2025年3月ディボーション

3月1日(土)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

「何の働きもない者が」。私たちクリスチャンは、この意味を知っています。これは、決してこの世で一生懸命に働き、生きてきたことを否定しているわけではありません。しかし、人の救いを考える時に、自分を救うことのできる働きとは何だろうと考えてみれば、すぐにわかります。そのようなものは何もないのです。もし、これこれの良いことをしてきたと誇っても、それで本当に自分を救うことができるのでしょうか。足りないと気づけないのは、本当に恐ろしいことです。高慢であることを自らが気がつかずに誇示しているのです。そして、本当の意味で自分の罪を知るなら、救われるための「何の働きもない者」と自分を呼んでいるでしょう。人は必ず神様に裁かれるのです。その時になって、自分には「何の働きもない」と知るのでは遅すぎるのです。絶望しかありません。しかし、神様を信じる人が救われるというので、肝心なことを忘れてしまうのですが、それが「不敬虔な者を義と認めてくださる方」という御言葉です。自分が神様に罪を犯し続けていたということは、神様に対して不敬虔であったということです。恩知らず、裏切り者、神様に背を向け悪さをする者、肉の中に罪を宿し、悪魔のそそのかしにいつでも欲が負け罪を犯し続ける者が自分であったのです。しかし、不思議なことに、そのような不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じたのです。この信仰が義と認められるのです。とても単純です。すなわち、誰でもすぐに救われるということです。

 

3月2日(日)

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ローマ10:11

 

イエス・キリストを信じているはずの人間が、自分はダメだとか、自分を勝手に裁いてしまうことがあります。確かに、私たちは完璧ではないので、もっとうまくやれるはずだったと後悔することはあります。それだけでなく、失敗することも人間の特性なのです。ですから、どんなに素晴らしい人でも失敗談があります。人格者と呼ばれるような人になりたくても、そう簡単なことではありません。ですから、神様がお造りになった自分であればいいので、人と比べずに、何度失敗してもへこたれずに、反省はしても落ち込まないようにすればいいのです。失敗した時に、失敗にばかり気を取られている人は恒常心のない人です。例えば、スポーツ競技者は、良い記録が出るまで何度も挑戦しますが、一回一回何がいけなかったか、考えています。どうすれば、うまくいっていたのか頭の中で考えてこうすれば良いという上手くいく姿を考えているのです。そうであれば、目標の記録に届かない一回一回のトライは、記録に近づくための手段になるのです。私たちも、全てをうまくやれませんが、これだけはというものはあるはずです。それをいちいち失敗などと考えずに、目指す最高の結果に近づくための方法にしか過ぎないと考えるのです。だから、失敗した事に心を向けていれば、いつまで経っても成功できません。そうではなく、どこをなおせば良いのか考えればいいのです。気づいたことから、次にうまくやるにはどうすればいいのか考えてみるのです。一流の人はそうやっているのです。それでも、緊張してしまってうまくいかない、という人は、今日の聖句を自分のものにするのです。自分の力だけで頑張らなくてもいいのです。イエス様を信頼しましょう。何しろ、「失望させられることがない」のですから。これ以上心強いことはありませんね。

 

3月3日(月)

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証のことばのゆえに彼らに打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

黙示12:10、11

 

「善悪の大争闘」と言われてきましたが、どんな闘いもいつかわ終わりを迎えます。神にとっては、それがいつかすでに見えています。神の深いお考えによって、罪の発生原因、そして、罪の性質、罪の結果、罪の再発を防ぐにはどうすれば良いのか、それを確かめる歴史となりました。そして、結末の日も決まっているのです。私たちは、すでにその終わりの時代に生きていますが、福音は広がっているとは思えません。この世の貧しい者、差別されている者、将来に希望を持てない人たちは、民主主義を利用して、逆襲に転じているのです。もともと弱者なので、どうなるかはわかりませんが、同じことの繰り返しで、人間は何も学ぼうとしないので、これ以上の時をかける必要がないように見えます。心理学者のサタンは、人間観察を長年続け、必勝法を見つけています。そして、誘惑して罪を犯させておいて、それを神に告発するわけです。しかし、これに打ち勝つ方法が一つだけあります。それが、小羊の血です。十字架の力は、想像を遥かに超えていて、全ての人の罪を贖えるのです。さらに、クリスチャンは、信仰によって生きると決めていますから、神の恵みを知っています。その恵みの大きさ、多さを味わうと、賛美が尽きません。主を賛美すると平安が戻ってきます。彼らは、「自分たちの証のことばゆえに彼れらに打ち勝った」と聖書に書いてあります。主を証ししていますか。証できる経験をしているでしょうか。クリスチャンは聖書を読み、祈り、主と共に生きるのです。イエスの中に生きているのです。ですから、証があるのです。私たちもイエスを誇り、賛美して、今日も元気に生きていきましょう。

 

3月4日(火)

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

ヤコブ1:5

 

ソロモンのように生まれながらに知恵のある人でさえ、神に願いをかなえてあげようと言われれば知恵を求めたといいます。そのために、人類の歴史で最も知恵のある人として有名になりました。ところが、そのような話を聞いて、知恵の無い者は、良いソロモンのように知恵を求めようとはならないのです。知恵の価値がわからないからです。子供の頃に読んだ本には三つの願いをかなえる話し、のように願いをかなえることを題材にしたお話がありました。そんな話を読んだ後には、自分ならどんな願いをするだろう、と一生懸命に考えていました。夜寝る時にも、そんなことを考えるのは楽しいことでした。ただ、どのように願えば最大限に得をするだろうか、といったことを考えて夢中になっていたのです。お金だと使えば無くなるので、もっと良いもの、と考えてついにデパートをもらおうとなりました。デパートならおもちゃだけでなく、なんでもあるからです。子供らしい考えですね。しかし、その時に、誰かが、今日の聖句を教えてくれていたらどうでしょう。人生はすっかり変わっていたでしょう。どんなに困った事になって、窮地に陥っても、知恵を使えば、大逆転で助かるでしょう。地球温暖化問題も知恵によって解決できるでしょう。では、罪の問題はどうでしょうか。これは、イエス様の十字架以外に解決の道はなかったのでしょう。

 

3月5日(水)

私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。

エレミヤ17:14

 

エレミヤの主への信頼は絶大です。疑いがありません。ですから、彼は癒され、救われます。彼にとっては、人生の全てが主への賛美に満ちていたのです。だから、試練にも耐えることができました。苦しさもしのげました。私たちは、こうした信仰の先人に倣うべきです。言葉だけでなく、信仰が伴わなければなりませんが、クリスチャンなら心配いりません。日々の経験の中で主への信頼が増していくからです。祈りが聞かれることも、告白した信仰が実を結ぶと知れば、信仰は育って行きます。ですから、まず初めの主を信じることから始めましょう。それは、病気の人なら、「私をいやしてください」ということは決して難しくありません。しかし、信仰は「そうすれば、私はいえましょう」と言えるのです。万事を同じようにすれば、信仰の達人になれます。あなたの信仰があなたの言葉となります。あなたが、主を賛美するなら、幸福な人生が続くでしょう。

 

3月6日(木)

しかし、定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるのためです。

ガラテヤ4:4、5

 

聖書は、大切なことはすべて説明しているものです。御子イエスが、この地上に来た時には、時が定まっていたことがわかります。しかも、人間としてマリアから生まれることもご計画だったのです。さらに、イエスを「律法の下にある者となさいました」と説明しています。その理由も次に書かれていました。「これは律法の下にある者を贖い出すため」でした。人間の知恵では到底理解できないことですが、律法の原語には定冠詞がありません。そこで、ここからこの救いはイスラエルの民ばかりか、異邦人まで含まれる救いである事になります。さらに、贖いは二つの側面があり、一つは律法に対する隷属からの救いと、さらにもう一つは、「私たちが子としての身分を受けるようになる」事です。これは、驚くべきことに、神の家族における子としての完全な地位に復帰させられているわけす。まるで、パウロは御子イエスが、神の子を探して獲得するために派遣されたのだと言おうとしているようです。いずれにしろ、私たちが信仰を持って理解しておきたい事です。

 

3月7日(金)

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

テトス3:5~7

 

キリスト教は難しい宗教ではありません。イエス・キリストを信じて救われる宗教です。しかし、二千年のキリスト教の歴史の中で大きく変わってしまったことがありました。それは、皆さんもご存知のパウロが小アジアで伝道し、初代の教会が出来てきた使徒言行録の時代はよかったのですが、その後、キリスト教がローマ帝国の国教となり、一気に信徒数が増大してしまいます。それまでは、使徒たちが水で洗礼を授けた後で、頭に手を置き、聖霊のバプテスマを行っていたのですが、時代が経つにつれそれが出来なくなってきたのです。初期には、監督や司教が水でバプテスマを施し、その後で手を置いていたことは歴史家も認めています。しかし、洗礼者数が増大し、同じようには出来なくなってしまったのです。さらに、分担して行うことがはかられました。水でバプテスマを施すのは教区の聖職者が行い、按手はしだいに司教として知られるようになった監督が巡回して行うようになったのです(『栄に満ちた喜び』ロイドジョンズより)。こうして、少しずつ、ローマ・カトリック時代になると共に変遷していったのです。「堅信礼」がカトリック教会や英国国教会やルーテル教会にあることがその名残なのです。このように人間のすることは自分に都合よくするので、聖書に忠実にと言っても、自分に都合よく解釈したり、自分の体験や考えに合わせて聖書の理解を曲げるのです。なぜ、聖書をよく読むように言われるのかがわかりますね。聖書に書かれた通りに進んでいるかどうか、気をつけていなければならないからです。特に救いに直接関わる聖霊については、気をつけていましょう。

 

3月8日(土)

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

詩篇138:8

 

クリスチャンになって良かったことばかりですが、私たちの人生がこれからどうなっていくのか、実際誰もわからないのですが、悲観的な観測を述べる識者は結構います。地球の環境破壊がもたらす災、少子化、景気の低迷、超高齢化社会の負担の大きさ、並べていけばキリがありません。しかし、それでどうなるかは、これからのことなので、変えることができます。初めから悲観してしまえば、まだどうなるかわからないことが既に決まってしまったかのようにあきらめてしまいます。愚かですよね。もし、これからのことを考えて心配している人がいれば、今日の聖句を読んで欲しいのです。あなたの主は、あなたに関わる全てのことを、成し遂げてくださいます。なのに、何を心配しているのですか。これほどの保証は他にありません。あなたの神はこれほど素晴らしいお方です。ですから、主の恵みはとこしえにあるのです。たとえこの地球が滅んでしまっても、その前に救出があります。安全な天国で恵みを味わうのです。これほどの特典を保証されているのですから、不信仰に陥らないで、普通に信仰生活を送れば良いのです。神様から離れずに、むしろ、近づくことを考えていれば大丈夫です。恵みの業を知ったらなら讃美することも忘れてはいけません。主に感謝する人になりましょう。

 

3月9日(日)

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

ルカ11:13

 

主の祈りを覚えた時に、神様を「天の父」と呼ぶことを知る人は少なくなりません。確かに、牧師から神の子になる話をされた人もいるでしょうが、自分で神様を「天のお父様」などと呼んでみると、初めてその実感が湧いてくるでしょう。イエス様が教えてくださったことが、私たちの救いのために必要なことであると理解するようになると、今日の教えも重要になってきます。イエス様は弟子たちの心を見抜いて、天の父と呼んでいいことを理解させますが、それでも、聖霊を求めて得られるとは思っていなかったようです。それで、誰でもが理解できるように、この世の悪人でも自分の子供には良い物を与えることを納得させ、その上で、あなたがたの天の父は、あなたが求めるときに、どうして聖霊をくださらないことがあるだろうか、と言われたのです。つまり、絶対に天のお父さんは、あなたに聖霊をくださるということです。こうなると、神の子供として、聖霊を求めて、信仰で受け取ればいいということになります。まず、自分が本当に神の子供であるのか確信が持てないという人や自分が神の子供であることを本当に信じているかが心配な人もいるでしょう。逆に、初めっから、聖書に書いてあるので、すぐに自分を神の子供だと信じている人もいます。そのような人は、祈りでも天のお父さんと親しみを込めて祈っています。それで、何十年も続けていますが、神様から怒られたり、罰せられるようなことは全くありませんでした。ですから、恐れることなく、天のお父さんと祈ることに挑戦することは良いと思います。この件については、また別の日に聖句を使って説明してみましょう。

 

3月10日(月)

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるためです。

Ⅰテサロニケ5:9、10

 

クリスチャンの皆さんは、もっと喜ぶべきです。自分が一体どうなって行くのか分からない人たちと違い、クリスチャンはイエス・キリストと共に生きて行くことができるようになっています。それは、イエス・キリストが今どこに居られるかが分かれば明らかですが、主イエスは天国にいます。つまり、キリストを信じた人たちは、天国へ行けるということです。それだけではありません。「目覚めていても」これは生きている内はキリストと共の生きるのですから、何一つ心配することが無いということです。これ以上の心強いことはありません。また、「眠っていても」は、夜の間も、という意味と死んだ後もという両方の意味があります。そのどちらであっても、主イエスがおられれば、何も恐れることはありません。それよりも恵みの中に置かれていると考えることが肝心です。これほどの心強い励ましはありません。しかし、このことが実現するために罪の問題を解決しなければなりませんでした。それは、私たちにはできないことで、ただ、主イエス・キリストの恵みによらなければ、誰一人救われないのです。その恵みとは、神の子イエスの命を犠牲にすることで、信じる者全ての命を救うことができることを意味しています。しかも、私たちは義人ではなく罪人だったのです。ここに主の愛があります。天の父も御子イエスも愛が大きくて、私たちが滅んでいくことを惜しんだのです。ですから、主イエスが十字架で私たちのために死んでくださったのです。だから、今はクリスチャンになって安心して生きていけるのです。

 

3月11日(火)

あなたは救いの盾をわたしに授け

右の御手で支えてくださる。

あなたは、自ら降り

わたしを強い者としてくださる。

詩篇18:36

 

あなたはご自分の神をよく理解するべきです。自分で勝手に神はこうだと決めつけないことです。あなたもすでに体験している通り、神はあなたを助けてくださいます。不思議な方法で神がわたしを助けてくださったと分かるようにしてくださいます。しかし、その時は喜んでも、すぐに次の試練が襲って来れば、たちまち弱さをさらけ出して、神を忘れた人のように弱くなってしまいます。それでも、神はあなたを助けてくださいますが、その時の喜びは、次の試練で簡単に打ちのめされてしまうでしょう。どうして、こうなのでしょうか。それは、聖書の御言葉の裏付けがないからです。聖書に何と書いてあるか、そこに書かれているのなら、それは真実で、その通りになるのです。このように、人は聖書の御言葉によってしか、なかなか試練でも恐れずに立ち向かう信仰を表すことができないのです。ですから、今日のような御言葉を覚えておくのです。そして、次の試練には、この御言葉を口にして、主はわたしを強い者にしてくださったと、宣言するのです。自分に言い聞かせるように、繰り返しましょう。主に守られているのです。あなたの神は、わざわざあなたの元へと降り、あなたを勝利者にしてくださいます。それほど、神に愛されていることを覚えていてください。

 

3月12日(水)

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住み。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。」

イザヤ57:15、16

 

クリスチャンの模範的な人とは、「心砕かれて、へりくだった人」と言えば間違ってはいません。クリスチャンになってから、謙遜であれと言われ続け、謙遜が美徳であると思ってしまいました。しかし、それは、自分の努力で人に見せるためのもので、本物ではないかもしれません。聖書に、「心砕かれ」とあることにヒントがあります。長く生きていれば、色々な人に出会いますが、それが危険を運んでくるのです。世の中には、実に多彩な人たちがいるのです。その中には、難しい人もいます。人がいいと見透かされると、ずうずうしく土足で入り込んでくる厚かましい人もいます。その人の思い通りにならないと、突然敵に回って、攻撃を仕掛けてくる人もいます。とにかく、今までの人生で会ったことのない人種の人たちがいます。ですから、誰とも仲良く上手くやっていこうと思っても、そうそう容易いことではないのです。しかし、神様を信じているのに、そのような人が隣に来るというのは、きっと意味があります。そこで、祈りの日々が始まります。しかし、大抵は、自分の小さな器を砕いて、もっと大きな器になるようにと人生を広げ、その人をもっと神様の御目にかなうように成長させてくださるための試練であるのです。日本でも、「あの人はよく練られた人物だ」とか、「人間ができている」とか、「信頼できる人物だ」と評価されているような人は、第一印象が「物腰の低い人」謙遜な印象を与えているのですが、人間が大きいので、卑屈さはありません。クリスチャンは、人と自分を比べない人になろうとしています。イエス様と共に天国への旅をしていると考えるので、どんな時にもへりくだっています。神様に心砕かれたので、自己を誇ることがありません。キリストに倣う者と意識しているので、この世の人の考え方はしなくなります。霊も魂も関係していますが、神様はいたずらに人を懲らしめることはしないのです。

 

3月13日(木)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

ヨハネ15:9、10

 

イエス様に愛されるのは、クリスチャンの特権です。それは同時に、父の愛を知ることになります。それは、「父がわたしを愛されたように」とあるとおりで、イエス様の愛は父から来ているのです。そこで、あなたは父の愛とイエスの愛の両方を注がれているのです。あなたとイエス様が相思相愛であれば、あなたは毎日天に登ような心持ちになれます。イエス様の愛は疑うようがありませんが、あなたはどうでしょうか。イエス様に愛されているかどうかわからないと思っていませんか。しかし、あなたは何度もイエス様に助けられ、祝福されて、恵みを味わってきました。ですから、その価値をあなたがありのままに感謝すれば、喜びの泉が湧きます。あなたは、感情でとらえようとして、文句を言うかもしれませんが、聖書はくどいぐらいに「信仰によって」と教えていますから、疑うことなく、信仰によって愛を受け取り、感謝し、それが結果的に主の戒めを守ることにな繋がります。互いに愛し合うのです。まず先に、あなたが愛することは、主が教えてくださいました。ですから、報いを考えずに愛することを続けることです。この世は、その人に価値を見つけたときだけ愛しますが、イエス様はその人に何の価値も見出せなくても、愛してあげました。それで、その人に価値が生まれたのです。私たちに求められているのも同じことをすることです。これは、イエスの愛の中にとどまる方法だと聖書は教えています。

 

3月14日(金)

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

コロサイ3:9、10

 

クリスチャンになったことは、人生最大の幸いです。私たちは、生まれてきたままに生きてきました。そのことを「古い人」といっています。聖書は、その古い人を洋服のように脱ぎ捨てるといいます。これは、イメージしやすようにとの意味であって、それほどキッパリと古い自分を捨て去ることを意図しています。ですから、正常なクリスチャンとなりたい人は、ここでとどまっているわけには行きません。しかし、別人のようになれるわけではありませんから、この古い人を脱ぎ捨てたのかどうかがあいまいな方もいるのです。残念なことに、古い人を脱ぎ捨てなければ、新しい人を着ることができません。ここで、滞っていてはいけないのです。この働き自体も聖霊の助けがあります。ですから、難しいことをしなければならないわけではありません。しかし、自分の信仰あるいは意思は新しい人を着たいのか、はっきりする必要があります。それほど、古い人を脱ぎ捨てる決意ができない人もいるわけです。例えば、自分の欠点を放置することで古い人がそのままであることがわかります。悔い改めることを中途半端にしても意味がありません。罪を犯したと思う人には、謝れれば謝るのです。特に聖霊を受けるには必要なことです。古い人は自分に甘いのです。人には要求するが、自分では正しいことをしないのです。自分の思い通りにしたいというのも古い人の特徴です。また、何でも自分の力でしようとするので、すぐにストレスを溜め込み始め、自己コントロールができなくなります。赦すことができないので、裁きます。ですから、自己愛が強く、隣人を愛することができません。つまり、元のままなのです。きっと、まだイエス・キリストの十字架がわかっていないのでしょうね。ここに愛があって、この愛だけが人を救うのです。この愛に接すれば、古い人を着ていられません。今までの行いも含めて脱ぎ捨ててしまいます。価値観が180度変わったのです。主がこの人に新し人を着せてくださいます。しかも、この新しい人は進化して行くのです。つまり、あなたは変われると言うことです。

 

3月15日(土)

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

ピリピ3:10、11

 

この箇所は、キリスト教でも大切な箇所です。当時の教会に入り込んできた異端のグノーシスの人たちが、復活についても彼らの意見を主張して教会を混乱させたのです。しかし、それは、パウロの理解とは雲泥の差がある、浅いものでした。ここで、パウロは復活の真実を語っています。イエス・キリストの復活によって、新しい時代(アイオーン)が始まったのです。その結果、人間の生き方が劇的に変わり、新たにされました。復活を知ることは、キリストの十字架の出来事と切り離すことができません。クリスチャンがキリストを知るということは、キリストの十字架にあずかり、その死の姿と等しい有様でキリストの死に合わされることを意味しています。十字架の苦しみや死は、いつまでも続けるものではなく、一時の通り抜けねばならない関門のようなものなのです。キリストと共に受難にあずかる者は、それだけではなく、勝利と栄光にも共にあずかるのです。死ぬから新しい生が待っているのです。キリストの受難に共にあずかり、キリストの十字架で共に死ぬことは、キリストの復活に共に生かされるのであって、それだから担うことのできる十字架の連帯なのです。ここでの復活は、救われた人の復活です。再臨の時の復活です。

 

3月16日(日)

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

詩篇92:13、14

クリスチャンの人生は、当然この世の人とは違います。その一生が神への礼拝となる人生を歩むからです。私たちを、植物になぞらえ、主の家に植えられているというのです。クリスチャンになる前の生活とあまり変わらないと思う人もいるでしょうが、信仰のある無しが、人生そのものを変えています。信仰を持って生きるということは、すでに自分が植えられている場所が主の家に植えられているというのです。よく、神の国は、神の支配に服することだと言われていますが、まさに、神への従順が実現しているのなら、主の大庭に植えられてよく成長している木にたとえられるのです。皆様が学んできた通りに、聖書の御言葉は人を生かします。そして、御言葉を信じる人には、祝福があるのです。主のお導きがあるので、それに従うなら、その人は年齢に関わりなく、実を結んでいきます。たとえ、高齢になってもこの人の手の業はいつでも祝福されているので、必ず良い実を結ばせることができるのです。高齢でも、みずみずしいとあるように、若さも与えられます。何歳になっても人の役に立てる人物に成長できるわけです。この世にあっても、神の家に植えられているなつめやしの木のようであれば、実を結ぶことで役立てるのです。

 

3月17日(月)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰られる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

私たちの救いの確信は、神からきます。私たちはこの神のみを拝み、主と告白します。大昔の人々は、神はその土地に宿ると信じていたので、土地神様であったのです。ですから、地名が神の名であったりします。それは、その神々は、自分の土地だけがテリトリーで、その外では力が無いということを意味しています。ところが、私たちの神は、全地の神であり、海をも支配し、全宇宙までもが主のものなのです。そして、この神こそが唯一の神です。しかも、あなたは幸いなことに、この神に召されてクリスチャンになった方です。あなたは聖書から、神のことを知り、あなたを贖う主がいることを学ぶことができます。この神は、あなたに益となることを教えてくださるというのです。ですから、あなたは神から学ぶ特権を得ているわけです。さらに、「あなたの歩むべき道にあなたを導く」と書かれていますから、あなたは将来に不安を覚える必要がありません。あなたは恵まれていて、これからの人生も主が導いてくださいます。これ以上の確かな人生はありません。ただ、信じて、信頼していていいのです。自分勝手に進もうとしなければ、良い人生を楽しく生きていけます。歳を取れば、尚更です。神のありがたさがよくわかります。羊飼いに従順に従って行く羊のように、生きて行きましょう。

 

3月18日(火)

私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

ハバクク3:19

 

あなたの主は、あなたの神、あなたの力そのものです。ですから、あなたは何でもできるようになります。信仰においても成長を希望しているなら、確かに主が成長を促し、信仰の先人たちのように高めてくださるのです。もちろん、あなたの努力や力によってではありませんから、主の恵みを知っているあなたは、謙遜に振る舞います。信仰に成長して高みにのぼるとは、今日の聖句に記された通りのことです。皆さんは、断崖絶壁のような切り立った岩肌を器用に上り下りする鹿を見たことがあるでしょうか。日本では、天然記念物のカモシカを見ることがあれば、崖を器用に登って移動する姿を目撃できるかもしれません。子鹿もお母さんの後から危なっかしそうに走っているので、見る人はハラハラするでしょう。私たちも、信仰によって生きるという時に、このような様子なのでしょう。きっと、天使はハラハラしてみているかもしれません。それでも、時が経てば、立派に成長して、高い所を楽しそうに歩んでいるのでしょう。ですから、私たちはこの世に人たちとは違った歩みをすることになります。この世の人たちをうらやんでも意味がありません。この世の人の常識を覆すような、奇跡の人生を歩むことになります。楽しみですね。

 

3月19日(水)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

クリスチャン生活の極意が書かれている聖句が今日の御言葉です。ですから、自分の知識を総動員してよく考えてみましょう。キリストの平和は、あなたが罪を赦されて、神との関係を回復して愛し愛されという、救われた人特有の状態を指しています。神との関係と人間との関係を分けて考えます。この世にいる限り、周りには以前の自分と同じ罪人たちがいます。ですから、何かしら問題が起こっても不思議ではありません。そうすると、以前の古い自分がよみがえって来るかもしれませんが、それを認めてはいけません。罪から縁が切れて喜んだのに、また罪の人生へと逆戻りしたいはずがありません。ですから、初めかっら、対策をしておけばいいのです。それが、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」という御言葉です。普段の生活の中で、このように願い、聖霊の助けを得るのです。自分一人では難しくても、あなたにはクリスチャンの兄弟姉妹がいます。キリストを頭にして、私たちは一人の体に造られているのです。こうしておけば、安全だからです。そして、罪人の時のように自分を絶対化せずに、謙遜になっているので、兄弟姉妹をキリストのように愛し、問題があっても赦します。また、あなたの兄弟姉妹から愛されて平安を得るのです。たとえ、離れていても、信仰があるのでキリストを通して兄弟姉妹と結びついています。とても、心強い関係をキリストが聖霊を通して造られたのです。そして、「感謝の心を持つ人になりなさい」と命じられています。これは、主の命令なので、努力してください。自分の習慣となるまで、しばらく何に対しても感謝するのです。その効果は、絶大です。良いことだけでなく、悪いことが起こっても、感謝します。マーリン・キャロザースの『賛美の力』という本を読んだことのない方は、ぜひ読まれると良いです。聖書に書かれたことには、深い意味がるのです。そして、実践したし人だけがその力を知ることになります。

 

3月20日(木)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

ローマ15:13

 

聖書には、私たちのための励ましの言葉や祈りが書かれています。私たちは、決して一人で生きているのではありません。私たちのことを家族のように心配している兄弟姉妹がいます。たとえ、遠く離れていても、聖霊が働いて「誰々のために祈りなさい」と教えられることだってあります。また、心のうちにあの人のために祈らなければと思わされることもあります。人生では、自分の多い通りにならないこともたくさんありますが、それでもクリスチャンには希望が必ずあります。あなたの神様が「希望の源」だからです。信仰を働かせるかどうかは、あなた次第です。クリスチャンには何もなさそうに見えても、信仰があります。誰も取り上げることができません。この信仰のみで、私たちは天国まで行けると思っているのです。ですから、何事でも肯定的に信じる訓練をすることは益となります。なぜなら、信仰には力があり、「信仰によって得られるあらゆる喜びと平和」があるのです。これは、実践してみなければ分かりません。平和な時にこそ、信仰を働かせて、喜びを経験しておくと良いのです。また、祈る時には、「聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」と唱えるのです。こうしたことを普段からしておけば、逆境の日にも信仰の祈りが出てきます。信仰は、誰でも表すことができます。決して難しくありません。ただ、筋トレをして筋肉が大きくなったボディービルダーのように、信仰を使わなければ信仰も大きくなりません。もし、信仰を使わないと、神様はあなたに信仰を遣わそうとして、災いを送らなければならないかもしれません。証会で証を聞いていると、このような証が多いのです。ですから、普段から喜びのために信仰を働かせていましょう。

 

3月21日(金)

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7

 

この御言葉は本当でした。人生の大半を過ごして振り返れば、思い煩うようなことはたくさんありましたが、信仰によって全て乗り越えてきたのです。そして、この御言葉の通りに、「いっさい神にゆだねなさい」という命令を実際にやるのかやらないのかという信仰の戦いだったと思います。実は、この御言葉は慰めにもなるのです。神様が自分のことを心配しているというのですから、ありがたいことです。心配や不安を抱えているのに、それを神様に任せるというのは、簡単なようで簡単ではありません。ゆだねれば、後は神様を信頼して思い煩うのをやめるのですから、楽になるはずです。それなのに、悪魔は、思いに心配を吹き込んでくるのですから、勝手に思い煩いがまた始まるのです。それは苦しいことですから、どこかで行き詰まります。その時に、神様に祈るのですが、そこで「ゆだねるはすではなかったのか」との責めが心を満たします。そこで、そのことを謝って、悔い改めるところから、やり直すわけです。こんな葛藤を繰り返して、自分の信仰のなさを嘆くのです。しかし、こうしたことには、結果が伴います。思いもかけづに問題が解決すると、ホッとして神様への感謝を忘れることがあります。これもいけませんね。すぐに、神様に感謝しましょう。このような経験を積んでいけば、信仰は嫌でも成長するのです。祈りもだんだん深まってきます。また、神様がどのようなお方であるかがわかってきます。まさに、心の広い大きな神様です。愛ということがこのようにしてわかるようになります。「神は愛なり」とはっきり唱えたくなります。讃美歌を覚えて好きな讃美歌を歌うとそこは神の国となります。このような神の国に入れることも特権です。このようにして、私たちは、神様に近付いているのです。私を心配してくださる神様がいる。このことが人生に対して私に勇気を与えてくださいます。恐れることなく、勇気を出して前に進んでいこうと思えるようになるのです。ハレルヤ。

 

3月22日(土)

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

詩篇27:1

 

私たちの幸福に必要なことは、「恐ろしい」とか「怖い」と思わないことです。確かに、自分でそう思っていても、向こうから「恐怖」や「心配事」がやって来るものだ、と考えている人は少なくありません。でも、それは、神様を知らない人たちの話です。同じことが起こっても、クリスチャンは信仰を持っているので、不安になればすぐに神様にお祈りするでしょう。困ったことになっても、自分には「私の救い」と呼ぶ主がいてくださると信じているのです。皆さんは、難しいと誰もが敬遠する人を知っていますか。興味深いことに、クリスチャンは人を分け隔てしませんから、時には人から難しい人、変な人、避けなければならない人、と思われている人と接しなければならないことがあります。その時も、私たちには主が共にいてくださるので、人を恐れてはならないのです。クリスチャンは正直で誠実ですから、どんな人にもそれが伝わります。動物もそうですが、人間も恐れている人間がわかります。そうであれば、警戒して牙を向くかもしれません。しかし、相手を恐れずに、好意的に接して来る人には、どんな人でも心を開くものです。ですから、第一印象の悪い人と仲良くなって、生涯の友達にまで発展することもあるのです。こうしたことを経験するのもクリスチャンが圧倒的に多いのです。その理由が、今日の聖句に書かれています。私たちには、イエス様がなさったように、羊飼いのいない羊のような人間に対して、福音を伝える役割があります。それが、どんなに大きな働きであるか、私たちにはわからないかもしれませんが、ある日、目の前に迷える羊が現れることがあるのです。それまでに、まずは自分の品性を整え、導くべき人をつまずかせない人になれるように、主に訓練を受けることになります。それも、必要なことで、自分をキリストに近づける良い方法なのです。人の言動ですぐに心が波立つうちは、伝道者としてやっていけないので、自分の感情をまずはコントロールできるようになるよう、主に願うことから始めます。忍耐の道です。でも、その結果、今日の御言葉を体験できるようになりのです。

 

 3月23日(日)

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

詩篇31:7

 

私たちの人生には、いろいろなことが起こってきます。若い時は、体力、気力で乗り切ってきたことも、年齢を重ねるごとに経験を積み重ねて知恵で乗り切ってきたのです。しかし、未体験のことや、自分の実力以上の困難が来ればたちどころに悩み、逃げ出したくなるでしょう。それでも、子供ではないので人に助けを求めたり、できる限りのことをすることになります。幸いなことに私たちはクリスチャンなので、神様に頼ることができます。私たちの神様は天の父ですから、子供に愛情深く接してくださるのです。ですから、困った時に天のお父さんに助けを求めることができます。この天のお父さんは、私たちのことをいつでも知っていてくださいます。ですから、私たちが悩みに遭遇すると、それをご覧になり、私たちがどれほど苦しんでいるのか、ちゃんと知っておられるのです。そこで、私たちが祈りだすと、それを待っていて、圧倒的な助けを与えてくださいます。その内容は、人間の親がするような一時しのぎや、限界のある思慮の浅い助けではありません。将来のことをちゃんと見通して、悩みすら益となるように配慮された助けが来ます。ですから、時には助けが来ないと思えるほど忍耐して待つことで、信仰を強めることもありますし、人間として何が正しいことか教えるものであることもあります。しかし、本当に辛く、悩んでいれば、天の恵みと思える助けをすぐに与えてくださいます。その時には、それを楽しみ、喜んで良いのです。このようなことを小さなことから大きなことまで体験していきながら、信仰に成長して行くのです。

 

3月24日(月)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

最近、よく聞く言葉に「昭和レトロ」というのがあります。昭和生まれとしては、自分が博物館にでも収められたような感じです。確かに、地元の美術館に行ってみると、なんとその昭和レトロが展示してありました。子供の頃に見たようなものが展示されているのは、なんとも変な気がしました。さて、現代に生きていると、過去のことが意外なほど忘れているのです。そして、古臭い旧式のテレビや洗濯機などを見ても懐かしいとは思いますが、その当時にどうやって生活していたのか、よく覚えていないのです。ところが、その当時の音楽などを聴いたり、映像を見たりすると、不思議なぐらいその当時へと瞬間移動したように、当時の感じが一気に戻ってきます。やはり、その時代を実際に生きていたからです。そう考えると、旧約聖書時代や新約聖書時代でも、あまりにも昔すぎて、その当時に生きていた人たちの息吹も温もりも感じ取ることができません。知識として想像しても、そこに今を生きていた人たちとは遠く隔たりがあります。しかし、そこには信仰によって主と関わり、信仰生活を垣間見せてくれる聖者たちがいます。その人たちも、私たちと同じように、信仰によって悩みを乗り越え、神様の恵みに喜び、礼拝や祈りの生活をしていたのです。その中に、今日の御言葉が出てきます。これがどれほど大きな励ましか、考えてみてください。どんな困難なことが立ちはだかっていても、私たちはそれを信仰で乗り越え、どんなことでもできるのです。もし、あなたが何か挑戦しようとしているのなら、この御言葉をよく目につくところに張り出して、毎日何度も読むことです。そして、信じるのです。あなたは、主によって強くしていただいています。それだから、どんなことでもできるのです。

 

3月25日(火)

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイ11:28

 

天気予報で5月下旬の気候だと言っていました。そのせいか、蚊が目の前の机にヨタヨタと落ちてきました。これほどの気温の変動が激しいと体調維持が大変です。このような時には無理は禁物です。今日の聖句は大変有名なものですが、忙しい現代人にはピッタリの聖句です。疲れた人、重荷を負っている人、このような人は私たちの周りにもいます。しかし、彼らは、どこに行けばいいのか知らないのです。本当に疲れ切ってしまったら、簡単には疲れは癒えません。重荷を負っている人も同様です。彼らは、薬を飲んだり、栄養剤に頼ったり、そして、とうとう病院に行くことになるのですが、それで癒えなければどうすればいいのか途方に暮れます。まさか、イエス・キリストが癒してくださり、真の休みを与えてくださるとは知らないのです。クリスチャンの私たちも、無理を続けていれば、やはり体調を崩しやすくなりますから、思い切った休養も必要ですね。日本人は休みを取るのが苦手です。しかし、外国では、サバティカル休暇という制度があります。一定期間企業で働くと、一ヶ月以上の長期休暇を取ることができる仕組みがあります。アメリカから来た教団の牧師にもサバティカル休暇があります。宣教師などは、三ヶ月から半年、時には一年も休暇を取って母国へ帰る人がいます。働きすぎの日本人にもこのような文化が定着するといいですね。

 

3月27日(木)

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

Ⅰコリント1:30

 

神の御子が人となり、キリストとして現れた時に、新しい世(アイオーン)は始まりました。神がキリストを通して人を救いに入れたのです。それは、彼らが新しい知識と知恵を得て、神の国が始まったことを知り、キリストによって、義とせられ、聖めと贖いを実現したのです。神の国に生きるには、義でなければならなかったのです。それは、神にしかできません。神が認めて初めて義となるからです。キリストは、私たちの罪咎汚れを十字架に取ってくださり、完全に罪と死と悪魔に勝利し、私たちの贖いとなってくださいました。私たちは、何一つほこれるものがありません。それでも、キリストが私たちを聖なる者としてくださいました。神の知恵の中に救いの神秘があります。ですから、キリストによらなければ、私たちは何一つ成し遂げることができません。しかし、これほどの救いの仕組みを知ることができ、なおその当事者になって、救いを実現できたのは、私たちが神によってキリスト・イエスの内にあるようにしてくださったからです。これも、神の知恵となってくださったキリストから理解が与えられます。あなたは信じるだけでいいのです。この信じることはあなたにしかできません。ですから、御言葉によって確信を持って信じてください。