2025年11月ディボーション

11月1日(土)

主は仰られた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた。

イザヤ63:8、9

 

宗教学を語る人の言葉は、あるものをないもののように、ないものをあるもののように語っているように思えてしまう。それは、人間が何かを信じたい生き物と考え、それがいかに実態の無い神々やその予言であっても信じている、と考えている。さらには、予言が外れても信じている。それは何なのか?ここに信仰の真実があると思っているのだ。神を信じるとは、神と出会うことだ。それも、向こうから探してくださり、出会うのだ。何も無いものを信じる心理学のようなこともあるのだろうが、あるいは集団心理や社会学で説明しようとする現象もあるのだろう。だが、聖書を読めば理解できるかもしれないが、唯一の創造主がおられて、その方は昔からおられ、出会った者と人格的な接触をすることができるのだ。聖書によれば、天地万物の創造前にイエス・キリストを通して選びがあったのだ。その人たちがクリスチャンになっている。しかも、その人たちの救い主になってくださり、愛しておられる。そのことがよく分からないなら、聖書を旧約聖書から読めばいい。イスラエルの民に何をされたか理解すればよい。とても興味深いのは、神なのに、私たちが「苦しむときに、いつも主も苦しみ」と書かれていることだ。そして、天使を遣わして救ってくださるとあることも真実である。今日の御言葉を読むと、私たちは生まれた時からずっと主に助けられてきたことがわかる。思い出せるだろうか、自分が弱過ぎて、神の助けを見てこなかったのではないだろうか。それは、ドラマのヒーローとは随分違う。はるかに優れた救い主であって、誰よりも賢明な導き手なのだ。私たちが天国に入れるのは、この神による。その意味がやがてわかるだろう。

 

11月2日(日)

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピ3:13、14

 

パウロは何を「既に捕らえたとは思っていません」と言っているのでしょう。それは、同じ章の10、11節に書かれたことです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と書かれたことです。そして、私たちもこの行程を辿っている者なのです。さらに前に遡って見ると、「わたしには、・・・信仰に基づいて神から与えられる義があります」(9節)とあるように、私たちもここまでは進んできたのですが、その後が現在の課題なのです。神はキリストを通して私たちを救うことを決められました。ですから、神の定めた救いは完全な救いなのですが、何もせずにただ信じて義とされたので、それまでの古い自分がどこまでも出てくることに苦しむのです。ですから、10、11節の御言葉の通り、「その死の姿にあやかりながら」と罪もろともに古い人をキリストの十字架につけて一緒に死に、何とかしてして死者の中からの復活に達したい」と願うわけです。生まれたままの罪の温床であった肉につく者ではなく、それに死んで新しい人として自由に生きて行きたいのです。古い人に死ぬと言っても、簡単に死ねるわけもありません。しかし、幸い信仰によってキリストの十字架の「死の姿にあやかりながら」と書かれているので、このことを実現する必要があります。ただ、その前に「その苦しみにあずかって」とも書かれているので、信仰者の苦しみはあることになります。それは、神に導かれて、その人自身が罪や古い人に死にたいと願って実現します。それに伴って、その人の品性も磨かれることになります。死ぬことを実演できれば、その次に復活しなければ意味がありません。このことがパウロにも「既に捕らえたとは思っていません」と言わせていますから、インスタンではないのです。ただクリスチャンは全員この道を通って行くので、今日の御言葉の通りに、まるでマラソン競技に参加しているランナーのように「目標目指してひたすら走ることです」。ここで、「なすべきこと」が書かれています。ただ一つです。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」とあるようにひたすら走ることです。それも、天国に入った時にいただける賞を得るために走れと奨励されています。ですから、歳を取ってもやめることはできません。わたしはお正月に行われる箱根駅伝のようなものだと思います。ここのクリスチャンがタスキをつないでいくことです。私たちの先輩たちも、このように走り抜いたのです。それで、今は私たちの番なのでひたすら走っています。このタスキは次の世代に渡さなければなりません。その先に勝利の栄冠が待っているのです。

 

11月3日(月)

父がその子を憐れむように

主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

主はわたしたちを

どのように造るべきか知っておられた。

わたしたちが塵にすぎないことを

御心に留めておられる。

詩篇103:13、14

 

信仰者は主を畏れる者です。畏敬、畏怖、とあるように、神を聖なる方として崇めているのです。そのような関係であるのに、信仰があるということで憐れむというのです。それも「父が子を憐れむように」とあるように、未熟な子供が失敗や間違ったことをしても、それを父は嫌うのではなく憐れむのであって、それは愛情があるということなのです。ですから、クリスチャンが主をがっかりさせるようなことをしても、それだけで見捨てることはありません。それどころか、憐れまれるのです。どうしてでしょう。それは、神が人間を塵から造られたからなのです。人間が何者であるか、どうして生まれたのか、どのような仕組みで造られたのか、創造主はご存知なので、だから、憐れまれるのです。私たちも塵にすぎない者であることを覚えて生きて行くことは大事なことなのです。そうでなければ、明らかに愚かなことをするはずがないからです。それでも、成長することができます。神の霊を新しい命にして新しく生きることができるのです。これらも神の憐れみによるのです。

 

11月4日(火)

どんなこともでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

フィリピ4:6、7

 

クリスチャンも人間ですから、未信者の方々と同じように仕事をし生活をしています。ですから、思い煩うようなことが発生します。人間関係はクリスチャンであるかないかは関係なく、喜びもあれば悲しみもあり、好き嫌いも発生します。価値観が違い、生まれ育ちも違い、関心も違い、性格も違い、才能も違っているのです。これで全てうまく行くこと自体が簡単ではありません。それでも、信仰を持つ者同士はイエス・キリストで繋がっています。人間的な部分が少なくなって、聖なる者へと変えられて行くことで、良い関係は神の家族と呼ばれるようになります。それでは、未信者との関係はどうなるでしょうか。これも本人が成長して行くことで、良い関係に変化して行くのです。ただ、イエス・キリストでさえ、捕まえて鞭打ち、十字架にかけて殺してしまった人がいたのも事実です。そのような現実の中で、クリスチャンは現代を生きています。幸い、信仰によって迫害されることはありませんから、私たちは恵まれています。それでも、思い煩うようなことが起こってくることは止められません。ある人にとっては大したことはなくても、別の人にとっては大事件ということだってあります。クリスチャンの美徳の一つである「真面目」も思い煩いの原因になることがあります。ですから、誰でも避けて通ることのできない問題なのです。そこで、「思い煩い」が起こったら、すぐに対処しなければなりません。その対処法が今日の聖句です。難しいことは一つも書いてありません。誰でも実行できることが書いてあります。ですから、この教えを身につけておきましょう。いつでも、どこでも使えます。神の平和が来たかどうかで、効果も測定できます。思い煩うことは苦しいことなので、神の平和が来ることは最高の解決となります。まずは祈ってみましょう。

 

11月5日(水)

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、わたしは、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んでわたしの弱さを誇りましょう。

第二コリント12:9

 

クリスチャンの幸いは、弱さにあります。普通は弱いとは良くないことと理解していますが、聖書によれば真逆なのです。強さを誇れば、ろくなことになりません。逆に弱さは苦しみの象徴のように思っていても、クリスチャンの信仰生活では逆です。キリストが働くのは私たちが弱い時なのです。父親になったと思って子供のことを考えてみてください。懸命な父親は子供が自分でできることには手を貸しません。そして、少しぐらいの大変さは乗り越えることができるか見ています。必要なら助けますが、本人の成長を考えるなら、放っている方が良い結果を期待できるのです。クリスチャンとキリストの関係も同じようなものです。そして、信仰者は何事も主にお仕えするように働くので、手を抜くことがありません。そうやって一生懸命に何事にも取り組むことで、信仰を強め、その人を成長させているのです。ですから、私たちが自分の力で頑張っている時には、なかなかキリストの助けを経験しないのです。ところが何かでその人が弱さを露呈すると、主は助けてくださいます。それを側から見ていると、その人が強くなったように見えるでしょう。このような仕組みがあることを知ると、自分の力でできないことが出てきた時に、落胆しなくなります。それどころか、キリストが生きて働き、自分を助けてくださることを知るのですから嬉しくなります。クリスチャンとして生きるということは、この世の価値観から見れば、逆説のようになっているのです。その結果、信仰が成長するに従い、価値観が変わって行くでしょう。何事でも自分を誇るのではなく、神を誇るようになります。こうしたことは、クリスチャンが経験しながら理解して行くことなのです。

 

 

11月6日(木)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ローマ15:13

 

私たちは強くなければいけないというわけでもない。弱ければキリストが助けてくれるし、最悪と思うようなことはしばしばあったはずだが、ちゃんと乗り越えてきている。八方塞がりだと思っても、道は開ける。クリスチャンになってから、そうやって生きてきたはずだ。弱い人間はすぐに望みを失いやすい。それでも、信仰をもっているなら大丈夫。なぜなら、望みの神があなたの主だからだ。あなたの神は、あなたが信仰に成長し、幸福になってほしいと願っている。そこで、あなたにはいつでも望みがある。どんなにもピンチであっても望みは必ずある。あなたの神は、あなたを「信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし」と聖書に書いてあるので、その通りになると信じていればいい。あなたの心は小さく、自己否定に走りやすいかもしれないが、それも克服することができる。何より、絶体絶命の淵に追い詰められてしまっても、「聖霊の力によって望みにあふれさせてください」と祈ればいいのだ。あなたの信仰で十分なので、心配せずに聖霊様と呼んでみよう。うまくいっている日は神に感謝し、すべてうまくいかない日は聖霊の力に頼ろう。こうして、クリスチャンは知らない間に成長し、イエス様のように変えられて行くのだ。今日も聖霊によって望みにあふれた人生を生きて行こう。

 

11月7日(金)

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

詩篇100:1~3

 

礼拝の招詞で使っていた聖句です。大のお気に入りです。この地上のすべての被造物が創造主に向かって喜びの声をあげるように、促されています。「喜び祝い」は主を信じる者の最良の楽しみのことです。礼拝であれば、ただ式次第に従って進むことではないのです。まず、主を「喜ぶ」ことが始まりなのです。礼拝は「祝い」そのものなのです。礼拝がお祝いなのに、暗い顔をしてただ座っているとはおかしなことです。あなたは礼拝の時に、主を喜んで祝っているでしょうか。このことを理解すると礼拝はすっかり様子が変わるでしょう。クリスチャンにとっては、主と呼んでいるので、自分が仕える者であることも忘れてはならないのです。そして、礼拝はその主へ仕えることでもあるのです。信仰を持っていれば、人生に起こる様々な問題がことごとく主によって解決することを知ります。そのことの意味は決して小さくありません。それは、信じる者の喜びとなるのです。ですから、「喜び歌って御前に進み出よ」と書いてあるのです。喜びは内に秘めている者ではないからです。あなたにとって主は、身近であり、自分の問題をことごとく解決してくださる救い主なのです。ですから、友なるイエスよ、と歌うほどです。しかし、そのあなたと共にいてくださる主こそが神なのです。私たちは、この神に造られました。だから、私たちのことを神は何もかもご存じなのです。当然、私たちは主のものなのです。また、神の民であり、「主に養われる羊の群れ」なのです。ですから、ただ一人で勝手に生きなさい、と突き放されているわけではありません。主はあなたにとっては羊飼いなのです。あなたは羊のように面倒をみてくれる羊飼いが必要な者なのです。しかも、信仰の友がいて、決して一人ではありません。だから、今日も心配せずに、安心して、主にゆだね、喜び歌って御前に進み出ていけばいいのです。

 

11月8日(土)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイ2:6、7

 

この聖句の通りにすれば、本物のクリスチャンになれます。ですから、自分は大丈夫かどうか、よく吟味してみてください。ともすれば、この世の人たちと変わらない生き方をしていて、本道から外れてしまう人もいます。社会で働いていれば、大変なことも多いのでどうしても流されてしまう人が出てきます。しかし、信仰の道は主が先導しておられますから、迷子になることはまずありません。そうなると、今日の御言葉の通りにできているからどうかをやはり考えてみなければなりません。よく見れば、難しいことは書かれていません。それどころか、恵まれた人生の秘訣のようにさえ見えます。何より素晴らしいことは、あなたが主キリスト・イエスを受け入れてクリスチャンになったことです。それでは、どのように生きれば良いかと聞かれれば、「キリストに結ばれて歩みなさい」と答えることになります。クリスチャンはキリスト抜きには生きられません。ですから、まずは自覚してキリストに結ばれて生きる生き方を目指します。自分はキリストと結ばれているのだという意識を持つことです。新生したと言われたはずですが、それは「キリストに根を下ろして造り上げられ」ることが意図されています。そして、教会で「教えられたとおりの信仰をしっかり守って」キリスト者として生きていくのです。クリスチャンの特徴は際立っており、それは「あふれるばかりに感謝し」ていることです。言葉を変えれば、いつも喜んでいなさい、ということです。これは、信仰者にしかできません。そして、そのように感謝しているなら、人生は良くなります。悪魔も退散してしまいます。神を賛美するならその上に神が居られるのです。人間の目で見ると、よくわからないのですが、最悪の場面でもクリスチャンには神の助けの用意があり、主が居られるのなら、恵みも同時にそこにあるのです。この恵みを見る人は信仰者だけなのです。悪い道が目の前にあっても、同時に良い道もそこにあるのです。主を賛美することは、暗黒の中で光を見つけるようなもので、今まで見えなかった良い道を見つけ、そちらに向かうことができる方法なのです。ですから、意識して主への感謝を言葉にし、喜びがあふれるまで賛美するのです。どう賛美すればいいのか分からない人は、詩篇から学んでください。光があふれてくるはずです。

 

11月9日(日)

みことばに心を留める者は幸いを見つける。

主により頼む者は幸いである。

箴言16:20

 

幸福になる方法は、聖書を読む事であり、その時にこれはと思う御言葉に心を留めるという至って簡単な方法です。しかし、聖書は難しいせいか読む習慣ができないとなかなか手にしないものです。本棚で埃をかぶっていると笑って言う人もいます。ですから、せっかくの幸福をつかみそこなってしまうのです。聖書通読をやってみると、読む量が問題になってきます。できれば一年で聖書を全部読み終わりたいと考える人もいれば、数年がかりでなんとか読む人もいます。いずれも祝福されます。しかし、「幸いを見つける」と考えていないのか、知らないのか、ただノルマをこなしている人もいます。そこで、いろいろなアイディアを出して、聖書通読を意味あるものにしようと昔から試みてきました。もっとも、本を読むのが苦手で読めない人もいます。そんな人は、聴く聖書ができているので、今は耳から聴けば通読できる仕組みがあります。読んだところに題をつけたり、重要だと思った聖句を一節選ぶとか、瞑想して何を得たかとか、その時何と祈ったか、などを記録している人もいます。これは時間がかかり、大変ですが、このような方法が合う人もいるのです。さて、今日の箴言の知恵は、もう少し単純です。自分が読んでわかった御言葉に心を留める、と言うやり方です。それは金を含んだ鉱石のようなもので、お宝が隠れているかもしれません。そこで、考えながら読むようになります。そして、何かを悟ったら、それを「心に留めます」。つまり、それが教えていることを正しく理解する時間を持つと言うことです。人間はすぐに忘れてしまうので、このちょっとした作業が大きな差になるのです。聖書箇所と何がわかったのか、ちょっとメモしておくのです。考えることが得意な人は、メモよりも深く考えてみることで自分のものにすることができるでしょう。これは、学校の宿題のようなものではありません。あくまでも自分のためなのです。

また、聖書を読んでいて、分からない箇所に出会うこともあります。それは、自分にとってのお宝なのです。何しろ分からないのに気になるからです。センサーに反応したわけです。そこで、祈ってみます。聖霊の解き明かしを求めます。それから、その聖句の前後をよく読みます。せっかちな人は、聖書註解書を開いてみるかもしれませんが、期待したような答えは見つけらないと思います。何しろお宝なのですから、誰でもわかるようなことではないのです。自分にとって意味のある真理を知ろうとしているのです。そこで、時間をかけて理解しようとします。その間、何度も祈るでしょう。「主により頼む者は幸いだ」とある通りなのです。天啓としか言いようのないインスピレーションがやってきます。そこで理解したことは、まさに幸いと言うのに相応しいものなのです。

 

11月10日(月)

神に従う者の行くべき道は平らかです。

あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。

主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み

わたしたちはあなたを待ち望みます。

あなたの御名を呼び、たたえることは

わたしたちの魂の願いです。

わたしの魂は夜あなたを捜し

わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。

あなたの裁きが地に行なわれるとき

世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

イザヤ26:7~9

 

人の人生は毎日同じようでも、実際に生きてみれば変化に富んでいます。人々が神社仏閣を詣でて願うのは、家内安全、商売繁盛です。つまり、毎日が平和で病気や困ったことが起こらないようにと願っているのです。これが人間の悩みだからです。しかし、偶像の神々に祈っても、思いもよらない試練が待ち受けているのです。その点、神に従う者には、その人生の道が平らかであると聖書は教えています。神に従う者の道をまっすぐにしているのは、神なのです。私たち主を信じる者には、神が定められた道を歩ませるのです。それは、私たちの罪に対する神の裁きが、私たちの身代わりとなったイエス・キリストの上に、つまり十字架の上に降りました。それゆえに、私たちは罪が贖われて、キリストの道を歩む事になったのです。同じところに暮らし、同じ仕事をし、同じように飲み食いしても、クリスチャンになってからは、キリストの恩恵の道を歩んでいるのです。私たちは、主を待ち望み、「イエス様」と御名を呼び、感謝を持って讃えることを願っています。それは魂の願いなのです。私たちは魂も霊も主を探しています。ですから、聖書の預言のように、主は必ず戻って来られます。そして、空中に私たちを引き上げられるのです。これは、この世の最後の裁きの時です。何が正しいことか、この裁きによって世界中の人が正しさを知るのです。私たちの信仰は必ず報われます。

 

11月11日(火)

人はその口の実によって良いものに満ち足りる。

人の手の働きはその人に報いを与える。

箴言12:14

 

クリスチャンは、言葉に気をつけています。言葉には力があるので、悪い言葉が悪い結果を引き寄せてしまうことを恐れます。逆に、言葉の力を使って、慰めたり励ましたりできると知っています。正しい言葉は、心を強めます。それは、健康にも効果があります。しかし、聖書の知恵は、それ以上のことを教えています。「口の実」と言っていますから、言葉が何かしらの働きをしてその結果をもたらします。それが正しい言葉や肯定的な言葉であれば、ましてや聖書に書かれた御言葉であれば、その実もまた良い実であり、肯定的な実であり、御言葉に書かれた通りの実をとなるのです。クリスチャンには親交があるので、一般の人でも効果があることが、もっと大きな力となって働きますから、「良いものに満ち足りる」と書かれた通りになります。ですから、不用意に言葉を口にしてはいけないし、人の益となるような言葉を選ぶべきだし、喜びや感謝の言葉が良いのです。嘘はいけないことなので本当のことを言います。どんな人でも良いところは必ずあるので、そこをほめてあげることも良い結果をもたらします。また、聖書に書かれて初めて気がつくのですが、「人の手の働きはその人に報いを与える」とは、その通りのことなのですが、プロテスタントの信仰者は、この御言葉の通りにしたのです。他の人たちは、手を抜いたり、怠けたり、いい加減に働いていました。しかし、プロテスタントの信者は、手を抜かず、怠けずに主にお仕えする忠実な僕と自らを考えて働きました。そして、収穫物を全部浪費するようなことはなく、質素倹約に努めたのです。ですから、余剰金がたくさん出てきました。これが資本主義の始まりと言われています。御言葉を信じて実行する人には、報いがあるのです。

 

11月12日(水)

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

第一テサロニケ5:10、11

 

ここには、クリスチャンが十字架の意味を考える時に、もう一つの意味があることを教えています。キリストの十字架は、わたしたちの罪を贖うために主が死んでくださったことです。しかし、ここでは、主の死の意味は私たちと共に生きるようになるためです、と教えています。確かに、私たちは弱さを持っているので、クリスチャンになっても失敗したり、罪を犯したり、不安や恐れに負けたりします。悪魔は誘惑し、攻撃してきます。天国への旅路は長く、険しいのです。ですから、兄弟姉妹の助け合いが必要です。しかし、それは完全ではありません。人は簡単につまずき、互いに愛し合うように掟が与えられていても、うまくできないことがあるのです。クリスチャンには悲しいことや災いが来ないとは言い切れません。ですから、どうしても助け主であるキリストが必要なのです。キリストは私たちを自由にし、自らが道となり真理となり命であるのです。ですから、私たちは安心して御言葉を信じることができ、その御言葉の力が助けになることを理解します。キリストは光なので、闇の勢力に打ち勝たせてくださいます。ですから、クリスチャンは、いつでも主が共にいてくださるという信仰を持って生きることが大切なのです。信仰の旅路では、私たちは互いに励まし合う必要があります。そして、「お互いの向上に心がけなさい」と結ばれていますから、このことも心がけて実行してまいりましょう。

 

11月13日(木)

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。

私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。

わが救い。

わがやぐら。

私は決して、ゆるがされない 

詩篇62:1、2

 

聖書を読んでわかることは、人間がどんなに頑張っても自分を救うことなどできないということです。その人間は、神を恐れ、自分の罪を隠し、正しいことをすれば救われると思っています。しかし、なかなか簡単には正しいことを行えないのです。周りの人間が皆同じなので、そのうち、罪特有の自分さえ良ければいい、という考えに流されてしまう人も出てきます。真面目な人は、それでも正しく生きたいと頑張るのですが、いつでもそれは徒労に終わるのです。しかし、ある日、福音を聴きます。ある者は信じ、ある者は信じません。誰かに強いられるわけでもなく、自然と分かれます。これも神の摂理です。そして、クリスチャンとなった人は信仰を与えられ、その信仰をどうするか試されます。自分の弱さを認めてもよいとわかると、神が生きて働かれることもわかるようになります。祈りは、信仰者の呼吸となり、古い人と新しい人の戦いが始まります。もちろん、祈りは新しい人の呼吸です。ですから、祈りがなくなれば、呼吸を止めるのですから、新しい人が負け、古い人が勝ってしまいます。このような戦いをいくたびか続け、そして、今日の詩編記者のような信仰の高みへと導かれるのです。何か詩篇記者を苦しめるような困ったことが起こっているようです。その時に、彼は「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」と言います。自分の本心のあるところが魂です。追い詰められると心が乱れるものです。しかし、そのような事態になっても、魂は黙っていられるのです。ただ神を待ち望む。これが、皆さんが目指している本物のクリスチャンの姿です。自分の力に頼るのではなく、人を頼るのでもない。信仰は、主への絶対的な信頼です。苦しければ、声が漏れてくるものですが、ただ黙って神を待ち望むのです。この信仰者には、「私の救いは神から来る」との確信があります。それ以外には目を向けません。何があっても、どんなたに大変でも、「私は決して、揺るがされない」と断言できるのです。それほど、神は慈しみ深く、自分を完全に任せることのできるお方なのです。あなたの神は、あなたもそうできると信じていてくださいます。

 

11月14日(金)

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。

フィリピ4:8

 

クリスチャンとして生きるということは、キリストを模範とする生き方です。それは、今日の御言葉のように生きることです。この世は闇と聖書にあるように、暗闇の中では不真実なこと、卑しいこと、悪いこと、汚れたこと、嫌悪すること、不名誉なことなどが平然と行われています。そんな世界が良い世界とは言えません。キリストは光としてこの世の暗闇に来ました。それなのに、この世は光に気が付かないのです。光を嫌い、光を消そうとさえするのです。以前にはその暗闇の中にいたのに、キリストの福音が心に届いた時に、主を信じて救われました。その救いは、今日の御言葉を実践することができるように私たちを光の子に変えてくださいました。暗闇には希望がありません。しかし、クリスチャンはどう生きればいいのかを知っていますから、信仰を持ってこの御言葉のように生きるのです。それが誰かの希望となります。このように生きればいい、とクリスチャンを見た人たちは思うはずです。今は、何が正しいのかさえ揺らいでいます。ですから、正しく生きるというお手本が必要です。クリスチャンは、普通の人ですが、光の子であることも真実なのです。そして、聖書を学んでいるので、何をすれば良いのかを知っています。自分に力がないことも認めているので、聖霊の助けに従うことができます。謙遜に生きれば、聖霊は表に出てきます。それは、愛である聖霊が働くということなので、私たちにとてっても嬉しいことなのです。今日の御言葉の最後に、「それを心に留めなさい」とあります。私たちがすることは心に留めることなのです。そうすれば、クリスチャンとして後悔がありません。そのように生きることができるのです。

 

11月15日(土)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

詩篇103:3~5

 

神様と私たちの関係は、今日の御言葉によく現れています。人間がこの世を生きていれば、予期せぬことが色々起こります。そして、人間の心は意外なほど弱く、小さいのです。ですから、自分を守るために罪を犯し、自己中心的な考えにとらわれてしまって咎を犯すのです。それらは、いつまでも心を曇らせる原因となります。いくら自己正当化しても事実は変わることはありません。それでも、自分が良ければそれで良いという罪の性格が頭をもたげれば、事実とは異なる自己正当化の話を作り上げ、自分の罪から目を逸らすことすらするのです。このようなことをしていて、良い人間でいることはできません。自分が傷つけられてきたのだから、自分が誰かを傷つけてもしかたない、と思おうとすれば、大切な人が自分から去っていきます。罪の病は重いのです。自分に待っているのは暗い墓穴だけです。このように罪人の一生は影がさし、暗くジメジメしているのです。都会の人が美しい景色を見るために休みに苦労でけるのもるのも、清く明るい世界に憧れるからです。多くの人々がキリストの「重荷をおろして休ませてあげよう」との御言葉に反応します。では、主は、あなたに何をすると約束されていますか。今日の御言葉の通りです。あなたは、幸いにもキリストを信じて完全に救われました。あなたに今あるのは、清くしていただき、キリストの愛の中を生きることです。あなたの一生はすでに良いもので満たされているのです。ですから、天を見上げて主に感謝いたしましょう。あなたの信仰の目が開かれ喜びがあふれますように。

 

11月16日(日)

主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

エレミヤ31:3

 

「主は遠くから、私に現れた」。つまりわざわざ遠くから会いに来られたということです。神の住まわれる領域は聖なる場所です。ところが人間の世界は罪に汚されています。ヨハネは優れた感性で、この世界を暗闇と表現しました。そこに現れたイエスは光と表現しました。普通なら暗闇で光が灯ればすぐに誰でも気が付きます。しかし、誰も気が付かなかったのです。今日も、そのような世界に神が現れたのです。神の御言葉は真理です。ですから、その御言葉は真実でしかあり得ません。その神がエレミヤに向かって、「永遠の愛を持って、わたしはあなたを愛した」と言われたのです。永遠の愛とは決して何があろうが変わることのない愛のことです。神の愛の凄さが心に迫る言葉です。神が愛するとはどのようなことでしょう。それは、「あなたに、誠実を尽くし続け」ることだったのです。神の誠実が何を意味するか、想像しなければなりません。エレミヤの生涯は決して恵まれたものではありませんでした。それどころか、エレミヤの代わりは誰もしたくなりものです。神の預言者としてイスラエルの罪を断罪しなければなりませんが、酒好きの人に酒をやめろとか、喫煙者に禁煙を迫るようなものですから、嫌われます。人の罪は大切な人を傷つけたり、愛していると言った人を殺したりするようなものなのです。ですから、預言者が神に忠実であれば、罪を断罪して悔い改めを迫るのですから、疎まれて殺されてしまう危険が絶えずありました。しかし、イスラエルの民は、悔い改めることをせずに偶像を拝み続けます。神を裏切り続けたので、バビロン捕囚という罰を受けることになりました。しかし、エレミヤはその罰で生かされるバビロンへ一緒に行かされるのでした。エレミヤのことを涙の預言者と呼びます。一生を通じて辛い試練の連続であったのです。それなのに、神は「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われます。「誠実を尽くし続けた」とも言いました。信仰者は、このことを重く受け止めて、考える必要があります。もし、あなたが辛い状況に置かれているのなら、あなたは神に愛されているのかと疑いたくなるかもしれません。しかし、神の御言葉は変わらず、「永遠の愛を持って、わたしはあなたを愛した」と言われるのです。それならば、そのことを理解しなかればなりません。エレミヤはわかったはずです。神の愛はやはりあったと。そして、私たちも神の愛を知り、神の誠実を信じる者となりたいのです。

 

11月18日(火)

神、その道は完全。

主のみことばは純粋。

主はすべて彼に身を避ける者の盾。

詩篇37:31

 

私たちは、信じるに値する素晴らしい神により頼んで生きています。その道は完全です。ですから、疑うことなく安心してその道を歩めば良いのです。自分の人生が不安になる時には、この御言葉を思い出しましょう。あなたの信じている神は、あなたの人生の歩みを完全にすることができます。ですから、神を信頼してありのままに生きていけるのです。あなたは聖書を読みます。そして、解釈します。あまり考えることもなく、普通の本のようにどんどん先を読んでいけば、先には進めます。しかし、あなたはこれはどんな意味なのだろうと思う御言葉がいくつもあるのではないでしょうか。あなたは信仰者なので、主の御言葉の秘密が明かされています。それは、「御言葉は純粋」ということです。ですから、あなたも読み手として、純粋にならなければ意味が取れないし、御言葉の宝を得ることができないのです。純粋なものほど力の強いものはありません。あなたの足を照らす光なのです。ですから、小賢しい人間の知恵では迷路に迷い込むだけでその力を得ることができません。つまり、ただの人間の知恵では、あなたを益することができないのです。御言葉の力は、あなたをキリストのように造り変えることができます。人間の知恵で読んだ時には、あなたは変われません。たとえばイエス様が民衆に語りかけている時の御言葉を読む時です。あなたもその民衆の中にいます。熱心に聞いています。キリストはあなたを見て、何か言います。「光」と言っています。あなたは、それが自然と自分の中に入ってきて、まるで光が自分の中に入ってきたように光の明るさを感じるでしょう。そのように御言葉は純粋なのです。あなたはイエス様を主と呼びます。そして、何かあればすぐに主の御名を呼びます。あなたは主に頼り、自分を害するものから身を守ろうとして主の背に隠れるのです。主はあなたに害が及ばないように盾となって、いかなる攻撃も跳ね除けてくださいます。このようにして、クリスチャンとして生きているけるのです。ですから、人を恐れず、主を信頼して、今日も元気に過ごしましょう。

 

11月19日(水)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

あなた方は、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

コロサイ3:23、24

 

クリスチャンの成功の秘訣は、今日の御言葉の中にあります。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」、これが守られるなら、その人はどこにいても成功します。また、主の御心にかなう者と呼ばれるでしょう。実際、私たちの人生は、この世にあっても主にお仕えするものであることを忘れてはなりません。それは、報いとして「御国を相続」させていただけるからです。天国に入れるのは、ただ救われたからではなく、この世で救われた者が、主に対してお仕えしていくことを覚えて何事も忠実に行うことで、クリスチャンと認められます。その裏表のない、誠実さは、人が見ていても、見ていなくても変わりありません。つまり、私たちはクリスチャンらしく生きるのではなく、主キリストにお仕えしているのです。それは、どんな仕事をすることでも、隣人に対してもそうなのです。それを見て、人はあなたをクリスチャンと認めるのです。この世での報いは、もしかすると少ないかもしれません。貧乏くじを引いていると思うかもしれません。それでも、私たちは主イエスを仰いでいます。そして、自分が接する人にイエス・キリストを見ているのです。ですから、時には自分に酷いことをする人であっても、主にお仕えするようにと、忘れないのです。その報いは御国の相続であることも事実なのです。

 

11月20日(木)

香油も香りも心を楽しませる。

友人の優しさは自分の考えにまさる。

箴言27:9

 

ストレスの多い社会に生きてれいば、心身ともにいつでも疲れていると感じるものです。そこで、どうやって心身を癒し、疲れをとるかと現代人は考え、いろいろなことをします。温泉などは誰でもが行きたくなります。しかし、現代人は忙しいのです。そこで、アロマオイルなどの良い香りで心を癒し、心身ともに癒されたいと考える人は少なくありません。専門店も増えてきました。聖書を開くと、そこにも「香油も香りも心を楽しませる」とあります。ですから、乾燥する時期が来ればエッセンシャルオイルを加湿器に入れて使う人も出てきます。皆、良い方法を考えているのです。しかし、聖書をさらに読んでみると、「友人の優しさは自分の考えにまさる」とあります。そこで、そのことを考えてみると、確かに友人とおしゃべりしたり、楽しい時間を過ごすことは、リラックス効果があるし、意味があると思えます。しかし、聖書が言いたいのは、「友人の優しさ」なのです。私たちのことをちゃんと覚えてくれている人のことです。私たちのことを心配し、労ってくれる人、何かあれば助けてくれる人、本当の友人は思いやりがあるので、友人の優しさを体験できるのです。しかし、大人になるとそうした友人はまれになるかもしれません。それに、年を取れば、少ない友人もなくなって行きます。それは淋しいことですね。しかし、仕方ありません。では、私たちに聖書が語っているのは何のことでしょう。そうです。教会の兄弟姉妹のことです。あなたの何気ない言葉を心配して、祈ってくれる人がいるのです。あなたと一緒に天国へ入りたいと願っている人がいます。長い時間、信仰で繋がっている神の家族は、特別なのです。その優しさに癒されたり、励まされたり、生きる力をもらっています。たとえ離れて暮らしていても、どうしているかな、と思ってくれている人がいるのは嬉しいことですね。

 

11月21日(金)

さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。

第二コリント10:1

 

我らのパウロ先生は、どんな人だったのだろうと多くのクリスチャンが想像しています。そんなパウロが自分のことを書いた数少ない箇所が今日の聖句です。どちらかというとカッコ悪いと言われそうなパウロの姿が出てきました。何となく、自分と同じだと共感する人もいると思います。「面と向かっては弱腰」で、「離れていると強硬な態度に出る」とはいかにも人間的です。「待てよ、自分とパウロの共通点を見つけた」と思った人は、正直な人です。難しいキリスト教の教義を話している時には、偉い先生としか思えない人が、実際には人前では弱腰で、安全な所に離れると強硬な態度に出る、というのは「なんや、パウロ、大したことないな!」と急に親近感が出てくるのです。自分と変わらない人がイエス・キリストのために福音を命がけで伝えて回ったというのですから、驚きです。もちろん、コリント教会では問題が発生していて、パウロ先生の助けが必要だったのです。それも、異端が教会に入り込み、教会を揺さぶっているのです。パウロと真っ向から戦おうとする人もいます。異端は自説を曲げずに強硬なのです。パウロ先生は、教会では論争しようとせずに、穏やかに解決したかったのでしょう。しかし、教会では混乱して遠くにいるパウロ先生に助けを求めるので、パウロ先生は教会に手紙を書くのです。それは手紙なので、パウロの正しい福音の主張は強硬な態度に思えたのでしょう。手紙の難しさです。メールの時代でも、感情的なことはメールに書かない事が安全です。会って、顔を見て、「キリストの優しさと心の広さとをもって」話し合いをすることが感じでなのです。パウロ先生に見習うことは教義だけではなく、伝道も教会の牧会も兄弟姉妹の間の話し合いも、多く学ぶことがあります。それにしても、「キリストの優しさと心の広さとをもって」とはいい言葉です。私たちもこのように話せる人になりたいですね。

 

11月22日(土)

実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の苦労を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

伝道5:19

 

私たちは、神様に救われ、恵まれた人生を歩んでいます。それぞれに分に応じた富を与えてくださっているので、都会に住んでいても生活ができているのです。何となく、富を得たり、財宝を持つことが罪悪のように感じている人がいれば、それは気にしなくても良いのです。神が与えてくださる良い物を楽しむことを許されているのですから、自分の受ける分を受けてください。また、苦労があるでしょうが、それを苦にしないことです。むしろ、その苦労を喜ぶようにされているのが神なのです。そのようにしていると苦労が報われる日を迎える事ができるのです。「神の賜物」と聞くことがありますが、それは、ここに書かれていることを指していたのです。ですから、特別な人を除けば、クリスチャンは清貧でなければならないと考える必要はありません。むしろ不自然な考えは、悪い結果を招きやすいので危険です。それよりも、神の恵みを感謝して生きる方がよほど健全です。信仰の父アブラハムも金持ちでしたし、ヨブなどは東洋一の金持ちでした。信仰を害するほどの金は必要ありませんが、普通に生活に困ることもなく生きていけるように主はあなたを祝福してくださっていますから、自分が富の善き管理者となれるだけの恵みを頂ければ良いのです。神に感謝を忘れずに、良い人生を楽しんでください。

 

11月23日(日)

主を畏れれば命を得る。

満ち足りて眠りにつき

災難に襲われることはない。

箴言19:23

 

「主を畏れれば」とは、「主を信仰する」と同じような意味です。逆に言えば、神への畏怖が正常な信仰者の姿となります。それは、神を知ることから、私と神との関係を理解することです。そこには、全幅の信頼があり、決して不敬な態度を持たず、神への服従が良い意味で起こります。神を信じることによって、その人は「命を得る」とありますが、人はすべて罪人であると聖書にあるように、罪人には死しか報いが無いのです。ですから、罪人であることは、すでに死に定められていることになり、霊的には死んでいるとまで言われるのです。それなのに、主への信仰によって救われので「命を得る」と言っています。人間は肉的であり霊的であるので、健康でも霊的に弱っていくこともあります。心配事、恐れ、隠し事、悩み、と人間にとっては望まなくても向こうから押しかけてくる、こうした厄介ごとは避けることができません。その度に、夜も眠れぬという深刻な問題が生じます。ですから、神を畏れる者が「満ち足りて眠りにつき」というのは、人間にとって当たり前のことではなく、神の恵みそのものなのです。今も九州で大きな火事のニュースが報道されていますが、どんなに用心していても、予想もしていない災難に襲われることは誰にでもあるのです。しかし、聖書には主を畏れる者は、「災難に襲われることはない」と書いてあるのです。これほどの恵みは、人知を遥かに超えた神の御業なのです。信仰者は、このような特権にあずかっています。それは、主を畏れる生き方をしているからなのです。そのことをもう一度心に覚えていましょう。

 

 11月24日(月)

まことに、主のほかにだれが神であろうか。

私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。

この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。

詩篇18:31、32

 

人間は同じように見えても、同じ人は一人もいません。それだけに、誰も皆同じという考え方には無理があります。昔は、精神論で押し通されて辛い思いをした人はたくさんいたと思いますが、それを当たり前と思って人生を過ごしてきた人たちにとっては、試練が待っていました。無理やり押し付けられて適応してきた価値観が今や否定されて、教わったこともない新しい価値観が自分の生活圏にも押し寄せてくるのです。世の中が便利になり、技術革新が起こり、新しい時代に勝手に進んで行きます。生まれ育った場所にいつまでも住んでいられるのなら、知り合いも、同年代の友人も多くいるでしょうが、地方から都会へ移住した人や転勤族で各地を転々として、最後にどこに住むかも決めなければならない人たちは、老齢になって不安が増すことになるでしょう。私たちの知らぬ間に、人生百年時代と急に言われても、戸惑うばかりです。準備をしろと言われても、歳をとってしまってからでは、どうすることもできません。長く生きれば有利になり、経験が生きるような時代もありましたが、今は時代に取り残されそうで不安になる人が増えているのです。さて、私たちクリスチャンはどうでしょう。同じ時代を生きているので、影響は受けますが、今日の聖句のように、私たちには信頼できる神がいるのです。私たちの神は岩です。岩というのは普遍で安定していて、岩を土台としていれば安全で安泰でいられるのです。くだけた言い方をすれば、頼りになる神という意味です。この神は、身を寄せれば助けてくださり、決して困る事はありません。老人になっても力を帯びさせて元気に生きて行けます。神は変わりません。そして、私たちの人生を完全にされるのです。ですから、あなたの信仰は幸福への道なのです。

 

 11月25日(火)

預言者イザヤはヒゼキヤ王のところに来て、「あの人々は何を言ったのですか。どこから訪ねて来たのですか」と問うた。ヒゼキヤは「彼らは遠い国、バビロンから来ました」と答えた。更に、「彼らは王宮で何を見たのですか」と問うと、ヒゼキヤは、「王宮にあるものは何もかも見ました。倉庫の中のものも見せなかったものは何一つありません」と答えた。そこでイザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主の言葉を聞きなさい。王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。・・・ヒゼキヤはイザヤに、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた。

イザヤ39:3~6、8

 

ヒゼキヤ王が奇跡的に病が癒された時に、それを知ったバビロンの王から快気祝いの使節団が遣わされてきたのです。ヒゼキヤは使節団を喜んで歓迎し、宮殿中を見せて回ったのです。それは武器庫やお宝まで、そして神殿の純金で造られた神器まで、まさに国の宝を全て見せてしまったのです。それは、バビロンにこれだけの宝があるので攻めてきてくださいと言っているようなものです。バビロンはそうやって近隣諸国を攻めて併合して行ったのですから、覇権主義の超危険な大国だったのです。預言者が王の元へ遣わされました。預言者イザヤは誰に、何を見せたのか、と問いかけます。つまり、ヒゼキヤ王が何をしたのか、本人に自覚させています。国難が襲うと主の御言葉が語られます。これは、バビロン捕囚の預言です。しかし、肝心のヒゼキヤ王はどうせ自分の治世の間は「平和と安定が続くと思っていた」というのですから呆れます。一国の指導者の責任はかくも重いのです。思慮が足りなければ、たちまち国は滅んでしまうかもしれません。そのように自覚して賢く振る舞う王もいれば、ヒゼキヤのように愚かな王もいました。自分が生きているうちは平和ならそれでいいというのです。子孫がどのような酷い目に遭っても気にならないのでしょうか。人間は、どうも子孫に何か良いものを残そうと思うよりも、今の自分がどうなるかの方が気になるようです。自分が失敗しても、その結果がすぐに現れて自分に困ったことが起こるのは嫌なのですが、先の世代にツケが回るのなら、まあいいか、と思えるようです。現代も同じで国の政治家が何をしているか見ていると聖書に書かれたことと同じようなことをしていると思わされることがしばしばあります。人間はなかなか歴史に学ばないのですね。昔あったことは今もあるということです。

 

11月26日(水)

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

ヨシュア1:8

 

世には成功法則と呼ばれるものを知りたいと願う人がいます。本屋に行ってみても、その種の本は少なくありません。確かに、繁栄したい、栄えたいと思う人は一定数いるものです。それでは、どうすればいいのか成功法則を一から考えるのでは、到底望み薄です。寿命も尽きてしまうでしょう。そこで、この世に存在する成功法則を簡単に手に入れようとします。ですから、「成功の秘訣」とか「誰でも成功する秘密」などタイトルを工夫すれば、簡単に売れる本を作れるのです。特に起業するぐらいの気概を持っている人なら、成功者と言われる人に直に聞きに行くでしょう。それよりももっと確実な方法は、古今東西の古典と呼ばれる本の中で成功法則を教えているものから学ぶという方法があります。できれば、真理と言われるほどの信ぴょう性の高い、もっとも優れたものが良いのです。その点で言えば、聖書に勝るものはありません。その聖書に書かれた成功の秘訣がこのヨシュア記に出てきました。それは、聖書に記されている律法を守り行うことです。そのためには、律法の書を昼も夜も口ずさまなければなりません。いつもそらんじて覚え、唱え続ければ、律法に記されているすべてのことを守り行うことができるというのです。その結果、繁栄し、また栄えることができる、と書いてあるのです。それでは、その後、この事を知った旧約聖書のイスラエルの人たちはどうなったでしょうか。私たちはすでに結果を知っていますが、失敗したのです。そして、宗教的にも律法の実行では義となれないと新約聖書に書かれています。もちろん、律法が間違っているわけもなく、正しいのですが、肝心の人間の方に問題があって、律法を守ろうとしても正しく守れないという悲しい問題があったのです。ですから、聖書は「正しい人は一人もいない」と厳しく書いています。律法は、誰でも読むことができます。難しいことが書いているのではなく、誰でも納得する正しいことが書いてあるのです。さて、今のような大きな変革の時代になって、いろいろな考え方の人がいるのだから価値観も多様化して当然で、大声で自己主張した人の勝ちというような風潮になってきましたが、それは、真理が何かをわかりにくくしているということです。正義がわかりにくいというのでは、世の中が乱れ、安心して暮らせなくなります。古代の大都市が戦争でもなく消滅してしまう理由は、ひょっとしてこのように大勢の人々が集まる大都市では多様性を認めざるを得ず、その中で正義がわかりにくくなってしまたことが原因かもしれません。ですから、律法のような正義や真理は、人間にとって必要なことなのですが、人間の罪の問題が律法を排除しているのです。厄介な問題です。本来は、神が律法を授け、それを守り行うことで繁栄することができた人間なのですが、実際には律法を守り行えなかったのです。それで、罪の問題を解決するために救い主イエス・キリストが来られたのです。それは、律法が人間の外にあるからうまくいかないので、人間の内側、心に律法を記せばうまく行くという新しい契約を実現するためでした。そこで、クリスチャンも聖書を読んで律法を知ることは良いことなのです。聖霊の助けを得て、信仰で正しく生きて行くことが求められています。

 

11月27日(木)

歩む道が曲がったりそれたりしていても

清く正しい行いをする人がある。

箴言21:8

 

人間にはわからないことがあります。なぜ、自分が今の境遇に生まれてきたのか。恵まれた境遇と恵まれない境遇があり、人間はそれを選ぶことができません。それと同じように、歩んできた人生にも紆余曲折があったはずです。それも、自分が選ぶことができることとできないことがあったはずです。アメリカの大学で社会学部の教授が二十年前のリサーチの書類を発見しました。それはスラム街の黒人少年少女の研究で、育った環境が悪ければ、成人した時に犯罪者のような悪い人になるのか、それとも環境は関係がないのか、という研究です。そこで、追跡調査をしてみようということになって、その時の少年少女の現在を調べらのです。すると、予想と違って、彼らは医者や弁護士、大学教授、それに有名企業に勤めている人もいました。なんと皆社会的に立派な職業についていたのです。そこで、どうして立派な社会人になれたのか聞くと、子供の時に教会のご婦人が彼らにイエス・キリストを伝え、正しく生きることを教えてくれたというのです。その一人の女性が彼らを愛してくれたので、彼らはグレることなく、正しい行いをする人になっていったのです。彼らは、彼女の愛があったので今があると言いました。私たちも、イエス様に愛されているのです。それは、どんな時でも変わることがありません。ですから、私たちは、たとえ人生の道が曲がったりそれたりしても、主が愛してくださるので、清く正しい行いをするのです。そうやって幸福になるようにと導かれているのです

 

11月28日(金)

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

慈しみとあわれみの冠を授け

長らえる限り良いものに満ちたらせ

鷲のように若さを新たにしてくださる。

詩篇103:3~5

 

私たちは、聖書を読んで行くとまるで救われた人の保証書を読んでいるような気持ちになることがあります。例えば、今日の聖句を読めば、その意味がわかると思います。特に、目立つほどの善人であったわけでもなく、人が驚くような立派な行いがあったわけでもありません。罪は犯すし、病気にもなります。神様が私を見て裁けば墓が見えてきます。自分の力ではたかが知れたもので、生きていくので精一杯です。年々、着実に歳を取り、老人であると認めなければならなくなります。これでは、信仰のない人と同じです。では、信仰があればどうなると聖書は教えているのでしょう。それが、今日の聖句です。これは、もちろん神様のお恵みですが、クリスチャンの皆さんに無償て与えられている保証です。ですから、何も悲観することがありません。むしろ、喜んで感謝しているのが普通です。この聖句に書かれたことは、人間の長年の夢です。でも、科学が進んでもどうすることもできないことばかりです。しかし、皆さんがイエス・キリストを救い主と信じて、クリスチャンになったので、見事に救われました。その特典がここに書かれていることなのです。全てが信仰によって与えられるのです。喜んで信じてください。

 

11月29日(土)

主よ、あなたはわたしを究め

わたしを知っておられる。

座るのも立つのも知り

遠くから私の計らいを悟っておられる。

歩くのも伏すのも見分け

わたしの道にことごとく通じておられる。

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに

主よ、あなたはすべてを知っておられる。

前からも後ろからもわたしを囲み

御手をわたしの上に置いてくださる。

詩篇139:1~5

 

 

牧師の仕事は、多方面に渡っていますが、その一つが見知らぬ町に出かけることです。それは、説教者として招かれるからです。東京のような大都市であれば、交通の便が良いので、時間にゆとりを持てばそれほど心配しなくてもすみます。しかし、地方に行けば、特に田舎では注意が必要です。大抵は車で行くのですが、道に迷うことがありますし、目的地を探してもなかなか見つからないこともしばしばあります。中には、赤城山の上の方、というような本当に辿り着けるのか?と心配になるような所にも行くのです。北海道では、どこまでも続く一本道を進み、大きなあるメーカーの看板が出てきたら右折すること、決して見落としては行けない、と言われて同じような看板を何個も通り過ぎてようやく見つけた時にはホッとした覚えがあります。危険な冬山を超えていったり、同じような田舎道を走り回って、探せど探せど目的地が見つからないのに、道を聞く人がそもそもいないというようなこともあるのです。地図を見るのが上手になりましたが、ないはずの道ができていたり、地図が違っていたりということもありました。ナビの時代になっても、画面を見ると海の上を車が走っている、というようなことがありました。しかし、不思議なことに辿り着けなかったことは一度もありませんでした。神様のことを理解できれば、こんなことは当たり前と言えるのですが、信仰を持っている人は特別なのです。アメリカにいた時にも、砂漠を突っ切る高速道路を何度か走りましたが、気をつけないとガス欠になって立ち往生すると危険なので、ガソリンスタンを見かけたら、必ず給油するのです。その時見つけたガソリンスタンドは、まさに荒野でガソリンスタン以外は何もない、こんな所には一生来ないだろうというような場所でした。ガソリンスタンドには先客がいました。黒人のおじさんが給油していました。ところが、その人は同じ教団の牧師だったのです。不思議な気がしました。広大な荒野で、わざわざ高速を降りて給油しなくても、手前にもこの先にももっと入りやすいガソリンスタンドがあるのに、どういうわけか、ここで給油しようと思い、そこに行ってみると牧師がいたというのは、神様の導きと思いました。私たちは、偶然ではなく、神様のお導きで生きていて、初めての場所でも、先に行って準備していてくださるのです。見ず知らずの牧師が荒野で出会えば、神様が私たちを導いておられるとわかります。だから、どこにいても大丈夫だと安心できるのです。神様はあなたの上に御手を置いてくださるのです。「心配しなくても大丈夫!わたしがあなたを取り囲んでいるので、どこにいても安全で全てがうまく行く。わたしがあなたを愛しているからです。」と主はあなたに言われるのです。

 

11月30日(日)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。

ローマ8:28、29

 

あなたはクリスチャンであれば、別の呼び方があることを覚えていてください。それは、「神を愛する者」です。なんと良い響きでしょか。自分が神を愛する者であると知ることがあなたを完全な救いへと導きます。神を愛する者は、「御計画に従って召された者」と呼ばれています。もう私たちは理解していますが、私たちがクリスチャンになれたのは偶然ではなく、神の御計画だったのです。驚くべきことです。この恵みにあなたはあずかっているのです。しかも、特権付きです。それは、「万事が益となるように共に働くということ」です。つまり、あなたが生きていけば体験する全てのことが益となるように共に働く、ということです。これは、良いことだけが起こるということではなくて、目的は御子に似た者になることですから、あなたはキリストのように変わらなければなりません。もちろん、そのような力があなたにあるわけではありません。簡単でもないことは、すぐにわかると思います。では、どうすればいいのか、ただ信じることです。それは、「万事」と書かれているので、あなたの身の上に起こることは全部ということです。その全部が「益となる」というのは、キリストに似た者となるのに役立つということです。そのために、あなたの人生に起こることが共に働くのです。つまり、困ったことになっても、失敗しても、人間関係で悩んでも、自信を失っても、不信仰に陥ってしまったとしても、とにかく、あなたに起こることは何でも、あなたの古い人を砕いて新しいキリストのように造り変えるのに役立つのです。これなしには、天国へ入ることができないのです。ですから、試練続きで自分に自信を失っても大丈夫なのです。それも救いの計画の一部だからです。自分で立派なクリスチャンになるのではなく、神の御計画の通りに神の力で、あなたは理解できないかもしませんが、試練をも潜り抜ける必要があるのです。信仰を持っているのは本当に素晴らしいことです。何が起こっても全て益となるからです。楽しみにしていましょう。