2026年2月ディボーション

2月1日(日)

同様に、も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、自らが、ことばにあらわせないうめきをもって執り成してくださるからです。

ローマ8:26

 

祈りがクリスチャンにとってとても重要なことであると心に覚えておく必要があります。人前で祈ることがなかなかないかもしれませんが、祈りには力があり、それは信仰者のものなのです。ですから、誰かのために祈ることもしばしば必要になります。人前で祈るとは、教会員の前で祈るということです。慣れれば誰でも上手に祈るでしょうが、人から祈りを学ぶこともあります。長老のように長い期間をかけて信仰を培ってきた者には、信仰の言葉が祈りに現れます。逆に小さな子供の無垢な祈りは、人の心をも動かすのですから、神の御心にも響くものがあると思います。さて、クリスチャンである私たちは、祈りをもっと上手にできたらいいのに、と思います。昔の長老たちの祈りは、格調も高く、美しい日本語でした。このような祈りは私にはできないと思わされました。それに比べると、現代の祈りは、優しい日本語になり、格調の高さは失われましたが、よく分かる祈りになってきました。雰囲気でアーメンと唱えていたのが、「ああ、その通りです」と、アーメンを唱えることができるようになりました。しかし、本当に打ちひしがれた時、悲しさや恐れに震えている人は、どう祈ればいいのか言葉を失うのです。ところが、そのような時に、天に昇って行く祈り、いやうめきがあるのです。それこそが、その人の内に住んでおられる聖霊が、言葉で執り成すのではなく、その信仰者の苦しみ、悲しみ、そのものを内心のうめきとして天の神の御座に運ぶのです。そうやって、神の憐れみに訴え、神の助けを求めるのです。このような素晴らしい執り成しをしてくださる聖霊が信仰者にはいるのです。ですから、そのことを覚え、聖霊の助けに感謝したいと思います。本当に心強い助け主があなたにもいるのです。

 

2月2日(月)

不遜な者を諭しても侮られるだけだ。

神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。

不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。

知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。

知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。

神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。

主を畏れることは知恵の初め

聖なる方を知ることは分別の初め。

箴言9:7~10

 

私たちは、何度も失敗しては何かを学びます。クリスチャンであるからと気負っても、自分の器以上には何もできません。また、すべての人を愛さなければならないからと、不遜な者を諭しても、感謝されることはないばかりか、馬鹿にされ侮られるのがオチです。また、神に逆らう者、悪人らは、悪を行なってはならない、正しいことをしなければならないと戒めても感謝されないし、相手が変わることはないので、酷い目に遭って終わりということになります。せいぜい憎まれるだけです。では、誰を叱るのが正しいか、聖書はそのことも教えています。それは、不遜な者ではなく、知恵ある人です。そのような人は、あなたを愛すと聖書にあります。そのような人に出会ったことがありますか。なかなか出会うことができないかもしれませんが、実際にあなたの身近にいると思います。そのような人と友達になるのです。知恵とは何かと聞かれれば、「主を畏れることは知恵の初め」とあります。また、「聖なる方を知ることは分別の初め」なのです。この御言葉を覚えていましょう。

 

 

2月3日(火)

 愛する者たち、あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

第一ペテロ4:12、13

 

クリスチャンになって、試みられたことがあると思います。それも、酷い場合には、「燃え盛る火の試練」と聖書に書かれているように、耐え難い事が襲ってきます。もっとも、それが恵みであることには後で気がつくのですが、その時にはそうは思えません。何とかして逃れようとしますが、試みなので、神に試されていることを忘れてはいけません。あの信仰の父であるアブラハムですら、試されました。独り子のイサクを犠牲として殺すように主に命じられたことです。アブラハムの苦悩は聖書には書いてありません。主が犠牲を備えていてくださると信じていたのか、それとも、主の命令を実行しようと決意していたのか、普通の父親なら、神に泣きついて子供を殺すことはできなかったでしょう。究極のところで主を信じていたから、助けが入りました。御使が止めたのです。つまり、信仰とは、主の御命令に服従することであり、それは、主を畏れているからなのです。そのことを試されるのです。自分中心で生きていれば、試みに負けるでしょう。神の恵みを体験することもできないでしょう。信仰が神を畏れることであると悟ることができますように。 

 

2月4日(水)

わが子よ。

私のことばをよく聞け。

私の言うことに耳を傾けよ。

それをあなたの目から離さず

あなたの心のうちに保て。

見いだす者には

それはいのちとなり

その全身を健やかにする。

箴言4:20~22

 

私たちが、聖書を持っていることは奇跡なのです。もちろん、日本の本屋にも聖書は売っています。しかし、クリスチャン以外の人が聖書を買うことは稀です。クリスチャン以外の人が聖書を持っている場合、自分で買う人もいますが、もらうことのほうが多いのです。そのために、本棚に入れられれば、もう手に取られることもありません。ですから、クリスチャンが聖書を日々読む神の言葉として活用しているのは、やはり奇跡なのです。ところが、クリスチャンも油断できません。本を読む習慣のない人は、やはり聖書も読めないと諦める人がいます。そのような人は、本として読んではいけないと発想を変えます。今日の御言葉を読めば意味がわかります。つまり、目の前の聖書は神の声なのだと発想を変えます。聖書を読むのではなく、「私の言うことに耳を傾けよ」とあるので、聞くものとして耳を傾けるのです。また、「目から離さず」とあるので、聖書を見ることも大切なのです。どんどん読み飛ばして行く人とは違い、神の御言葉を聞こうとする人になるのです。その上で、「あなたの心のうちに保て」とある通りにするのです。聖書の真理は、求める人だけが見出すのです。さらには、「それはいのちとなり」「その全身を健やかにする」と、ある通りなのです。これはもはや御言葉による奇跡なのです。それを自分自身に適用したいものです。

 

 

2月5日(木)

子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。・・・御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。

第一ヨハネ2:18、22b

 

皆さんは反キリストのことを聞いていると思います。キリスト教が始まった頃から反キリストはいたのですが、再臨が近づいた時にも反キリストが現れます。それは、強力でクリスチャンが最も注意しなければならい者です。今までの時代も反キリストの出現を警戒していましたが、最近の世界情勢は、まさに反キリストではないかと思わせる人たちが次々に出現しているのです。そして、戦争まで起こし、金儲けのためには環境破壊も放置しています。神をも畏れない者が大口を叩くのです。教会は世俗化し、霊的なことがわからないくなり、道徳宗教のようになってきました。誰もが、目先のことばかり考えて、将来どうなるかなど無視しているようで気になります。終末は神のタイムスケジュール通りに来ているのです。私たちは見張のようにこの世界を見ています。「御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」と書かれた人が世界で権力を握っていることを誇示します。私たちは、御父と御子を崇め、信仰を表して、最後の時代を雄々しく生きて行きましょう。

 

2月6日(金)

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

第一テモテ6:11b、12

 

この世に生きていれば、多くの誘惑があります。そこには、人間関係が絡んできます。仕事であれば、突き放すことも無視することもできないかもしれません。悪魔は情け容赦なくクリスチャンを攻撃してきますが、その分、神も守っていてくださいます。それでも、私たちがもともと罪人として生きてきたので、矯正しなければならないところがあるのです。そのために、試練やさまざまな試みがあるのです。その中に、悪魔の攻撃もその人の足りなさを補うために許されることがあります。それは、何のことかと問われれば、今日の聖句のはじめに書かれています。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」これらが欠けていれば、天国へ入ることが難しくなります。しかし、これらはもともと私たちに十分に備わっていないのです。ですから、クリスチャンになってからこれらのことを追い求めるように、勧められているのです。永遠の命は、信仰の戦いを通して与えられるものなのだと、今日の聖句から理解できます。そして、クリスチャンになった、あなたにはその信仰があるのです。信仰で勝利するような生き方を考える必要があります。

 

 2月7日(土)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

第一コリント1:30

 

クリスチャンは、特権があります。それに気が付かない人もいます。聖書を注意深く読んでいないからでしょう。今日の聖句は、その一例です。「キリスト・イエスのうちにある」ということは、私たちの知力ではその意味がよくわかりません。どうすれば、そのような不思議な状態になれるのか、説明できないのです。ところが、聖書は「神によって」と説明しています。神なら何でもできるので、納得します。そして、このような自分の力ではできないことを聖書は明確に明らかに記録しています。それもクリスチャンのためにです。だから、特権があると言うのです。それでは、キリストのうちにあるとどうなるのでしょうか。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり」とあります。私たちが理解できないことの一つが神の知恵」です。しかも、その知恵が私たちにとっても大切なのです。なぜなら、救われてすぐに天国へ入らずに、この地上に生き続けるのです。そうすると、すぐに問題になるのは、以前の罪人と同じ生活に戻って行くのでは無いかということです。教会でいくら清い生活を送りなさい、とか、罪を犯さずに正しく生きなさい、と言われても、肉の問題を抱え、人間の努力ではどうともならず、誘惑する悪魔もいるのです。救いは完全でも、信仰によって義となるというルールなので、ありのままで救われた人は、罪人気分が抜けきれていないかもしれません。それだけに、自分の信仰の弱さを自覚しているので、信仰によって克服するものが多く存在するのに、全く勝利できる気がしないのです。一体、この救いはどうすればいいのでしょう。実は、そうした人間のことを神はご存知なので、キリストの助けを用意しいます。しかも、別のキリストである聖霊を個別に与えています。この聖霊が頑張ってくださるので、私たちは信仰を働かせることが求められているのです。ところが、そうした救いの仕組みを理解していません。それは、神の知恵が必要だからです。ここで、神の知恵が出てきますね。このように、神は私たちの救いを実現するために、神の知恵を与えておられるのです。自分が賢くなったというよりは、キリストに聞いて教えていただくということです。ですから、誰でも上手くやれるようになっているので、心配しないでください。

 

2月8日(日)

実に神は全ての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

伝道5:19

 

クリスチャンの中には、お金儲けをしてはいけないと本気で思っている人たちがいます。確かに、清貧という言葉もありますから、お金儲けをしたいという思いは肉の思いなので悪だと考える人がいるのです。だから清貧であるべきなのだ、と本気で信じている人がいます。そのような人がこの聖句を読んだらショックを受けることでしょう。清貧というのは、実は霊の賜物であって、特別の選ばれた人にだけ与えられるのです。ですから、クリスチャンであるということだけで、貧しくなければならないというのは、間違っているのです。普通に稼いでいいし、お金持ちのクリスチャンもたくさんいます。肝心なことは、お金そのものは悪では無いということです。それでも、自分が生きて行く上で必要なお金以上にたくさんのお金が欲しいと考えると、貪欲の罪を犯す危険が生じます。人間は、お金を持っていなければ安全ですが、大金を手にすると急に人が変わってしまうのです。だから、貧しければ安全かと言えば、それも危険が潜んでいます。貪る罪を犯したり、貧しさ故に不幸になることは実際に見聞きしているでしょう。しかし、今日の聖句を読めば、「実に神は全ての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し」たと書いてあります。ですから、お金に対するもっと欲しいという貪欲には気をつけて、神の与えてくださるお金の良き管理者になることを目指しましょう。神は、富と財宝を与え、これを楽しむことを許しているのですから、お金に振り回されないように気をつけて、どう使ったのか神に報告できるように正しく使えば良いのです。このことの意味は、「自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた」と書かれている通りです。この世の中で苦労ばかりで、その対価を得られないということを神は望んでいません。頑張った分、ご褒美のように与えられるということです。そうであれば、この世に生きていても、労苦ばかりではなく、仕事を頑張ったので恵みも増したと喜ぶように神はお考えだということですね。ですから、クリスチャンが貧乏でなければならないというようなことはありません。むしろ、神に祝福されて豊かになれるのです。そのことを正しく理解しておきましょう。

 

2月9日(月)

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ41:10

 

クリスチャンになって一番驚いたのは、神が「恐れるな」と言われることです。キリスト教は、神が力強く、また愛に溢れていることが特徴の宗教です。しかも、「わたしはあなたとともにいる」と明言される神なので、私たちは危険からいつでも守られ、孤独からも助けられるのです。つまり、「恐れるな」ということは、神が信じる者と共にいてくださり、あなたを強め、あなたを助け、全宇宙で唯一の義の右の手で、あなたを守るという保証なのです。神に勝るものは他にいません。そして、神はキリスト教の神しか存在しないのです。その神があなたを愛しておられるので、あなたはいろいろな失敗があっても、神に見捨てられていません。それどころか、完全な救いをキリストを通して神から受けています。あなたが信じて実行することは、「恐れない」ということです。信じることができない時に人は不信仰になったと言われます。ですから、私たちは普段から、主が共におられると信じて生きているのです。神の守りがある人は、特別な人なのです。その人は、神を愛し、従順に振る舞い、忠実であることが特徴です。今日でも神の守りがあることを学びました。そして、あなたも今日、共にいる主の保護の中生かされていることを覚えていましょう。

 

2月10日(火)

そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れたものがその道を通ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。

イザヤ35:8~10

 

主イエス・キリストがこの世界においでになるということは、人間の想像を超えた出来事でした。何しろ、神の独り子が天から人間の世界に入って来るのですから、すごいことが起こったのです。この世界は、罪が入り込み汚れていました。ですから、イザヤ書を読むと、「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。」と、この世界を荒れ野や砂漠と表現しています。罪によって死んでいた世界に再び創造主がやって来るのです。そこには救いへの希望があり、命が再び与えられる期待があります。そのためには、罪の贖いが不可欠です。その最も困難な奇跡を起こせるキリストが来るのです。それは、主が愛であるから実現するのです。神が愛であるということを私たちは知る必要があります。そして、救われることは、罪を犯す前の完全なアダムの回復です。それが、キリストを信じる者全てに起こる奇跡です。私たちは自分がどうやって生きて来たかを知っているので、自分が救いにふさわしいとは思わないでしょう。しかし、それでも主は救ってくださいました。そして、「神は愛なり」という意味が分かったのです。新しく生まれた私たちは、この神の愛によって生きて行くのです。神の愛をおろそかにしてはなりません。私たちが目指すのは、愛によって生きることです。私たちが主に倣って、愛の人になれれば、自ずと隣人の魂は救われて行くでしょう。それは、私たちが国籍を天に変えていただいたので、天の住民のように生きることで達成されて行くでしょう。今日も喜びと楽しみがついてきます。そして、嘆きと悲しみは逃げ去るのです。

 

2月11日(水)

 待ち望め。主を。

雄々しくあれ。

心を強くせよ。

待ち望め。主を。

詩篇27:14

 

この御言葉は、誰にでも必要な時が来ます。そして、この御言葉を唱えて、主を待ち望むことは、信仰者にとって大事なことです。希望が失われてしまいそうな時や、困難が押し寄せて来た時、病気になって不安になる時、試練の中に落ち込んでしまいそうな時、私たちは、この御言葉を唱えます。そして、勇気が湧いて来るまでこの御言葉を唱えるのです。幸い、この御言葉に曲をつけて「待ち望め主を」という新しい讃美歌が作られています。短い歌詞ですが、何度も何度も歌って、自然と覚える御言葉に力があることを知るようになります。私も牧師一年目に試練にあって苦しみました。その時、祈ってもすぐには助けていただけませんでした。その試練は一年以上も続きましたが、その報いは大きくてその後の人生を変えてしまうほどでした。このように長期間に渡って主を待ち望まなければならないことも長い信仰生活にはあるものです。もちろん、耐えられないような試練はないので、心配する必要はありません。そして、主を待ち望めば、ちょうど良い時に来てくださいます。しかし、自分が考えるよりは長く待つこともあるのです。そこにも恵みがあることも真実です。

 

2月12日(木)

主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。

第二ペトロ1:3、4

 

クリスチャンがどのようして救われ、また、救われた後にどのように変えられるのか、それはどのようにしてなるのか、私たちの気になるところです。洗礼をすでに受けた皆さんは、主イエスによって、「命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」。ですから、あたかも自分で獲得したように振る舞ってはいけません。主から与えられているのです。これは、主イエスが、「ご自分の持つ神の力によって」与えてくださったのです。ですから、私たちが努力したり、精進したからということではありません。このようなわけで、誰も、与えていただいていないとは言えないのです。ここまで理解できたなら、次です。「それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです」。そのために、私たちは主イエスを学んでいます。信仰者らしく、祈り求めて主イエスを深く知ることができるようにと祈るのです。聖書も主イエスのことが書かれているのですから、読みます。聖書は霊感の書なので、信仰者の信仰に応じて、開いてくれます。このようにして主イエスを知るのです。こうした不思議があります。それは、クリスチャンがこの汚れた世界にあっても、「神の本性にあずからせていただくようになるためです」。このようにして、クリスチャンの成長も主イエスによるのです。だから、完全な救いなのです。

 

2月13日(金)

神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を捧げられました。これは定められた時になされた証しです。

第一テモテ2:4~6

 

聖書からわかる通り、「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。ですから、民族間の対立や、人種差別などしてはならないのです。私たちもそのことを理解していますが、日本の少子化にも伴い、労働人口が減って行くことが明らかで、外国人労働者を増やすことが議論となっています。移民を奨励している国に倣って、日本が生き残るために必要だという人もいれば、文化の壁が厚く、日本人のような質を保つことができなくなるとの心配があります。教会でも、外国人が入ってくるとたちまち日本人が脅威と思うほど大勢集まってくるので、何人の教会かわからなくなるといったこともよく聞きます。これは、宣教学でも問題になっているのですが、使徒言行録の時代からの問題です。国際教会も絶えず紛争があり、問題が絶えません。アメリカ人宣教師と日本人伝道師の対立がことごとくあると、相談されたこともあります。ですから、今は同じ文化の人同士で教会を持つようになっています。クリスチャン同士としては、仲良くできても、同じ一つの体となるときに問題があるのですね。それでも、神様はすべての人が救われて真理を知るように望んでおられるのです。そのことを覚えて、人種差別の起こらないことを願っています。また、大きな変化の時代を安全に乗り越えて行けるように祈るばかりです。

 

2月14日(土)

主はすべてのわざわいから、あなたを守り、あなたの命を守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

詩篇121:7、8

 

神を信頼しましょう。私たちの信仰は裏切られません。幼子のように神を信頼していれば、大丈夫です。聖書に記された約束は、信じた者の上に成就します。あなたと神との関係は、クリスチャンになった時に確定しています。自分を見れば自信を無くすかもしれません。しかし、私たちの信仰は自分の罪を示され、その罪から救うために主イエス・キリストが十字架にかかられたことを信じたので救われたことを疑いません。そして、事実、私たちは神の子とされました。私たちは何か良いことをしたから救われたのではありません。ただ、神の憐れみにより、恵みで救われたのです。ですから、この地上生涯の終わるまで、今日の御言葉もあなたのために保証となっているのです。何も心配せずに、天の守りがあると思って、勇気を持って生きてください。あなたがどこに行っても、また帰るにも、あなたを守る神がいるのです。「今よりとこしえまでも」とあるので、永遠にあなたを神が守ってくださるのです。ありがたいことですね。何も思い煩うことなく、今日も良い日だ!と言って恵まれた一日を過ごしてください。

 

2月15日(日)

これは、あなたが歩くとき、あなたを導き

あなたが寝るとき、あなたを見守り

あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。

命令はともしびであり

おしえは光であり

訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

箴言6:22、23

 

この聖句は、聖書のことを信仰者に教えています。ちょっと変わっているのは、知恵文学だからです。物事をどう理解するかは最近の検索のように、簡単に直接的な解説に慣れている人には、昔のなぞなぞのような楽しさが感じられると思います。自分の頭で考えてみなければ、答えに辿り着けません。しかしも、聖書を理解するには、ちょうど良い教材です。例えば、「あなたが歩くとき・・・」は、「あなたが生きて行く時にあなたを導いてくれるのが聖書です」と言いたいわけです。「あなたが寝るとき・・・」は、聖書がどうやって見守っているのだろう?と考えるわけです。脳は、聖書の霊感された御言葉に刺激を受けて記憶されます。それが、寝ている時に、無意識のあなたに深く御言葉の意味を理解させるのです。直接覚醒時に読んでもピンと来なかった御言葉が、脳の中で整理されて理解の道順が示され、想像力や読解力が自然と働き、自分の理解の仕方で説明されたようになります。悪魔の仕掛けた悪意ある言葉や肉を活性化させる言葉、あるいは恐怖、後悔、妬み、羨みなどの品性を破壊するような言葉を打ち消します。だから、無自覚の睡眠時に聖書に守られているのです。「あなたが目ざめる時・・・」は、例えば、あなたはディボーションの習慣を持っているかもしれません。そうであれば、聖書を読むことができるので、文字通りに「あなたに話しかける」でしょう。そうでなければ、あなたは、目覚められたことを神に感謝して、神に心を向けるでしょうから、その時に御言葉を思い出して、まるで話しかけられたように感じることができます。例えば、「主を喜ぶことは力です」と話しかけられるので、あなたは主を喜ぶことを実践します。そして、今日も主の助けを受けて喜びの日となると確信するのです。また、聖書の命令は、暗闇に灯るともしびのようです。この先が見えないまるで暗闇の中を進まなければならない人生で、はっきり、聖書で命令されていれば、迷うことなく前に進めるのです。ともしびは良いものを表していますし、正義とか希望を暗示しているので、正しく生きることができるのです。「おしえは光」も、説明する必要はないと思います。聖書を読んでいて教えがあるときに、そのまま素通りしていた人や、その教えが生きて働かない人は、「光」を見ていないのです。教えの文字に目がいって、わかっていてもできないとか難しいと否定的に読んでいるかもしれません。でも、「光」をそこに発見したらどうでしょう。肯定的になるでしょう。自分の人生を良くしてくれる光を身につけようと思うでしょう。教えを守ることは、光を自分のものにしてその光を表すことができるようになるということです。「訓戒のための叱責・・・」も説明はいらないですね。そのままの意味で理解できれば、天国への道を踏み外す心配もなく、真っ直ぐにゴールを目指す確かな歩みが期待できます。このように、聖書には私たちにとって役に立つ御言葉が、興味深い仕方で用意されているのです。楽しみに読んでください。

 

 2月16日(月)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

第一ペテロ1:23

 

クリスチャンは新生した人と言われるのですが、罪人の私がキリストの十字架にかけられて死んだのだということから、それでは、救いとはならないで滅びるのは当然の報いのように見えてしまいます。しかし、実際にはキリストが復活したように、洗礼を受けたクリスチャンは、罪人の私を古い人と呼び、その古い人がキリストによって十字架に死んだので、今度はキリストの復活にあずかって、新しく生まれたのだというのです。それを「新生」といいます。では、どのようにそのクリスチャンは新しく生まれたのか、それが、今日の聖句では、「あなたが新しく生まれたのは、・・・神の言葉による」と証言しています。確かに、天地創造も神の言葉によるものです。ですから、印刷された聖書の文字ではなく、そこに書かれた霊感された神の言葉に神秘があり、創造の偉大な力があるのです。ですから、聖書を信仰を持って読むと、そこに書かれた神の言葉が朽ちない種となって、人の心に撒かれるというのです。そこに命があるので、成長し身を結ぶまでになるのです。この神の言葉は「生きている」のです。「いつまでも変わることのない」不思議な神の力があるのです。だから、聖書を読み、考え、主に聞き、食べ物が体に変わって行くように、聖書に書かれた神の御言葉によって新しい人が造られて行くのです。だから、普通の本のように読んではならないのです。信仰者が神の御声に耳をそば立てるように、神の言葉を聞くのです。自分に奇跡を起こすこの御言葉の力を味わい知りましょう。

 

2月17日(火)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

ヨハネ16:13

 

クリスチャンのあなたは、神が霊であり、天使もまた霊であることを知っていると思います。それどころか、アダム(人間)も地のちりで形をつくり、その鼻に神が息を吹き入れたことで生きたものとなったのです。ですから、あなたの内ににも神の霊が宿っています。ただ、罪のために霊は硬い胡桃のように、罪の殻に覆われて霊は中の実のようになっていたのです。霊は罪のために覆われていたのです。本来は、罪の無い無垢であったので、霊的な存在でした。それが、肉の性質のような人間になっていました。霊であれば本来は神との交わりができたのですが、罪の汚れがそれをできなくしているのです。ですから、本当は神を知り、神と交わり、神の真理を知る者となれたのですが、その逆になって無知となり、地のちりに戻って行くだけの者となってしまったのです。ところが、神の人間救済計画が始まり、時満ちてイエス・キリストが現れました。そして、罪の贖いとなって、復活のあ新しい命に生きることができる道が開かれました。救いは、イエス・キリストを信じるだけで救われるという誰でもが救われるようになりました。悔い改めて、キリストの福音を信じることで義と認められるのです。そのために、教会は初めから福音を伝える役目を負っているのです。さて、救済計画の中に、真理の御霊が来る、という大切な教えがあります。この凄さは、「あなたがたをすべての真理に導き入れます」ということです。今の世界で一番必要なことではないでしょうか。真理は自由と平和を実現します。この世界が自分さえ良ければいいという独善によって、自由が危機を迎え、平和が脅かされる時代だからです。また、真理の御霊は、未来を預言します。あなたは、真理の御霊によって、やがて起ころうとしていることを示されるのです。そのために、聖霊に満たされることをまず求めて祈りましょう。人間は、霊と地のちりによってできたと言った通り、霊と肉の二つがあるために、霊の方に傾いていなければ、真理の御霊を理解できないのです。肉は霊のことがわからないのです。ですから、霊に方に自分があるのか、肉の方にあるのかを気にしなければなりません。しかも、これは自分で選べるのです。聖霊を選び、真理の御霊の助けを得ましょう。

 

2月18日(水)

穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い

供する人の頭上には祝福が与えられる。

箴言11:26

昨年から米騒動が起こり、未だ尾を引いています。どこでどうなったのか、米価格は急激に上昇し、高止まりになったことから国民の主食が危機に陥ったのです。先日、テレビで農家の奥さんが米の価格が上がったので3倍ぐらい儲かったと口を滑らしたので、やはり何か企みがあったと思った人は少なからずいたと思います。聖書にも、売り惜しむ者のことが書いてあるのが今日の聖句です。「民の呪いを買い」とあるように、何かしらの悪意のあった人には天罰があることを警告しています。その逆の正しいことを行なった人たちには、祝福があるとのことですから、今回の米騒動も天の神様の裁きがあると思もわれます。どのような仕事でも誠実に働けば、祝福となり、不正を働けば呪いすらあるということでしょう。特に、主食のようなものは神様の目を逃れることはできません。利益が正当であれば、何も問題ありません。ただ、食品が軒並み値上がりしていることで国民は困っているのです。日本が何でも輸入に頼っていることも問題だと指摘する識者たちがいますが、何が正しいことか皆が理解して、困る人が出ないようになることを祈って行きたいですね。

 

2月19日(木)

悩む者は、食べて、満ち足り、

主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。

あなたがたの心が、いつまでも生きるように。

詩篇22:26

 

人間にとって大切なものの一つは「食べて、満ち足り」ることです。高級フレンチ・レストランに行かなくても、安くて美味いものを食べさせる店はどこにでもあるものです。日本人の知恵の一つが牛丼ですが、大衆食として長らく親しまれています。アメリカで暮らしていた時に、日本の有名な牛丼チェーン店が進出するということで、行ってみると、あの丼で出てくるようなものではありませんでした。量も多く、自分の知っているものではなかったのです。それでも、日系人が多く食べにきていました。皆、喜んで食べて、満ち足りた顔をしていました。もし、あなたが悩みを抱えたなら、どうするでしょうか。主に助けを求めて祈るのではないでしょうか。そして、そこで終わらずに聖書に書かれた通り主を賛美しましょう。また、悩むあまり、食欲がなくなった人も、祈って主を賛美するなら、悩みの原因を主に聞いていただき、解決を願ったので、もう大丈夫と思って、すでに良い結果が与えられたと確信して、何か食事をとるのです。悩んでいるときは、普通は食べられないものですが、あえて聖書に書かれた通りにしてみるのです。すると、食べられることに気がつくと思いますが、美味しいと思って食べるのです。肝心なことは、食べて、満ち足りることです。こうして、思い煩うことなく、心が軽くなることを実感してください。そして、良い結果は後からついてきます。このようなことを信仰を持って行えば、心が落ち込むことなく、元気になってくるはずです。

 

2月20日(金)

心に湧き出る美しい言葉

わたしの作る詩を、王の前で歌おう。

わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。

詩篇45:2

 

キリスト教では、讃美歌を歌うことがしばしばあります。礼拝をはじめ様々な式を執り行う時には必ず讃美歌を歌います。伝統的な讃美歌もあれば、現代の新しい讃美歌もあります。また、古い民謡にキリスト教の歌詞をつけて歌われる讃美歌もあります。詩篇を書いた詩人のように、私たちも神をほめたたえる詩を作ってみたいものです。今日の聖句は、主を賛美する詩を自分も作ってみたいと思わせるものです。自分の心にも美しい言葉が泉のように湧き出てくるならば、そして、それが主を讃美するものならば、どんなにか喜ばしいことでしょう。毎日、自分がどんな言葉を語っているのか考えてみましょう。詩人とは言えない言葉ばかりでしょうか。それならば、一人になり、静まって、主の愛や恵みを考えてみましょう。自然と感謝が湧いてくるのではないでしょうか。それは、言葉となって、口から出てくるはずです。さらに、心をキリストに向け、よくしてくださった数々の恵みを思うのです。すると、心が詩を湧き出す泉のようになって、自分の賛美が出てくるでしょう。私たちが主への感謝を祈りにするとき、讃美の詩を奏でているのです。そして、美しい言葉が自分のうちから出てくることを願えば、日々の生活で自分が使う言葉が美しいかそうでないかを気にするようになります。主を讃美する者となりたいのなら、美しい言葉を学び、神にふさわしい言葉を知ることです。その讃美の上に神が座するのです。

 

2月21日(土)

 

神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。

コヘレト5:18

 

作家の五木寛之さんの「大河の一滴 最終章」という本が今話題になっています。93歳になられたと思いますが、未だ健在で良い働きをされている姿に感銘を受けます。その姿は宗教家のようにさえ見え、人が生きるのは「誰かのために生きる」時に生きていけるのだとおっしゃっているのを聞きました。これは、キリスト教倫理に通じる教えで、愛に生きるクリスチャンも共感すると思います。残念なことに、人は自己中心であって、自分のために生きると考えているのだと言われています。さて、それでは、今日の聖句はどう理解したら良いのでしょう。「富や財宝を神様からもらった覚えはない」とつぶやく人はいるでしょう。だから富を楽しむなど無縁な生涯だったと嘆く人もいるでしょう。このような人にとって、「労苦の結果を楽しむように定められている」とは、納得がいかないでしょう。不思議なことに、神は労働者と資産家を分けて見ておられるのです。皆が同じというわけではありません。わずかな者が資産家になり、それよりは遥に多くの人が何がしかの労働者となっているのです。では、その者は聖書で何と言っているのでしょう。「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果の全てに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ」(コヘレト5:17)。つまりは、自分のしてきた労苦の結果の全てに満足することが幸福というものだというのです。作家のような人は、多くの人が大河のように流され、死へと向かっていると、その大河の中の一滴が自分だと考えているのです。これは日本人の好む考え方のように思います。しかし、聖書を読むと不思議ですが、金持ちとして生きる人、何かの労働者として生きる者と定められているように見えます。どちらも、幸福に生きることができます。しかし、労働者は労苦の結果の全てに満足することで幸福になれると諭しています。一方、富と財宝を神に与えられた人は、過ぎ去った人生を思い返すことはない、とあります。「神がその心に喜びを与えられるのだから」と書いてあります。何か不公平な感じがあります。それは、富や財宝を得てうまく管理できる人が少ないということなのだろうと思います。しかし、人に使われてサラリーマンや労働者になれば、生きて行けるのです。会社帰りに居酒屋などでおじさんたちが飲み食いしているのも幸福のうちなのでしょう。人生の意味を考えてもわからないかもしれませんが、聖書の通りに日々、労苦した結果の全てに満足して生きることが幸福だと悟ることも大事なのです。

 

2月22日(日)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

ガラテヤ3:26~29

 

人を生かすことができる律法は与えられませんでした。もし与えられていたら、律法によって義とされた人が出てきたでしょう。しかし、現実にはそうならなかったのです。ですから、人々は、罪の支配下に閉じ込められました。「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(ガラテヤ3:22b)。それで、クリスチャンの皆さんは、「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。これが理解されていることが重要です。そして、信仰で受け止めていなければなりません。このことを何度も繰り返し読んで、理解してください。そして、大切なことなのですが、クリスチャンはこの御言葉の通りの人なので、「アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。創世記などを読んで、信仰による義を理解した人は、同時にアブラハムの子孫であり、約束による相続人」となっていることを理解し、信じて受け止めてください。ここがクリスチャンの一番大切なところです。異邦人であったにも関わらず、あなたがアブラハムの子孫であることが救いに不可欠なのです。信仰による義がクリスチャンにとって重要なことは繰り返し言われてきたと思います。自分に何の功績もなく罪人であるにも関わらず、キリストを信じて神によって義とされたことをいつも思っていなければなりません。それほどの信仰を持つために、この世の生の時間が与えられていると言えるぐらいです。なぜなら、神の約束を自分のものにする方法が信仰だからです。アブラハムは信じて神に義と認められたのです。だから、神の約束を得たのですが、その約束の中に子孫が含まれていたのです。そこで、子孫である者も信仰によって義となることで、約束による相続人になれるのです。このように、信仰が非常に大切になります。毎日がこの信仰を高める恵みの日なのです。今日もキリスト・イエスに結ばれて神の子なのですと信じましょう。

 

2月23日(月)

だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいとます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発っし、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、さらに神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証しておられます。

ヘブライ2:1~4

 

キリスト教とは何であるのか?クリスチャンとはどのようなものであるのか?このようなことをしっかり考えておくことは意義があります。だからと言って、専門家になる必要はありません。そうでなければ、救いはとても難しいことになってしまうからです。聖書の教える救いを注意深く調べてみれば、今日の箇所は大いに示唆を与えてくれる大切な聖句です。まず、救いは聞くことからなのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。あなたは、この通りにしたのです。そこで、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません」との御言葉に心を傾けて自省する必要があります。せっかく救われたのに、教会を去ってしまう人がいるのは事実です。どうしてそうなるかといえば、福音あるいはキリストの御言葉に注意を払うことを怠ったからです。そうすると、「押し流されてしまいます」と書かれている通りのことが現実に起こるからです。それは、この世に押し流されるのです。悪魔はクリスチャンに対して誘惑を仕掛けてきます。それは、信仰への挑戦なのです。救われたのはただ信じたことだけなので、その信じることを狙ってくるのです。例えば、「将来の生活は大丈夫だろうか?」「信仰では食べていけないだろうから、何か自分の力で頑張らなければならないだろう」とか、「神を信じても助けてはくれないから、自分の力で何とかしなければ」と人の不安をあおってくるのです。信仰によって救われたのに、神を知り、イエスに出会っているのに・・・。この世に合わせていけば、不信仰になります。不信仰の報いは自分に返ってきます。ですから、この世にならって生きていくことは恐ろしいことだと思います。キリスト教二千年の歴史を振り返れば、今日の聖句の通りに神もまた、さまざまな方法で証しされています。ですから、聖書を調べてみましょう。自分の救いは確かなものであることを御言葉で確認してみるのです。そうすれば、悪魔は退散するしかありません。油断大敵です。自分が怪しいと思えば、祈りに時間をさいてみましょう。聖書は助けになります。聖霊の満たしを願い、神の愛が心を満たすように祈りましょう。

 

2月24日(火)

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる種類の病気、あらゆる種類のわずらいを直された。

マタイ9:35

 

イエス・キリストはこの世界に人として生まれ、育ち、やっがておおよそ30歳になった頃から公生涯に入られました。その部分は福音書に書かれた通りです。私たちの関心は、イエスは何をしておられたのだろうか、ということです。「会堂で教え」とあるように、ユダヤ人の住んでいた所にはキリスト教の教会のような建物があり、安息日毎に礼拝をしていました。そこに現れて、教えたということが聖書に書かれています。直接イエスに教えを受けてみたかったですね。「御国の福音を宣べ伝え」とあるのは、イエスが伝道していたことを示しています。特に神の国について話していました。「あらゆる種類の病気」をイエスは癒しています。人間の意思と違って、100%癒すことができました。どんな病気であってもです。福音とは良い知らせのことです。そこにはイエスがどんな病気でも信じる者には癒してくださるということが含まれています。今日でも、癒しはあります。教会が世俗化して、奇跡をあまり信じなくなってしまい、それと一緒に奇跡が起こらなくなっています。癒しも今も昔も変わらないのでしょうが、信じるか信じないかというところで違いがあるのです。確かに御霊の賜物の中に癒しの賜物がありますが、病気は薬や医者に治していただくという考えが教会でも当たり前になってきたために、癒しを教会で行うことがなくなっているのです。しかし、癒しは誰にとっても必要なことで、特に難病にかかった人にはイエスの癒しが必要です。ステージ4のがん患者の方が、神様に癒していただけると信じると信仰を表明して、教会の方々も祈り、家族も祈り、何よりも本人が信じて、とうとう癒やされたことがありました。現代でも癒しがあることを証明したのです。「あらゆる種類のわずらい」は、主に心の病です。イエス・キリストは悪魔にも勝利しているので、悪霊による精神障害などにも癒しをもたらしてくださいます。ここにも、信仰は要求されています。信仰がないと、せっかく癒やされても、生活習慣を変えたり、健康的な食事を取ったり、適度な運動をしたり、ストレスコントロールを覚えたりと、いった自分でできる良いこともせずに、また同じ病にかかることがあるのです。また、占いや霊能者との接触、オカルトの本やパワースポットに近づくことも危険です。ですから、心も体も癒すことのできるイエス・キリストを信じて癒やされるだけではなく、今までとは違うイエス・キリストを中心にした生活を送ることも重要なのです。

 

 2月25日(水)

むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

マタイ10:6~8

 

旧約聖書時代に、北王国イスラエルは滅亡し、アッシリヤに捕囚にあったため、10部族が先に失われました。さらに、南王国であるユダ王国も、バビロン捕囚のために連れ去られました。後にバビロン捕囚で連れ去られた人の一部がイスラエルに帰還しました。しかし、10部族は行方知らずになり、肝心のダビデ王の一族はバビロンから消えてしまいました。一説では、アジアに向かったと言われています。10部族もシルクロードを通ってアジアに向かったと思われています。さらに、20世紀になってイスラエルが建国し、世界中に散っているユダヤ人を集めているのですが、日本にも調べに来たユダヤ人がいます。そこで、古代に日本へユダヤ人が渡って来たことが調べられているのです。もし、そうであれば、今日の御言葉の「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」というのは、東へと移動して来た失われたユダヤ人たちが、ついに東の果ての日本に辿り着いて、そこに今日まで留まっていることを預言しているようにも見えるのです。イエスは、さらに「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と語りました。ですから、日本で福音宣教がなされる必要があるのです。問題は、明治以来、多くの宣教師も入り日本宣教がなされて来たのに、世界中から不思議に思われているほどキリスト教の宣教がうまくいかないのです。それは、今日の聖句の後半部分がなされていないからではないか、と思えてきます。つまり、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追払」うということです。これらは、聖霊の賜物ですが、今日最も教会で現れていないものです。これらをお金をとって行う者が現れたら、それはカルト教団か、インチキ宗教でしょう。こうしたことを考えると、終末のしるしはこの日本にこそ現れると思います。皆さんがイスラエルの失われた羊である可能性があることを覚えていましょう。

 

2月26日(木)

我々は主を知ろう。

主を知ることを追い求めよう。

主は曙の光のように必ず現れ

降り注ぐ雨のように

大地を潤す春雨のように

我々を訪れてくださる。

ホセア6:3

 

「主を知る」ことは、何よりも大切なことです。神は愛です。神を知れば愛を知ることになります。主は恵みです。主を知れば恵みを知ることになります。聖霊は交わりです。聖霊を知れば聖霊との交わりを知ることになります。このディボーションを読んでおられる方は、不思議な聖霊の導きを受けている方です。偶然に今日の御言葉を読んでいるわけではありません。あなたにも恵みの時が来たということです。あなたの問題がどんなに重大な困難であっても、主にとっては簡単に解決できます。主は私たちに救いを与えるために来るのです。それは、イエス・キリストが福音書に書かれた通りに人間の歴史に現れ、その圧倒的な救いの力を見せた通りです。そこで、主を知ることを追い求めるのです。聖書は確実に主がこられることを教えています。朝になれば朝日が昇ります。それと同じように確実に主はこられるのです。この聖句では「春雨」が出てきます。これは「後の雨」のことです。再臨前に降る聖霊の大降下のことであれば、聖霊のリバイバルは確実に起こることになります。聖書が「我々は主を知ろう」と呼びかけているのですから、私たちも「主を知ることを追い求めよう」ではありませんか。

 

2月27日(金)

あなたがの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に合わせるようなことはないさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

第一コリント10:13

 

信仰を持っている人でも試練に遭います。不思議に思う人もいるでしょうが、人が救われて天国へ入るには、今までのままの自分では難しいから、天国にふさわしい人へ変わらなければならないからです。そのようなことは、人間の力ではできません。当然ですが、神の業なのです。それが、人間にとっては試練とうつるわけです。歴史に残る偉人たちは、その生涯そのものが試練の連続です。そうやって、人がねられるわけで、苦労をしたことのないような人は、人間がまだできていないと軽んじられたりするわけです。この世の人でさえ、人が試練を通して立派に整えられて行くことを知っています。ですから、クリスチャンになったので、恵みだけの人生になると甘く考えるのではなく、肉の部分を取り去り、忍耐できる信仰を身につけることが必要なので試練があるのは当然だと思うべきなのです。ただ、その試練があまりにも厳しいものであれば、逃れる道もまた主が備えてくださるので、安心できます。試練を恐れすぎないで、未熟なうちは積極的に受け入れる方が自分のためになります。例えば、ジムに通って筋トレに励む人は、自分で体に試練を課しているのです。また、子供がピーマンが嫌で残すと、親に叱られたりして、無理やり食べさせられるのは、子供にとっての試練です。しかし、同じ子がやがてピーマンを克服して好きになることもあるのです。試練はこのようなことに似ていますね。試練は、当初は良いものとは思えませんが、信仰のための試練は、永遠の命がかかっているので、意味があります。自分に何が足りないのか、また、手放さなければならいものがあるのか、変えなければならないことがあるのか、自分ではあまりわからないのですが、主がちょうどよく対処してくださいます。ですから、試練を恐れすぎずに、まずは祈ることです。試練でもなければ、神へ心を注いで祈るということもなかなかできていないと思います。主を信頼していれば、良い結果へと導いてくださいますから、心配せずに、恐れずに、主に助けを求めて祈りましょう。

 

2月28日(土)

ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

ヤコブ3:16ー18

 

自分がどの程度の人間であるかは、意外とわかっていないものです。クリスチャンであれば、自分は他の人よりは良い人であるとか、真面目な人間だ、と思っていることが多いのですが、実際主を畏れる人は、クリスチャンとしての資質があるのですが、悪魔は教会にも「ねたみや敵対心」を入れてくることがあります。これは教会にとっては恐ろしいことです。「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いがあるからです」。それは、本人もわかるはずですから、そうならないために、天からの知恵を求めましょう。それは、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順」です。これらは私たちが連想する知恵の意味とは大違いです。それに、上からの知恵は御霊の実に似ています。やはり、神の与えるものは似ているのでしょう。この知恵のリストはさらに続きます。「あわれみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」。これらは、全てクリスチャンの目指すものです。自分を省みて、この知恵に満ちているかどうかをいつでもチェックすることが、成長への近道なのです。それから、「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」とありますが、信仰による義と聖霊のバプテスマの関連を指摘しておきます。これは、「種」が聖霊です。平和は神との間の平和です。神の支配の中に人が入れば平和となります。それは、聖霊が人の中に入り、信仰によってその人が聖霊に服従することです。その人は、聖霊のバプテスマを受けるように他の人にも働きますが、まさに感染するように広がるのです。