6月1日(月)
主の御使が、・・・言った。・・・あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。わたしもこう言わざるを得ない。わたしは彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう。」主の御使がすべてのイスラエルの人々にこれらのことを告げると、民は声をあげて泣いた。
士師記2:1~4
カナン侵入の後のことが士師記の初めに記されています。彼らは、自分に割り当てられた領土を取るために、カナン人と戦いますが、1章を読むと、カナン人を追い出さずに奴隷としたことがわかります。そのために、神は御使を遣わして、今日の聖句のように語ったのです。なぜ、人間はこのように主の命令を破るのでしょうか。自分の考えで物事を決めていい場合と悪い場合があるのです。神がはっきりと命令していることに関しては、何が何でも忠実に守るべきです。人間的な感傷や損得勘定も危険でしかありません。神は間違わないのです。残念ながら人間は間違うことを避けられません。そこで、信仰者は聖書に神の御言葉や命令がある時、それが自分に与えられているものなら、守ることができるように祈るのです。それもおざなりの祈りではダメです。熱心に祈ることが肝心です。自分の力を過信せずに、キリストの助け、聖霊の援助があると信じることです。神は無駄なことや無益なことは一切言いません。ですから、御言葉は全て自分にとって益となる恵みそのものだと考えるのです。守るには難しく感じることが多々あるはずですが、そこで性急に諦めたり、自分の力に頼ってしまうことは避けなければなりません。自分の内に奇跡を起こしている聖霊を信じることです。あなたのために想像以上の良いことをしてくださいます。そのような体験をすれば、信仰が大きく成長します。神に反して自己判断はしないことを肝に銘じておきましょう。
6月2日(火)
その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かう時ちができなかった。出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
士師記2:10~15
イスラエルの人々とはいったい何なのだろうか。出エジプトの出来事を経験した世代でも、主に公然と逆らう者もいたが、大部分は主に従った。それは、主の御手の業を直に見たからであって、多くの奇跡を経験したことが大きいだろう。彼らが罪深かったことは金で牛の像を造った事件など見れば明らかだが、モーセがいてくれたことが大きかった。彼らがモーセの後、ヨシュアに率いられて、いよいよカナンに侵入し、よく戦い土地を征服して行った。しかし、それがどんなに困難なことであったか。やがて、ヨシュアも110歳で亡くなり、出エジプトを経験した長老たちも皆死んでしまった。そして、出エジプトを知らない世代の時代になった途端、彼らは主を捨ててしまったのだ。それどころか、カナンの偶像を自分たちの神として拝んだ。バアルとアシュトレトだ。それは、当然神の怒りを引き起こし、彼らは苦境に立たされることになった。この世代の人たちは、主エジプトのような主を知る機会がなかった。大きな奇跡を経験していないだ。そうすると、今日の教会も大きな奇跡を経験していない世代ということで同じだ。世界中でキリスト教離れが進み、深刻化している。そうなると、戦争や苦難が襲ってくるのではと危惧することは、聖書の前例を見れば決して妄想ではない。現に、世界は戦争でおかしなことになってきた。戦争をしていない国々も石油が入ってこなくなり、パニックになっている。なんとも厄介なことが起こっている。まさに、苦境に立たされているのだ。世界中が主に立ち返ることができるようにリバイバルを求めて祈る時が来ている。
6月3日(水)
彼らはイスラエルを試みるために、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。しかし、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた。
士師記3:4~6
この前に、「カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた・・・」(1節)と書かれています。何か釈然としない気がします。イスラエルの主に対する罪の問題は、カナン人を完全に追い出さなかったことによって、偶像礼拝が起こったという罪です。それなのに、主には他にも考えがあったということで、ヨシュアのような主に忠実で戦闘にも長けていた人たちが死んで、世代交代が起こった時に、戦争経験がないので経験させるためにカナン人を残したというのです。そして、モーセを通して与えた律法を守るかどうかを試みるためだというのです。つまり、この地上にあって罪人であった人間を救う場合、その人たちは、救われた後に戦いが用意されているということです。クリスチャンで言えば、信仰の戦いです。カナン人の代わりに世俗の未信者が周りにいるのです。その世俗に飲み込まれてしまうのか、それとも踏みとどまるのか。世俗の神々に仕えるのか、それとも主に忠実に仕えるのかが試みられるのです。それは、教会よりもこの世の方が楽しいと考えるか、教会生活は主に近づく道で楽しいと思えるか、という戦いです。さらには、聖書を与えられているクリスチャンは、その御言葉に聞き従うかどうかを見られているということです。イスラエルの民は、まんまとこの試みに負けて行きました。それは、この世の人と一緒になるために信仰を捨てたということと同じでした。こうした試みに見事合格したなら、その報いは大きいのです。少なくとも天国へ入るには必要な試験なのです。
6月4日(木)
立って、あなたの神、主を賛美せよ。
とこしえより、とこしえにいたるまで
栄光ある御名が賛美されますように。
いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。
あなたのみが主。
天とその高き極みを
そのすべての軍勢を
地とその上にあるすべてのものを
海とその中にあるすべてのものを
あなたは創造された。
あなたは万物に命をお与えになる方。
天の軍勢はあなたを伏し拝む。
ネヘミヤ記9:5、6
これは、ネヘミヤがエルサレム再建のために帰ってきて、敵に妨害され、命を狙われながら、見事に再建を果たして、バビロンから帰還した民を集めて祭司エズラによって律法の書が朗読し、祝いの日を無事過ごした。そして、二日目に律法の書に仮庵の祭りが書かれていることを発見し、彼らはヨシュア時代から行われていなかった、仮庵の祭りを行った。その感動と喜びはまことに大きなものだった。そして、その月の24日にイスラエルの人々は集まって、断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。彼らは、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。その時、レビ人のための台に立ち、レビ人八人が神なる主に大きな叫び声をあげた。その初めの祈りが、今日の聖句です。私たちが、神にどのように祈れば良いのか知らないなら、このように祈れば良いのです。神を礼拝することは、主にひざまずき、ひれ伏すことです。イスラエルの民は、このように主を礼拝したので特別なのです。しかし、ネヘミヤ記を読めば、皆が主に忠実であったわけではありません。クリスチャンでもそうでしょう。わたしたちは、聖書にこのように記録された箇所を読むと、自分たちも天の書記によって記録されているのでは、と思えてきます。その時、自分の信仰が、主への忠実な者として記録されることを願います。この聖書の神を信じ、その僕となれたことがありがたく、嬉しく思うのです。
6月5日(金)
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
詩篇34:9
キリスト教の特徴は、主の恵み深さを、経験するように促されていることです。この罪の世界では、誰もが自己中心で、愛を求めてもただでは愛してもらえないのです。条件付きの愛は、どこか打算的で、信頼がおけません。そして、神の創造された人間は神に似せて作られたのですから、神の本質の愛が余韻のように残っているのです。罪の贖いと清めなしには、本来の愛を知る者にはなれなくても、福音に反応するぐらいには愛の大切さを感じているのです。この世で、どんなに頑張っても、その報いは少ないのです。ましてや、何もしないでも愛してもらえることはないのです。この世界は決して恵みの世界ではありません。だから、ストレスにさらされて疲れ果てています。ところが、聖書を読めば、神が恵みを味わってみなさい、とおっしゃっているのです。神の恵みを見てごらんと語っておられるのです。ですから、信仰を持った私たちは主の恵みを味わう者として生きているのです。この世では正反対なので、なかなかありのままの自分が神の恵みをいただけるのかどうか迷ってしまいますが、今日の御言葉を何度も口ずさみ、主の恵み深さを味わい知ることが求められているのです。この御言葉を信じて、本当に主の恵みを味わってみましょう。
6月6日(土)
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイ4:4
この有名な御言葉は、私たちに信仰によって生きる意味は、神の御言葉によることを教えています。「義人は信仰によって生きる」との有名な御言葉は、実は今日の御言葉と同じことを言っているのです。信仰によって生きるということは、神の御言葉をそのまま信じることを意味しています。この世の様々な知識を多く得ることによってうまく生きていくという信仰を持たない人の考えとは違っています。そもそも信仰とは、神の御言葉を信頼することなのです。もちろん、御言葉の真意を理解していなければ、信頼のしようもありません。ですから、ここでの「神の口から出る一つ一つの言葉」の「言葉」はロゴスではありません。レーマです。ロゴスは、この世の人が言う知識の一つになってしまいます。しかし、レーマは生ける神があなたに個人的に語ってくださる言葉です。つまり、あなたが祈って御言葉を読む時に、心に残り、その意味を正確に知りたいと祈ると、その願い通りに、悟りが与えられ、自分に語りかけてこられた言葉の意味が分かるのです。この言葉に信頼を置き、従う時に、「信仰」と言っているのです。義人はそのように生きているわけです。義人も神が義とすることを聖書中に見つけて、レーマとして聞き、信頼したのでその御言葉の通りになった人のことです。これは、難しくありません。それは、あなたに信仰が与えられているからです。それを上手に使っていけば、どんな御言葉も信頼できるようになります。
6月7日(日)
若獅子は獲物がなくて飢えても
主に求める人には良いもののかけることがない。
詩篇34:11
信仰を働かすことは、とても重要なことです。不思議なことですが神の御言葉には創造の力があります。天地万物を創造した方法が神の御言葉だったからです。この世界には、科学でまだわからないことが多くあります。というより、ほとんど分かっていないのです。それでも、科学者の努力は神の創造の秘密にまで及んできました。それは、この世界を形作るものの根源、最小のものを突き止めたことです。分子や原子は知っていますが、さらに小さなもの、もうこれ以上小さなものは無いというところまでわかりました。それが素粒子です。その素粒子は、摩訶不思議なもので、人間の今までの常識は通じません。これが創造の秘密であり、神の御言葉で創造できた仕組みなのです。そこで、神の御言葉を信じるということが急に意味があることに気が付きます。「少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、そのとおりになる。」(マルコ11:23)そして、「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(同11:24)。このように書かれていたことを信じることができたでしょうか。いきなりは、無理です、と言うのなら、できることから始めてみましょう。そうすれば、今日の御言葉の意味がわかります。信仰の世界はあなたの生きている所です。ですから、楽しみに信仰によって生きることです。
6月8日(月)
ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
ルカ12:31、32
神の国とはどんなものなのだろう。私たちは、たとえ死んでもこの神の国に入れると信じているのです。そして、今、イエスは「神の国を求めなさい」と言われました。しかも、「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と言われたのです。ここに書かれた御言葉を信じましょう。行き先がわかっていれば、死は恐ろしいものではありません。それよりも御子イエスも父なる神も私たちに神の国をくださろうとしているのです。なんと大きな恵みでしょうか。そして、この地上でも信仰者は、神の国を求めることが大切なのです。それは、この世で生きていく上で必要なものは誰にでもあるからです。それらをどうやって手にするのか、私たちはすぐに思い煩います。必要なものであればあるほど、思い煩うのです。しかし、神の国を求めて、神の国に生きるなら、そこには思い煩いがありません。神様が必要なものをご存知で与えてくださるからです。ですから、思い煩うのではなく感謝するようになります。神の支配に生きるクリスチャンになりましょう。思い煩わない人生はそれだけで素晴らしいのです。
