。それで大丈夫と思えるなら、喜んでください。あなたは、「喜びのうちに救いの泉から水を汲む」者になったのです。

 

4月2日(木)

目を覚まし感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時に私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。

コロサイ4:2、3

 

使徒パウロのように、命も惜しまずに福音宣教のために献身しているクリスチャンが数え切れないほどいました。時代が変わり、私たちの世代がクリスチャンとしてパウロの後を継いでいるのです。どんなに頼りなく見えても、神は私たちを選ばれたのです。私たちは信仰によって生きる者なのです。それは、この世の人が想像もできないほどの恵みの中を歩んでいく福音宣教を任せられた者の道です。ところが、時代が進むほどにキリスト教会はサタンの攻撃にさらされて、残念なことに衰えが見えます。特に日本は世界でもワースト1、2を争うほどの宣教がうまくいかない国です。いろいろな方法が考えられ、努力も惜しまずに頑張ってきた結果が今です。私たちに足りなかったのは何かと問えば、今日の御言葉を理解していなかったことではないでしょうか。「目を覚まし感謝を込め、ひたすら祈りなさい」。つまり祈りが足りなかったのではないか。ひたすら祈ることがなかったのではないでしょうか。そして、宣教の最前線でパウロのように働く人たちのために祈っていただろうか?「神の御言葉のために門を開いてくださり」。そうなのです、宣教を妨げている門があるのです。この門を開けることがリバイバルへ到達する方法なのです。有名なジャック・ヘイフォード牧師は、幻で日本列島の上空に大きな青銅の門を見たそうです。その門を叩く大きな音が上空から聞こえ、これは世界中のクリスチャンの祈りだと言うのです。ところが門の下に回ってみるとほとんど音が聞こえないのです。つまり、肝心に日本人クリスチャンが祈っていないと言うことです。まずは、すべてのクリスチャンが熱心に日本伝道の門が開くように祈ることです。そして、「私たちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」と祈るのです。こために「牢につながれてい」る者がいるのです。素晴らしい日本のリバイバルが祈りによって始まりますように。

 

4月3日(金)

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。

主は平和を宣言されます

御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に

彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

主を畏れる人に救いは近く

栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

慈しみとまことは出会い

正義と平和は口づけし

まことは地から萌えいで 

正義は天から注がれます。

主は必ず良いものをお与えになり

わたしたちの地は実りをもたらします。

正義は御前を行き

主の進まれる道を備えます。

詩編85:9~14

 

春のこの時期に読みたい詩編の一つが今日の聖句です。素晴らしい御言葉ですね。連日、イランの戦争が報道されて、その影響が日本にもあることを日増しに深刻に伝えています。しかし、私たちは無力でただ祈るばかりです。主が出て行かれて平和を宣言されるなら、たちまち戦争は終わるでしょう。また、このディボーションを読まれている、「主の慈しみに生きる人々」である皆様は、どのような時代でも主のお守りの中を恵まれて生きて行くのです。御言葉に励ましていただき、この暗い時期を顔を上げて立ち上がり、主を賛美して前に進みたいものです。私が好きな箇所は、後半部分の「慈しみとまことは出会い・・・」以下です。声に出して読めば、元気になります。心配することはやめ、主にのみ期待して待ちたいと思います。

 

4月4日(土)

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。私は「これはわたしの民」と言い。彼らは「主は私の神」と言う。

ゼカリヤ13:9

 

2020年のクリスチャン人口は約23億人で、世界人口に占める割合は、約28.8%で、世界最大の宗教です。これは、世界の約四分の一超がクリスチャンということです。ですから、まだ三分の一に届いていません。この三分の一という言い方は、旧約聖書にも新約聖書にも出てきます。今日の御言葉はゼカリアからとりました。この預言によれば、まさに「三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす」とあります。クリスチャンはもともと罪人ですから、汚れていたのです。それを清めて本物のクリスチャンにする必要があるのです。ただ、聖書を学び、礼拝をしていれば、素晴らしいクリスチャンに成長できるということはないのです。誰でも、主に練られ、試されるのです。不純物であるこの世の様々な欲望がその人から消えて無くなるまで、主の試練は続くでしょう。さらに、クリスチャンは成熟することができるので、一生かかって神との関係を造り上げて行くのです。その関係とは、互いに「これはわたしの民」「主は私の神」と呼び合うまでに結び合うのです。それにしても、日本は4000万人ぐらいにはクリスチャン人口を増やしたいものです。今は、人口の0.6%ぐらいでしょうか。クリスチャンが増えて行くことを願い祈り続けましょう。

 

4月5日(日)

群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。

ルカ11:29、30

 

戦争などが起こると、「そら、終末のしるしだ」と言い出す人たちがいます。クリスチャンの中には、刺激的な事柄にだけ反応する人たちがいます。彼らのとっての関心は、預言の成就が最も関心があるようです。そのために、無理な預言解釈や超自然の力や不思議を求めているので、危険と背中合わせなのです。こうした人の多くはカルトになりやすいので注意が必要です。私たちは、聖書が何が一番重要か教えていることに注目します。それは、イエス・キリストなのです。すべての人が安全に聖書を手に入れられる良い時代に日本人として生きていますが、聖書は書かれた預言なので、信仰が必要になってきます。そして、ユダヤ人のようにイエス・キリストに救いの全てがあることを理解しないクリスチャンも出てくるのです。これらの人たちが再臨の日に地上に残されても不思議ではありません。今日の聖句を読めば、わかると思いますが、キリストの到来によって、神の救いは全てキリストにかかっていることが明らかになったのに、ユダヤ人たちは、イエスのしるしに気づかず、キリストと認めなかったのです。それどころか、彼らにとって重要なことは、「しるし」だったのです。キリストではなかったので、イエスが誰か見分けることができなかったのです。私たちは、福音書を読んで、イエスがメシアであることを認めました。しるしの全てが書かれていないと思いますが、それでも、十字架の意味は圧倒的にクリスチャンが一生かかって理解する神の恵みそのものであり、三日目に墓から復活したイエスが最大のしるしだったのは明白です。しかし、ユダヤ人は復活を認めず、隠蔽しようとしたのです。今日もイエス研究をクリスチャンはすべきです。しるしや預言を求めるなら、悪魔の罠にやすやすとかかってしまいます。キリストのことで感動しないことはあり得ません。なぜなら、私たちのような者を恵みで救ってくださるからです。しかも、洗礼がゴールではなくスタートであるので、クリスチャンになってから、キリストに学ぶことが多くあり、救いの完成は、そこにしかないのです。これは、誰に対しても救いが公平であるためなのです。誰に対しても聖霊のお導きがあるので、クリスチャンはそのことに謙虚であるべきです。そうすれば、確かな救いへと完成目指して前進できるのです。しかし、最後にならないと自分がしるしを求める者であったのか、キリストを求める者であったのか、分かりませんが、再臨の日に気がついても遅いことは覚えていましょう。

 

4月6日(月)

稼ぎが多くても正義に反するよりは

僅かなもので恵みの業をする方が幸い。

箴言16:8、9

 

人間の幸福は不思議なものです。今の世の中では稼ぎが多いことは良いことで、誰もが給料の良い所で働きたいと思っています。中には、お金を稼ぎたいために、不正に手を出す人もいます。それが地獄の門を開くとも知らずに、誘惑に簡単に負けるのです。その結果正義に反することでお金を儲けたとしても、満足感がありません。後になって後悔することになるのです。不正によって得たお金で幸福になることはないのです。よっぽど大きなお金を手に入れても、そのことが人を幸せにするわけではありません。ところが、困っている人を助けるために、クリスチャンは恵みの業をすることがあります。それは、普通の人にとっては稼ぎが悪いので到底魅力的には思えません。ところが、人の幸福感が目に見えないので、わかりにくいのですが、助けを必要とする人の役に立ったり、お返しができない人のために、恵みの業をするのなら、そうした人の喜ぶ顔を見たり、安堵している姿を見ることができます。一人で不安の中にいる人に寄り添っていることでも、その人の心から出てくる感謝の声を聞くことができるのです。不思議なことに、お金儲けにはならないこうしたことに、価値があって、幸福感が湧いてくるのです。主もそのような時にはご一緒にそこにおられるのです。クリスチャンは、普通の人が見えない人が見えるのです。貧しい人も、誰からも見捨てられている人も、孤独な年寄りも、お腹をすかした子供も、お金に困っているシングルマザーも、助けを必要とする人に何か手を差し伸べれば、そこに恵みの業が生じるのです。それは、どんなお金儲けよりも人を豊かにするのです。

 

4月7日(火)

支配者の御機嫌をうかがう者は多い。

しかし、人を裁くのは主である。

箴言29:26

 

昨今の政治やニュースを見ていれば、今日の聖句が真理であることは誰にでも明らかです。力あるもの、支配者、権力者、こうしたものの責任は想像以上に大きいのです。古代のバビロンやペルシャの王は、明らかに神がその地位に彼らを置いています。だから、一人の人間が支配できる能力を遥に超える状態になっても、王で居続けることができました。このような絶対的な支配者が出てくると、誰でもご機嫌を損ねないように、ノーと言えなくなってしまいます。しかし、この支配者がまるで神のように振る舞うなら、神は黙っていません。わかりやすい例では、ヒットラーがまさに支配者として世界を不幸へと巻き込んだのです。それなのに、ヒットラーを諌める者はなかなか出てきません。抵抗する者は、捕らえて牢屋に入れたのです。そうなれば、怖くてますます彼の御機嫌をうかがう者ばかりになったのです。しかし、「人を裁くのは主である」。私たちはそのことを知っています。ですから、支配者を神のようには思わないのです。私たちがお仕えするのはイエス・キリストだけです。人を本当に裁くことのできる方だけを恐れていなければなりません。

 

4月8日(水)

戦争には指揮する力が必要であり

勝利を得るためには作戦を練るべきだ。

無知な者に知恵は高尚すぎる。

城門で口を開くべきではない。

悪意ある考えを持つ者は陰謀家と呼ばれる。

無知の謀は過ちとされる。

不遜な態度は人に憎まれる。

箴言24:6~9

 

イラン戦争は、世界中に悪い影響を及ぼしています。連日のニュースも暗く、悲観的です。今日の聖句を読むと、アメリカの指導者が思い浮かびます。果たして、今回の戦争にアメリカは参戦すべきだったのでしょうか。イスラエルにうまく利用されてしまったのではないでしょうか。すぐ終わると言い続けていた戦争も泥沼化しそうで不安が世界に広がっています。この戦争に作戦と言えるものがあったのでしょうか。戦争はしないと言って大統領に選ばれた人が、なぜ戦争を始めたのでしょうか。ここに知恵はなかったのでしょうか。世界中のニュースに出て来て口を開くと嘘ばかりじゃないかと言われ、イラン人を理解せずに戦争に踏み切ったのではないかと思われても仕方がありません。アメリカ人の60%以上の人たちが戦争に反対しているのに、不遜な態度は変わりません。今こそ、平和を取り戻す努力が必要です。クリスチャンは平和を作る人であって、傍観者ではありません。平和を求めるクリスチャンの祈りが天に満ちますように。

 

4月9日(木)

神よ、わたしを究め

わたしの心を知ってください。

わたしを試し、悩みを知ってください。

ご覧ください

わたしの内に迷いの道があるかどうかを。

どうか、わたしを

とこしえの道に導いてください。

詩篇139:23、24

 

心に残る詩篇はそれぞれの人にあるでしょう。今日の箇所も覚えている人は少なくないでしょう。自分の心の中はどうなっているのか、本人でもよく分からないものです。自分の意識していることと心の中は違っていることがあります。私たちは信仰者なので、神に心を隠す必要がありません。心の中を主に見ていただいて、何を悩みとしているのか、うまく言葉にできずにそのまま心の中に置きっぱなしにしていないか、主に見ていただき、この世の理不尽に耐えて来たことをわかっていただきたいのです。信仰がいつでも主に良しと認められたいのです。この世の忙しさのために、知らず知らずのうちに、「わたしの内に迷いの道があるかどうかを」ご覧になってください。私たちは主のもの、主に愛されて愛を知った者です。私たちの願いは、「とこしえの道に導いて」いただくことです。右にも左にも逸れることなく、一途に主を見つめて。

 

4月10日(金)

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。

マルコ13:32、33

 

クリスチャンはずっと待っていました。気づけば2000年が経っていたのです。しかし、神にとって千年も一日のごとくなのです。ですから、人間的には遅れていると思っても、それは一人でも多くの人を救おうとされているからで、もう少し待つかもしれませんが、黙示録が示す通り、時の預言のしるしはあるものです。ただ、そのことに熱中する人は、自分が聖書に書かれた通りに準備が整っているかどうかを心配すべきです。これは、簡単ではありません。人間の努力だけでなんとかなるようなものではないからです。終末論者のように、興奮を煽るようなものではなく、むしろ地味なものです。信仰によるからです。聖霊の御力によならければなんともなりません。クリスチャンが聖なる者として成長して行くために聖書のどこに書いてあるかは、自分で探さなければなりません。それぞれの導きがありますが、教会の意義は大きいのです。皆さんが互いに愛し合うことで準備が整うことも計画の内なのです。地に足のついた信仰生活を送ることがまずは大切です。

 

4月11日(土)

あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。

ヨエル2:26

 

イラン戦争で石油が入ってこないと色々なものの値段が高騰することがわかりました。その中で一番は食べ物の値段でしょう。サラリーマンの多い町の食堂は、どこでも値段を上げようとはしないで儲けが減っても頑張っているのです。どこまで続くかわかりませんが、お客さんがお腹いっぱい食べて満足してもらうことに喜びを感じているのです。そのサラリーマンが払えるランチの値段は決まっているのです。人間ですら、このように人が満腹するまで食べることに幸せを感じていることを神様なら尚更理解しておられます。ですから、イエス様も五千人の給食で示されたように、お腹が空いていないかを心配してくださる神なのです。ところが、戦争が起これば民は飢えてしまうのです。イランの専門家は、停戦はイラン人の面子が傷つけられたので、その面子をどうやって回復するかにかかっていると言っていました。クリスチャンは、人の面子も肉欲であることをキリストの十字架で学びました。ですから、面子よりも大切なものがあることを覚えているのです。それは、「愛」です。今、世界が一番必要なことは「愛」だと思います。その愛を知っているのはクリスチャンです。クリスチャンの役割は大きいのです。そして、神は、わたしたちのために永遠に恥を見ることはないようにしてくださいます。主の御名をほめ讃えましょう。

 

4月12日(日)

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

ルカ22:32

 

私たちは神に信仰を与えられていたので、福音を信じることは難しくありませんでした。信仰は、初めからあったのです。そして、クリスチャンになると、義人は信仰によって生きると聖書に書いてあるので、その通りに生きなさいと教えられます。しかし、はい、そうですか、と簡単にわかることではありませんでした。主の不思議なお導きで、信仰は鍛えられ、信仰を使わなければ大変なことになるという場面も通り抜け、主を求めて信仰を発揮することも体験します。しかし、人生では戦いがあるので、挫折したり、大きな敗北を経験したりすることは誰にでも起こるものです。そのようなことに本当に遭遇すると、落ち込み、信仰がなくなるかもしれない事態に陥ることがあるのです。弟子たちは、先生のイエス様が十字架にかかり、あっけなく死んでしまったので、絶望しました。あれだけ信仰が強められて来たのに、この時には、信仰を失いそうでした。それが、その危機を乗り越えて、キリスト教誕生の劇的経験へと導かれ、ペンテコステの体験をしました。その結果、信仰が覚醒し、議会でもイエスを弁明することができました。どうして、このように素晴らしくなれたのか、不思議でしたが、それはイエス様が弟子のために信仰がなくならないように祈ってくださったためでした。つまり、クリスチャンは皆キリストの弟子なので、あなたのためにも主は祈ってくださるのです。私たちが主に祈るのならわかりますが、主があなたのために祈るのです。あなたは、信仰を最後まで失うことなく保つでしょう。それは、あなたの主が祈っていてくださったからです。弱くなっても、主はあなたのために祈り続けています。ですから、あなたは大丈夫なのです。今日も信仰によって生きて行きましょう。そして、兄弟姉妹のためにあなたも励ます者となりますように。

 

4月13日(月)

いかに幸いなことでしょう

まったき道を踏み、主の律法に歩む人は

いかに幸いなことでしょう

主の定めを守り

心を尽くしてそれを尋ね求める人は。

彼らは決して不正を行わず

主の道を歩みます。

詩編119:1~3

 

 

聖書の中でユダヤ人には律法がありました。その時代によって、律法に対するユダヤ人の対応が異なりますが、詩篇では幸福の道が律法を守ることでした。主の律法に歩むとは、完全な人生を生きて行くことを意味しました。律法を守ることは、全人生をかけなければできないことでした。そのために心を尽くして主の定めを研究しその真髄を極めなければならないのです。そのようにできる人は、当然ですが不正を行わず、主の道を歩むのです。ところが、このような超人的な人はいないので、詩編119篇のアルファベット歌の初めであるアレフでは、後半に本音が出てきます。「わたしの道が確かになることを願います、あなたの掟を守るために」と実際に律法を守ろうとすれば、困難が生じることを窺わせます。新約聖書を待たなければ、このような律法の困難が私たちを苦しめたでしょう。罪人でなければ幸いの道を喜んで歩んだと思いますが、罪人は律法によって罪を知るのみなのです。しかし、クリスチャンはどうでしょうか。罪を赦されているので、律法を守るのでしょうか。実際に挑戦されて失敗された方々が一番知っています。私たちは、愛の掟を聖霊の御力で守って行くだけなのです。御言葉の力を信じて、その御言葉の通りになると信仰を働かせて生きて行くのです。これならば、クリスチャンなら誰でもできるはずです。信仰によって生きていけば良いのです。

 

4月14日(火)

あなたの道は海の中にあり

あなたの通られる道は大水の中にある。

あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。

あなたはモーセとアロンの手を通して

羊の群れのように御自分の民を導かれました。

詩編77:20、21

 

神の民と呼ばれる人々は、いったいどのような人たちなのだろうか。ウクライナで戦争が続き、一向に終わる兆しが見えません。ウクライナの歴史を知る人はあまりいないと思いますが、第二次世界大戦の時には、西からドイツに資源と食糧を狙われて攻めいられます。一方、東からソ連の軍隊がウクライナを襲いました。ウクライナ人が社会主義を否定する西側の教えを受け入れることのないようにと、ウクライナ人を捕まえて収容所に送り、500万人が殺されたそうです。ウクライナはソ連に組み込まれ、1991年にようやく再独立を果たしたのです。そして、またしてもロシアが攻めて来たのです。共産主義や社会主義は宗教を認めず、教会を次々に破壊してしまいました。ウクライナの残った教会は、ロシアの秘密警察によって支配されているので危険だと言われ、人々は教会に行けなくなったのです。それでも、家で祈り、個人で信仰を持ち続けています。今、日本にはウクライナから逃げてきた人たちが二千人います。そして、東京にウクライナ正教会が一つあって、そこの司祭はお父さんがアメリカに移民したために、子供時代からアメリカで育ち、ウクライナ語を話すことができません。司祭をウクライナから送るためのお金がないので、仕方なく今の司祭が仕事を別にしながら司祭をやっているのです。彼の話がNHKで流れました。ウクライナ人の悲劇を初めて知りました。彼らは神に祈っています。しかし、悲惨な状況の中でなんと祈ればいいのでしょう。神とケンカしたという女性もいました。ドネツク出身の方で、今は故郷にロシア人が住んでいます。時々、私たちは世界を見回して、一体神は何をしているのだろうと思うことがあるかもしれません。日本は平和ですが、戦争を絶対しない国であるのに、戦争ができる国にしようとしている人たちがいます。このような人たちが世界で増えれば、戦争は避けることができません。戦争が始まれば、経済が悪化し、人々が死にます。家族も友達も知り合いも皆、例外なく死に直面するのですから、戦争はやるべきではありません。このように思っていても、聖書時代から今に至るまで戦争は無くならないのです。信仰を持っている者はどうすればいいのでしょうか。今日の聖句を読むと、私たちが神をまだ十分には信頼していないのではないかと思えてきます。神は、超大国のエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い出しました。人間的には、目の前が海で遮られ、後ろからはエジプトの軍隊が戦車で迫って来たのですから、完全に絶望的状況でした。しかし、神の道は海の中にあったのです。神の通り道があるのです。人間には知ることのできない逃れ道です。私たちを助けるために、人を立て、羊の群れのようにご自分の民を導かれるのが、私たちの神です。理不尽なことがあっても、信じる神の民を必ず助け、人には見えない道を開いて見せてくださいます。私たちは、祈り続け、信仰を守って行くだけです。あなたを助けるのは主だけです。

 

4月15日(水)

どのような財宝よりも

あなたの定めに従う道を喜びとしますように。

わたしはあなたの命令に心を砕き

あなたの道に目を注ぎます。

詩編119:14、15

 

主の定めに従って生きることは、信仰者の願いです。しかし、自分の良いと考える道を選び、その結果を一喜一憂する人もいます。人生が自分の願い通りになれば誰も苦労はしません。この世の人々は、神はいないと言い切り、自由に生きようとしますが、実際には自由ではありません。罪が邪魔するのです。悪魔の誘惑があれば、それに逆らうことができません。ですから、悪い結果も待ち受けているわけです。しかし、クリスチャンはキリストによって自由が与えられました。自由は自分で選択しなければならないのです。良い方と悪い方があって、どちらかを選ぶのは自分なのです。ですから、初めは失敗するかもしれません。でも、クリスチャンには悔い改めるチャンスがありますから、失敗してもやり直せます。このようにして、人生を過ごして行くうちにクリスチャンもようやく何が正しいのか分かってきます。そして、とうとう今日の御言葉のように告白する日がやってきます。「どのような財宝よりも、あなたの定めに従う道を喜びとしますように」と。「神の定めに従う」というのは、クリスチャンがやがて到達する生き方です。しかも、その人はそのことを「喜びとしますように」と願っています。そのように生きるとはどういうことでしょうか。「わたしはあなたの命令に心を砕き」とあります。人間は心にあることが重要なのです。口先だけの人は、結果は空しいものです。しかし、本当に信仰者の道を極めようとすれば、願いが起こされ、「あなたの定めに従う道を喜びとしますように」と祈り始めるのです。その定めが楽なのか、苦難なのかはわかりません。しかし、キリストがそうであったように、神に従順に従う生き方は、たとえそれが十字架への道でも逃れようとはしないのです。ですから、私たちは「主の道に目を注ぎます」。主の教えに従い、命令のままに生きることが喜びとなるように進んで行くのです。

 

4月16日(木)

あなたの僕のためにお計らいください

わたしは命を得て、御言葉を守ります。

わたしの目の覆いを払ってください

あなたの律法の驚くべき力に

わたしは目を注ぎます。

詩編119:17、18

 

私たちは、主にお仕えする者です。それがどんなに誇らしいことか、そして嬉しいことか、クリスチャンにしか理解できないでしょう。イエス様は主人と僕の話をよくされました。そして、私たちは主人から良い僕と褒められたいと思うのです。そこから、私たちは祈りの時に自らを低くして、「あなたの僕のためにお計らいください」と祈るわけです。私たちは、主の贖いと赦しをもって、命を得ました。それは、クリスチャンになって信仰の道を歩み出したということです。その信仰は、御言葉を守ることなのですが、信仰と言っている通り、御言葉を信じることを意味しています。皆さんは、御言葉の力を知っていますか。信じることによって生じる御言葉の力です。今日の聖句では、「あなたの律法の驚くべく力に目を注ぎます」と書いています。これこそが私たちが目指すものなのです。イエス様は、ファリサイ派の人が「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねた時に、こうお答えになりました。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である種を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と。つまり、この二つの掟に目を注いでいるのですが、それはこの御言葉を信じているということなのです。詩編には、「わたしの目の覆いを払ってください」とありました。あなたはどうでしょうか。ファリサイ派の人たちは、目に覆いがかかっていたのです。そうであったから、間違ってしまったのです。なぜなら二つの掟を知識として知っていたのですが、実践していなかったのです。しかし、私たちは目の覆いを取り払っていただいて、神を愛し、隣人を自分を愛するように愛するとそのまま信じるのです。その御言葉の持つ力を信じているので、その通りになるからです。義人は信仰によって生きるということです。 

 

4月17日(金)

わたしの魂は塵に着いています。

御言葉によって、命を得させてください。

わたしの道を申し述べます。

わたしに答え、あなたの掟を教えてください。

詩編119:25、26

 

詩編119篇はヘブル語のアルファベット歌ですが、それを順番に読んでいます。今日はダレトです。初めの行は、塵は肉体を意味するので、皆さんが理解する通りの人間を意味しています。「塵は塵に」とある通り、人間は死ぬことが決まっています。神は人間を塵で形造り、鼻から息を吹き入れて生きた者となったのです。神の息は霊のことですから、魂は「生きた者」に関係します。つまり、あなたが生きていると自分を感じているのが魂です。残念ながら、死ねば魂も失われてしまうので、命が必要なのです。それを与えられるのは神のみです。皆さんにとっては、それを救いと言っているわけですが。詩編記者は、罪によって死ぬ人間が、命を得て生きるにはどうすれば良いのか知りたいのです。そこで、彼は自分の生き方を神に述べて、良いのか悪いのか、正しいのか間違っているのか、答えて欲しいというのです。それは、そうやって正しい生き方を知ることで命を得ようとしているのですが、その正しい生き方こそが、神の掟そのものなのです。幸い、クリスチャンの皆さんは、それを知っています。今度は、その掟に従って生きるために、聖霊の従う信仰を学んでいるところなのです。

 

4月18日(土)

不当な利益にではなく

あなたの定めに心を傾けるようにしてください。

むなしいものを見ようとすることから

わたしのまなざしを移してください。

あなたの道に従って

命を得ることができますように。

詩編119:36、37

 

詩編記者は、今日の聖句のように言っていますが、あなたはどう思いますか。同感ですと答えるでしょうか。この世で金儲けを企むことはできますが、というかこのように考える人が増えているので「投資」のような言葉が頻繁に耳に入る時代に生きているのです。フィリピンにいた時に、国で一番優秀な人が集まる大学で、学生たちは何を考えているのかという新聞記事を読んだことがあります。それによると、いかに楽に金儲けができるか、コンピューターを使って苦労せずに金儲けをすることを考えているのだ、と紹介していました。この国の問題は「不当な利益」でした。知的労働でも正当に働いて利益を得ることは悪くありません。警察官が権力をかさに、ゆすり、たかり、をするようなことは不労な利益です。公務員が賄賂を受け取らなければ働かないというのも不当な利益になります。もちろんは、犯罪は全てダメですが、私たちにも誘惑はやってきます。自分の心の中で葛藤を起こすような誘惑です。お金に弱い人など、欲の強い人は要注意です。さて、クリスチャンになると、この世の価値観が薄れてきます。損得に敏感だった人が、そんなことはどうでも良くなってしまうようなことが起こります。人に黙っていればわからないような些細な不正もできなくなります。何しろ神様はどこにいても見ることができるし、心の中までみることができるのです。ですから、神の目が怖いので悪いことをしない、というのは消極的な善です。しかし、今日の詩編記者は積極的な善です。自分の弱さを承知しているので、正しいことでも神に助けを願っています。誘惑の方法で効果的なのは、見せることです。テレビなどのコマーシャルは、まさにこのことを知っているので、人の欲に誘惑しているのだと言えます。ですから、目の欲を自分でコントロールできないので、このことからも神に助けを求めているのです。この世の価値観や誘惑から離れて、神の定めた道を行くためには、自力で頑張るのではなく、神の力を頼って、自分を神の価値観に引き寄せて、誘惑に陥らないように願う必要があるのです。この世の普通のことが罪の誘惑になっていることを覚えて、自分の価値観が神のそれと一致しているか、気にするようにしたいですね。

 

4月19日(日)

主よ、あなたの慈しみと救いが

仰せのとおり、わたしを訪れますように。

わたしを辱めた者に答えさせてください。

わたしは御言葉に依り頼んでいます。

真実をわたしの口から奪わないでください。

あなたの裁きを待ち望んでいます。

詩編119:41~43

 

今日は、アルファベット歌の「ワウ」です。正義感が強い人は、初めからその傾向があります。ですから、自分の属する社会や組織でもその正義感は出てきます。ところが、組織では、上司が必ずしも正義感の強い人であるとは限りません。ましてや、批判を受けてもそれを真摯に受け入れ反省できる人は滅多にいません。大抵の人は、批判されたと反感を持ちます。自分のしていることは棚に上げて、自分を批判している人がいるということが許せないのです。それに対して、自分は正しいことをしていると思っている人は気をつけないと、組織を乱しているかもしれないのです。どんな組織でも、問題のないところはまずありません。それは、人間が行なっているからです。そこで、誰かの上手くない問題行動に対して、率直に批判して問題を治すように言えば、言われた人は自分を攻撃してきたとアラームが鳴りだすのです。ですから、反撃が始まります。防衛本能が働くのです。ではどうすればよかったのか。クリスチャンのやり方は、人が文句を言っている時には、距離を持ってよく見ることです。そして、円満な問題解決に何ができるかを考えてみます。その時、短くても良いので神様に祈ってみることです。その問題が、部下の上司への不満である時には、気をつけなければなりません。上司には権限があるのです。つまり力があるので、反感を持たれれば、助けるどころか自分が被害を受けることになるのです。それよしも、誰をも批判しないで済む問題解決を考えるのです。もっとも、問題は大抵が上の者に非があるもので、虎の尾を踏むようなことになるのです。ここで、戦うと結果は負けるとわかっているので、対応を間違わないようにしなければなりません。しかし、自分が正しいのにも関わらず、相手に理不尽なことをされた場合は別です。それが辱めとしか言えないようなひどい場合は、神様に救いの祈りをすることが懸命です。今日の詩編記者はからりの辱めを受けて、神様の救済を求めています。正しい者でいようとすれば、このようにピンチに陥るのが、この世界なのです。決して神様の助けなしには上手く生きることができません。それでも、神様の御言葉を守って正しく生きていきたいのなら、知恵が必要です。ソロモンはそれで乗り切ったのですが、それでも疲れ果てていました。罪人とうまくやって、なお自分は罪を犯さない、ということは結構難しいことなのです。コヘレトの言葉のように、「むなしい、むなしい」と言いだす前に、穏やかに平和に生きるために、どうすれば良いのか、祈って聖書から学ぶことです。

 

4月20日(月)

あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。

あなたはそれを待ち望ませておられます。

あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。

苦しみの中でもそれに力づけられます。

詩編119:49、50

 

今日は、アルファベット歌の「ザイン」です。私たちは、クリスチャンなので神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものなのです。その言葉はレーマと言います。今日の詩編記者も主の御言葉を待っています。私たちは、悩みもなく健康で仕事も上手く行き、人間関係も順調で何事も問題がなければ、特に神にすがるようなことはしません。主の祈りのように祈り、平穏に暮らしています。しかし、試練が襲ってきたり、とんでもない難問に悩むことになれば、たちまり主にすがります。また、信仰のゆえに傲慢な者から見下されるようなことがあっても、それで信仰を止めることはありませんし、主の御言葉から離れることもありません。主はこの世の終わりに裁くことになっていますが、クリスチャンの信仰生活が神の御言葉によっていれば、心配することはありません。主を信じる者には聖霊の助けがあり、聖書には必要な全てが記されています。教会はキリストの体として機能し、互いに愛し合うという掟に生きているので祝福されています。主は個人的に語りかけ、御言葉を霊的食物のように与え、また苦しむ者を励まし、慰め、立ち上がらせてくださいます。ですから、私たちは主に忠実に生きて行くのです。今日も主に恵まれた一日を元気に笑顔で始めましょう。

 

4月21日(火)

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人

わたしはこのような人の友となります。

主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。

あなたの掟をわたしに教えてください。

詩編119:63、64

 

今日は、アルファベット歌の「ヘト」です。

私たちは、誰と一緒に生きているかで相手から影響を受けるのです。家族から始まり、学校の友達や先生、会社の同僚や上司、友人、知人と色々な人と関わりができます。しかし、信仰者として生きていこうとすると、今日の詩編のように、誰の友であるかが問題になります。それは、どの教会でも古くからの信者は、この世の友人がほとんどいません。自分との関わりある人は皆と言っていいほど教会の人なのです。同じ信仰を持っている人との付き合いの方が楽だし、上手く行くからからです。しかし、詩編記者はもっと厳しい基準をあげています。「あなたを畏れる人」「あなたの命令を守る人」です。クリスチャンでも、この世の中で働いていたり、生活をするために信仰に対して緩やかに考えている人がいます。それに対して、主の教えに従いたい、とか、主を畏れ、主を第一に生きると決めている人がいます。このように、神中心に生きようとする人がいるのです。私たちは、狂信者にはなりませんが、天地万物の創造者を神として拝む者なので、神中心に生きることはおかしなことではありません。ですから、クリスチャンとして正しく生きている人は友と考えることは聖書的ですらあるのです。クリスチャンとして神を信じて生きることに意味があるかと言えば、「この地はあなたの慈しみに満ちています」と言える人がいることから明らかです。信仰の無い人には決して分かりません。あなたをいたわり、あなたのことを心配し、励ましたり、慰めたりする神がいるのです。孤独な夜に隣にいてくださる神は、あなたを愛しておられるので、あなたは慈しみの意味を知っています。ですから、この神に従いたいのです。この神に喜んでいただきたいし、神の御目にかなう者となりたいのです。ですから、「あなたの掟をわたしに教えてください」と願うのです。本物の義人になりたいからです。

 

4月22日(水)

主よ、あなたの御言葉のとおり

あなたの僕に恵み深くお計らいください。

確かな判断力と知識をもつように

わたしを教えてください。

詩編119:65、66

 

今日は、「テト」です。私たちの信仰は、主の御言葉を力あるものとして信じることに意味があります。光あれと言えば、その通りになる御力です。では、主の御言葉を信じるのはどうしてでしょうか。それは、主が恵み深くお計らいくださると言える、恵みに満ちた御言葉が多くあるからです。例えば、私たちが毎日唱える主の命も御言葉なのです。この祈りをすれば完全な祈りができるだけではなく、結果的に私たちにとって全てが恵みになるのです。律法にしても、私たちが安全に生きていくことができる御言葉です。正義がなされ、悪と善を峻別することができます。人生に迷いがないのは大きな利点ですし、成功する人の特徴です。さて、今日の聖句の初めの二行を読めば、聖書に書かれた恵みを見つけ、それをご自分に適用されるように主に祈ることができます。そして、「確かな判断力と知識をもつように、わたしを教えてください」と、祈ったことがあるでしょうか。聖書に書いてあることなので、誰でも必要なことであり、人生を間違いなく歩み続けるために有益な願いなのです。このように、御言葉をそのまま自分の祈りとすることができます。完全な祈りなので、主の御心にかなった願いです。この世で働く人たちは、年々大変になっていると思いますが、AI時代になったので、これから仕事も激変していくのでしょう。その時に、皆様を助けるのがこの御言葉だと思います。「確かな判断力と知識」が天の恵みとして与えられるなら、どんな仕事もこなすことができ、成功への近道を行くことになります。時間活用が重要になりますから、この点でも有利になります。皆様の不安材料は、確かな判断力と知識で取り除けることができます。これらを世俗のセミナーなどで学ぶのではなく、神から直接教えていただけるのですから、クリスチャンは特別なのです。主の御言葉を信じることがいかに有用か理解できますね。

 

4月23日(木)

主よ、あなたの裁きが正しいことを

わたしは知っています。

わたしを苦しめられたのは

あなたのまことのゆえです。

あなたの慈しみを持って

わたしを力づけてください

あなたの僕への仰せのとおりに。

御憐れみがわたしに届き

命を得させてくださいますように。

あなたの律法はわたしの楽しみです。

詩編119:75~77

 

今日は「ヨド」です。神を信じる人でも苦しみに遭うことがあります。それは、もちろん本人のために起こっています。神が人を裁くことができることは理解できると思います。神は正義を司り、しかも神は愛なのですから、人間に対してもいたずらに苦しめることはありません。人間の浅い考えでは理解できないほどの高い思慮を持ってその人のために苦しみを許されることはあるのです。本人が一番その意味をわかるのですが、神の摂理の中でこのことが起こっているのだと理解できれば、そこから自己を顧みて正しい道へと戻っていけるのです。ですから、本人が神のなされたことの意味を理解できば、心を一新してもう一度正しい道に戻っていけるのです。しかし、人間は弱いので一旦不幸が起こったと思えば、全てに悲観的になり、考えも否定的に傾くのです。ですから、今度は神に力づけていただなければなりません。それも、慈しみ深く、優しくです。神の憐れみは人を生き返らせることができます。クリスチャンが自分の好きな聖句を思い出し、神の憐れみの御言葉を読むなら、その時、心に不思議が起こります。神に願うことは「命を得させてください」という一つのことです。そして、聖書を貪り読むと、なんと「わたしの楽しみです」と思えるのです。

 

4月24日(金)

わたしの魂は

あなたの救いを求めて絶え入りそうです。

あなたの御言葉を待ち望みます。

詩編119:81

 

人生は決して順風満帆という日ばかりではありません。自分の通ってきた道を振り返ってみれば、辛い日や悲しみの日、絶望の日すらありました。確かに、試練が突然襲ってきた時に、その人の真価が問われているのでしょう。それまでどう生きてきたかが分かるからです。根性ドラマの主人公のように、日々汗と涙を流してきたなら、その報いがきっと待っているのでしょう。しかし、普通に生きてきた人にとって、突然、今まで自分をどのように鍛えてきたのか試してみようと言われても戸惑うばかりでしょう。その人の持っている真の力がそこで出てくるなら、困難に負けてはいないでしょう。しかし、その試練が迫害であったならどうでしょう。誰も助けてくれない状況の中で日々追い詰められて行きます。今日の詩編記者はそのような中でこの祈りを書いているのです。彼はどうやってこの試練を乗り越えようとしているでしょう。もちろん、神にすがっています。救いを求めて必死ですが、力が尽きてしまいそうです。彼は不思議なことを言い出します。「あなたの御言葉を待ち望みます」と。そして、「わたしはあなたの口から出た定めを守ります」(88節)と言いました。理不尽な不当な扱いを受けても神の命令を捨て去ることがないように彼は願います。御言葉の力が人を救うのです。そのような御言葉を私たちは求めて、聞くことができるのです。そして、そこにこそ救いがあるのです。

 

4月25日(土)

わたしはあなたの命令をとこしえに忘れません

それによって命を得させてくださったのですから。

わたしはあなたのもの。どうかお救いください。

あなたの命令をわたしは尋ね求めます。

詩編119:93、94

 

私たちは福音を誰かから聞いて信じて救われました。福音を伝えることは簡単なことではなく、人間の力だけでは無理なのです。しかし、福音を伝えた人間がいたことは事実です。その人は、イエス・キリストの大宣教命令を心に留めて、その命令を守ったのです。信仰生活自体が、人間の力だけでは難しく、聖霊の助けを受けて聖書の御言葉が力となって日々、救われて生きているのです。聖書の意味がわかってくると、そこに主の命令を読み取ります。それは、人間の命令とは違って、永遠の命を得る秘訣そのものなのです。私たちは、主によって救われたのですが、それは逆説に満ちていました。罪人の私たちは罰せられずに、主イエスが身代わりに酷い罰を受けました。その流された血で清められ、命の代価で贖われました。本来なら私たちが罰せられるはずなのに、罪のない神の独り子が罪の罰を受けたのです。ですから、主の御言葉を私たちは守るようになったのです。御言葉が新しく生まれたクリスチャンの私たちを造っているように、神の真理によって生きるようになりました。キリストの十字架の贖いは、尊い命の代価をもって私たちを買い取られたのです。ですから、私たちは主のものなのです。そうであれば、主に喜ばれるように生きるはずです。それは、主の御言葉を求めて理解し、その求めるところを実現することなのです。僕が主人に「今夜は遅くなるが帰ってくるので、寝ないで食事を温めてすぐに出せるようにして、待っていなさい」と言われれば、その通りにします。その僕こそ、私たちなのです。ですから、聖書から、主はなんと私に命令されているのかを知ろうとするのは当たり前なのです。 

 

4月26日(日)

あなたの戒めは

わたしを敵よりも知恵ある者とします。

それはとこしえにわたしのものです。

わたしはあらゆる師にまさって目覚めた者です。

あなたの定めに心を砕いているからです。

詩編119:98、99

 

聖書には面白いことがたくさん書いてあります。今日の聖句もその一つです。普通、律法とか戒めと言うと、宗教の上でしてはいけない事、しなければいけない事、などが連想されます。殺してはいけない、盗んではいけない、等のようなものです。ですから、ここで「敵よりも知恵ある者とします」と書かれていると、??と驚くのです。つまり、律法とか戒めと出てきた時に、単純にステレオタイプに理解してはいけないのです。ファリサイ派はそこからして間違っているように思えます。私たちも、律法を法律のような規則や決まりのようにだけ捉えると、律法の表面だけをなぞった感じになります。そこで、旧約聖書を読む時には、考えて読まなければならないという事になります。それでも、足りないでしょうから、祈りながら読むという具合になるのです。一日でわからないかもしれないので、長い時間がかかっても考え続けるわけです。こう考えてみると、律法を守るという事の意味が変わってきます。それは、十戒を初めて読んだ時に、特に難しいことはないと思ったことです。殺してもいなければ姦淫もしていない、偽証もしなければ、盗みもしない、人のものを貪らない、うん、私は大丈夫だ、と思う人はクリスチャンになる前の人に多く見受けられることなのです。しかし、罪の自覚が生じた人は一つも守ることができないと告白します。これは、自分のことが分かっていると思っていたのに、実は自分の本質が全く見えていなかった、と気がついたのです。これが律法の力です。自分で自分が見えない。見えなければ、顔に墨が付いていても、気にならない。人から笑われて、気がつくと恥ずかしくなり、顔を隠すのです。ところが見えないはずの自分の顔を見ることができる方法があります。鏡に映すことです。この鏡が律法なのです。敵が自分の顔を見ることができないのに、自分は敵を見るだけでなく、自分の顔を見ることができるのです。このようにして、敵よりも知恵ある者となれるわけです。

 

4月27日(月)

あなたの御言葉は、わたしの道の光

わたしの歩みを照らす灯。

詩編119:105

 

クリスチャンにとって神の御言葉は、これから生きて歩んでいく人生の光なのです。聖書では暗闇と光という対照的な言葉を使ってあることを明らかにしています。例えば、新約聖書では、ヨハネの福音書の一章に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(4、5節)。これは、言をイエス・キリストとする説明です。キリストは、この世に人となって来られたが、この世は暗闇であったので光であるキリストを理解しなかったのです。普通は、暗闇に光があれば、気がつくはずですが、キリストが理解できなかったのです。しかし、私たちはクリスチャンとなり、キリストを理解しています。ですから、私たちの生き方はキリストを光とし、自分の歩みを照らす灯としているのです。キリストは言葉としてヨハネの福音書では説明しているので、この詩篇の「あなたの御言葉」は、キリストの御言葉であり、聖書そのものであると理解できます。そして、聖徒が生きる生き方は御言葉に従うという特色があることが分かります。聖書を日毎の食事のように、生きるためには欠かすことができないとして、毎日食べるように、聖書を読み、学ぶのです。学者のように学ぶことは必要はなくとも、霊の糧としては御言葉を味わいたいのです。教会で聖書研究会があれば、積極的に参加することは良い方法です。また、自分で聖書を学ぶ時には、独善的にならないように気をつけることと、図書館や本屋などで聖書関連の本を見つけて読むと、そのような本は偏りがありものが多いのです。信仰書ではなく、学問の専門書として書いてあるものがほとんどであるからです。キリスト教専門書店が必要なのは、信仰書を公然と販売しているからです。クリスチャンに必要なのは、信仰を育てる本です。それを間違うと、知的には満足できたとしても、信仰は良い影響を受けずに、時には悪影響を受けることもあるので、注意が必要なのです。聖書を読んで聖霊の解き明かしを受けたり、知恵が与えられて理解したり、信仰の友と霊的なものを分かち合うことは、とても貴重な経験となります。教会の礼拝説教も信仰の歩みを照らす灯となっていることも教会員の皆様には理解できることだと思います。

 

4月29日(水)

主の働かれるときです。

人々はあなたの律法を破棄しています。

それゆえ、金にまさり純金に優って

わたしはあなたの戒めを愛します。

詩篇119:126,127

 

この世界は大きく変わってしまいました。日本も例外ではありません。世界の枠組みが大きく変わろうとしています。世界には多様な価値観があり、多くの真理があるように見えます。キリスト教国でも教会は古く堅苦しいと嫌われています。一方で信仰熱心な人もいるのですが、大きく振るわれているのです。世界中で自由を求めて神の戒めを無視しているのですが、旧約聖書のカナンの自由奔放な宗教や文化に影響されて行ったイスラエルの民のようです。そのような時代に目を覚まし、神の御言葉に最高の価値を見出している聖徒がいるのです。彼らは主になんとか忠実に従おうとしているのです。迫害もなく、自由の時代に、みずから主のしもべ、はしためとへりくだり、信仰に生きると決めている人たちです。主が必要とするのがこのような人たちです。そして、それが、このディボーションを読んでいるあなたなのです。キリストの希望があなたなのです。

 

4月30日(木)

あなたの定めは驚くべきものです。

わたしの魂はそれを守ります。

御言葉が開かれると光が射し出で

無知な者にも理解を与えます。

詩篇119:129,130

 

なぜ信仰が必要なのか?それは、聖書は魂で理解し守るものだからです。初めは、ピンと来ないかもしれませんが、主との関係が築かれていくうちに、聖書を読むことの意味が変わってくるのです。ある人たちは、聖書をとにかく読まされます。また他の人たちは、精読させられます。さらに、考えながら読むように導かれる者もいるのです。また、聖霊のバプテスマを受けると、聖書の中から文字が飛び出たといったり、聖書の人物が出て来て目の前で演じると言う人も出てきます。そのように、人によって御言葉の受け取り方や理解の仕方が違っているのです。ただ、聖書を持っているだけでは分かりません。学者だからわかるということでもないのです。それは、「魂」と今日の御言葉で出て来たので確かです。神の定めがどのようなものであるか、理解できなければ「驚くべきものです」とは言えません。また、「御言葉が開かれると光が差し出で」とは、御言葉の持つ秘密なのです。通常は閉じているということになります。ですから、見ても見えず、聞いても聞こえず、という状態なのです。でも、無学な者と蔑まれたペトロたち弟子たちは、この御言葉を体験したのです。「無知な者にも理解を与えます」とある通りなのです。ですから、信仰が必要なのです。高慢な者には決して理解できません。試練の中で謙遜な人格が作られ、信仰が試され、聖霊の息吹を受けて新しく生まれる人がこの聖句のような経験をするのです。条件は、ただ信仰がある人なのです。信仰を持って主に近づきましょう。