2025年5月ディボーション

5月1日(木)

知恵ある者と共に歩けば知恵を得

愚か者と交われば災いに遭う。

箴言13:19

 

箴言には「愚か者」がよく出てきます。普通に考えれば、愚か者の反対は「賢い者」となるはずなのに、ここでは「知恵ある者」となっています。わかりやすい「愚か者」から考えてみると、そのような人と友達になったり、付き合えば、結果として「災いに遭う」というのです。これは、経験上そのようなことがあると思う人もいるでしょう。そして、理解しておきたいのは、「愚か者」は広い意味があるということです。神に逆らう者、自己中心に物事を考えている人、罪を犯して反省しない人、目先の小さな利益を求めて肝心の大きな利益を逃す人、平気で嘘を言う人、友を裏切る人、何が正しいか見分けられない人、人の価値を見分けられない人、欲に目が眩んでいる人、不誠実な人、誰に対しても親切にしない人、悪い道へ隣人を誘う人、書き出せばキリがありません。それでは、「知恵ある者」とはどのような人でしょうか。神の霊を受けている人です。聖霊の導きに従順な人です。聖書を読んで心に蓄えている人です。何が義であるかを知っている人です。神を信じて神の武具を着ている人です。聖霊の賜物を御心に従って使える人です。聖霊の実を結んでいる人です。他にも説明する言葉があるでしょうが、神様から来る知恵を持っている人のことを意味しています。それは、誰でも信仰によっていただけるものです。ですから、知恵ある者としていただけるように祈り求めましょう。

 

5月2日(金)

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます・・•わたしは彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

ヨハネ10:27、28

 

私たちは羊でイエス様を羊飼いと認めています。そして、信仰の生活を通してイエス様をよりよく知ってきたのです。ですから、イエス様の声を聞き分けます。聖書の御言葉を学んできたので、イエス様を装って偽りを話す者が現れても、容易には騙されません。イエス様のお約束は、私たちに永遠の命を与えられることです。イエス様を信仰している人は決して滅びることなく、悪魔でも人間でもだれもイエス様の御手から主を信じる羊たちを奪い去るようなことはありません。これだけ、力強い励ましを受けているのですから、勇気を出して信仰の道を邁進しましょう。イエス様の御言葉を信じると力が出てきます。主に感謝するなら、さらに喜びとなって心を満たします。イタズラに恐れることはしないで、主の愛の中にとどまるのです。自分の本当の価値はイエス様に愛されて知ることができます。今日も元気に1日を始めましょう。

 

5月3日(土)

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

Ⅱコリント9:8

 

クリスチャンになるということは、人間の常識を遥かに超えた素晴らしいことなのです。人間がこの地上で生きていく上で必要なものは常にすべて満ち足りるようにしてくださいます。そればかりか、すべての良い業にあふれる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかり与えることができると神は言われます。驚くことに、ちょうどよくではなく、あふれるばかりにと制限なくあらゆる恵みで満たしてくださるのです。ただ、それを実現するためには、積極的で肯定的な考え方が身についていなければなりません。もしあなたが否定的な考えばかりしているようなら、信仰者でも恵まれることは期待できません。聖書に、これだけはっきり書かれているのに、信じていないからです。あなたが救われたのは、神の恵みによります。なぜなら、救われるに足る功績が何もなかったのにも関わらず、救われたのは、ただ神の恵みによるからです。これで、私たちは悟るべきでした。この神の世界は信じることが実現して行く世界であることを。ですから、口先だけで心から信じていないことは実現しません。しかし、単純に御言葉を信じる人は、その通りに恵まれます。何も持っていないところから始めても、有り余るほどの恵みを得ることができます。ですから、心配したり、恐れることがなくなります。経済的に恵まれるだけではなく、生きがいややりがいのある素晴らしい働きができるようになります。主にできないことはありませんから、それを信じる人も同じように何でもできるようになります。主を信頼し、誠実に、信仰を持って、お仕えすれば、幸福な人生を歩めます。だれも、これを妨害することはできません。神に勝てる者はいないからです。あなたの本当の素晴らしい姿を表すことを神は待っています。主を信じましょう。

 

5月4日(日)

小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

ルカ12:32

 

私が牧師になりたての頃、世界のキリスト教会では、メガ・チャーチと呼ばれる数千人から数万人の信者が集まる大きな教会が誕生していました。牧師インターンの時に、牧師会で説教する機会を与えられたので、私も日本に一万に教会を作ることを目指します、と語りました。先輩牧師たちは、嘲笑を浮かべ、まだ何もわかっていないから、と笑われましたが、それでも日本伝道に必要だとの思いは変わりませんでした。それから何十年も経ちましたが、そのようなメガ・チャーチは日本には与えられませんでした。きっと、日本人には向かないのだと思います。個人が大切にされ、手厚くケアーされる方が良いのでしょう。そのために、教会は小さな群れとなることになります。日本では、少数で礼拝をしている教会が多いのです。しかし、聖書の中には、「小さな群れよ。恐れることはありません」との御言葉があり、天の父が、「喜んであなたがたに御国をお与えになる」と書かれています。イエス様は牧者であり、私たちは羊の群れなのです。このイエス・キリストに導かれていけば、何も問題はありません。私たちは恵まれているのです。この小さな群れが天にたどり着くことができますように。

 

5月5日(月)

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ9:16

 

クリスチャンは、摂理信仰を持つといわれています。単なる偶然でことが起こると思っている人は運命と言うでしょうが、クリスチャンは神の摂理であるといいます。つまり、神は全能すべてをすべおさめておられる高きお方なので、偶然という事はない、と考えるのです。そうなると今日の聖句の意味もわかってきます。人間は、願いや努力で事を起こそうとはかりますが、そう上手く行くわけでもありません。むしろ、予期せぬトラブルで難渋することの方が多いのです。ですから、クリスチャンは祈ります。事が重要な事であればあるほど、祈るのです。それは、神に届き、神はあわれんでくださり、最善を成してくださるのです。このように神の憐れみによって生きるクリスチャンは、自ずと希望が与えられているのです。ですから、困っても悲観する事なく、主に頼り、必ず道は開けると確信しているのです。事実、その通り、主のお助けが目に見える形をとって現れるのです。懸命な主は、クリスチャンが成長し、御心にかなうように道を光で照らしてくださります。ですから、肯定的に考えるようにして、主の定めに従うのです。

 

5月6日(火)

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い。我がやぐら。私は決して、ゆるがされない。

詩篇103:13

 

信仰を持ってから、この御言葉は心の支えとなりました。実に色々なことが起こり神様が助けてくださらなければ、ここまで来る事はできませんでした。自分では思いもしない人生で、外国にまで住むようになるとは思ってもみませんでした。また、転勤族でしたから、東日本各地を移動しましたが、それもまた楽しい事でした。新しい土地に行けば、そこには待っている人が必ずいます。不思議な神様のお導きによって救われた人を何十人もみてきました。それは特権であって、喜びです。霊的であれば悪魔も攻撃してくるので、信仰は強められ、聖書の学びも深くなります。試練があれば、信仰に成長し、祈ることを覚えるようになります。神様に無駄はなく、どんなことも後に感謝になります。具体的な救いや助けは数えきれないほど与えられてきました。イエス様の広いお心に触れて、癒されてきました。人間的な失敗は数知れず、悲しくなるほどありますが、それでも主は見離さずに今日に至りました。特別なことも何度も経験しました。その分、霊的な戦いも多かったのですが、神様の完全な守りの中で助けていただきました。ですから、後から続くクリスチャンの方々には、今日の御言葉を忘れずにいれば、どんな試練も乗り越えられるし、人生の危機も不思議な神様の方法で乗り切ることができるのです、と言いたいのです。肩肘を張らずに自然体でいいので、皆様が聖徒の道を歩み続けることができるようにと願っています。

 

5月7日(水)

人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。

詩篇92:23、24

 

ゴールデンウィークも終わって、仕事に戻ると辛く感じるかも知れません。しかし、実際には仕事に行けることは良いことで、それが恵みであると考える方が満足感があります。確かに、時には仕事が辛く感じることもあるでしょう。昇進しても仕事が楽になる事はありません。ですから、やることが多くて大変だと思っていると思います。しかし、クリスチャンは、「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう」と、自分ではなく創造主へと思いを馳せます。天地創造が神様の傑作であったことは疑いようもありません。たとえ、人間が罪を犯して失敗してしまったとしても、この地球の美しさは私たちの疲れを癒し、心を感動させることができます。それは、主が「知恵をもって造っておられます」と書かれている通りだからです。主が働かれることは、良いことだったのです。ですから、人間も創造的に働くことが楽しいのです。どんなに単純な仕事でも、楽しく働くことができます。家庭の中にも仕事はたくさんあります。もし罪がなければ働くことが楽しくて仕方なかったでしょう。罪の世界ですら、掃除をして綺麗になると嬉しくなります。面倒がらずに、手をかけて働くと仕上がりが良いのです。仕事が趣味のように楽しければ、良いのですが責任が伴うと、ストレスになりやすいですね。人間関係でもストレスを感じるのですから、人間関係そのものを嫌う人もいます。しかし、人間は人を通りして最高の喜びを得るのですから、難しいことです。消極的になり過ぎないように気をつけて、時には積極的に人と交わることも益です。水と油ぐらい違っている者同士でも、どちらかが師となり、もう一人は教えを受ける者となれば、意外なほど上手く行くのです。ですから、人見知りをして、人間として成長する機会を失わないように、へりくだって良い関係を築くなら、人生の楽しみは増え、苦労は減るのです。主に倣って、私たちも働き者となりたいですね。

 

5月8日(木)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

エレミヤ29:12、13

 

祈りには極意があると思います。それは、信仰者であれば、気がつくでしょう。神様のことはともかく、自分自身のことはわかるからです。自分がどのように神様に祈っているのか、どのような態度で神様に向かっているのか、その時、心はどうであったのか。このようなことは、祈りが聞かれることを知ってから、色々な場面で考えさせられたので祈りを学んだのです。試練の時の祈りはどうだったか、何気ない一日の始まりの祈りはどうだったか、誰かのために執り成して祈る時はどうであったか、こんなことを考え、より良い祈りを求めて行くのです。また、祈りの本を読むことも良いことです。その本の中で紹介されている本にも興味が湧けば、なんとか探して読んでみるのも益となります。聖霊に満たされたいと願う人は祈るのですが、どう祈るか、そこが問題なのです。祈りの達人がいる一方で、祈らないクリスチャンも多くいます。悪魔が祈らないように働いているからです。忙しさは理由になりません。信仰の道を歩むなら中途半端は良くありません。祈りは誰でもできるので、心を尽くして祈ることを実践し、また学んでいくことは大きな益となり、神様を見つける結果になります。教会ら、祈ることの達人を目指してみませんか。

 

5月9日(金)

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。

詩篇71:5、6

 

思春期になると人間は自分が生まれてきた意味を知ろうとするものです。置かれた環境等で、それを何も考えずに過ぎてしまう人もいます。しかし、自問自答しても自分が生まれてきた意味の答えを見つける人はいません。哲学者もそのことを認めています。ところが、クリスチャンは自分が生まれてきた意味を別の方法で知ることになります。それどころか、自分が神の子にしていただけたと驚くことになります。こうしたクリスチャンは、今日の詩篇を読むと、これが自分の言葉のように感じるものです。この不思議な言葉は真実です。あなたは生まれる時から神様の愛の中にいるのです。あなたがこの世にいるのは奇跡なのですが、あなたは信仰が与えられて、真実を知ったのです。あなたにとって、主なる神は、望みであり、信頼そのものなのです。あなたは「生まれたときから、あなたにいだかれています」と書かれている通りなのです。だから、あなたはより良い人生を生きることがあります。天からの助けがあるので、何も恐れずに堂々と生きられます。あなたは人生を成功へ導く神様と共にいるのです。今は、イエス様と繋がっています。ですから、主の御心を実現するのです。主を賛美しましょう。それが、あなたが元気に成る方法です。主を賛美していつも喜んでいましょう。

 

 5月10日(土)

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びを持ってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばせる。

ゼパニヤ3:17

 

キリスト教は十字架が前面に出てくるので、なんとなく暗いイメージや恐ろしいイメージを持つ人たちがいます。現代人が宗教を敬遠するのも、そのような暗いイメージが関係しているかもしれません。ところが、私が知ったキリスト教はとても明るいイメージで、喜びとか楽しみという言葉が出てきます。それは、神様が愛であって、その愛が心に届くとたちまち、平安に満たされ、落ち込んでなんかいられないほどのあたたかい愛情に包まれるのです。聖書を読んでわかったことは、私たちは主に恵みで救われたこと、なんの功績がなくても、大丈夫。ありのままに救われたのです。そして、この世界は神様と悪魔の大戦争中で、その中で私たちはキリストと結び合い、霊的戦いに参戦しているのです。この戦いは、人間の戦争とは違っていて、神様を疑うか、神様を信頼するか、という戦いです。敵の攻撃は、いつでも神様を疑わせようとするものです。私たちは信仰と言っていますが、「誰がなんと言おうと、私は神様を信頼する」という断固とした決意を示すことが敵への攻撃になるのです。私の神様は、私たちのただ中におられる神様です。私たちが、顔を真っ赤にして「絶対、神様を信頼します」と頑張っているのを神様が見ると、楽しそうに笑い、喜びを持って取り囲んでくださいます。私たちは、神様に愛されているのだとわかるので、安らぎます。クリスチャンは讃美歌を覚え、よく歌いますが、実は主も歌われるのです。主はあなたを喜ばせたいのです。あなたは主に愛された人です。良い安息日をお過ごしください。

 

5月11日(日)

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。

ローマ6:6、7

 

生まれたままの自然な人は、キリスト教では罪と呼んでいる古い性質を持っている人のことです。その人は、罪を犯すという性質を持っているのです。だから、聖書では罪人と呼ばれています。パウロが使う「古い人」とは、あなたの古い自我のことを言っています。では、あなたがクリスチャンになって救われた時に何があなたに起こったのでしょうか。それは、あなたは生きていますから肉体が死んだのではありません。堕落したアダムから受け継いできた古い性質によって形作られてきた「内なる人」が死んだのです。さらに、「古い人」が問題だったのですから、古い人を消す方法こそ、ちゃんと理解している必要があります。それは、キリストと共に十字架につけることです。あなたを苦しめてきた罪や悪魔は、消えたわけではありません。いまだに猛威を振るっているのです。ですから、あなたにも力づくで攻撃してきます。しかし、彼らが勝てるのは「古い人」になのです。その「古い人」を十字架につけてしまったので、罪も悪魔もどうすることもできないのです。あなたが、救われた時にあなたはキリストの内に置かれていました。あなたを愛するキリストは、あなたの罪のために十字架で死にました。この時に、あなたの「古い人」はイエスと共に死んだのです。今日の聖句の「罪に支配された体」が「古い人」です。これが死ぬ必要があったのです。あなたは、幸いなことに「肉にあって」生きているのではなく、「キリストにあって」生きているのです。このことを覚えましょう。

 

5月12日(月)

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。

詩篇34:18、19

 

クリスチャンは聖徒と呼ばれる者へと変えられた人です。聖徒は文字通りの意味で信仰によってそのことは明らかになります。しかし、彼らには罪人で生きてきたという記憶があり、古い人が死んだことを理解する必要があります。そのために、彼らは主から訓練を受け、心の打ち砕からる経験をします。まさに魂の砕かれた者になります。それは、古い人に死んだことを信じることができたということです。正しい者として生きるようになると、悩みは尽きません。罪人と生徒の間には、大きな隔たりがあります。ですから、どんなに頭の良い人でも聖徒の考えがわかりません。罪人は自己中心なのでどうしても自分に都合よくしか考えることができません。それで、聖徒を理解できません。そこで、自分に都合よく判断して、裁くことになります。イエス・キリストの例を見れば明らかです。ですから、クリスチャンは賢く生きる必要があります。そして、愛を持って誰にでも接する信仰が必要なのです。キリストに倣う者になると決めたのですから、キリストの道を歩んで行こうではありませんか。

 

5月13日(火)

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

イザヤ48:17

 

私たちは時々、これから先どうしたらいいのか、と悩むことがあります。もちろん、忙しい日々を過ごしているのですから、他にも悩むことは多いかもしれません。憂さ晴らしができる人はいいですが、そうした気分転がうまくできない人もいます。小さなことはいちいちクヨクヨするな、と言われても気になる人は夜も眠れないでしょう。では、クリスチャンはどうしているのでしょう。人間としては同じでしょうが、信仰が差を生みます。例えば、今日の聖句です。あなたがクリスチャンであれば、自分のことと信じますか。私たちは主を信じていますから、聖書に書かれたことが心に残れば、信じるのです。主は、あなたに益になることを教えてくださるというのですから、期待しましょう。そして、自分の人生の変化を認めるのです。また、人生は自分の思い通りにはいかないかもしれませんが、クリスチャンはもっと確実な方法を選ぶのです。それは、主は「あなたの歩むべき道にあなたを導く」と信じます。と主に信仰告白するのです。どうしよう、どうしよう、と悩むより、主に期待してワクワクする方が楽しいです。主は間違わないので、気づくと良い道を歩んでいることに気がつくでしょう。神様を信じて本当に良かったと思います。あなたが信仰を正しく持っているのなら、このように良いことが続くのです。

 

5月14日(水)

神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

詩篇18:30

 

日本人がキリスト教徒になるというのは、ずいぶん珍しいことなのです。そのために、キリスト教で神学という言葉を初めて聞いた人も多いと思います。また、宗教学との違いは、イエス・キリストへの信仰が前提としてあることです。聖書と教会に重きを置いていることも特徴です。キリスト教の初期には初代教父と言われる指導者がいて、異端を論駁し、いわゆる神学の基礎を築いたのです。そこにはギリシャ哲学の影響がありました。アウグスティヌスによって、キリスト論、三位一体論、教会論などが確立されました。その後には、修道院で神学は発展して行きました。そこで、理性的な知的探究ではなく、信仰を第一とするので秘儀や観想によって宗教的真実に到達しようとしたのです。これが7、8世紀頃のことです。中世になり12世紀頃にスコラ学が誕生します。その特徴は、聖書の文献学的研究だけでなく、キリスト教の教義を理性的に論証・分析することにありました。古代ギリシャのアリストテレスの哲学を採用しました。神学は、全ての学問を統合する機能を果たしたのです。トマス・アクィナスの「神学大全」が有名です。18世紀になると近代的学問が教会の支配的文化から自立するようにり、神学が他の学問を統合する時代は終わりました。19世紀になると思弁を排除して宗教体験を重視する一派と、それに反対する弁証法神学の運動が起こりました。自由主義神学が台頭し、「史的イエス」の研究が盛んに行われました。つまり、イエスは実在の人物か否かと議論され、研究が進み、イエスが実在の人物であったことは疑いがなくなりました。さらに、アメリカから教会成長学、宣教学、牧会神学など、新しい学問が次々に生まれ、いろいろな方面にキリスト教のあり方を実践的に考える傾向へと発展しました。多様性と世界で言われるような時代には、伝統一辺倒では役に立たなくなってしまう危機が生じ、女性の地位向上に伴い、教会も女性長老を認めなければならなくなり、女性牧師も登場するようになったのです。このように、キリスト教も神学も時代の変遷に伴って変わってきたのです。世界が世俗化して行く中で教会も例外ではありません。古い教会に縛られる時代は終わったといえそうです。それだけに、本物が求められる時代でもあるのです。新約聖書にはキリスト教の文字はありません。「この道」とあるだけです。「神、その道は完全」。私たちは神を信じ、その道を歩む者となろうとしています。「主の御言葉は純粋」なので、聖書のみに信頼を置き、学び続けます。また、主は私たちの盾となってくださるので、迫害が起こったとしても、守られるでしょう。現代ほどクリスチャンの価値が高い時代はないでしょう。本物のクリスチャンを目指してまいりましょう。

 

5月15日(木)

父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

詩篇103:13、14

 

神様は、私たちのことをよくご存知です。それもそのはず、人間を創造されたのは神様ご自身です。ですから、私たちが何であるかよくご存知です。そして、地のちりから人間が造られたことをご存知です。それがどれほどのものか理解できるのです。では、人間は獣並みかと言えば、そうではないと答えることになります。他の被造物とは明らかに違っています。人間は実に面白いのです。まず、考えることができます。人は何者か?なぜ生きているのか?なぜ、好き嫌いがあるのだろう?だれ一人、この世で同じ人はいない。誘惑するとすぐに罪を犯すような者なのに、正義を知っていて、時には勇気を出して正義のために死ぬことすらあります。神様を信じる人もいれば、信じないと言う人もいるのです。隣人と一緒にいることを好むのに、すぐ喧嘩をします。人殺しはいけないと法律を作るのに、大量の人が死ぬことになる戦争を始める。創意工夫をして、より良いものを作ることができます。しかし、人の安全よりも利益を追い求めてしまいます。そして、どんなに尊いことをしようが、最悪の悪事を働こうが、皆死んでしまう。若いと侮られないように早く歳を取りたいと思い、実際に歳を取ると切実に若返りたいと願う。何かを勉強すれば、そのことにこだわり、新しいことについて行こうとして勉強することに疲れる。いかにして楽をしようかと考える者がいれば、いかに努力して役立とうと考える者がいる。普段は仏教のことを何も関心が無く、自身を仏教徒と思っていないのに、身内が死ねば我が家の宗派は何かと騒ぎ立て、信心もないのに、お金をかけて仏教で葬儀を行う。それでいて、無神論者だと言ったりする。これがちりに過ぎないという意味なのでしょう。そんな者であることを神様は御心に留めておられるのです。そうでなければ、神様の怒りに触れてとうに死んでいるはずです。こんなに何も分からずに生きていても、福音を聞いて信じる人がいるのです。それは、「主は、ご自分を恐れる者をあわれむ」とある通りに、神の憐れみにすがる者がいるということです。その人は、初めから主を恐れることを知っている人です。

 

5月16日(金)

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。

Ⅰペテロ2:24

 

クリスチャンになって、一番思うことは、やはりキリストが十字架にかかってくださったことです。それも、私たちの罪を贖うためにその身に私たちの罪を負われたということです。何度も聞き、考え、黙想しました。罪がわからない時には、何のことか理解することもなかったでしょうが、罪を神様から示され、自分が罪人だと分かった時に、キリストの十字架の本当の意味もわかってきたのです。あなたも、クリスチャンなら主の十字架について色々考えたでしょう。そして、そのことがクリスチャン人生を決めたはずです。つまり、ペテロに言わせると、十字架を知ったなら、私たちは「罪を離れ、義のために生きる」と。キリストの十字架には、その力があるのです。さらに、罪人であったために私たちは罪に傷つき、汚れ、罪の病にかかっていたのです。ですから、主は十字架にかかられた時に受けた打ち傷のゆえに、「あなたがたはいやされたのです」と明確に言い切っているのです。それがなければ、クリスチャンとして生きていけなかったからです。私たちは、こうして何の心配もなく新生した者として、「罪を離れ、義のために生きる」ことができるのです。主に感謝します。

 

5月17日(土)

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植った木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

エレミヤ17:7、8

 

クリスチャンを聖書の別の言葉で言えば、「主に信頼し、主を頼みとする者」となります。つまり、あなたのことです。あなたは、聖書の中で「祝福がありように」と言われています。近年の異常気象で特に夏の暑さは危険なほどで、無事に乗り切ることが大変です。そうした、気象は大昔も実はあったのですね。そこで、聖書記者は、この世の厳しさを「暑さ」に置き換え、「日照り」という言葉で試練を表現して、誰の人生にも襲ってくる試練をも、クリスチャンは心配なく乗り越えていけると預言しています。霊的に満たされることも生ける水であるキリストに繋がっているなら、何の心配もなく満たされ続け、霊の実を結ぶことになると保証されています。ですから、クリスチャンは、主を信頼し、主を頼みとして生きていけば良いということなのです。ありがたいことですね。安心して信仰に励んでまいりましょう。

 

5月18日(日)

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

詩篇91:14、15

 

これだけの保証があるのに、一体私たちは何を心配しているのでしょう。誰を恐れて、不安になるのでしょう。将来のことが見えないから、心を波立たせるのですか。もし、そうならすぐに悔い改めて、主のもとへ急ぎましょう。あなたへの主の愛は絶対です。あなたのことを主が誰よりも考えていてくださいます。あなたは恵まれているのです。あなたのような人生の保証をいただいている人はいません。あなたは主を知っているはずです。なぜなら主を愛しているからです。悪魔の声に惑わされてはいけません。あなたは主を愛しているのでクリスチャンになっているのです。あなたは、この世にあっても、主を信じてどんな時にも信頼していればいいのです。困れば、あなたは自然と主を呼ぶでしょう。そうすれば、主が答えてくださると知っているからです。あなたがこの世で苦しむことがあっても、そのあなたに寄り添って主が共にいてくださいます。それだけで、耐えることができるし、苦しみに打ち勝つことだってできるのです。あなたは、本当に恵まれて人なのです。主の救いは真実で、あなたは主から誉れを受けることになっているのです。それなのに、何を恐れているのですか。主を褒めたたましょう。主があなたを支えていてくださるのですから。