6月1日(月)
主の御使が、・・・言った。・・・あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。わたしもこう言わざるを得ない。わたしは彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう。」主の御使がすべてのイスラエルの人々にこれらのことを告げると、民は声をあげて泣いた。
士師記2:1~4
カナン侵入の後のことが士師記の初めに記されています。彼らは、自分に割り当てられた領土を取るために、カナン人と戦いますが、1章を読むと、カナン人を追い出さずに奴隷としたことがわかります。そのために、神は御使を遣わして、今日の聖句のように語ったのです。なぜ、人間はこのように主の命令を破るのでしょうか。自分の考えで物事を決めていい場合と悪い場合があるのです。神がはっきりと命令していることに関しては、何が何でも忠実に守るべきです。人間的な感傷や損得勘定も危険でしかありません。神は間違わないのです。残念ながら人間は間違うことを避けられません。そこで、信仰者は聖書に神の御言葉や命令がある時、それが自分に与えられているものなら、守ることができるように祈るのです。それもおざなりの祈りではダメです。熱心に祈ることが肝心です。自分の力を過信せずに、キリストの助け、聖霊の援助があると信じることです。神は無駄なことや無益なことは一切言いません。ですから、御言葉は全て自分にとって益となる恵みそのものだと考えるのです。守るには難しく感じることが多々あるはずですが、そこで性急に諦めたり、自分の力に頼ってしまうことは避けなければなりません。自分の内に奇跡を起こしている聖霊を信じることです。あなたのために想像以上の良いことをしてくださいます。そのような体験をすれば、信仰が大きく成長します。神に反して自己判断はしないことを肝に銘じておきましょう。
6月2日(火)
その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かう時ちができなかった。出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
士師記2:10~15
イスラエルの人々とはいったい何なのだろうか。出エジプトの出来事を経験した世代でも、主に公然と逆らう者もいたが、大部分は主に従った。それは、主の御手の業を直に見たからであって、多くの奇跡を経験したことが大きいだろう。彼らが罪深かったことは金で牛の像を造った事件など見れば明らかだが、モーセがいてくれたことが大きかった。彼らがモーセの後、ヨシュアに率いられて、いよいよカナンに侵入し、よく戦い土地を征服して行った。しかし、それがどんなに困難なことであったか。やがて、ヨシュアも110歳で亡くなり、出エジプトを経験した長老たちも皆死んでしまった。そして、出エジプトを知らない世代の時代になった途端、彼らは主を捨ててしまったのだ。それどころか、カナンの偶像を自分たちの神として拝んだ。バアルとアシュトレトだ。それは、当然神の怒りを引き起こし、彼らは苦境に立たされることになった。この世代の人たちは、主エジプトのような主を知る機会がなかった。大きな奇跡を経験していないだ。そうすると、今日の教会も大きな奇跡を経験していない世代ということで同じだ。世界中でキリスト教離れが進み、深刻化している。そうなると、戦争や苦難が襲ってくるのではと危惧することは、聖書の前例を見れば決して妄想ではない。現に、世界は戦争でおかしなことになってきた。戦争をしていない国々も石油が入ってこなくなり、パニックになっている。なんとも厄介なことが起こっている。まさに、苦境に立たされているのだ。世界中が主に立ち返ることができるようにリバイバルを求めて祈る時が来ている。
6月3日(水)
彼らはイスラエルを試みるために、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。しかし、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた。
士師記3:4~6
この前に、「カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた・・・」(1節)と書かれています。何か釈然としない気がします。イスラエルの主に対する罪の問題は、カナン人を完全に追い出さなかったことによって、偶像礼拝が起こったという罪です。それなのに、主には他にも考えがあったということで、ヨシュアのような主に忠実で戦闘にも長けていた人たちが死んで、世代交代が起こった時に、戦争経験がないので経験させるためにカナン人を残したというのです。そして、モーセを通して与えた律法を守るかどうかを試みるためだというのです。つまり、この地上にあって罪人であった人間を救う場合、その人たちは、救われた後に戦いが用意されているということです。クリスチャンで言えば、信仰の戦いです。カナン人の代わりに世俗の未信者が周りにいるのです。その世俗に飲み込まれてしまうのか、それとも踏みとどまるのか。世俗の神々に仕えるのか、それとも主に忠実に仕えるのかが試みられるのです。それは、教会よりもこの世の方が楽しいと考えるか、教会生活は主に近づく道で楽しいと思えるか、という戦いです。さらには、聖書を与えられているクリスチャンは、その御言葉に聞き従うかどうかを見られているということです。イスラエルの民は、まんまとこの試みに負けて行きました。それは、この世の人と一緒になるために信仰を捨てたということと同じでした。こうした試みに見事合格したなら、その報いは大きいのです。少なくとも天国へ入るには必要な試験なのです。
6月4日(木)
立って、あなたの神、主を賛美せよ。
とこしえより、とこしえにいたるまで
栄光ある御名が賛美されますように。
いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。
あなたのみが主。
天とその高き極みを
そのすべての軍勢を
地とその上にあるすべてのものを
海とその中にあるすべてのものを
あなたは創造された。
あなたは万物に命をお与えになる方。
天の軍勢はあなたを伏し拝む。
ネヘミヤ記9:5、6
これは、ネヘミヤがエルサレム再建のために帰ってきて、敵に妨害され、命を狙われながら、見事に再建を果たして、バビロンから帰還した民を集めて祭司エズラによって律法の書が朗読し、祝いの日を無事過ごした。そして、二日目に律法の書に仮庵の祭りが書かれていることを発見し、彼らはヨシュア時代から行われていなかった、仮庵の祭りを行った。その感動と喜びはまことに大きなものだった。そして、その月の24日にイスラエルの人々は集まって、断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。彼らは、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。その時、レビ人のための台に立ち、レビ人八人が神なる主に大きな叫び声をあげた。その初めの祈りが、今日の聖句です。私たちが、神にどのように祈れば良いのか知らないなら、このように祈れば良いのです。神を礼拝することは、主にひざまずき、ひれ伏すことです。イスラエルの民は、このように主を礼拝したので特別なのです。しかし、ネヘミヤ記を読めば、皆が主に忠実であったわけではありません。クリスチャンでもそうでしょう。わたしたちは、聖書にこのように記録された箇所を読むと、自分たちも天の書記によって記録されているのでは、と思えてきます。その時、自分の信仰が、主への忠実な者として記録されることを願います。この聖書の神を信じ、その僕となれたことがありがたく、嬉しく思うのです。
6月5日(金)
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
詩篇34:9
キリスト教の特徴は、主の恵み深さを、経験するように促されていることです。この罪の世界では、誰もが自己中心で、愛を求めてもただでは愛してもらえないのです。条件付きの愛は、どこか打算的で、信頼がおけません。そして、神の創造された人間は神に似せて作られたのですから、神の本質の愛が余韻のように残っているのです。罪の贖いと清めなしには、本来の愛を知る者にはなれなくても、福音に反応するぐらいには愛の大切さを感じているのです。この世で、どんなに頑張っても、その報いは少ないのです。ましてや、何もしないでも愛してもらえることはないのです。この世界は決して恵みの世界ではありません。だから、ストレスにさらされて疲れ果てています。ところが、聖書を読めば、神が恵みを味わってみなさい、とおっしゃっているのです。神の恵みを見てごらんと語っておられるのです。ですから、信仰を持った私たちは主の恵みを味わう者として生きているのです。この世では正反対なので、なかなかありのままの自分が神の恵みをいただけるのかどうか迷ってしまいますが、今日の御言葉を何度も口ずさみ、主の恵み深さを味わい知ることが求められているのです。この御言葉を信じて、本当に主の恵みを味わってみましょう。
6月6日(土)
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイ4:4
この有名な御言葉は、私たちに信仰によって生きる意味は、神の御言葉によることを教えています。「義人は信仰によって生きる」との有名な御言葉は、実は今日の御言葉と同じことを言っているのです。信仰によって生きるということは、神の御言葉をそのまま信じることを意味しています。この世の様々な知識を多く得ることによってうまく生きていくという信仰を持たない人の考えとは違っています。そもそも信仰とは、神の御言葉を信頼することなのです。もちろん、御言葉の真意を理解していなければ、信頼のしようもありません。ですから、ここでの「神の口から出る一つ一つの言葉」の「言葉」はロゴスではありません。レーマです。ロゴスは、この世の人が言う知識の一つになってしまいます。しかし、レーマは生ける神があなたに個人的に語ってくださる言葉です。つまり、あなたが祈って御言葉を読む時に、心に残り、その意味を正確に知りたいと祈ると、その願い通りに、悟りが与えられ、自分に語りかけてこられた言葉の意味が分かるのです。この言葉に信頼を置き、従う時に、「信仰」と言っているのです。義人はそのように生きているわけです。義人も神が義とすることを聖書中に見つけて、レーマとして聞き、信頼したのでその御言葉の通りになった人のことです。これは、難しくありません。それは、あなたに信仰が与えられているからです。それを上手に使っていけば、どんな御言葉も信頼できるようになります。
6月7日(日)
若獅子は獲物がなくて飢えても
主に求める人には良いもののかけることがない。
詩篇34:11
信仰を働かすことは、とても重要なことです。不思議なことですが神の御言葉には創造の力があります。天地万物を創造した方法が神の御言葉だったからです。この世界には、科学でまだわからないことが多くあります。というより、ほとんど分かっていないのです。それでも、科学者の努力は神の創造の秘密にまで及んできました。それは、この世界を形作るものの根源、最小のものを突き止めたことです。分子や原子は知っていますが、さらに小さなもの、もうこれ以上小さなものは無いというところまでわかりました。それが素粒子です。その素粒子は、摩訶不思議なもので、人間の今までの常識は通じません。これが創造の秘密であり、神の御言葉で創造できた仕組みなのです。そこで、神の御言葉を信じるということが急に意味があることに気が付きます。「少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、そのとおりになる。」(マルコ11:23)そして、「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(同11:24)。このように書かれていたことを信じることができたでしょうか。いきなりは、無理です、と言うのなら、できることから始めてみましょう。そうすれば、今日の御言葉の意味がわかります。信仰の世界はあなたの生きている所です。ですから、楽しみに信仰によって生きることです。
6月8日(月)
ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
ルカ12:31、32
神の国とはどんなものなのだろう。私たちは、たとえ死んでもこの神の国に入れると信じているのです。そして、今、イエスは「神の国を求めなさい」と言われました。しかも、「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と言われたのです。ここに書かれた御言葉を信じましょう。行き先がわかっていれば、死は恐ろしいものではありません。それよりも御子イエスも父なる神も私たちに神の国をくださろうとしているのです。なんと大きな恵みでしょうか。そして、この地上でも信仰者は、神の国を求めることが大切なのです。それは、この世で生きていく上で必要なものは誰にでもあるからです。それらをどうやって手にするのか、私たちはすぐに思い煩います。必要なものであればあるほど、思い煩うのです。しかし、神の国を求めて、神の国に生きるなら、そこには思い煩いがありません。神様が必要なものをご存知で与えてくださるからです。ですから、思い煩うのではなく感謝するようになります。神の支配に生きるクリスチャンになりましょう。思い煩わない人生はそれだけで素晴らしいのです。
6月9日(火)
わが子よ、蜜を食べてみよ、それは美味だ。滴る蜜は口に甘い。そのように、魂にとって知恵は美味だと知れ。それを見出すなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。
箴言24:13、14
聖書は知識と知恵が大切であることを教えています。聖書を毎日少しでも読んで、祈り、考える人は、知識と知恵を得ることができます。聖書の知識と知恵だけで今の世界で上手に生きていけるのでしょうか。答えはもちろんイエスです。問題は、聖書を読むことが習慣化していないと意外と読めないということです。一日一章読むことができる人は、かなりのペースで聖書を読むことができますが、それでも聖書一冊を読むのに3年ぐらいかかります。つまり、一年で聖書を全部読もうと思えば、相当な時間をかけなければならないということです。そうなると、時間を作る必要があります。ハワイのある教会では、小グループで毎日朝に集まり、カフェやマックのようなところで一年で聖書を読める表を作って、ディボーションを行っています。一人ではできなくても、仲間と一緒なら続けることができるのです。本を全然読まない人にとっては聖書も本なので、ハードルが高いかも知れませんが、神様の御心にかなっているので読めるようになります。それから、SQJのディボーションのようなものを使って、短い聖句を深く考えることも有益です。御言葉を自分のものとすれば、必要な時にその御言葉が出てきます。そのように御言葉に深く、長く接して行くと、この世から神の国へ移ることができるようになるのです。この世の損得など大したことではなくなります。神様がいなければ、大変なことになるでしょうが、神様を信じている人は、聖書の考え方と一致してくるので、御心を知っている人になれます。そうすれば、信仰があるので必要を満たすことは容易になります。自分の聖書に慣れ親しみ、どこに何が書いてあるか覚えて行くことは楽しいことなのです。そうやって、知識と知恵を身につけていけば、クリスチャン人生は未来にも希望を持つことができるのです。
6月10日(水)
あなたの慈しみに生きる人は皆
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
あなたはわたしの隠れが。
苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。
詩篇32:6、7
クリスチャンの良いところは、「主の慈しみに生きる人」となっていることです。この世の中で否定的に物事を考える癖を植え付けられている人も、信仰によって主に感謝をし、喜ぶことを意識的に繰り返して行くことで、肯定的に考えるようになります。自分に自信がない人も、今日のような聖句を見つけ出して、何回も繰り返し読んでみましょう。そして、神様は自分をこのようにしてくださいました、と口に出して言ってみるのです。この世にいる限り、誰でも悩みや苦難が避けられないと言われていますが、クリスチャンには祈りが与えられているので、この祈りで対処することができます。主との関係が良好の時に、ちゃんと祈っておくことです。人間いとって一番恐ろしいことは天災が襲うことです。人間は無力で死ぬことすらあるのです。しかし、クリスチャンは信仰により、祈りを通して主にお願いすることができるのです。東日本大震災の時に、古い牧師館は大きく揺れていました。今にも倒れるのではないかと思っていましたが、不思議なことに倒れなかったのです。私たちは、家の外に出て、立っていることができずに四つん這いになって、ただ見ているしかありませんでした。隣のマンションの敷地に立っている電信柱が大きく揺れて、今にも牧師館に倒れてくるのではないかと思いましたが、それも守られました。津波被害にあった石巻に家のある信者さんは、ちょうど仙台の娘さんの家に来ていて難を逃れました。その家に行ってみると、家の周りも家の中も流れてきたゴミでいっぱいになってしました。玄関は自動車が横倒しにふさいでいました。この街をどうやって掃除するのだろうと思いましたが、長い時間が必要でした。とにかく信者さんの命が全員守られて神様に感謝しました。主の救いはあなたの周りにあります。あなたは、主を信じているので守られ、神様の慈しみの中を歩んで行くことになります。
6月11日(木)
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
第二コリント4:16
人は歳をとります。それは誰も逆らうことができません。人の人生には終わりがあり、限りがあるのです。その中で信仰の道を歩むわけです。若いうちには考えもしなかったことを老境に入って自然と考えるようになります。聖書は若い時よりは、わかるようになってきましたが、未だ毎日のように発見があります。そして、知っていた知識も、バージョンアップすることもわかりました。そして、信仰の面白さですが、今日の聖句の通りなのです。「外なる人」は衰えていくのを実感します。ところが、御言葉の通り「内なる人」は日々新たにされて行くのです。イエス・キリストの福音を信じて、信仰を働かせるようになって、目に見えないことをどうやって理解するのかと思っていましたが、御言葉に書かれているので、それを信じればよかったのです。罪人のままでは天国には入れません。しかも、それは律法に照らしてみれば明らかで、神の戒めを破ることしか出来ない者でした。それが、イエス・キリストの十字架で罪を贖っていただいたのです。そして、水と血潮で清めていただきました。さらには、罪深い私を十字架に一緒にかけていただき、死なせていただいたのです。その私が今生きているのは、キリストの復活の命にあずからせていただいたからなのです。それは、神の息である聖霊をアダムの時のように吹き入れていただいたのです。聖霊によって、初めて聖なるものを知りました。この聖霊の命によって、内なる人は生きています。この内なる人がキリストの似姿となるように、日々働いておられるのです。ですから外なる人が衰えることは良いことなのです。歳をとることを嫌なことと思わなくてもよいのです。このように救いは完全なものなのです。
6月12日(金)
知恵ある者と共に歩けば知恵を得
愚か者と交われば災いに遭う。
箴言13:20
私がT神学大学に通っていた時に、どの授業もこれほど面白く楽しいことはないと思っていました。勉強のために夜遅くなっても苦ではありませんでした。授業で聴くことは今まで聞いたこともない興味深い教えで、どの先生も素晴らしく、どの科目も興味が尽きないワクワクするものでした。日本を代表する聖書学者や神学者が直接教えてくださるのですから、知恵ある者と共に歩けば知恵を得るというのは本当でした。ただ、大学教授だけが知恵ある人ということはありません。クリスチャンの中にまさに信仰に生きている人たちは、聖書をよく学んでいるので、自然と知恵ある人になります。それは、生活を見ればわかります。しかし、愚か者は避けなければなりません。見た目ではわかりません。立派なことを言っているかもしれません。大言壮語という言葉通りの人も要注意です。信仰がわかっているつもりで、何もわからない人が大声をあげていれば、危険なサインです。教会を荒らす人がいるのですが、そういう人も自分は正しいと思っているのです。だから、自分の言動で教会が荒れてしまっていることにも気が付きません。それどころか、気分次第で教会に来なくなります。そして、教会員に悪い影響を残すのです。悪魔はこのような人を見逃さないのです。そして、教会に送り込んできます。知恵のない人は、「愚か者と交われば災いに遭う」という御言葉があるのに、その通りになります。クリスチャンは誠実に生きようとは思っていても、愚か者を見分けることができないと、自分も不誠実な結果になるので、見分けることが必要です。そのためにも知恵が必要なのです。
6月14日(日)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
コロサイ2:6、7
キリスト教の救いは主イエスを信じることでした。それは、「主キリスト・イエスを受け入れた」と言う意味になります。その自覚が大切です。この世のたくさんある価値の一つとしてたまたま主イエスを信じてみようと思ったわけではありません。どこに私たちの良いところがあったのか、なぜか神は私たちを選ばれたとおっしゃるのです。そして、神は愛である、との命題があるので、神の本質は愛なのです。であれば、あなたが神に愛されているので救われたと言うことは当たり前になります。そこで、信仰を始めて使ったかもしれません。私たちは、キリストを信じ、愛したのです。それは、初めにキリストが愛してくださったからです。私たちは、無条件に愛されることに慣れていません。ですから、戸惑いもありましたが、本物のキリストの愛に触れた時に、何かが変わってしまいました。そして、私たちはクリスチャンと言えるようになりました。聖書に書かれている文章がすべて神の御言葉であるとなれば、それを信じて受け入れることは重要になります。そのためにこそ信仰を働かせる必要があります。そして、今日の聖句にある通り、「キリストに結ばれて歩みなさい」と書かれているのです。クリスチャン人生は、キリストに結ばれて生きて行くのです。それは、やはり結婚に似ています。キリストと運命共同体となって生きて行くわけです。さらに、私たちの不安は、こんな自分でいいのだろうか、という自信のなさです。確かに、自分を聖人とは決して認められません。ですが、「キリストに根を下ろして造り上げられ」と書かれているのですから、神の御力で天国にふさわしい者と造り上げられて行くのです。その方法が「キリストに根を下ろして」なのです。キリストにどれほど近い者となればいいのでしょう。少なくとも、私たちが考えているよりはよっぽど大きくキリストに繋がる必要があるという事です。その方法が信仰なのですが、自分勝手にというのではなく、「教えられた通りの信仰」なのです。それは、一人一人が聖書を調べて発見しなければなりません。難しく考えずに、聖書を読む習慣を作って、そこで教えを受けていけばいいのです。信仰生活を成功させる方法が、「あふれるばかりに感謝しなさい」と書かれた通りに実行する事です。はたして、「あふれるばかりに」となっているか、感謝を考えてみましょう。
6月15日(月)
主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
主に養われる群れ、御手のうちにある羊。
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
詩篇95:7
礼拝の始まりに詩編95篇を読み上げることをしていた教会がありました。私は、その頃、教会の執事として礼拝の司会をする時に、この95篇を読み上げていました。一つ一つの言葉に思いをのせ、まるで天の神殿で詩編を歌っているようにゆっくりと読み上げるのです。「主はわたしたちの神」なのです。そのことを口にすることができる喜びがあります。罪人であった時には、神を知りませんでした。それは、何の希望もなく、この世を彷徨い歩いている憐れな放浪者でした。それが、キリストが私を探して見つけてくださったのです。キリストは助け主であって、真理だったのです。罪人の疑り深い心を十字架の愛で貫いてくださいました。そして、憐れみ、恵みで救ってくださったのです。私はキリストを見て、神を見たのです。それ以来、私は神に仕える者となり、「主はわたしの神」と言えるようにしてくださったのです。同じようにキリストに出会って信じた兄弟姉妹がいます。「わたしたちは主の民」なのです。聖書に書かれていた通り、私たちは羊で、主は私たちの羊飼いなのです。ですから「主に養われる群れ」なのです。私たち一人一人が主の「御手のうちにある羊」なのです。ですから、「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」のです。今日という日は、良い日だからです。
6月16日(火)
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイ7:13,14
私たちは日本人なので、皆んな同じがいい、と教育されてきたと思います。実際には、人の個性や能力は大きく違いっていても、それを伸ばそうという教育ではなく、協調性を身につけるようにという教育であったと思います。天才と呼ばれる一部の人で何かに飛び抜けて才能があるような人は、出る杭は打たれるで、才能を押さえつけられていたかもしれません。皆んな横並びという教育を昭和世代の人たちは経験して来たのです。高度経済成長期の労働者を養成するために必要な教育だったのだと思います。そのような人たちは、どうしても広い門から入るでしょう。ルールを守るように教育されて来ましたから、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉が流行ったように、一人だけルールから外れて生きることは難しかったのです。そのルールの中に就職も含まれていました。新卒でなければまともに就職もできない。そうなると、人生そのものに深く影響していたのです。今でこそ、転職が当たり前のようになって来て、いろいろなことが大きく変わって来ました。そんな時代には、今日の御言葉のように、仕事でも狭い門から入ることを考えることは意味があります。広い門から入る人が多いので、競争が激しく、大きな可能性を見つけることが難しいのです。しかし、周りを見回してみると、人がやっていないことは必ずあるのです。そこを開拓するにはよっぽどの努力が必要ですが、そこにこそチャンスがあると考える人はいます。俳優で後にカリフォルニア州知事にまでなった、アーノルド・シュワルツェネッガーは、「スペースのある場所へ行け」という独自の哲学を持っていて、それで成功を収めたそうです。これは、「狭い門から入りなさい」という御言葉に通じます。皆んなが行く道ではなく、自分がやりたいと思う道を進んで行くということなのですが、彼は人一倍の努力がいることをちゃんとやり遂げたのです。クリスチャンは、世俗の人と同じようには生きていかないのです。信仰を守らなければならないし、聖書の教えを守らなければいけないからです。そのために、社会で不利益を被ることもあるかもしれません。しかし、この世で広いけれど滅びに通じる門があるということも事実なのです。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」と書いてある通りなのです。そこにクリスチャンの尊さがあります。細い門から入ったからです。
6月17日(水)
主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
詩篇16:1~3
クリスチャンにとって友人は大事です。それは、この信仰の道を極めていこうとしているからです。天国への道、神の幕屋に住まうこと、聖なる山に住む人となることを目指しているからです。というのも、神経科学者ジョー・ディスペンザは「プライミングは無意識下で常に働いており、ネガティブな環境から自分を守ることが重要だ」と教えているからです。プライミングというのは、「周囲の環境が脳内に特定の連想を引き起こす現象」のことです。つまり、周りにいる人がネガティブだと自分も知らない間にネガティブになっていることです。その逆も真なりで、自分が毎日会っている人がポジティブなら自分も知らないうちにポジティブになるということです。さらには、「あなたの年収は、最も親しい五人の人の平均になる」という説まであるのです。脳の不思議ですね。私たちの周りに親しい五人がいるのですが、その人たちが、毎日どんなことを語っているでしょうか。それが勝手に自分の脳に影響してしまうというのです。しかし、この世の中では、ポジティブに考えて生きている人は少ないのです。そこで、聖書の中に五人の友人を見つけてみましょう。それは、自分がポジティブになれる御言葉を見つけることでもあります。理想の人は、今日の詩編のような人です。聖書を読み、祈る習慣は、自分のためになるのです。
6月18日(木)
主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
詩編116:5~7
この世で生きて行くことは、楽しみや喜びもあるが、苦しみや試練もある。そうした、心が折れそうな時に、私たちには主イエスがおられる。どんな時にも、必ず守り支えてくださる最強の救い主だ。この方は、神の独り子であるのに、私たちを救うために人間になられた神だ。人間の想像を遥かに超えた愛と憐れみの神なのだ。だから、今日の詩編の御言葉は本当だ。決して胸を張って自分が神に認められるほど立派に生きているとは言えないのに、私たちが困ったり、悲しんでいると静かに私たちのそばに来てくださり、弱り果てた私たちを救ってくださる、すごい救い主なのだ。あなたは、そのことを体験しただろう。だから、主を信じている。そのことが主を喜ばせ、あなたの人生に安心を与えているのだ。あなたのことをいつでも守り、恵みで満たす主イエスを心から讃美しよう。今日も主と共に生きる喜びを味わおう。勇気を出して、元気に、笑顔で一日をはじめよう。
6月19日(金)
苦難のはざまから主を呼び求めると
主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
人間がわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、助けとなって
わたしを憎む者らを支配させてくださる。
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
詩編118:5~8
日本では助けが必要な事件があれば110番、アメリカなら911番で警察や消防車が駆けつけてきます。しかし、クリスチャンは主イエスに呼び求めればいいのです。電話やスマホも入りません。そして、主の助けは完全です。速やかに助けられ、苦難からも解き放たれるのです。クリスチャンのあなたは主という味方がいるのです。人間の場合は証拠がなければ、裁判所も味方してくれません。それに比べれば、なんとすごいことでしょう。ですから、皆さんは人間を恐れてはいけません。主にできないことはありませんから、信頼してください。必ずあなたの助けとなって、あなたを苦しめた人をも支配させてくださるのです。あなたが覚えておく御言葉は、「人間に頼らず、主を避けどころとしよう」です。できれば悪人が近づけないように先に祈っておく方が安全ですね。
6月20日(土)
この空しい人生の日々に
わたしはすべてを見極めた。
善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな
どうして時も来ないのに死んでよかろう。
一つのことをつかむのはよいが
ほかのことからも手を放してはいけない。
神を畏れ敬えば
どちらをも成し遂げることができる。
コヘレト7:15~18
この人生は、不確かで何の保証も無いものだ。ソロモンはこの世界で最も知恵ある者としていまだ理解されているが、その言葉には人間の空しさが付きまとう。ニュースを見てみれば、毎日ひどい犯罪が報道され、天候は毎年異常気象を告げている。イランの戦争で、石油が入らなくなると、たちまち世界はパニックに陥る。そして、この機会を利用して儲ける者も出てくる。多くの人が価格高騰で困っているのにだ。罪というのはどこまでも呪われている。しかし、その呪いを解いていただいたクリスチャンが存在するのは大きなことだし、唯一の希望となる。さて、クリスチャンになるような人は、そもそも真面目な人が多いのだが、心の広さも重要なことなのだ。そうでないと、杓子定規に人を簡単に裁くことになる。新約聖書を読んで学んだのだから、ファリサイ派や律法学者にはなりたくない。例えば、高齢者は運転免許証を返納するようにという声が聞こえてくる。そうなると高齢者にとって困ることがいろいろ起こるだろう。6月に免許の書き換えがあって、その前に高齢者講習を受けるようにとのお達しがあった。この講習の試験官が高齢者のことをよく理解していて、上手に指導している姿に、「善人すぎるな、賢すぎるな」という御言葉が浮かんできた。人生は、誰にとっても先が見えずに不安なものなのだろうが、私たちが得た信仰は見えない力となって、なんとかなる、いや、神様が助けてくださるに違いないから大丈夫、と自然と思えるのだ。事実、そうなので、ほどほどでちょうどいいと思って生きていけば問題が無い。賢者が示した、教えに対し、「神を畏れ敬えば、どちらも成し遂げることができる」とある。日々、神を畏れ敬って、せいぜい元気に生きたいものだ。
6月21日(日)
子を奪われた熊に遭う方が
愚か者の無知に遭うよりましだ。
愚か者が代金を手にしているのは何のためか。
知恵を買おうにも、心がないではないか。
箴言17:12、16
熊被害が深刻になってきました。街中に熊が出てくると人間は普通には暮らせなくなります。熊が人間を襲う映像が何度も放送されているような事態は何とかしなければなりません。子熊を連れている母熊は危険だと言われていますが、子を奪われた熊の方がよっぽど危険です。しかし、箴言はそれ以上に困ったことは、愚か者の無知に遭うことだというのです。では、「愚か者が知恵を買おうにも、心がないではないか」と恐ろしいことを言っています。ここでわかることは、知恵はお金で買えるものであること、そして、心が無いと知恵を得ることができないということです。愚か者とは、その心が無い人のことなのです。皆さんは、今までにいろいろな人に出会ってきたと思います。賢いと思う人もいたでしょうが、聖書に出てくる愚か者に出会ったことがあるでしょうか。これは、学歴など関係ありません。私たちは、心の豊かさを求めていますが、そもそも心が無い、という人がいるということです。そのために愚か者になっているのです。人のことを思いやる心、良いものと悪いものを見分ける心、愛を感じることのできる心、優しい心、美しい心、人を生かす心、そして、主を信じる心、このように心が良い人間の特徴を言い表していることが分かります。聖書は知恵が何よりも大切であることを教えていますが、その知恵も心がなければ役に立たないのです。主イエスを愛する心が、人格者を育て、流されることなく何をすれば良いのかを見分けるのは、知恵の業です。その知恵を得ようとすることは良いことなのです。ただ、知恵を得るためには、良い心が必要であることも真実なのです。
6月22日(月)
主はこう言われる。
エドムの三つの罪、四つの罪のゆえに
わたしは決して赦さない。
彼らが剣で兄弟を追い
憐れみの情を捨て
いつまでも怒りを燃やし
長く憤りを抱き続けたからだ。
アモス1:11
21世紀になっても大きな戦争が次々に起こり、それが全世界に悪い影響を及ぼし、人々はテレビやSNSで戦争の様子を簡単に知るのです。クリスチャンは戦争をするのではなくキリストの教えのように「平和を実現する者」であるべきです。聖書を読めば、戦争の話はすぐに見つかります。昔から、なぜ神は戦争を許すのか、と悩み、その答えを見つけようとして来ました。確かに、個人個人は、自由意志が与えられているので、自分の判断で何がしかの結果をもたらしているのです。決して神の操り人形ではありません。ですから、戦争を人間が起こすことは避けられません。特に大国のトップに立ち、絶対的な権力を手にした人たちは、さらに領土を拡大しようとします。今日でも覇権主義という声を聞いていると思います。このような人間の愚かな行為は、時にイスラエルをも巻き込み、領土を取ろうとする外国勢力が現れるのです。神の民に対して襲いかかってくる敵に対して主はアモスを通して予言しました。ここでは敵はエドムです。「三つ、四つの罪」、アモスを読めばわかりますが、一定の様式の中で書かれているのです。つまり、一つの罪で神が怒っているのではなく、幾つもの罪が繰り返されて、神は直接介入せざるを得なくなったのです。人間が見失ってはいけないものが「憐れみの情」です。これを捨てるような者に対して神は厳しく、「いつまでも怒りを燃やし、長く憤りを抱き続けた」者へも神は「決して赦さない」と厳しいのです。ですから、私たちも、気をつけなければなりません。ずっと赦せず、恨み続けていたり、怒りを燃やしていれば、神の怒りを招きかねないのです。いつまでも恨み事を忘れられない人は要注意です。ストレスになるぐらいの赦せない思いは、キリストの元に行き、主と一緒に赦せるようになりましょう。
6月23日(火)
木には希望がある、というように
木は切られても、また新芽を吹き
若枝の絶えることはない。
地におろしたその根が老い
幹が朽ちて、塵に返ろうとも
水気にあえば、また芽を吹き
苗木のように枝を張る。
だが、人間は死んで横たわる。
息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。
ヨブ14:7~10
木だけではない。豆苗を切って使った後の根があれば、水に入れておけばまた生えてくるので、二、三回は食べることができる。ネギだってそうだ。植物の再生力はすごいものだ。ところが、人間が死ぬと再生することはない。一体、アダムから始めてどれぐらいの人が産まれ、死んでいったのだろう。今まで生きて話していた人が死んだ瞬間から存在が消えてしまう。体が残っていても、その人はもういないのだ。ヨブ記ではないが、「人はどこに行ってしまうのか」。そう思うのは、その人が生きていたからだ。残念ながら、親しくしていたからこそ、その人を求めてしまうのだろう。知らない人がほとんどなのだから、驚くほどの人が死んで行くことに何の感傷もない。医者は、病気で死に向かっている人を何とか引き止めようとする。そのために厳しい研鑽を積んでいる。心の病はどうだろう。心だって生きているのだから、死ぬことが可能だ。だから、医者が必要なのだ。遺伝子の研究者は無数のスイッチがあって、それのオン、オフで究極の癒しが可能だと思っている。それどころか、老化スイッチをオフにできるとさえ思っている。確かに、聖書には人間の寿命が120歳に定められた記事がある。どうりでギネスブックに載るような人は、120歳近くまで生きている。そんなにも長く生きて、死を迎えてから、彼らはどこへ行くのだろう。新約聖書は、死は眠りだと言う。つまり無意識状態にあるという。一方では煉獄へ行って、天国か地獄か行き先が決まるまでの中継所があると考える人もいるのだ。どのみち、人は死んで一生を終えるわけだ。そうであれば、与えられた命の日々は、意味があるはずだ。神が定めた寿命の残りがどれぐらいあるかは誰も知らない。それだけに、1日の生き方が重要になる。平凡に暮らしてもいいし、仕事に忙しく生きてもいい。老後をのんびりと生きるのだっていい。死ぬまで働くという人もいるだろう。でも、クリスチャンは、主のために生きているのだ。そのことの意味を考えてみよう。別の世界が見えてくるはずだ。そこにあなたの生き方がある。そうそう、ヨブは不幸の中で見えていないので、木には希望があると思ったのだが、その木は神が人間のために造られたものなのだ。人間が困ることのないように、木が再生するようにしているのだ。だから、木に希望があるのではなく、人間に希望があることに気がついていない。読者は、そこに気づけることが肝心なのだ。
6月24日(水)
「すべてのものを、その足の下に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
ヘブライ2:8、9
ヘブライ2章の冒頭に、「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと押し流されてしまいます」(1節)と書かれています。私たちが聞いた福音は、初めこそ何が福音かもわからずに、人に説明することもできなかったのです。それぐらい、これが福音ですと言われたこともなかったのだと思います。それで、信者になってから、自分なりに福音とは何かと考えたのではないでしょうか。それは、信仰を持つ前には意味のわからないものだったのです。つまり、キリストの十字架を日本人のほとんどの人が知っていると思います。しかし、その意味は恐ろしいまでに知りません。それが証拠に、十字架をアクセサリーにして首からぶら下げている人たちがいます。カトリック信者のように、信仰心から十字架を首にぶら下げている人たちはいますが、ただ、ファッションで十字架をアクセサリーにしている人が多数いることに驚きます。このような世界の中で福音を聞いたので、その聞いたことにいっそう注意を払わなければならないと聖書は教えています。私たちはどうでしょうか。イエスの十字架の死が特別な意味を持ってるのです。そのことが初めは知識でしかありませんでしたが、その霊的な真実の力が私たちに届くと、私たちは救いの奥義に触れるのです。ですから、福音を誰かに伝えようとするのです。その意味を十分に説明できるかと言えば、難しいです。それなのに、ある人は、福音を聞くとすぐにイエスを信じるようになるのです。また、反対もあって、福音を聞いても理解できずに信じない人がいるということです。そして、後者の方が多くいるのです。私たちは、イエスの死を告げる者なのです。たとえ、すぐに福音を信じなくても、不思議なことに誰かは、イエスを信じて救われるのです。これは、神の業です。ですから、拒否されたり、怒られたりしても、機会を見つけて福音を語るべきなのです。そして、自分も福音を十分理解する者となることです。今日も福音を告げることができるように祈りましょう。
6月25日(木)
思慮深い者は災難が来ると見れば身を隠す。
浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。
箴言21:3
同じ人間なのに、どうしてか思慮深い者もいれば浅はかな者もいる。その結果は明らかで、誰の目にも明らかなことになる。どうすれば思慮深い者になれるのだろう。そんなことを真面目に考えるような人が思慮深い人なのだ。私たちは、人の違いを個性と理解している。そして、どんな個性も良いと考えるべきだと思っている。そこで、誰かを理解しようと考える。自分のことはともかく、他人のことはよく見えるので、あそこが悪い、ここがダメと結局批判していることになる。他人の良いところを見つける者になりたいが、それは消極的なのだ。そもそも他人を知ることは、その人の人生を知ることなのだ。その人が立ちはだかる問題をどうやって乗り越えてきたのか、また、人生の嵐にどれほど傷ついたのか、こうしたその人の歴史が、その人の自信や影になっているわけだ。それが複雑に積み重なって今のその人がいるのだ。その人が同じ過ちを繰り返しているなら、成長が止まっているか、失敗から何も学ばない人なのだ。初めから思慮深い人はいないので、どこかで人生は学ぶことだと悟ったのだ。何も考えずに自我のままに生きれば、周りの目は厳しくなる。それでも、悟れない人は知らない間に人としての成長で遅れをとってしまうのだ。クリスチャンは、聖霊の促しがあるから、正しい道へと導かれる。聖書を自分への教えをとしているので、成長がある。この世の人の評価ではなく、主があなたを評価される。そのことを覚えて生きるので、自ずから信仰者の成長があるということだ。
6月26日(金)
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15~17
6月23日のヨブ記のディボーションの最後に「木に希望があるのではなく、人間に希望があることに気がついていない。」と書いたが、その意味がわからないという人がいた。木は切っても再びそこから芽が出てきて再生できるということからヨブは木には希望があると言った。それは人間に、つまりは自分には再生は無いので、今の病で苦しみながら死ぬだけで、そこには希望が無いと思っていたのだった。しかし、そうだろうか、聖書を読むなら、この世界は人間のために創造されているのだ。木だってそうだ、エデンの園で木になる美味しい実を自由に食べることが許されていた。だから、アダムは今よりはよほど完成度の高い最高の果実やあらゆる美味しい木の実を食べていたのだ。そして、アダムの仕事は、このエデンの楽園を守ることだったのだ。それは毎日が充実して、とても楽しいことだったはずだ。そのような生活では健康で病気すら無かった。ただ重要なことは、人間が幸福に生きていくことは、創造してくださった主なる神に従うことであった。それは、最も楽な生き方であって、神の愛の中にとどまることだった。神はエデンの園に善悪の知識の木を置かれた。そして、アダムにこの木からは決して食べてはならない、と言われ、「食べると必ず死んでしまう」と語られた。人間は、こうして選択して生きることになった。主の命令に従うか従わないか、それはアダムに任された。信仰の世界では、主の命令に絶対従うことが求められている。罪人は主の命令よりも自分の目に良いと思ったものを選んでしまう。愚かなことだ。神の意味を理解していない。自分を創造された方なのに、主より自分の方が賢いとでもいうのだろうか。主が「食べると必ず死ぬ」と言われたのに、従わなかったので死ぬことになった。全ての人間が死ぬということは主に従わないからだ。そうそう、木のことだが、いろいろな意味がある。例えば、十字架は木でできていた。クリスチャンは十字架の意味を理解しているので、十字架に希望を見出している。また、ヨブの時代まで遡れば、調理をするにも暖をとるにもガスや電気が使えなかったので、薪を使っていた。木で家も器も農機具も何でも作り、役にったったのだ。木があることで人間は生き延びたのだ。その木を主は人間のために創造されたのだから、木は人間が生きることができるように神が備えてくださった希望となるのだ。エデンの園の木々は人間を生かすためであったが、一本だけその逆、死なせてしまうものだった。だから、木は人間の希望となったのだが、その実を食べると死んでしまう木も、これだと主は教えていたのだ。もし、教えていなければフェアーではない。怖くてどの木の実も食べられなくなるからだ。しかし、これだけ注意すれば、この一本の木以外は安全だとすれば、幸福に生きていくのに何の問題もないのだ。木はやはり人間にとっての希望となる。では、なぜエデンの園に、たとえ一本であろうと、そんな死んでしまうような木を植えたのだろう。それは、人間は主なる神に従順に従うことで幸福に生きられることを教えるためだ。
6月27日(土)
ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになた。主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。そこで、主は仰せになった。「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。
列王記上11:9~11
人の心はわからないものである。ダビデが主に忠実なゆえに、歴史上最大領土を得ることができ、その子ソロモンに継ぐことができた。ソロモンは知恵を主に求め、御心にかなっていた。それなのに、その知恵を外交に生かして、イスラエルを万国の中で安泰へと導いた功労者となった。その代償は、政略結婚だった。他国の姫君を嫁がせて、縁戚関係を築けば平和が約束されると考えたのだろうが、その嫁たちの持参した持ち物の中に偶像が入っていたのだ。つまり、奥さんの数だけ他国の宗教をイスラエルに入れてしまったということだ。聖書は、「彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた」(3節)とある。古今東西の文学に親しまなくても、奥さんの影響力は計り知れないものがあることは誰でれでも理解できるだろう。その結果、歳を取って知力も衰え、気力体力が以前の輝きを失ってしまった時に、ソロモンの心は迷ったというわけだ。信仰は何よりも大切なものだが、ダビデとソロモンの違いは何だろう。読者はそこを十分考えて聖書を読むべきだ。ソロモンも初めは父ダビデのように主に忠実だったはずが、落とし穴に落ちたように失敗した。その結果、十部族は切り取られ、ネバトの子ヤロブアムが王となる。ソロモンの子、レハブアムが次の王となったのだが、ユダ部族のみの王であった。しかし、人間は主を信じきれないものなか、ヤロブアムは結局、民がエルサレム神殿に上るなら、ユダの王に従うようになり、自分を殺すのではないかと恐れた。そこで、彼が考えたのが金の子牛を2体作ることだった。・・・つくづく人間は愚かで信仰が無いのだと思えてくる。自分が不安になったり、困った時にこそ、信仰を表して主に信頼を置くことが一番大事なことなのだ。主が味方なら、人間は何ほどのものだろうか。恐れは、不信仰を表している。ダビデの物語を見て欲しい。彼はサウル王に命を狙われて逃げ回っている時ですら、神を信じていた。どんなに追い詰められてもだ。困ったことが起これば、人間は必死に考えて、自分で自分を助けようとするが、それは信仰ではない。何もしないで、信仰のみで解決できるほどの信仰者であればいいが、普通はそれほど偉大ではない。弱い信仰をかろうじて守っているだけだから、自分でも何かするだろうが、神はご自身だけを信頼して欲しいのだ。だから、自分で考えてやることは全て行き詰まる。有力者を頼っても、結果はどうすることもできずに助けてもらえない。あなたを助けることができるのは、唯一、主のみなのだ。主を信じなさい。助けは天からくるからだ。
6月28日(日)
主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
詩篇116:5~7
私たちが絶対に覚えておくべきことは、「主は憐れみ深い」ということです。この世に生きていると罪に囲まれているので恵みが大切にされていません。罪の特徴は、自己中心なので客観的に自分を見ることが苦手です。いつでも、自分に都合よく考えてしまいがちなのです。ところが、イエス・キリストに出会ってから、私たちはそんな自分の自己中心の心がが恥ずかしくなりました。人間の常で失敗が多くあっても、それを認められずに人のせいにして失敗を認められない人間になってしまったのです。このような罪人は神を知りません。まさか神がいて、その神が憐れみ深いなど、思いもよらないことでした。それが、イエス・キリストによって自分のこととして体験したのです。今日の聖句にある、「正義を行われる」とは、私たちが罪を認めて悔い改め、負いきれない罪の重荷をキリストが代わりに引き受けてくださり、罪の罰を受けてまで私たちを赦し、新しい命を得て生きることができるようにしてくださったことが正義なのです。神の御目に、あなたが大丈夫です、と認められることを義と言います。そのためにキリストはあなたを清め、歪んでいた心を十字架に掛けて釘付けにしてくださったのです。もちろん、あなたがキリストを信じたからこのようになったのです。私たちの惨めさをキリストは馬鹿にすることなく、私たちの悲しさを一緒にいて共感してくださったのです。神は情け深いのです。この世で、哀れな私たちを守ってくださる主は、弱り果てた私たちを救ってくださるのです。キリストのゆえに、私たちの最も深いところにある魂よ、再び安らうがよい。
6月29日(月)
主よ、呼び求めるわたしの声を聞き
憐れんで、わたしに答えてください。
心よ、主はお前に言われる
「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
御顔を隠すことなく、怒ることなく
あなたの僕を退けないでください。
あなたはわたしの助け。
救いの神よ、わたしを離れないでください
見捨てないでください。
父母はわたしを捨てようとも
主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。
詩編27:7~10
聖書にこのような詩が書かれているのですから、大昔から人間を苦しめるものが存在し、誰もがあらがうこともできずに絶望的な状況に追い詰められることがあるのです。この詩編記者は、主なる神に呼び求めています。主はこの人に語ります。「わたしの顔を尋ね求めよ」と。神の御顔を向けられることは恵みなのです。絶望の淵で、一筋の光が差しているような、僅かではありますが希望の光が届いて来たのです。もし、神の御顔が向けられれば、この暗黒のような絶望状況からたちまちのうちに救い出されるということです。ですから、必死に主の御顔を尋ね求めるのです。ここで、詩編記者は神にすがっています。自分を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。と次々と言葉を述べます。必死さが伝わります。私たちが同じような苦難に立たされたら、同じように祈るのです。そして、この祈りの重要なことは、「父母がわたしを捨てようとも」と言う箇所です。父母が子を捨てるようなことはありませんが、それでも、尋常ではない状況に立たされ、追い詰められてしまったら、父母も人間でしかないので、耐えられずに子を捨てるしかなくなることだってあるのです。しかし、「主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」と彼は祈りました。これは信仰です。そして、真実なのです。神の愛は、どんな時でも、変わりません。ですから、絶望的な状況に立たされてしまった時、希望の光が消えてしまった時、誰からも見捨てられたと思った時に、それでもあなたを愛し、ご自分のふところに抱いて、助けてくださる神がいることを覚えていましょう。
6月30日(火)
この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。
第一テモテ6:17
この聖句は、私たちに大切なことを教えています。ここでは、富が悪いとは言っていません。もし、あなたがこの世で富んでいる者になるなら、そこには神の配慮があります。その境遇にあって、試されているわけです。不思議なことに、人間は富む者となると人が変わるとよく言われます。よくなるならいいのですが、大抵は悪くなるのです。それが、ここの注意点です。第一に高慢になる人が多いのです。これは悪魔と共通の性質なので、要注意です。第二は、富に頼ることです。富は大きくなればなるほど比例して大きな力となります。ですから、富を得れば何でもできると思ってしまうのです。しかし、富は不確かなので、信頼して頼ることができません。それなのに、人は信頼できないがお金は裏切らない、と愚かな人は考えます。それはお金は生き物のようであることを知らないからです。ですから、不確かなのです。そんなものに望みを置けばどうなるか、ちょっと考えても恐ろしい話です。さて、では、どうすれば良いのか御言葉は明白です。「私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」とあります。このことをクリスチャンは体験し、悟る必要があります。人の経済状況は、その人が信じていることと深く関わっています。富を得ても大丈夫な人は、「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与える」人です。クリスチャンの全員がこのようであればと思います。クリスチャンが富を得ても変わらずに信仰の道を深めて行くのは、良いことです。それは、本当に価値あることは真の命だからです。莫大な富を残して死ぬ人がいます。その富は、自分で使うことなく、他人が使うことになります。アホらしいことですよね。生きていることに価値があるのは、死んだらおしまいだからです。そこで、「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように」と御言葉は命じているのです。このことは一朝一夕でできるようなことではありません。人間は何を思い、何を考えているかで行動も決まるのです。ですから、今日の御言葉を忘れないようにしましょう。
